記憶 参〜みるもの〜  




笑顔でいてほしい人がいる。

幸せであれ、と願うのは、出過ぎた思いなのか。






  「……ご、ごめんなさい…風祭さん。」

   鬼哭村。
   朝五つの朝のことである。

   さて今日も仕事だ…と畑に出て行こうとした村人たちが、凄まじい打撃音がして、振り返る。
   かすかに少女の声も聞こえてくる。
   聞くだけでもおろおろしているようだ。

   何事だ、と首を捻っていると…

  「て、てめぇ、こらさんさん! もう一回相手しやがれ!!」

   続いて聞こえてきた少年の怒気を含んだ大声に、ああまたか、と思い、畑のほうへと向かっていく。

   そう、それはすでに朝の恒例行事となっている。
   村に来た新しい客人である彩架と、風祭との手合い。

   しかしながら仕掛ける風祭のほうは毎度のことのように敗北を喫している。
   喧嘩(だと風祭本人は言っているのだが)を売られている張本人の彩架は、やんわりと断ろうとさえしている。

   それを許さず、無理矢理手合いに持ち込む風祭だったが、負けてしまう。

   さらにそれが癪に障って、もう一度、と挑む。
   そしてさらに負ける。
   彩架もその度に手加減しようとは思うのだが、したらしたで、馬鹿にしてんのか!! とこっぴどく怒られるので、仕方なく相手をして勝負を終わらせる。

   だがその『仕方なく』という事実が、風祭にとって気に入らない。
   (当たり前だろうが)
   いつか彩架のほうから手合わせをしてほしい、と頼まれたら、と…そう思っていた。
   
   最近、さぼりがちだった鍛錬に励むようになったのも、彩架が村にやって来てからのことで…
   それはそれで、いい変化だと九桐は笑っていた。

   ちなみに。
   その九桐もよく彩架に手合いで破れていたのだが、強い相手と戦えて嬉しい、ということになっていた。

   時は晴天。
   鬼哭村は、今日も日長に平穏な時を過ごしていた。

   ……たった一人、彩架の心の暗雲をのぞけば。




   時と場所は変わって、昼八つの内藤新宿。

   どうにも接点があまりないように見られる五人が、道を歩いていた。

  「ったく。なんで今日も聞き込みなんかしなくちゃいけねぇんだよ。」
  「蓬来寺。ぐだぐだ文句を言うな。これも江戸の平和を守るた……」
  
   へぃへぃ、わかった聞き飽きたと言い捨てて、京梧はスタスタと歩いていってしまう。
   背後からまだ終わってないぞ、という醍醐の声が聞こえたが、そんなものは何処吹く風、だ。

  「もぅ。本当に2人とも子どもみたいなんだから……」

   さらにその後ろを参人の少女が歩いていた。

   明るい髪の活発そうな少女…小鈴はそう言って、前方の剣士と僧侶を見ている。
   美里も、ふふ、と保護者のようにあたたかな眼差しでそれを見つめていた。

  「そうね…あ、涼浬さん。ごめんなさいね、あの2人はいつもああなの…」
  「…いえ、お気になさらず…」

   一転して困ったように言う美里に、涼浬…水、のような印象を受ける少女だ…が、小さく首を横に振った。

   表情は変わらずだが、そう気にしていないことが伺える。

  「こらっ! 2人とも、道の往来で喧嘩なんかしないの!」
  「小鈴殿、おぬしも言ってやってくれ。こいつの不真面目さときたら…」
  「うっせぇんだよ、生臭坊主。」

   なんだと、と睨み合いに発展するところで、今度は小鈴の手が飛んだ。

   ばしばしっと2人を叩いたところで、腰に手を当てて忠告する。

  「喧嘩なら帰ってからやってよ! 涼浬さんだっているのに恥ずかしくないの?」
  「いえ、私は……」

   小鈴の言葉に涼浬が否定しようとするが…やはりそうやっても収まる喧嘩ではなかった。

   それでもようとしてやめない気配の喧嘩に、美里が誰にも聞こえないように静かに溜め息をついた。

   ……こんな時…が、いてくれたら…

   そんな言葉がふと、頭をよぎる。
   だがその言葉が何を意味するのかが、わからず静かに首を横に振った。

   あれから…しばらくたった。

   鬼道衆との対峙(小鈴にだけはそのことを伝えてある)から、美里の心に小さな波紋がよぎり始めている。
   …鬼とともにいる、鬼になりきれない少女。

   彼女と出会ってからしばしば訪れる違和感。

   仲間達と共にいる瞬間。
   新しい仲間を迎える、その時も。
   そして…敵と対峙するその瞬間でさえ。

   違和感を覚えるのだ。
   ふとした瞬間に感じることのできるもの。けれどその正体が何か、未だに思い当たることができない。

   それは誰にも言わない京梧も、同じだった。

   美里と似たような何かを京梧も感じ取っていたのだ。
   不思議な、感覚。

   今、この喧嘩している瞬間に、ふと脳裏をよぎる『声』。

   『            』
   
   空白の声。脳裏によぎる声とともに、心に蘇る『誰か』の姿。

   喧嘩をしていると、いつもそれを止めてくれる。
   まあまあ、と収めてくれるときもあるのだが…自分たちが白熱しすぎて困らせてしまう。
   …そのたびに、小鈴たちからまたしても怒られる。

   あれはいったい誰だ?

  「……? どうした、蓬来寺。」

   突然黙り込んでしまった京梧に、醍醐が訝しげに話し掛ける。

   その声で我に返った京梧だったが、何でもない、と返すと何も言わずに歩き出した。

  「…どうしたんだろうね、京梧。」

   首をかしげる小鈴に、醍醐もふむ、と考え込んでしまう。
   涼浬のほうも無表情のままだが、不思議に思っているようである。

   違和感の正体は、わからずじまいだ。

   けれど何かが、呼び続けている。
   『何かが』……


  『……さんさん!!』


   と、その時、京梧達の耳に高めの少年特有の声が聞こえてくる。

   何事かと思い声のしたほうへ全員が振り返る。
   …そして、一斉に身構えてしまった。

   遠く、道の端にいるのは見覚えのある三味線を持つ女と、槍を持つ坊主。
   喧々囂々と吠えているのは小柄な少年だ…そして側にいるのは、少女。

  「ありゃぁ…鬼道衆の奴らか。」

   京梧がふと呟きながら、剣の柄に手を掛ける。

  「やめろ、蓬来寺。ここで騒ぎを起こすつもりか。」

   その動作に気づいた醍醐がやんわりと京梧を止めた。
   けどよ、と言いかける京梧よりも早く、美里が口を開く。

  「町の人たちを巻き込みたくないわ…とにかく、様子を見てみましょう。」

   涼浬さんもお願い、と言うと彼女も素直に頷いて答えた。

   彼女は三味線の女に見覚えがあったのだが、今はそれを言う必要もない。

  「向こうの裏手のほうへ。そこからなら死角になるはずです。」

   ぼそりと伝えて涼浬が足音と『気配』を消して歩き出した。
   その後ろを渋々と行った感じでついていく京梧と、それをいさめる小鈴達がついていく。



  「だいたいなぁ、お前が御屋形様に土産なんか買っていこうっていうから、こういうことになったんだぞ!!」

   近づいていくと、はっきりと少年の声が聞こえてくる。

   どうやら目の前の少女に何か気に入らないことでもあったのが、口悪く言っているようだ。

  「よしなよ。さーさんだって悪気があってあんたを蹴り飛ばしたわけじゃないんだからね。」

   だいたい喧嘩を始めたのはあんたじゃないかねぇ? と三味線を持つ女が、隣の少女に聞く。
   少女は苦笑いを浮かべながら、こくこくと頷いた。

  「うるせぇ! だいたいなんでいつも俺のこと蹴飛ばすんだよ!」
  「殴ってもいるがな。」

   横やりを入れる坊主に、おやめよという女のほうも可笑しそうに笑っている。

   その様子がますます気に入らないのか、笑うなっと少年が叫んだ。
   少女のほうは困ったように苦笑するだけである。

  「あのでも…あんなところで喧嘩はよくないと…」
  「だったら口で言えよな! ……やるんだったらいつでも相手になってやるぜ?」
  「そんなこと言っていつも負けるのはお前じゃないか。」
  「そういうあんただってさーさんに連敗中じゃないのかい?」

   合いの手の段重ねに少年がうるせぇ、今度は勝つ! などと言い、
   坊主のほうも、ああそうだ。と笑いながら少女のほうを見る。

  「師匠。今度は俺の写し技、簡単にはかわせないぞ?」

   だから師匠はやめてください、と小さく呟いて少女が真っ赤になる。

   その様子がよほど面白いのか、女が少女の頭を撫でた。

  「やっぱりさーさんは可愛いねぇ…可愛くて強いなんて、ほんとに頼りになるよ。」
  「どんなところでだよ…」

   悪態をつく少年に、笑顔のままで頭を叩く女。

   坊主が楽しげに笑い出し、少女のほうもクスクスと笑っていた。

   その笑顔は京梧達が今まで見たことのない、明るいものだった。
   あれは…太陽の、微笑みだ。

   あの悲しみしか讃えていない瞳ではなく…愛しいものを見る、優しげな瞳。
   そして幸せそうな表情と、こぼれる笑顔。
   …これが、少女の素顔なのだということを見せつけられるような。


   つきん…

   
   痛む胸。
   胸の奥のほうが、なぜか痛みを発したような気がして京梧が自分の胸に手を当てる。
   
   …痛む。
   確かに痛む。
   けれど、その正体がなんなのかは…わからない。

   笑顔を見ていただけなのに。
   少女の…彩架のあの、明るい笑顔を見ているだけなのに。

   どうしてこんなにも、切ない?

  「…そろそろ時間だね。帰らないとあの方が心配なさるよ。」

   ふと、ちらっと空を見あげた女がそう言った。

  「だな。夕餉に遅れて冷めた飯を食べるのも味気ない。」
  「腹減ったー。」
   
   …つまりこのまま気づかれずに後をつけていけばアジトが見つかるのではないか。

   ふと、醍醐達の脳裏にその考えが浮かぶ。
   全員がお互いの顔を見…その意図がわかったように、こくりと頷く。

   美里は…焦った。

   もしそうなってしまったら戦いは避けられない。
   …あの村で、戦う。
   村人達に被害が出てしまう。

   それだけは避けなくてはけない、と…そう思っていた。

  「…私はもうちょっと寄るところがありますから、皆さん、先に帰っていてくれませんか?」

   その時、少女がそう言って三人を促す。

   どうしたんだい、と女があからさまに訝しげな顔をするが、少女のほうも苦笑いを浮かべるだけである。

  「師匠、何か用事でもあるのか?」
  「ええ、ちょっと……すみません。でも、皆さんまで夕餉に遅らせるわけには…」

   ついていこうとする言葉を先にやんわりと断る。
   それに気づくが、女と坊主はしょうがない、と言った感じで溜め息をついた。

   少年のほうも生意気そうな顔で少女のほうを見ている。

  「じゃあ、気をつけていくんだよ。ただでさえここは『あいつら』のなわばりなんだからね。」
  「あんまり遅いとお前の飯も食っちまうからな。」
  「…お前はどうして素直に『早く帰って来い』と言えないんだろうな?」

   豪快に笑って歩き出した坊主と、楽しげに笑う女。
   少年も顔を真っ赤にして、まちやがれ! などと騒ぎながら2人のあとを追う。

   少女は笑ってそれを見送っていた。


  「……さて。」


   やがてあの三人の姿も見えなくなった頃。

   少女がゆっくりと手を下げ、くるりと後ろに振り返った。

  「隠れていないで出てきてください。いるのは、わかっていますから。」

   唐突に開かれる口。

   そう彩架はすでに気づいているのである。
   彼ら…京梧達が『そこ』にいたことを。
   いたのがわかって、仲間を先に帰したのである。

   驚いてまわりを見る小鈴。どうしよう、という意味の困惑の表情が浮かんでいる。
   
   ザッと。

  「…京梧!」

   醍醐が慌てて京悟を止めようとしたが、遅かった。

  「よぅ、緋勇。」

   彩架の前に姿を現す京梧。
   それを見た彩架のほうも、やはり、と言った感じで京梧のほうを見つめている。

   やがて醍醐や小鈴、涼浬も立ち上がって彩架の前にやって来る。

   美里は迷ったが…最後に、ようやく立ち上がった。

  「…お久しぶりです。皆さん…まさか、ここで会うことになるとは。」

   気配には気を配っていたんですけどね、と続ける彩架に、京梧が強気に笑って返す。

  「ここが俺たちのなわばり…だってこと、お前らも知ってるんだろ? 知っててここに来てるんじゃないのか。」
  「ええ。ここのほうが情報も集まりやすいですから。」

   あっさりと答える。

  「…とにかく。一緒に来て貰おうか。お前達が何をしようとしているのか、聞き出さねばならない。」
  「お断りします。」

   醍醐の強い語気にも負けず、彩架がまたあっさりと答えた。

   その様子に小鈴が慌てて付け加える。

  「やめようよ。それじゃあ脅迫だよ? それに多勢に無勢じゃ…」

   話し合って決めたい、という美里の意思を組んだのだろう。
   だが、その言葉さえも冷静に、彩架に返されていく。


  「あなた方では、私には敵いませんから。」


   その言葉に敏感に反応したのは、京梧だ。

   まなじりをつり上げて、彩架を見る。
   彩架もまた、表情もなく京梧を見返していた。

  「…俺たちはこれまで何度もそう言ってきた輩をぶっ倒してきた。それでも…」
  「言えます。あなた方では、私を倒すことはおろか、息一つ乱させることさえもできない。」

   それは確かな『宣言』だった。

   ざわり、と京梧の≪気≫が怒気を孕んで変わっていく。
   醍醐もその様子を見ているが、ここは彩架を捕まえるほうが先決だと判断する。
   小鈴が、ちらりと、美里を見た。
   この戦いをやめさせようと、美里は必死で何かを考えている。

   涼浬は、この戦いを冷静に見つめていた。
   冷静に見つめて尚…この戦いの、『自分たち』の絶対的な不利を感じ取っていた。

   背筋が、震え上がりそうなほどの…≪気≫の気配。
   
   自分のなかの『玄武』の血さえも、叫んでいる。
   やめろ、と。
   自分たちのほうが…負けてしまう、と叫んでいる。


   そして、涼浬も思った。
   彩架のなかの『何か』が、懐かしいと。


  
  

 <つづく>