記憶 弐〜かんじとるもの〜  




守りたいものがあると、言った。

そしてそれが何なのかは知ることができなかった。

でも。






  「……あなたにも、大切なものがあるでしょう?」

   そう、いつの間にか聞いていた。

   自分の思いを伝えるために、美里は思わず言葉を紡いでいた。

   目の前にいるのは同い年か、もしかしたら年下かもしれない、幼さの残る少女。
   手には武骨な手甲をはめて、身には胴着をまとい、こちらをただ静かに見つめていた。

   …何故だろう。
   わかってくれるのではないかと、思った。
   この子なら自分の言いたい思いを…口にするのが難しい、心の奥の言葉さえわかってくれるような。

   そんな不思議な思いがしていたのだ。

   美里が、少女の言葉を待つ。

   薄暗い灯りのなかでさえも、その漆黒の髪や白い肌は見劣りはしない。
   力強さとはまたまったく別物の雰囲気を醸し出す、空気。

   やがて少女がゆっくりと顔を上げた。

   つい先日の、あの夕刻に見た漆黒の瞳が美里をとらえた。

  「…ある…」

   ただ一言、そう言って。

   思わず美里は我が眼を疑ってしまった。

   …泣いているような気がした。
   実際には涙のあとすら見えないのに、泣いているんじゃないかと、思った。

   そんな表情をしていた。

   昔に、その「大切なもの」を根こそぎ奪われてしまったような、そんな悲しげな顔を。
   空虚な、表情を。




  「さて、ここでいいか。」

   ひょい、と九桐が美里を降ろした。

   朝靄が残る時間。
   誰もまだ起きてはいないだろう時間に、大柄な坊主と、小柄な少女が内藤新宿の裏道へ、やって来た。

   九桐の肩にいたのは、目隠しをされた美里。
   
   ……町へ返してこい、という命を受けて、2人はここにいた。

  「いいか。あまり昨日のことは言わないほうが身のためだ。
   それにこの目隠しではどこに俺たちの村があったのかもわからないだろう…いたずらに、あいつらを心配させないほうがいいぞ。」

   あいつらとは無論、美里の仲間である龍閃組の面々のことである。

   ここまで来るのに、本当は美里を気絶でもさせておいたほうがより安全だったのだが、それを彩架が止めた。

   …目隠しをして、余計に遠回りをすればわからないだろうから。
   そう言って、今に至る。

  「まったく、彩架。お前のそういうところはいいところだとは思うが…あまり情けはかけすぎないようにな。」
  「ごめんなさい…九桐さん、ここは私が…先に、誰かが来ないか見張っておいてくださいませんか?」

   彩架の申し出に応、と答えて九桐が道の往来のほうへと歩いていく。

   ……彩架の真意には気づいたようだったが、知らぬふりを決め込んでくれたらしい。
   そんな九桐に、軽く頭を下げてから、彩架は美里の目隠しに手を伸ばした。

  「眼は閉じておいたほうがいいですよ…いきなり日光を見ると、眼に悪いですから。」

   そう言ってはらり、と美里の目を隠していた布を取り払った。

   彼女は素直に目を閉じていた。
   そしてゆっくりと眼を明けて…自分の目の前にいる、彩架を見た。

  「御屋形様の命により、あなたを解放します…このまま、自分の家までお帰りになってください。」

   それから、と美里の返答を待たずに続ける。

  「さっきの九桐さんの言ったことも、できるなら従ってほしいんです。いたずらに、村に危害を加えてほしくない。」
  「……緋勇さん…」

   そ、と美里の指先が彩架の腕に触れた。

   ハッとして彩架が下げていた顔を上げると、真剣な表情で、美里が言う。

  「…言いません…でも……幼なじみの子にだけは、伝えておきたいんです。」
   
   きっと心配しているから、と暗に言うのをやめると、彩架もしばらく考え込んだ後、こくりと頷いた。

  「構いません…ありがとう。昨夜のことも…本当に感謝しています。
   あなたがいなかったらきっと…もっと大勢の人が死んでしまっていたから。」

   敵にありがとう、と言われて。

   本当ならここで怒りのひとつでもするべきなのだろうか、とふと、美里は思った。

   けれど、彩架の言葉には真摯な思いがある。
   …あの村にあるものが、本当に大切なんだろうということが、読みとれた。

   でも。

  「…どうしても…戦わなければならないの?」

   もう幾度と無く伝えた言葉。

   そしてその度に、彩架はゆっくりと、答える。

  「私の守りたいもののためなら…私は、誰とでも戦います。」
  「でも、それでは何も変わらない。」

   腕に触れる指先に力を込める。

   その腕は細くて…しかし、『空気』がまるで水のようになだらかなのがわかる。
   強さを秘めているのも感じられた。

   その震える指先に、彩架の手が触れる。

  「……変わらないのかも、知れない。新たな傷を生み出すだけかもしれない。」
  「なら…!」
  「でも、もしそうだとしても、戦わないといけないんです。」

   そのまま美里の手を取り、ゆっくりと自分の腕から離す。

   握られた手がほのかにあたたかないのを、美里は『懐かしく』思った。


   …懐かしい、と。
   まるでこのあたたかさを持つ人物を、ずっと前から知っているかのように。


  「今は、戦わないといけない…そうしないと…みんな、止まれないから。」

   そしてゆっくりと立ち上がった。

   美里が物言いたげに見つめると、困ったように笑った。

   その笑いは、けっして卑屈とかそういうものではなくて…まるで感謝の、笑み。

  「貴方達と戦って…言葉を、交わして…ようやく、止まれる人だっているんです。」

   人が『止まる』ためには、切っ掛けが必要だから。

  「…私だけじゃ、どうしようもない…言葉を、貴方達が少しずつかけてくれたから…」

   だから、と続けて彩架はかすかに、顔をしかめた。

  「……私は、戦います。みんなのために。」



   …あなたの心は、どうなるの?



   そう美里が問いかけようとした瞬間、彩架はすでに踵を返して走りだしてしまっていた。

   まって、と手を伸ばしても、それは遠くに行く背中には届かない。

   …みんなのため、と貴方は言った。
   
   触れた手の先と、手を見つめて美里は、思った。

   みんなのためなら、と。
   なら、あなたはどうなるの?

   あなたのその悲しいばかりの心は、どうなってしまうの?

   そう、聞きたかった。
   だがもう、その答えを聞かせてくれる少女は、どこかへ行ってしまって、影も形もない。

   あたたかさだけが残った。
   自分の『体温』にもうすぐ溶けて消えてしまう、儚いあたたかさだけが。

  「…きっと…あなたがいたから…あの村の人たちは救われているのね。」

   ただの『鬼』ではない。

   自分の叫びに、耳を傾けてくれるほどの『心』と、『傷』を持った…人々。

   …『私たちの言葉』と、彼女は言っていた。
   けれどきっと、そうではない。

   もし、『変われた』人がいるというのならそれはきっと、彼女がいるからだ。

   そんな気がした。
   
   きっとあの人は…とても、優しいひとなのだろうと。


   …鬼であろうとする、『ひと』。


   それがなぜか無性に悲しくなって、まるで我が事のように美里は微かに眼を、閉じた。

   無理矢理『鬼』であろうと、あり続けようとまでする心。
   彼女の側にいるはずの人たちはそれに気づいているのだろうか。

   ……気づいて、いるのだろうか?


   それだけが気になった。

   そしてやがて、美里の手から彩架の『あたたかさ』が消えてしまう。
   それがまた悲しくて…それでも涙をこぼすことはなく、美里は立ち上がった。




   『懐かしさ』の正体を知るために、彼女の思いを、きちんと理解するために。
   …「歩いて」いこう、と。




   脳裏にかすめるのは、櫻の下で待つ『だれか』………。




  

  <つづく>