双つ〜うつるものとほんもの〜
「月は、ひとりぼっちなんかじゃないよ。」
差し伸べる先には、鈍く、淡く輝く月がひとつ。
「お風呂〜お風呂〜露天風呂〜♪」
「さーさん…もういい年なんだから歌うのはおよしよ。」
苦笑を浮かべつつ、桔梗は目の前でふわふわと揺れる小柄な頭にそう言った。
ここは露天風呂に続く脱衣場…ちなみに、今は女性陣の時間だ…で、彩架の気の抜けた歌声が響いている。
それなりの歌を歌えば、それなりに聞けるものになるというのに、どうしても彩架は『気の抜けた』歌しか歌わない。
一度、三味線の演奏をしつつ歌を教えようとした桔梗が呆れるほどなのだから、それは酷い部類にも入るだろう。
「だって嬉しいんですよ〜…今日は桔梗さんだけじゃなくって、ひーちゃんとも一緒に入れるし。」
と、桔梗の背後にいるひーちゃん…比良坂にそう言うと、彼女もふふ、と嬉しそうに笑みをこぼす。
彩架が連れてきた(その時、桔梗と九桐も一緒にいたのだが)この少女…比良坂は不思議な娘だった。
ともすれば感情の起伏が乏しい比良坂も、彩架の前では笑顔をこぼすことが多い。
時折、比良坂の与えられている部屋で一緒に歌っている姿がよく目撃(というより聞撃)されている。
じゃら、と、鎖の切れた手枷を鳴らせながら比良坂がふと、心配そうに俯いた。
「でも……枷が、取れなくて…お湯に入っても、大丈夫かな…?」
「平気だよ。あ、ひーちゃん、もう入れる?」
それでもさら、っと『大丈夫』と、『平気平気』と笑って言う彩架に、比良坂のほうも癒されているらしい。
その様子に微笑ましいものを感じて、桔梗も艶っぽく笑った。
「さ、2人とも脱いだならお湯につかってきなよ。いつまでもそんな格好でいたんじゃ風邪をひいちまうよ。」
まるで保護者か何かのようだ、と桔梗が自分で呆れていると、彩架のほうはそれに気づかず、はぁい、と返事をした。
「いこ、ひーちゃん。ここの温泉ってね、気持ちいいんだよ。」
比良坂の手を引いて、手ぬぐいを手に露天風呂へ移動する彩架に、桔梗も着物を脱いで、緩慢な動きでそれを籠に放り投げた。
今日もいい月夜だ。こんな夜には、月見風呂も悪くはないだろう。
「んー…今日もいい湯加減だねぇ。」
湯船につかり、のんびりと背筋を伸ばす桔梗。
その前には比良坂が岩を背に、ふぅと息を吐いて落ち着いているし、彩架は……
……彩架は。
「さーさん。湯船で泳ごうとするのはよしなよ。」
とりあえずやんわりと彩架を止める。
桔梗の言葉に彩架はぎくっとして身を竦ませる。
これでは後でやらないよ、と取り繕ったところで嘘であることがバレバレである。
「比良坂もいるんだし、もしぶつかったら危ないだろう?」
ちゃんと釘を刺すことも忘れずに忠告したら、彩架はあぅ、と呻いて比良坂のほうを見る。
比良坂にしてみれば大丈夫、と言おうとしたのだがそれを桔梗の視線(感じるだけ)でやめておいた。
確かに…湯船のなかで泳ぐのは、はしたない。
そうなれば比良坂のことを気遣う(と、いうかほとんどのものに気遣いを見せている)彩架は素直に従う。
口元まで湯につけると、ぶくぶくと息を出して遊ぶ彩架に桔梗も比良坂もおかしそうに笑った。
「ああ、それにしても…いい湯加減だねぇ。」
「ええ…この村にこんなところがあるなんて……」
「私も始めて来たときはびっくりしたんだよ…でも、気持ちよくっていつも入ってるの。」
見上げれば暗闇にぽっかりと浮かぶ丸い、月。
淡い光に目を細めながら桔梗はぽつり、と呟いた。
「月はひとりぼっちなんだね…」
その呟きに、比良坂が顔を上げる。
桔梗は、ぱしゃん、と湯を手に遊ぶ。
「よく歌にも歌われてるんだけどね…月は、夜にひっそりと輝く。お天道様みたいにかぁっと燃えるものでもなくて…
だから星があっても月はひとつ…月は、1人という代名詞みたいなものさ…」
夜のうちしか光り輝くことのない、月。
たったひとつ、ぽつりと輝く光点の月。
それは儚く、それなのに…人を、狂わせていく。
ひとりの寂しさゆえか、月は人を狂わせる。人を惹きつけてやまない。
「でも……」
ぱしゃぱしゃと湯を手にくぐらせらがら、彩架がぽつりと呟く。
「月は…1人じゃないです。だって……ほら。」
両手でそう、とお湯をすくう。
その両手のお湯に。
月が写り込んでいた。
もう一つの、小さな『月』。
「月は、どこでもこうやってたくさんの月を見れるんです。ひとりぼっちなんかじゃ、ないですよ。」
比良坂が、ああと小さく呟いたのが聞こえた。
月は、ひとりではない、と
それは甘っちょろいだけの言葉なのかもしれないのだけれど。
「…そう、ですね…」
しばらく沈黙したあと、比良坂が口を開いた。
「そう思えたら…ひとりぼっちじゃ、ないですね。」
「でしょ?」
「そうだね……ああ、ひとりじゃないさ。」
そう思えるようにしてくれるということは、すごいことだ。
彩架のほうを見て、桔梗が意味ありげに笑う。
ああ、もしもこの子なら…天戒を、持っていってもいいとさえ、思った。
それはもうずっと前からだが。そう、思っていたのは。
彩架なら、と、そう思うようになった。
月をひとりにしないための言葉。
それを知っているのだからこそ。
だがしかし。
「そういえばさーさん。」
風呂上がりに、からころと下駄を鳴らして帰る桔梗に声をかけられ、彩架が振り返る。
彩架の横にいた比良坂も、また同様に。
「あんた、好きな人とかはいないのかい?」
その問いに、彩架が首をかしげた。
「いますよ。桔梗さんでしょ、ひーちゃんでしょ、雹ねえさんに……」
「違うって。」
即座に合いの手を入れた桔梗に、彩架が不思議そうな顔をして見つめ返してくる。
比良坂は桔梗の言葉の意味も、彩架が勘違いしていることにも気づいたらしく、ただ苦笑を浮かべるだけにとどめているのだが。
桔梗のほうも説明する気も失せたのか、片手を頭にあげたまま、呻いている。
ああ、でも『この』鈍感さがなくならない限りは…無理かもしれない、と。
「桔梗さーん?」
「もういいよ…気にしないでおくれ…」
とりあえず、鬼道衆と龍閃組を巻き込んだ様々な恋模様とやらは……
「彩架……頑張ってね。」
彩架の鈍感な心を掴みとる誰かが現れるまで、前途多難である。
<終わり>