記憶 壱 〜なくしてしまったもの〜
その出会いは『はじまり』ではなかった。
その出会いは、『もう一度』であったのだ。
それはまだ、雨が降り続けている合間の晴れ上がった夕刻。
王子稲荷で、始まっていた。
彩架、と九桐が後ろの人物にそう呼びかける。
前方には龍閃組と呼ばれる面々が揃っている。
京梧、醍醐、美里、小鈴の四人…だ。
九桐はさも楽しそうに話をしているが、特に京梧…そう呼ばれる剣士の気が荒くなっている。
そこへ、凛とした空気が現れた。
その姿を見た京梧が、その一見すると華奢な身に包まれた膨大な<力>に気づき、
同じく醍醐が、その姿が先日見た山小屋での人物だということに気づき、
小鈴は、自分たちと同じか、年下の少女がいることに驚いていた。
美里は。
不思議な『気』な感覚に、いい知れない『懐かしさ』を覚えていた。
胴着に包まれたその体躯は少年少女といっても過言ではない。
腕も足も、力の強いものと対峙でもしたら簡単に折れてしまいそうだ。
…だが、その細さが実は壮絶なほど引き締まった筋肉であることに気づくのは、本当の『格闘家』だけである。
ゆえに、京梧と醍醐、小鈴はそれに敏感に気づいた。
蹴りの一つでも簡単に相手を倒すだけの強さを放つ、もの。
そしてそれは足と言わず腕と言わず、指先の一つにいたるまであることがわかる。
戦ったらどうなるか…と、背筋が知らぬ間に震えるほどである。
ただ、それとは裏腹に、ゆっくりと上げた眼は黒曜石。
吸い込まれるほどの光を放つ…それなのに。
放つ光は、深い『悲しみ』。
言い表しようのない深さを、その瞳は讃えていた。
「…こいつは俺の連れだ…名は。」
緋勇 彩架。
九桐がそう言った瞬間、ざぁっと風が鳴き、木々を揺らした。
それがおそらく、誰も知らない。
人と『鬼』の再会。
それからしばらくして、内藤新宿。
京梧は一人、あてもなく町を歩いていた。
「……ちくしょう。醍醐の奴、うるせぇんだよな。少しぐらい休ませろっての。」
憎まれ口を叩きながら大業な動きで頭をかく。
今朝、醍醐によってまたしても朝六つに叩き起こされ。
一悶着起こしたあとに、また『聞き込み』に、と言い出した彼から逃げてきたのだ。
任務に熱心なのはいいことだが、こちらまで巻き込むな。と京梧は悪態をつく。
しかしながら、やる目的も持たずに出てきたせいか行く当てが見つからない。
吉原へ行くのは何となく気が引けた。
……『あの時』以来、あそこへは行かないようにしているのだ。
思い出したものに苦々しく舌打ちをし、気を取り直して顔を上げる。
町は相変わらず穏やかで、平和そのものだ。
『鬼』のことはあっても、その場にある生活にあまり代わり映えがないのも、真実。
いや、ないほうがいいのだ。
そのほうが、まだ心持ちが軽くなるというもの。
……ふと。
顔を上げた先に、見覚えのある『黒』が横切っていった。
「……ありゃあ…」
ぽつりと呟き、思わず掛けだしていた。
見間違いかも知れない。
だがなぜか気になった。あれから、ずっと。
あの黒曜石の瞳が……泣きそうなほど、深い『悲しみ』に彩られた色が。
無性に、気になっていた。
気が付くと走り出し、目当ての黒に突進し…
その手を、掴んだ。
「……あっ…!」
聞こえた声は、聞き覚えのあるもの。
無理矢理に掴んで、反動でこちらに振り返らせれば…やはり、黒曜石の瞳。
その瞳が、自分の姿を写し込んで驚愕に見開いたのを、京梧は見た。
「…よぅ。久し振りだな。」
にやりと、微笑む。
それから驚いて身を固めたままの少女…彩架の腕を引っ張り、裏のほうへと連れて行く。
何が起きたか理解していない様子の彩架はたいした抵抗もせず、その腕に引っ張られていく。
引きずられて行った先は往来の裏道。
人通りが少ない先で、唐突に手が離された。
パッと急いで彩架が腕を戻す。
−腕が、痛い。
「逃げんなよ、緋勇。俺はお前に聞きたいことがあるんだよ。」
それさえ聞ければいい、と言って、改めて振り返った。
少女は、先の胴着ではなく、薄い色合いの着物を身にまとっていた。
控えめな色。けっして目立たぬような。
それでも地味、とかそういうものではない。
ただひっそりと、控えめに。
よく似合っていると場違いなことを京梧は思った。
思って、慌てて首を振ってその考えを打ち消す。
聞きたいことがある、と言ったのはこっちだ。
彩架は、逃げるまでもなく、ただジッとこちらを見ている。
その瞳は…先日のものとは違い、強い。
「……お前はなんで『鬼』なんだ?」
唐突に心にわいた疑問。
『鬼道衆』だと気づいた。
九桐がそうだと知ってから、ならばその連れであるこの彩架も…『鬼』であることを悟った。
だが、違う。
違う、とわけもわからず心の奥で何かが言い続けていた。
違うのだ、何の理由かはわからない。
わからないが、違うと思った。
『鬼』ではない、と。
そう、なぜか思った。
「…それを聞いて、どうするんですか?」
だが、反対に返されたのは疑問の声だ。
「…さぁな。」
いったい自分はそれを聞いてどうしたいのか、今は、考えられない。
「……私は…鬼、です。」
ゆっくりと紡がれていく言葉。
瞬間、京梧を写す瞳が、小さく揺れた。
『鬼』と。
「私は…守りたい、ものがあるから…それは、あなたたちと対を成すもの。
それを守るためには…私は『鬼』になるしかない。」
ひどくゆっくりと紡がれていくもの。
どうして、そんなに悲しそうな眼で京梧を見るのか、彼にはわからなかった。
……心のどこかで、響く何かさえなければ。
「…お前を、連れて帰りたい。」
またしても唐突に言葉が出る。
その言葉に京梧も、そして聞かされた彩架のほうも驚いたようである。
眼を見開き、そしてそれから……嬉しそうな、悲しそうな、複雑な顔をした。
もう一度、ぐぃと腕を捕らえ、自分のほうに引き寄せて呟く。
「俺たちのところへ連れて帰りたい。俺と一緒に来ねぇか?」
だが、その表情もやがて、ただの一色の悲しみと化す。
「…行けません…」
「どうしてだ?」
顔を、上げた。
次の瞬間。
今度は京梧が驚きに目を見張ることになる。
彩架は、泣いた。
唐突に…いいや、京梧への答えを言おうとして口を開こうとしたその瞬間に、ぽたぽたと涙をこぼしていた。
それを拭う素振りも見せず、開く。
(涙を…)
「もう二度と…失いたくないから……もう、二度と…誰も…」
それはあの、『鬼道衆』の者達のことなのか。
それとも、もっと『別』の誰かだったのか。
その時の京梧に知る術はなかった。
ただ、いたたまれなくなった。
「…失いたく、ないんです…だから、あなたたちのところには行けない…」
行けばどうなるのか知ったような口ぶりで、話す。
京梧が彩架の腕を引き寄せた。
反動で彩架の体が、とん、と京悟の胸のなかにおさまる。
彼女が逃げ出すよりもはやく、京梧は腕を回していた。
驚きの気配がする。
「…泣くなよ。」
背中と後頭部に手を置き、そのまま力を込めて抱きしめる。
彩架が藻掻こうとしても離さなかった。
離したら伝えられない。
(何を……?)
伝えることが。
そして、花の芳がかすかにした。
彩架の体からふわりと香る、花の芳。
それは、櫻の。
「泣くんじゃねぇよ…このまま、無理矢理にでも連れて帰りたくなっちまうじゃねぇか。」
櫻の香りだ。
(京梧−)
その時、脳裏に誰かの声が、微かに響いた。
京梧、と。
遠くのほうで誰かが自分を呼ぶような、体のうちから聞こえてくるような。
目を閉じて、思う。
だが見えてこない。桜花の吹雪しか、見えない。
櫻に隠されたその先に、誰かいるはずなのに。
(京梧……)
「…私は…行けないんです。」
「わぁってるよ。守りたいものが、あるんだろ…」
それなら仕方ない、と続ける。
彩架の手が京悟の着物の裾を掴み、かすかに引っ張った。
京梧が下を見ても、彩架の黒い髪が見えるだけだ。
抱きしめる手に知らず、力を込めた。
「………きょう、ご…」
たどたどしく続けられた名前。
『始めて』聞く声の連続。
……そう、始めてのはずだ。なのに何故…どうしてこんなに、居心地がよいものに聞こえる?
「…きょうごぉ……」
止めどなく流れ落ちていく涙。
涙で上擦った声で彩架は何度も、京梧の名を呼んだ。
けれど、けっして手をまわそうとはしない。
ただ、着物の裾を引っ張るだけだ。
それが酷く、切なかったのを覚えている。
どうしてこんなに切ないのか、説明さえできない。
けれどこの切なさはなんだ?
何かが叫ぶのに、届かない。
届かない言葉の意味はいったい何だ?
「………変なヤツ、だったな…」
その時から、すでに夜。
京梧は一人、月の下で酒に口をつけていた。
仲間達に『一人で飲みたい』と伝えて、寺の縁側の一角…庭にほど近い所に腰を落とす。
…彩架とは、あれからしばらく側にいた。
自分がどうしても手を離す気になれず、抱きしめたまま、時が流れていく。
その間人がこなかったのも原因のひとつだろう。
何か『切っ掛け』さえあれば…あの、抱擁は、終わっていたはずだ。
そしてそれは、彩架のほうから、打ち切られた。
もういい、と。
腕を突っ張られて、思わず腕を離してしまった。
そして見た彩架の顔はもう泣いてはいなかった。
……あなたは。
あなたは…優しい……でも、それが私には…只、苦しいだけ。
「…苦しい、か…」
そして止める間もなく往来のほうへと走りだしていった。
慌てて後を追いかけたが、すでに人混みのなかにその人影さえもなく。
逃げられた、と思わず舌打ちしたのを覚えている。
「……緋勇 彩架……お前は、本当に『鬼』なんだよな…?」
きっといつか。
いつか自分たちの前に立ちはだかるのもわかる。
そしてその時、自分が迷うことなく剣を振るうのも、わかっていた。
だが。
あの悲しい瞳だけが忘れられない。
脳裏から離れることがない。
…京梧は、ゆっくりと月を見上げた。
淡い光の月。
あの、少女のようだと…思った。
月の下で、ひとりぼっちの『鬼』。
「無理矢理にでも、連れてくればよかったのかもな。」
呟く声は夜の闇にかき消されていく。
そして京梧もそれ以上続けず、静かに酒をあおった。
ふぅ…と酌から口を離す。
それから微かに、顔をしかめた。
「…苦ぇ……」
その夜の酒は、何度あおってもひどく苦い味しか、しなかった。
<つづく>