〜へだてるもの〜




始めてあった、その瞬間の悲しそうな顔が忘れられない。

言葉を交わした後の、何かとてつもない不安にかられた表情も、目に焼き付いたまま。






   若、と小さく呼び止められて、天戒はうん? と振り返った。

   立ち止まり、振り返ったその先にいるのは小さな少女。
   声で誰だかはすでにわかっていたのだが、それでも大業に動作を加える。

  「どうした、彩?」

   随分前から口にするのに慣れた名で呼ぶと、彩架のほうも少し困ったように彼を見た。

  「あの……」

   口について出ようとする言葉。だが、彩架はそれを飲み込んでしまう。

   その仕草に気づいた天戒が、微かに眉をひそめた。

  「何か言いたいことがあるなら言うといい。どうした。」
  「…いえ…やっぱりいいです。若、おやすみなさい。」

   ぺこりと頭を下げ、そのままくるりと踵を返し走り去っていく。

   天戒が呼び止めようとしたのだがそれよりも速く、廊下を曲がられ彩架の姿は見えなくなってしまった。

   何かあったのだろうかと、思う。
   だが、そういうときに彩架はそれを口にはしない。

   ただ困ったような顔を時折見せるだけで、あとは自分で解決しようと試みることが多い。

   そのことに気づいた誰かが、いつもは手伝っていたようだが…

  「……俺に…言おうとしたのか。」

   ふと、気づく。

   いつもなら『誰にも』言わないはずのことを、天戒に『言おう』としたのだ。
   何気なく嬉しくなった天戒が、表情を緩める。

   それは少なからず彩架が自分を頼りにしてくれた、という証拠なのだ。

   だが同時に思う。
   彼女は、自分にいったい何を言おうとしたのか。

   何を、伝えようとしたのか。



   彩架との間には始め、隔てられた『空間』があった。

   村に来て気さくに村人達や桔梗、九桐らと話している姿を見かけると、いつも笑っていた。
   呑気な…いいや、柔らかい空気に、誰もが警戒心を解いてしまう。

   綺麗ではない。桔梗ほどの妖艶な美貌もないが、人を惹きつける笑顔の持ち主だった。

   それでもなお、気づけば寂しそうな顔をしていることがあった。
   まるでここではない、『どこか』を見ているかのように。

   悲しげに、辛そうに…どこか別の場所を見つめている。

   九桐や、桔梗もそのことには気づいていたようだった。
   しかし聞こうとはしない。
   きっとあれは……誰にも踏み込めるものではない、感情なのだ、と。

   そしてまだ、天戒たちは人の『何か』に踏み込めるまでではなかった。

   村の決まりは詮索しないこと。
   現状維持……そう、なっている。

   だが、それを変えていったのは彩架自身だった。

   二つの感情に揺れていた御神槌の心を感じ、そっと受け止めた。

   弥勒の腕を、気味悪くはないのか、と聞かれていいえ、と真っ直ぐな目で答えた。

   妹に殺されるぐらいしか、と言った奈涸の心を動かした。

   京都で、壬生や們天丸といった新しい仲間も快く迎え入れた。

   雹の凍てついた心を溶かし、『心』を取り戻させた。

   人の元に来るのを拒む泰山を、いつの間にか里まで下りさせるほどにさせた。ここにいていいのだと、言った。

   火邑の心の奥を知りなおも、変わらぬ態度で接している。腕がどうした、それがなんだ、と。

   無関係な者であったクリスを助け、庇い、共に行こうと言った。

   それは比良坂も同じだが…光だと、言った。彼女にとって、彩架はあたたかな光なのだ、と。

   嵐王の間違った心を否定し、そして戻れるか、と問うた彼に笑顔で肯定する。

   そして桔梗や九桐、そして否定はするが風祭でさえも…

   変わっていく。
   彩架が村に来た、その瞬間から何もかもが変わっていった。


   だが、それなら彩架は?

   彼女の心は、誰が受け止める?


   そう、思ったとき、天戒は自分達と彩架の間に隔てられた『窓』があることに気づいた。
   あるいは障子…光で影も、声も届くのに…姿だけは見ることができない。

   そんな、感じだ。

   彼女を慕うものは大勢いるし、なまじ…もっと別の感情を抱いているものさえいるだろう。

   だが、彩架はそれに気づかない。
   それは…『隔てられて』いるからではないか、と。

   彼女が鈍感、というものもあるだろう、だが…本当は、『窓』越しであるからなのではないか、と。

   思った。
   思ってなお、どうすればよいのか天戒にはわからなかった。

   ただ、と思う。
   わからずともできることはある。
   やろうとすればできることだってある。

   それを教えたのは他ならぬ、彩架なのだから。

   天戒はそう考えをまとめておもむろに立ち上がった。
   それを見た桔梗が…いつものように三味線を天戒に聞かせていたのだ…おや、という感じで彼を見やる。

  「少し出てくる。すまんな、桔梗。」
  「いいえお気になさらず…今宵はこのくらいにしておきましょう。」

   それに、と付け加えて桔梗はころころと笑った。

  「天戒様は、今日は心ここにあらず…今度は、きちんと私の三味線を聞いてくださいましね?」

   笑う桔梗に、天戒も一瞬しまった、という顔をするが、それでもすぐに笑って、肯定の返事をする。

   スッと障子を閉めて出て行った天戒の姿を見ながら、桔梗が楽しそうにしゃん、と三味線を鳴らす。

  「あの方にあんな表情までさせるようになったんだね…ありがと、さーさん。」

   1人、桔梗もまた彩架のことを思った。

   彼女が来て変わったのは何も桔梗たちだけではない。
   天戒自身にもまた、『変化』が訪れているのだ。

   今まで『1人』で何もかも背負い込もうとしていた。
   そしてそれを誰にも悟らせず、肩に何か荷があってでさえも気づかせぬようにさせていた。

   それを彩架が取り払ってしまった。

   その変化は…桔梗にとっても嬉しいものであった。



  「彩、起きているか?」

   障子の外から声をかけると、小さな衣ずれの音がした。
   それからしばらくして、はい、という返事が返ってきて足音が障子のほうへと向かってくる。

   障子が開けられ、彩架が外に出てきた。

   小さく風祭の寝言が聞こえる。
   (女とわかったあとも、風祭とは同室の寝室で寝かせている。
    間違いを起こすとか、そういう概念は2人にはないし、邪魔者が入らないがゆえこちらのほうが安全だと天戒も踏んでいる)

  「若、どうなさったんですか?」

   小さく首をかしげる彩架に、天戒がうん、と頷いた。

  「ここでは話ずらいな…俺の部屋に来い。そこなら邪魔者も入らないだろう。」

   何の話だろうか、と彩架は不思議がったが、やがて歩き出した天戒の後ろについていくことにした。

   歩きながら、さてどうやって聞き出そうか、と天戒は思った。



  「………彩、俺に何か言いたいことがあるんじゃないのか?」

   やがて、天戒の部屋の前まで来た2人が、縁側に座って話し始める。
   (部屋のなかに入れるのはさすがにためらわれた。
    何度も言うが彩架は女、なのだ)

   聞かれた彩架のほうは困ったような顔をしている。

  「…俺に言いにくいことなのか?」

   いいえ、と小さく彩架が答えた。

   ならばと天戒が聞こうとしたところで、彩架がふと視線を上げる。
   月の下でさえ黒曜石の輝きを失わない瞳。
   白い肌がうっすらと着物の間からのぞく。

  「…あの……若。」
  
   しかし今は彩架の話のほうが重要だ、と天戒もまた彩架のほうを見た。

  「若は…何か、お好きなものとか…ありますか?」

   聞かれて天戒は一瞬、目を丸くした。

   そのまま沈黙が…というところで、天戒が慌てて口を開く。

  「なぜそのようなことを聞くのだ。」
  「あ、あの…その…いつも、若から着物とか貰ってるから…何かお返しができたらって、思って…」

   貯めていた駄賃もそれなりにたまりましたし、と付け加えて彩架が天戒のほうを見る。

   天戒は呆けたような顔をしていたが、やがて…ふ、と笑った。

   嬉しかったからだ。
   何に悩んでいるのかと思えば簡単なことだった。
   だが彩架は本当に悩んでいたのだろう。それが表情からも感じ取れる。

   ああ、本当に…嬉しいものだな、と。

  「そうだな…甘いものが食べたいな。」
  「…あ…若、甘いもの、お好きでしたもんね。じゃあ今度買って…」
  

   明日、一緒に行かないか?

  
   口をついて出た天戒の言葉に、彩架が驚いたように目を丸くした。

  「俺と一緒に行くのは嫌か?」
  「い、いいえ、そんなこと…っ! でも…いいんですか?」

   そんなのでと呟く彩架に、天戒は笑った表情のまま頷いた。

  「ああ、お前と一緒に行けるのなら…嬉しい。」

   その言葉に彩架も驚き…やがて、嬉しそうに笑顔を浮かべた。

   

   隔てられた窓は確かにある。

   だがそれを開け放つことだって、できるのだ。
   
   窓は格子なのではなく、開け放つためのものだから。
   光を、人を、入らせるためのものだから。


   窓は、開くのだ。



   そうしてその次の日。
   天戒と彩架がお忍びで内藤新宿の茶屋へ行って、平和にお団子を食べていた。

   それを後から気づいた御神槌たちが悔しがったのは、まあ…言うまでもない。

  

   ちなみにお土産は仲間全員分の大量のお団子と、笑顔の彩架。



  <終わり>