花の芳〜かほりゆくところ〜      




「じゃあその時は、私が看病しますから!」

…それは遠慮なく倒れてくれという言葉の意味かと思っていた。





  「弥勒さーん。みーろーくーさーーーん……」

   どんどん、と叩き続ける戸の音に、工房の近くの村人達は…ああ、もうそんな時間かと思い思いに仕事を終わらせていく。
   
   この時間にあの声がするのはよくあることであり、そしてその音の出所もすでにわかっているからだ。
   どうやら今日は入ろうとはしたが工房の戸でも閉まっているのだろう。

   弥勒…面作りの師ならばよくあることなのだが、彩架が来た時は不承不承にその手を休める。

   そして面を見に来る彩架の相手をしているのだが、今日はどうも様子が違う。
   いつもなら戸を開けるであろう頃合いなのに、いつまでも戸を叩く音が止まない。

   村人達が首を捻っていると、戸を叩く音が止み…
   出て来たんだなと手を進めようとした。

  「み、弥勒さーーーーーーん!!!!」

   だがその後に聞こえてきた声に驚いてその手が止まる。
   何事だろうかと、ぞろぞろと幾人かの村人が行ってみると、それとほぼ同時に彩架が這ってきた。

   …そう、這ってきたのだ。

   重そうに体の上に弥勒を乗せて…いいや、乗せてはいるが這ってでははっきり言って格好がつかない。
   
  「み、皆さん…手伝ってください。弥勒さんがぁ……」

   その声に我に返った数人が彩架たちのほうへ駆け寄っていった。
   



  「倒れたぁ?」
  「は、はい…あの、だから…えっと……」
  「だからってなんでここに連れてくるんだよ!!」

   ここは俺の寝る場所だろっ!? と、彩架に負けず劣らず(こう言うと殴られるが)高い声が響く。
   しかし彩架のほうが分が悪いらしく、歯切れの悪い言葉が漏れるばかりだ。

  「えと…看病、してあげたくて…」
  「なら弥勒のとこですればいいだろ!」
  「……………あ。」

   ぽん、と手を鳴らす彩架。どうやらそのことをすっかり忘れていたらしい。

  「阿呆かお前はー!!!」
  「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいー!!」

   ぶちキレた風祭にひたすらに謝る彩架、と、そこへ聞き慣れた笑い声が聞こえてきた。

  「まあいいじゃないか。そこが師匠のいいところだ。」
  「九桐!?」

   勢い良く戸を開けたそこに見慣れた坊主が立っていた。
   
   手に盆を持ち、その上には夕餉が乗っている。
   
   それに気づいた彩架が急いで立ち上がって九桐の側へ駆け寄った。

  「すみません。ここまで運んでもらっちゃって…」
  「いいって。師匠の頼みだし、丁度こっちにも来ようと思っていたんでな。」

   盆を手渡し、九桐が弥勒の眠っている布団の側まで歩いてくる。

   覗き込みつつ、未だに騒ごうと口を開きかけた風祭に向かってシィ、と指を立てた。

  「一応倒れた人間なんだ。もう一度運ぶのは悪い。ここにおいてやってはどうだ?」
  「な、なに言って…!」
  「それに師匠がそうしたいんだろう?」

   人懐こい笑みを浮かべて振り返る九桐に、彩架もはい、と返事をする。
   それを良しとすると、九桐はそのまま歩き出し、ついでとばかりに風祭の襟首をひっつかんだ。

   ぐん、と腕力によって後方へ引きずられていく風祭はまだ喚きたりなかったらしいが、一気に酸素が欠乏し、声も出なくなる。

   それを察してしたことだろう、風祭を先にぽいっと(まるで猫の子かなにかのように)放り出して、九桐が彩架のほうへ手を振る。

  「しっかり看病してやってくれ。ではまた後で。」

   彩架が返事をするよりも早く、ぴしゃりと戸を閉める。

   戸の外からしばらく風祭の怒鳴り声も聞こえてきたが、やがて静かになった。


   ほぅ、と溜め息を漏らす。

  「……行ったか。」

   と、そこへ後方から突然話しかけられ、ビクッとして彩架が振り返った。

   するとやはり、起きていた。
   目を閉じていたはずの弥勒はすでに起きあがり、まわりをゆっくりと見回している。

   どうやら元気はあるようだ、ということを見て彩架はホッとして息を吐いた。

  「目、醒めましたか?」
  「あれだけ五月蝿かったんだ。起きないほうがどうかしている。」

   あぅ、と痛いところをつかれた彩架が呻く。
   だがそれよりもと気を取り直して、弥勒の側へ滑る。

  「体のほう、大丈夫ですか? どこか痛いところとか…」
  「ない。」

   短く答えられたものの、それはよかったです、と笑顔で返す。
   彩架がそのまま嬉しそうに笑っているのを見て、弥勒が視線を上げる。

  「……気を、」
  「はい?」
  「気を、失う前…君の声が、聞こえたんだが…」
  「…あ…あの、私が尋ねていったら…ご迷惑かな、とは思ったんですけど、昨日の面が出来たかなって思って…」

   昨日の、というのは弥勒が頼まれて掘っていた好々爺の面のことだ。
   明日には仕上がるだろうと言うことを伝えると、じゃあ明日も来ますねと、返された。

   余程あの面が気に入ったのだろう。
   それが嬉しかった。
   
   自分には珍しく嬉しく、彫り上げてしまおうと熱中していたら…

  「……出てきた途端に、倒れて…」
  「そうか……しばらく寝るのを忘れていたからな………君が来てくれて助かった。
   誰にも気づかれず倒れては、もっと大事になっていただろう…」
  「いいえ…っと。食事、取りますか? さっきね、九桐さんが持って来てくれたんですよ。」

   差し出された盆の上には、美味しそうな夕餉が並んでいた。
   
   そこで、はたと弥勒が気づいた。

  「君は……覚えていたのか?」
  「……熱中すると、」

   

    寝ることも、食べることも忘れて……倒れちゃうんですよね?



   弥勒が、ほんの少しだけ驚いたような顔をした(気がしたのだが、彩架は気づいていない)。

  「と、いうわけでたっぷり食べてくださいね。あ、急いで食べると胃が驚きますから…粥にしてもらったほうがよかったですか?」
  「いや…」

   盆を受け取ると、膝の上へ乗せる。
   箸を持ち、弥勒がゆっくりと口を開いた。

  「頂こう…」

   隣で、彩架が嬉しそうに、はい、と答えるのがわかった。
   




   結局。
   
   その後、九桐が気を利かせて彩架の夕餉も部屋に持ってきてくれたので、2人揃って夕餉に箸をつけていた。

   ゆっくりと租借するので、2人とも言葉もなく、ただ黙々と箸を進めていく。

   と。

  「……そう言えば…」

   珍しく食を止めた弥勒が呟いた。
   気づいた彩架も不思議そうに顔を上げる。

  「花の……」

   記憶が、

   残っていた。
   倒れる前の記憶。薄らぼんやりとしていてはっきりとはしない。

   だが、ふと脳裏をよぎる。

  「どうかしたんですか?」

   彩架の問いに、弥勒はしばし黙り、

  「いや、いい。」

   とだけ答えて、また箸を進めた。
   彩架も不思議そうな顔をしていたが、習って夕餉を食べ続ける。



   君から、花の芳がした、と

   いったい誰に言えようか?



   不思議な幼子だと弥勒は思って椀の汁を啜った。





   その後、面作りに没頭しすぎる弥勒を止めるのは、彩架の役目となった。




  <終>