〜ゆわれる〜  



元来、動物というのは他の者に触れられるのを嫌う。

だから、人というのは髪を他人に洗われたりするのが嫌いだと、いわれている。

それは髪を結ってもらうのも似て。






  「京梧。その髪、いじらせてください。」

   突然、髪結いのための紐を手に持った彩架が、京梧にこう言い放った。

   その言葉に朝餉を取っていた京梧はもちろんのこと、醍醐や小鈴、美里らも驚いて箸を進めるのを止めてしまう。
   言われた張本人など、何を言われているのかわからず、口にしていた沢庵を落とすほどであった。

  「…さーちゃん?」

   ようやくその真意を聞き返そうと口を開いた京梧だったが、彩架はずぃっと彼の目の前まで近づいてくる。

   手には紐。よく見れば腰の帯には櫛まで用意されている。

   そして、そぅと、顔を見れば、決意したような(何の決意かはわからないが)目つきの黒曜石。
   小振りな顔つきに、この時、思わず見とれてしまう。

   …それが敗因ともなるのだが…

  「いじらせて。ずーっと前から気になってたの!!」

   もう一度、言われる。

   その時思わず(見とれていたのを漸く自覚して)、縦に頷いてしまう。
   やった、と嬉しそうな彩架を見て、自分の行動に気づく京梧だったが、時すでに遅し。

   醍醐に、ご丁寧に手まで合わされ。
   小鈴に、なんで結うんだろう、と不思議そうに見られ。
   美里に、彩架ったら、と苦笑され。

   まあ、とりあえず。
   誰も助けてはくれそうにないので、京梧はこの奇妙な申し出を受けることにした。



   はらりと。

   朝、自分で結った紐を取られ明るい髪が下にこぼれ落ちてくる。
   剣士にしては邪魔だ、邪魔だと言われ続けているのだが、京梧はこれを切ろうとはしない。

  「……やっぱりきれいな髪ですよねぇ…」

   すっかり元の口調に戻った彩架が(あれは決意のときにしか使わない)、京梧の髪を手で触りながら、そう口にする。

  「そうか? 俺はよく解んねーんだけどよ。」

   首をかしげると、動かないでと言われ、また定位置に首を戻す。

   彩架が小さく笑ったのがわかった。

  「いいなぁ、って思いますよ…それにこんなに色合いが明るくて。」

   彩架の指が、ゆっくりと京梧の髪を梳く。
   その感触は頭を撫でられるのとはまた違い、ひどく、心地良い。

   京梧はどちらかというと、彩架のような髪の色合いのほうがいいと思った。

   鴉の濡れ羽と称されるほどの漆黒の髪。
   最近伸ばしはじめたと言っていた髪は、今は背後に彩架がいるせいか見ることはできないが肩口から下のほうまで伸びている。
   それが歩くたびにふわふわと宙に躍る。

   戦闘のときもまた然りだ。

   一挙手一動のたびに、蹴りや拳を放つとき、<気>を放つときにそれが風に舞う。
   それは普段とはまた違う印象を人に与えていた。

   もちろん、普段のときもそれは見合うものとなる。

   美人という印象は受けないが、そのかわり人を惹きつけるものを多く持っている。

  「…俺はお前の髪のほうが良い。」

   ぽつりと京梧が何気なく呟くと、彩架の手が止まる。

   驚いているのか、照れているのか…空気でそれは判別しづらいものの、京梧はイタズラめいた笑みを浮かべる。

  「もう、京梧ったら…お世辞を言っても何も出ませんよ?」

   ようやく口を開いた彩架にそう返され、即座に世辞ではないと伝えようとしたのだが、それよりも先に彩架の手が動く。

   京梧の髪の一房を手に取ると、それを櫛で丁寧にとく。
   ゆっくりと丁寧にとかされていく感触も心地良い。

   触るのと、とく行為が一緒になる。

   時折、京梧の肌に彩架の指先が触れる。
   あたたかな体温。それも一瞬の出来事だが、ふと、心に残る。

   丁寧に、丁寧に。
   少しずつ髪をいじられるという行為は、心地の良いものだった。
   昔、遊女に同じことをされた覚えがあるが、そのときとはまったく違う印象を受ける。

   心地よい、というか。
   気持ちの良いものとも似ている。

   壊れ物を扱うのとはまた違うが、それでも丁寧にされるのは悪い気がしない。

   しばらく会話もなく、それでも時折、ぽつりと京梧が問いかける。
   いつもするような、それにもうすでに言ったことのある話題が多かった。
   (あそこの道場は強かっただの、団子はどこがうまいだの、そういう他愛のないものだ)

   その話題に彩架も答える。
   言葉は普段より少なめであったが、それでも気にならない。
   聞いてはくれているのだし、その話題に相づちをうってくれる間も悪くはない。

   ふいに。

   京梧も彩架の髪に触れたいと、思った。

   彼女が自分の髪に触れているときにどんなことを思うのか気になったからだ。
   自分の、髪に触れながら。
   誰のことを思うのだろうか、と。
   京梧の髪に触れながら、他の誰かのことを思っているのか。
   それとも、京梧自身のことを思っていてくれているのか。

   もしくは何も考えていないのかもしれない。

   格闘家にしては、細い指先。
   それが常人よりもはるかに筋肉で引き締まっていることを知っている。

   その繊細とはまた違う指先が、自分に触れたときのことも、覚えている。

   手合わせとしたあと。
   新宿を歩いていると、ふいに掴まれるとき。
   大丈夫か、と問われながら伸びてくる指先。

   そんなものが思い出された。

   だから、彩架はどうなのかと思った。

   自分に触れているとき、何を思うのか気になった。

   けれど言い出すことができなかった。
   今のこの時間が、ふいに途切れるのが嫌になったからだ。

   心地良い、この瞬間の連続が終わってしまうのをためらわれたから。

   京梧はそんな自分の胸中を思いつつ、
   俺も迷ってばかりだと、薄く唇の端を持ち上げた。

   背後にいる彩架に気づかれないように、ただ薄く。


   やがてその心地よさにまかせて、目を閉じる。

   髪結いの時間は、もう少しで終わりそうだった。




   ぱちん。

  「……はい、お終い。」

   髪結いの紐を鋏で切った彩架が、そう言って京梧のほうを見る。

   お終い、と言ったはずなのに京梧の反応はない。

  「……? 京梧?」

   おかしいな、と思って背後から、そうっと京梧の顔を覗き込めば案の定。

   京梧はすでに眼を閉じ、寝息をかすかにたてていた。
   寝ていても剣を肩にかけ、腕組みをしたまま眠っているところが何とも彼らしい。
   
   くす、と笑みをこぼすと、ここで寝ては風邪をひくと思い、立ち上がって誰か呼ぼうとした。

   その瞬間。
   とん、と小さく京梧の体に触れてしまった。

   たいした振動ではなかったはずだが、寝ている京梧の体が大きくぐらついて…

  「え……えっ…!」

   そのまま、とん、と背後の彩架のほうへ体を預ける形になってしまう。

   びっくりしてしまい、思わず彩架が座り直そうと戻る…と。
   やはりそのまま、ずるずると京梧の体も後に下がり、最後にはこてん、と膝に頭を乗せる格好になってしまった。

   え、えぇ…っ! と思わず心の中で叫ぶ彩架だった。

   これはまさしく膝枕の格好である。
   しかも後ろに倒れて『枕』を得たせいか、座っていた京梧がおもむろに体を崩し、本格的に寝に入ってしまっている。

  「ど、どうしよ…京梧、京梧ってば…」

   起きて、と体を揺さぶろうと京梧の肩に手をかける。

   
   その手が、ふと、止まった。


   穏やかな表情。

   引き締まった表情をすれば女が見逃すはずのない、顔の形の良さ。
   それが今は、安らかな表情をとっている。

   空気も、よほど気持ちがいいのか穏やかそのものになってしまっている。

   ………彩架は、ふぅと溜め息をつくと、そのまま楽しげな微笑みをもらした。

  「…今日だけ、ね……」

   髪結いにも付き合ってもらったから、と完結して、京梧が起きるまで、しばしこのままでいさせてあげようと思った。

   手に持ったままの紐と鋏を横に置き、自由になった手でちゃんと結い直した京梧の髪に触れる。

   さらさらとした手触りは、本当にうらやましいものがあった。


   髪結いがしたいと、言い出したのは京梧の髪が今朝、あまりにも乱れていたからである。
   常なら京悟自身がきちんと自分でしているのだが、今朝は結う時間がなかったらしい。

   朝餉に間に合わせるためのものだろうが、それが彩架には気に掛かった。

   そして結わせてくれ、と頼んだのだ。


   前から触りたかったという思いもあったのだが、元来、人は誰か…他人に、髪を触られるのを嫌がるもの。

   仲間とは言え、京梧とは他人であり…触らせて、と頼むのも気が引けた。
   だからこその機会で、今日、存分に触らせてもらったのだが…結う時が、心地よく思った。

   この機会を楽しむように、ことさら時間をかけて京梧の髪を結った。


  「……また、させてもらおうかな…」

   そんなことを呟きながら、彩架は京梧の髪を梳きつつ、顔を上げる。

   開け放たれた障子から、流れてくる虫のかすかな声と、夕闇の色。
   京梧の髪がその光を受けて輝くのを、少しだけ見ていたくなる。

   穏やかな時間、だ。






   余談といえば余談だが。

  「…京梧…お前という奴は……」

   いつまでたっても夕餉に来ない京梧と彩架を心配し、醍醐が様子を見にやって来たときにはすでに夜も深いときであった。

   見てみると顔をかすかにしかめた彩架と、大口を開けて寝こけている京梧がいて。
   起きろと京梧の頭を叩いてから、彩架のほうを見る。

  「わ、わりぃさーちゃん…まさかここまでねちまうなんて…」
  「気にしないで…起こさなかった私も悪いのですし…醍醐さんもわざわざすみません…」

   長時間同じ姿勢で膝枕をしつづけた彩架は足が痺れ…いいや、すでに痺れの次の段階に…
   …まともに歩けず、よたよたと京梧の肩に捕まって歩くのがやっとという状況下に、あった。


   事情を聞いた小鈴から、めいっぱい嫌味を受ける京梧。
   
   それでも何となく、いい気分だったのは…彩架の膝枕という、ことがあったせいだ。


   ちなみにそのあとも、たびたび京梧が彩架に髪を結ってもらっているのは、公認の事実である。





 <終わり>