――あなたは、傲慢であるな。

  声が、聞こえる。
  脳裏に刻まれたもの。記憶というデバイスが導き出す酷く不鮮明な映像。
  泣きたくなるような感覚を連れてくるそれは、同時に納得さえしてしまうものだった。

  知っている。
  傲慢だなんて、知っている。

  自分は欲深くて、狡くて、どうしようもなく卑小な人間でしかない。
  ああ、でもそんなこと、もう遠い昔にわかっている。

  わかっているから、なお、足掻くしかない。

  望みは大きく、それでもこの手はそれらをすべて手に入れられるほどの力はない。
  天空の星を掴もうと伸ばした手が、届かないのと同じように。

  幼い子供が、その手に写る星々を掴もうとするのと同じように。

  傲慢であるなら、あるだけ。
  その分だけの『覚悟』を背負う。
  この手に望むだけの、心から欲するもののために策略を張り巡らせる。『策士』としての力を蓄え、敵を翻弄し、欺き、必要なら自分の身だって使っておく。

  覚悟するなら、
  この手から生み出される結果のすべてを抱え込む。

  『脱落』し、そこで終わるのか。

  そうではない。
  そうではない。けして、終わらない。終わらせはしない。
  ここで負けを悔い、その場から動かないのなら舌を噛み切って死んだ方がマシだ。

  負けを乗り越え、それをも呑み込んで逆転をしなければいけない。


  逆転を。


  この劣勢を跳ね返し、すべてを『結末』へと繋げるための布石を生み出す。
  だって、私は生きている。

  うすらぼんやりとした頭でそう思い、掌に力を込める。

  感触がある。
  切り裂かれた肩と脇腹の痛みが、ここが『天国』でも『地獄』でもないことを伝えてくれる。
  痛みのある。そこは『現実』。生きている、場所。

  そうしてそこから神経は一気に覚醒を促されていく。

  まず、浮遊感を感じた。
  それから生暖かな水の感触。取り巻く水音。流れ落ちてくる、その音。
  指先が震える。
  筋肉のひとつひとつが少しずつ動いた。

  弛緩され、あるいは緊張していた筋の一本一本を動かしていく。

  そうして、ゆっくりと『闇』から抜け出した。

  瞼が閉じられていたのだ。そこに夜の闇と、星々の光と、月の微かな光が開けられた瞼から過ぎる。
  ああ、自分は、
  ちゃぶり、と水音がする。

  自分は、『脱落』していたのだ、と思い出した。

  






  そして、目の前に『じぇんとるめん』がいた。








  優華の生まれ故郷の日本に存在する少女マンガに出てくる、お金持ちの小学五年生がしていた流れる前髪。
  子供が十秒で描いたとしか思えないような体の線。
  細い目がどことなく『ジェントルマン』なのは、じぇんとるめんたる所以なのかもしれない。

  びしり、と音を立てて優華の思考が凍りつく。
  しかし『じぇんとるめん』は優華の視線に気付いたのか、キラキラバック(ただし左手で描いたとしか思えないようなよれよれ)を背中に乗せて彼女の顔をのっそりと覗き込んだ。

  その巨大さは、全長3メートルはあるのではないかと思われるほどだ。

 『………大丈夫かい、お嬢さん。』

  視線がそう優華に問いかけている。
  問いかけられていることがわかっていた(優華だって『緑の属性』だ。魔法の波長くらいは感じ取ることが出来る)。
  
  しかし反応ができない。
  脳内の繋がっていたはずのシナプスが一気に途切れ、思考停止に陥っている。
  こういう場合、斜め45度から叩けば直るというのが、家電製品の一般常識(違う)であるのだが、この場合の『衝撃』というのは。

 『私の花嫁よ。』

  これだった。
  瞬間。

  優華は拳を作り、自ら起きあがって構えの体勢に入った。

 「
わったしはネスたんのもんだーーーーーー!!!!!!

  そのまま腰を落とし、飛び上がりアッパーを『じぇんとるめん』の顎へと放つ。
  格闘ゲームの『○龍拳』よろしく、それは見事な角度で決まった。

  キラキラと水滴をとばしながら優華の拳がじぇんとるめんをぶっ飛ばす。
  
  じぇんとるめんは、『魔法』であるはずなのに何故か「ぐふぅ」とか呻きながら後方へと倒れ込んでいった。

 『………見事だ。』

  満足そうな笑みを浮かべ、水面へと倒れ込むと同時に消えていく。
  水音さえ立てずに消えてしまったじゃんとるめんと同時に、優華もまた水の中へと降り立った。

  荒い息をたてながらぜぃぜぃと肺に空気を送り込んでいく。
  何が起こったのかさっぱり理解が出来なかった。
  しかし、優華の脳細胞は『覚醒』したときから動き始めている。

  おそらく、あの『魔法』で助かったのだろう。
  
  地上23階。
  あそこから落下して無事ですむはずがない。良くて全身複雑骨折。悪くて潰れたトマトだ。
  スプラッタを想像し、思わず青い顔で呻きそうになるのを堪える。

  そしてあの『じぇんとるめん』を描き出せるのは、優華の思うところで一人しかいない。

  だが、彼は、この場にいるはずがない。
  巻き込むには良くない、とギリギリのラインで優華が判断し、救援の要請を出していない。
  だから、ここにいるはずがない。

  いるはずがない、のだ。

 「……いってー…!」

  しかしながら。
  背後から聞こえてきたその声は、あまりにも聞き覚えのあるもので優華は驚いて、そして同時に何故という気持ちで溜息をついてしまった。
  
  考えられないような布石が、ここにもある。

  優華が後ろへと振り返る。
  そこに、少年がいた。
  
  いや、少年というのはもう似合わないのかもしれない。
  ここ数年で急激に背が伸び、現在も目下『成長期』な彼。
  ただ優華が思わず見上げてしまうような身長であるにも関わらず、それでも青年ではなく少年と思ってしまうのは彼がいわゆる『やんちゃ』なところを今も持っているせいなのかもしれない。

  明るい木々の幹の色をした髪。
  生命力に溢れた瞳。
  水の中に座り込みながら、痛めたのか頭を抑えている彼は、やはり彼である。

  そう、
  ここにいるはずのない。
  
  優華の、旧友で、後輩。

 「………どうしてあなたがここにいるんです?」

  話しかければ、座り込んでいた少年が顔を上げる。
  大きな瞳が懐かしく思えて、優華は体の痛みも忘れて微笑んでいた。

 「亮たん?」

  片町亮介が、そこにいた。











  scene08<背徳邂逅> −その出会いが、布石となり、楔となる。−











 「…あー。」

  亮介は優華が声をかけていることにようやく気付いたのか、目を瞬かせてこちらを見る。
  大きな瞳が何度が月の光に瞬き、それがどことなく犬の表情を思わせる。

  そんなことを優華は脳裏に思い描いていた。
  口には出さなかったが、口に出せばそれはそれで失礼だろう。
  そう尚思って、何も言わすに亮介の返答を待つ。

 「って、落ちてきたの柊センパイだったのかよ!!」

  どうやら思考回路が繋がったらしく、先に言ったのがそれだった。
  わからずに助けたらしい。
  思わずつんのめりそうになったが、確かにいきなり上空から落下してきてはわからないだろう。

 「……え、飛び降り自殺? 駄目だぞ、ネスティ泣くし。ルビーセンパイとか暴れて国一個くらい吹き飛ばすぞ。」

  至極もっともな意見をくれたのだが、優華はそれには即座に否定の意を返した。
  
 「違いますよ。まあ…………」

  落とされたのだと。
  突きおとされたのだと言いかけて、そこでグッと言葉を堪えた。

  その一瞬を見抜かれないように、優華は困ったような顔を作る。

 「事故、みたいなものです。」
 「事故ぉ? 嘘くせぇなぁ。」

  亮介はどことなく(本能で)優華の嘘に気付いたのだろう。
  不審そうな顔に優華は困った顔をした。

  そのまま亮介の押し問答を受ける前に、天上を見上げる。
  
  割れた嵌め込みの天上硝子。
  もう落ちてくる破片はなく、足下でキラキラと瞬いているのがそうなのだろう。

  良く、生きていたな、と思った。

 「……あ、」

  声を出そうとして、一瞬、体のなかに走った痛みに眉間の皺が深くなる。
  痛みに声を出すなど、なんて無様なのだろうと思いながら、ゆっくりと記憶を掘り返す。

  記憶の奥底で、落下する前の出来事が一気に過ぎった。



  ……戦いに、敗れた。
  完全にこちらの敗北だった。あんなもの、惨敗以外のなにものでもない。
  何も出来なかったわけではないが、あんなもの何の役に立つというのだろう。

  ほとんど、役立たずに終わってしまった。
  『こちら側』に不安材料を残す羽目にまでなったのだ。

  落とされ、見逃され、そしてこうして生きながらえている。

  なんて、無様。

  それでもトドメを刺されていたらと思うと、ゾッとする。
  背筋の奥が凍りつき、生きているからこその痛みに、心の何処かで安堵した。



 「でもびっくりしたぞー。いきなり天井から落ちてくるんだしさ。」

  何も言わない優華に見切りをつけたのか、亮介が改めて口を開く。
  その声を聞きながら、優華は亮介のほうへと向き直った。

  こちらを見つめながらそんなことを言う亮介は、ここにはいるはずのない人物だった。
  そう、いるはずがない。

 「天井のはめ込みガラスが割れたかと思ったら、いきなり落ちてくるから焦ったー…下が噴水だったし、魔法でどうにかしたけど。」

  どうやら落下してきた優華をそうとは知らずに助けようとしたのだという。
  慌てていたし、咄嗟のことだったのでとにかく落下の衝撃を和らげるものを、と思ったらしい。

  亮介の魔法スタイルは独特で、スケッチブックを『召喚』儀式の一部として用いるものだ。
  スケッチブックにあらかじめ描かれている『図』を媒体として、魔法陣として、召喚する。
  今回は本来なら『白兎(はくと)』を出そうとしたのだという。

  ふかふかで人一人のクッション役くらいならこなせそうなそれを呼び出そうとした。

  したのだが、慌てすぎて開けるページを間違えたのだ。

 「……で、出てきたのが落書きしてたあいつってわけ。」

  出てきたのは巨大じぇんとるめんだった。
  優華を救うのには成功したが、彼はジェントルメンゆえに『男性』である亮介にはまったく反応しなかったようで。

  踏みつぶされたのだと。

  (そこで優華はプーッと吹き出してしまった。)
  
  何はともあれ、救出に成功し気がつけば優華がそこにいて……

 「でもさ、柊センパイ。ほんとにどーしたんだよ? いくら何でもあそこから落ちてくるのは、理由とかあんだろ?」

  そう言って亮介は首を傾げて聞いてきた。
  どことなく興味津々なのはこのさい、置いておいてもいいだろう。

  優華は野次馬根性の出始めた亮介に向かって溜息をつく。

 「…亮たんこそ、どうしたんです。こんなところで。」

  亮介は優華の後輩にあたる男の子だ。
  片町亮介。優華とは年が三つ離れている。
  昨年まで優華がいたロシュフォードに在籍するもので、魔法使いの卵で、ついでに指示する属性も一緒だったりする。

  スケボーを片手にやんちゃ少年な亮介と、可愛いもの大好きで彼を事あるごとに抱きしめたりなで回したり(さすがに、身長が追い越されてからはしていないが)する優華とは友人のようなつきあいを続けている。

  それでもこんな場所(学院からは離れているし、ここは彼が寄りつこうとしないであろう商業ビルの中)で会うような相手ではない。

 「え、オレ?」
 「そ。」

  体の傷に注意しながら優華は亮介の側へと歩み寄っていく。その間に自分の傷の具合を調べるがm外傷はそんなに酷くはなさそうだった。
  爆発に巻き込まれたときの火傷は水面にいたこともあって薄くなっている。裂かれた肩も、脇腹の傷や叩きつけられた痣も痛いが重傷というほどではなかった。

  どれもも体の自由を奪うような深刻なものではなかった。
  素人が判断してはまずいだろうが、この際、動けなくなるようなものでなければ構うことはない。
  そのことにひとまずホッとする。

  その間に亮介は自分の状況を優華に説明し始めていた。

 「オレはさ、ここの落成記念式典? に抽選で選ばれたからって呼ばれたんだ。」
 「……式典ですか? 亮たん、式典って、面白い?」

  ううん、全然。
  と、そっけなく亮介は首を振って答える。
  式典という堅苦しいものに選ばれたからとは言って参加するような彼ではない(酷)ことは優華も知っている。

  なんだかわけのわからない口上やら何やらがありそうな場所には、亮介はけして近寄らないはずだ。

  しかし、その疑問はあっけなく知らされた。

 「うまいもんが出るっていうし、なんかダヴィンチの未発表作品が出るっていうからさ、ちょっと見に来たんだ。」

  優華はその返答に、なるほど、と納得する。
  確かにそういうのなら来るかもしれない。

  実際、ここのパーティは宝石の他にも数多くの美術品も並べられていた。
  今回の『調査』が宝石だったこともあって、優華たちはそこに寄りつきもしなかったせいで亮介とは会わなかったのだろう。

  実際、あそこの会場は人が多すぎる。
  
  気付かなかったのもしょうがないだろう、と結論づけ考え込むのをやめて顔を上げ、優華は顔に笑みを浮かべた。

 「ありがとう、亮たん。おかげで助かりました。」

  率直に優華はまず感謝を述べた。
  亮介がいなければ優華は今、ここに無事に立ってなどいなかっただろう。

  本当の意味で脱落していたはずだ。
  それを思い、心の底から感謝する。
  その意図が伝わったのか、亮介は照れくさそうな顔で頬をかいていた。

 「んー、気にしなくてもいいけどさ……でもさ、ほんとにどうしたんだよ。」

  どうして落ちてくるような状況になったのか、と聞きたがっている。
  ごまかすほうがいいのか、と優華の表情が一瞬曇った。

 「ええ、ちょっと…」

  言いよどみ、彼に伝えてもいいものかと悩んではいたが、ここでうまい言い訳が見つからない。
  趣味が紐なしバンジーで、さっきはそれで落ちてきたんです、なんて言っても信じてくれそうになかった。
  (面白がりそうだが。まず間違いなく)

  何より、もし真実を話せば亮介は間違いなくついてくるだろう。

  状況も何もかも聞いたうえで、『オレも行く』と言い出すはずだ。
  片町亮介はそういう人物だった。
  『面白い事』と、『友達』が絡む出来事には首をつっこまずにはいられない。そんな、人物なのだ。

 「…聞いたら後悔しますよ?」

  とりあえず、脅しをかけて優華はそんなことを言ってみた。
  だが、亮介にはそんなこと脅しにもならなかったらしい。

 「後悔するような荒事、オレ大好き!」

  いい笑顔で返され、優華は一瞬目を丸くしてしまう。

  そんな亮介の気持ちの良い返事を聞いて優華が堪えきれなかったように笑い声をたてる。
  亮介はなぜ笑うのかと不思議そうな顔をしていたが、思えば、久しぶりに笑ったような気がした。

 「……しょうがない、ですねぇ…」

  じゃあ、巻き込まれちゃってくださいな、と優華は亮介に笑いかけた。
 
 「おう! 巻き込まれるぜっ!」

  胸を張ってそう応える彼は、やはり年相応よりも幼さを残した無鉄砲さを感じられる。
  だが、逆に胸の奥に灯されるものがある。

  絶望的な状況であるのにどうしてだろうか、と優華は内心首を傾げていた。
  
  それでも、少しだけわかるような気もした。




  それから優華は少しずつ話し始める。
  まずは宝石のこと。
  今回の事のすべての発端となったもの。

  <ブラッディ・ホープ>

  その情報を手に入れようとして侵入したこと、そのメンバー。
  侵入したあとのこと。
  そして、最後の最後で罠に填められたこと。

  ここで、優華はサラスのことを話していいものかと迷ったが、結局話さなければいけないだろうと判断して溜息とともに続けて伝えた。

  亮介は驚いた顔をしたが、だがそれとともに怒った表情も見せた。
  彼の心境を推し量るものは少ない。
  けれど、怒りと、謎と、そんなものがない交ぜになっていることだけは確かだろう。




 「これは私の推測ですけど…おそらく、今回の<敵>はこちら側のことを承知しているはずです。」
 「なんでわかんだよ。」

  とりあえず何時までも水につかっているわけにもいかず、優華と亮介はそこから出て、手頃な縁に腰を下ろしていた。
  濡れた服は二人とも緑属性だったのでどうにもすることが出来そうにもなかったのだが、優華が機転をきかせて『水だけを吸い込む装置』というものを亮介に新たに描かせることでどうにかしている。

  原理はどうあれ、出てきたのが可愛らしいてるてる坊主だったりするあたりが笑えた。

  そのてるてる坊主は一生懸命しみこんだ水を吸い取ってくれている間に、優華は自分の考えをまとめる。

 「第一条件として、サラたんを出してきたことです。
  よって、敵側はこちらの情報を持っていることが推測されます。」
 「そーなのか……」
 「まあ、この件の主がサラたんであるという可能性もありますが、彼はこんなまわりくどい真似なんてしないという確率のほうが高い。」

  よって排除されます、と優華は指を一本立てる。
  さらに二本目。

 「第二条件は、こちらの狙いを知っていたということ。」
 「…つまり、こっちの『情報』が筒抜けになってるってことか?」
 「ええ。どこで漏れたのかはわかりませんけどね……私の連絡方法にミスがあったのか。」

  メールなどでは密かにソースに『バグ』を潜ませておいたのだが(こちらの内容を『盗もう』とした場合に発生するように仕込んである)、それだけでは足りなかったのかもしれない。
  あるいは、珠洲からか。
  もしくは、タナトスあたりから漏れたのか。

 「可能性としてはいくつでも考えられますが、今はそれを論議していても始まりませんし。」
 「……うーん…なんっか難しいなぁ。」
 「難しくなんてありませんよ。」

  そこで頭を抱えそうになった亮介に優華はさらり、と言ってのける。
  亮介が顔を上げると、優華は微笑んでいた。

  凶悪に、笑んでいた。

 「要は、それが私たちの敵って話です。見られちゃ拙いものなんでしょう…今回の、目的が。」

  それだけ掴んだだけでも収穫はあった、と優華は改めて思った。
  こちらの『情報』を逆手に取った手法。

  こちら側の人間を用いた、心理戦。

  そのどれを取っても、あの<ブラッディ・ホープ>にそれだけの『価値』があるということの裏付けになっている。

 「こちらの手の内を理解していて、そして私を『脱落』させたのなら……これから、動きやすくなりますよ。」

  ようやく体についた余分な水滴を吸い終えてくれたてるてる坊主(ちょっとお疲れ)にお礼を言って、優華は今度は自分の着ていたドレスの裾を引きちぎり始めた。

  おしげもなく引きちぎっていくその様子に亮介が驚くが、今度はそれを止血帯として怪我をしていた患部に巻きはじめるのを見ると慌てた様子で『オレがする』と言って巻き始めた。
  濡れている間には出来なかったのだ(患部から水と一緒に血が流れ落ちることもあって)。

  その間にも優華が話を進める。

 「相手方は、亮たんが『こちら』にいることも、私が助けられたことも知りませんから。」

  故に敵の裏がかけるはずだ、と優華は言う。

 「…まあ、そりゃそうだけどさ。」
 
  傷口をきつく結びながら亮介は優華を仰ぎ見る。

 「あてとか、あるのか?」
 「………甘く見ないでくださいな、亮たん。おねーさんってば、怒らせるととーっても怖いんだから。」

  にんまり、という表現が正しい顔で優華が表情を変える。
  それは確かに怖底知れぬ怖さを含んでいた。

  しかし亮介はそれに臆することもなく、わかったよ、と言うだけだ。

 「じゃあさ、オレも手伝うから。」
 「ええ。」
 「…サラスセンパイ、ぶん殴ってでもこっちに引きずり戻してやろうぜ。」

  作戦も、そして今回の目的だってある。
  だが、亮介が言いたいのはそのことだった。

  それを聞き、優華は目を丸くして、それから頷いて了承を伝えた。

 「ええ。ぶん殴ってでも、蹴り倒してでも、連れ戻しましょうか。」
 「おう!」

  そこで応急処置もすみ、亮介は手を挙げる。
  優華が同じく手を挙げてパンっと、手を打ち鳴らした。




  ここに、『あちら側』にとって予期せぬ布石が生まれた。
  



  予期せぬものでありづけるために、連絡は未だに取れない。
  まだ、準備が整っていない。
  だから優華はこれから先、『何が起こっても』メンバーへ向けて連絡を取ることも、応えることもなかった。

  たとえば悲鳴が上がっても、唇に歯をたてて耐えた。
  反応すれば自分の生存がばれてしまう恐れがある。それだけは避けなければいけない。
  だから、耐えた。
  堪えて、それでも上がりそうになった声を堪えて血が出るほど唇を噛みしめる。

  血が滲んでも、それに耐えてやり過ごした。
  そうしなければいけなかったから。そうしなければ、出し抜けなかったから。

  それでも連絡用のそれを耳から外さなかったのは、今の状況を正確に判断するため、と自分への戒めでもあった。

  非情なまでの冷静さを持ち、優華は亮介とともに進む。











  やがて、朝が来る。

  どれだけ深い闇であろうとも、人々の心に闇があったとしても、太陽は関係なく昇り始めて闇を切り裂いていく。
  それが、朝だ。

  夜を討ち滅ぼす、朝の光だ。

  そう、どれだけ深い絶望の闇であったとしても。
  光を覆い尽くすことなどできない。

  諦めることのない心の奥底に輝き始め、そして迎えに来る。

  闇を打ち払うことを願うものの元へと、足音を立ててやって来るのだ。




  たとえばそれが、どんな形であろうとも。




  それは、夜明けを告げる一筋の鳴き声のごとく。

 「…それは、闇が深ければ深いほど。」

  闇の中で、そして相変わらずのこぼれ落ちる水滴の音、低く唸りを上げるボイラーの音。
  それらの音をものともせず、静かに、けれどくぐもることもなく声が響く。

  扉の開く音は聞こえなかった。
  突然、闇のなかから聞こえてきた声に舞鼓は閉じていた瞼を持ち上げる。
  何時間ここで繋がれていたのかは知れない。
  
  抉るような手首の鎖の痕は鈍い熱しか感じなくなるほどの時間だけが、経過したという証なのかもしれない。

 「悲しみが深ければ深いほど。」

  闇の中から、足音が聞こえてくる。
  コンクリを踏みしめるブーツの音。迷いもなく、そしてゆっくりと舞鼓のほうへと近づいてくる。

  闇の中、そして人工の光が仄かに灯るその中で、舞鼓は目をこらした。

 「そして、絶望が深ければ深いほどに。」

  かつり、と。
  やがて脚が見える。
  脚と共に腰が、そこから下げたホルダー。そうして、そこに収まった一振りのナイフが見えた。

 「それらを切り裂くかのような、陽の光にも似たもの。」

  やがて真っ白な上着が見える。
  長身痩躯なのか、常人よりもよほど細身のその体は、だが舞鼓に壮絶な『予感』を蘇らせた。

  暴力的にまでの勢いで奪っていく、予感。

  かつん、と足が止まる。
  同時に仄かに照らされた光の下で、その顔が露わになる。

  舞鼓が瞬間的に息を呑んだ。
  同時に、背筋に……いいや、神経を背骨から直接抜き取られ、氷水をぶちまけられたかのような壮絶な感覚が『蘇る』。
  それは死だ。

  無慈悲に、暴力的に、絶望的なまでの予感を連れてくる。

  死、そのものの感覚だった。

 「よぅ、久しぶりだなぁ。」

  透けるような白銀の髪。
  舞鼓やアルセウムと同年齢か、あるいは下にさえ見えてしまうかのような風貌。

  だが、濁りきった深海そのもののどす黒い青の瞳が、その風貌を間違いだと警告してくるかのようだ。

  舞鼓は知らず。体が震えるのを止めることができなかった。
  どうしてという疑問と、そして最悪だという思いがない交ぜになって彼女の思考回路を覆い尽くしていく。

 「『あれ』からだから三年ぶりかぁ? あいかわらず日本(ジャパン)めいてるなぁ……女ぁ。」

  人を食ったような軽薄な微笑を浮かべ、男は立っている。

  額に浮かぶ冷や汗を拭うことも出来ずに、舞鼓はジッと男を見つめる事しかできなかった。
  震えそうになる声帯をどうにか堪えて、声を出す。

 「……どうしてあなたが、こちらにいるのです…」

  疑問を示せば男はつまらなそうに鼻を鳴らした。
  その瞬間、舞鼓は首筋に冷たい刃を突きつけられたかのような錯覚に陥る。

  いや、実際、つきつけられたようなものだ。

  今、舞鼓は男の『領域』にいるのである。
  いつでも喉元を切り裂き、絶命に陥りさせることのできる距離。
  殺される、距離なのだ。

 「決まってるだろぉ? 俺はここにいる『ヤツ』に雇われてるんだよぉ。」

  だがターコイズは今のところは舞鼓に危害を加える気はないらしい。
  『つきつけられた』その感覚は止み、男は話しを始めた。

 「こっち側にいればオリガロットのヤツと殺し合えるって話だったからなぁ。」

  ルビーがこちらにいるということも『向こう側』は知っているらしい。
  しかもこの男を連れてきたということは事前にその情報を入手していたということだ。
  なんという用意周到さなのだろう。

  舞鼓でさえその言葉の裏の出来事に気付き、驚くとともに相手側の深さに恐怖した。

  男は舞鼓の心情を知ってか知らずか(知っていたところで、気にも留めないだろうが)、話をそのまま続ける。

 「だが、なんだってんだよぉ…あいつの、あのザマはよぉ。」

  大きく舌打ちをし、心底つまらなそうに男は言い捨てる。
  舞鼓も知っている。
  無線で聞いていたからだ。

  彼女の悲鳴を、非業を、すべてを。

  身を引き裂かれそうな、その出来事でさえも。
  (そうしてまた何も出来なかったという絶望を、舞鼓に与えた)

 「たかが『あちら』か『こちら』かに別れたくらいであのザマだぁ…俺は、はっきり言って面白くねぇ。
  それに今の状態のあいつと戦っても、俺はむかついてあいつを『虐殺』しちまうからなぁ。」

  その言葉に、舞鼓の脳裏に男に惨殺されるルビーの姿が過ぎった。
  ゾッとして顔を青ざめると、男はそれを見て唇の端を歪めてみせる。

 「今の状態のあいつとは殺しあわねぇよぉ。あんなやつと戦っても、俺が面白くねぇからなぁ。」

  ニヤリと浮かべる笑みは凶悪さ、そのものであった。
  だが、男の言っていることは『事実』なのだろう。

  少なくとも嘘も、気の迷いのような、そんな響きも聞き取ることはできなかった。

  そのことに舞鼓は思わずホッとしてしまう。
  そのすぐあとには何をホッとしているのか、と自分を叱咤することとなったのだが、それでもルビーの危険はひとつでも少なくなったのだ。
  
  今回のこの状況で、それだけが救いのようだった。

  たったひとつでも親友を痛めつける状況が減ったことに、舞鼓は僅かながらに安堵したのである。

  その様子を、男はじぃっと見つめていた。
  視線に殺気はない(殺気などなくとも、舞鼓など一瞬で刺し殺し、斬り殺し、縊り殺すことなど出来るとしても)。
  濁りきった、しかしそれ故に他のなにものにも侵されることのない青色が、舞鼓を見つめている。

 「……なんですか。」

  疑問を浮かべて舞鼓が口を開く。
  そして同時に、どうしてこの男が自分の前に現れたのかという疑問が湧く。

  そうだ。
  彼にとって舞鼓という存在は、戦う価値もないような相手なのだ。
  殺すという明確な理由もない。
  この男にもっとも遠い位置にいる一人である舞鼓の前に現れるということ事態が、まずおかしいのだ。

  舞鼓の疑問に男はニヤリ、と笑んだ。

  爬虫類か、あるいは獰猛な肉食獣を思わせるその顔は、生理的な恐怖感を覚えるほどの威圧感がある。

 「お前、俺を雇う気はねぇかぁ?」

  赤く蠢く舌と開いた唇が、そんなことを紡いだ。
  一瞬、言われた意味がわからずに舞鼓は瞠目する。

 「……な、なにを…!!」
 「お前は『あちら側』の人間だぁ。しかも捕らえられて、脱出できないとてる。」

  自分じゃあその鎖を断ち切ることさえ出来ないのだろう、と看破されて舞鼓は悔しそうに歯噛みした。
  実際その通りだったからだ。

  思わず言い返すことのできない舞鼓の様子に、男は笑みを崩さないまま続ける。

 「そのままでいたいんなら別にいい。だけどなぁ……脱出、したいんだろぉ?」

  そうして自分の考えをも知られていることに舞鼓は言葉を失った。
  確かに、このままでいるわけにはいかないことなど誰でもわかることだ。

  しかしそれを敵方に、しかも『この男』に改めて看破されてしまっては精神的なダメージも大きい。

  口ごもる舞鼓を前に、男は何も言わずに彼女の返事を待った。
  両方の手をスーツのポケットに入れたまま、背中をボイラーに預けている。
  その姿は警戒など一欠片もない。

  だが、その気になれば舞鼓を殺せる。

  そんな位置にいる。
  ゾッとするような感覚のまま、怯えてくじけそうな声をせめて気付かれまいとして舞鼓は深呼吸をする。
  汗が額を伝い落ちていく。

 「………あなたは、私に何を差し出せというのですか?」

  雇うならばその見返りが必要なはずだ。
  
  金か。
  命か。
  あるいは、ルビーとの再戦の約束か。

  どれを取ってもあまり舞鼓にとって分の良い話でないことだけは確かだった。

  だが舞鼓の言葉に、男は心底呆れたような、めんどくさそうな表情を浮かべてみせる。

 「志田 舞鼓。」

  突如、舞鼓はフルネームで呼ばれる。
  その淀みもない一言に舞鼓は目を見開く。何故、という疑問とともに、目の前の男の瞳がゆっくりと瞬くのを見た。

  淀みきった青から、深海の青への変化を見た。

  ディープブルーの、色。

 「重ねて返すぜ、志田 舞鼓。お前は俺に、何を差し出すんだぁ?」

  無遠慮でフルネームで呼ばれたが、その時、なぜか嫌な感じはしなかった。
  ただ、今度は怯むこともなく相手を強く見据えていた。

  黒い瞳と青の瞳が交錯する。

  鎖に繋がれたまま、舞鼓は静かに相手を見つめていた。
  目をそらしてはいけない。そんな、『自分から命を差し出すような』真似など、断じてできないと舞鼓は思った。

  目の前の男は、きっと自分が目をそらした瞬間に襲いかかってくるだろうからだ。
  少しでも気を抜いたその瞬間に、凶暴な牙を突き立ててくるつもりなのだろう。

  顔は笑っているが、その笑みはどこまでも邪悪であったし、どこまでも狂気に満ちあふれていた。

  『人を殺したい』という、純粋がゆえに狂気に満ち溢れたもの。
  それがどんな相手でも構わないのだ。
  襲いかかろうとしないのは、舞鼓が油断していないからである。

  そのつもりなどなくとも、
  空気を吸うように、ただ生きるような感覚で殺しにやって来る。

  先ほどの考えを改め、舞鼓はそう結論づけた。

 「…差し出す、とは?」
 「俺は殺人鬼で、殺し屋だ。殺し屋を雇うにはそれなりの『代償』がいるんだよぉ。」

  白銀の髪が闇のなかであってもなお、白く輝いている。
  舞鼓の脳裏にひとつの単語が浮かぶ。

  白髪鬼。そう、『鬼』だ。人とは完全に違う『いきもの』。

  かつてルビーと死闘を繰り広げた相手。
  自分たちの前に立ちふさがった敵。

  ターコイズ・アルハザートが、今、舞鼓の目の前にいる。
  
  途方もないプレッシャーのなかで、思わず視線を逸らしてしまいそうになる。本能的なそれを抑えつけるだけで舞鼓は精一杯だった。
  それでも舞鼓は額に汗を滲ませながら、ギュッと手を握り込む。

 「代償……何を、差し出せば…?」
 「さっきから質問ばっかりだなぁ…質問に質問に返すのはお行儀が悪いんだぜぇ?」

  誰かに教えてもらわなかったのかと、ニヤニヤと笑いながら言われてしまい、舞鼓の頬に羞恥の朱色が浮かぶが今はそんなことを気にしている場合ではない。

  今、必要なのはこの場面を打開できるだけの『力』なのだから。

 「…代償は俺が面白いかどうかだ。『こっち』につけばルビーとまた殺し愛えると思ったんだが……そうもいかない。俺は、つまらない。」

  だから、と続けてターコイズは笑い声をたてる。
  どこまでも邪悪で、どこまでも狂い、どこまでも純粋無垢なものだった。

  それを聞きながら舞鼓は悪寒に体を震わせた。

  その笑い声はあまりにも舞鼓には強烈すぎる。
  魂の底から冷え切ってしまいそうな、凶悪な声。

 「俺を楽しませるものを差し出せ。そうすれば、俺とお前の商談は『成立』する。」

  さぁ、
  差し出せ、とターコイズが片手を差し出しながら言った。

  血に塗れた真っ赤に染まったような、その白い手を身ながら舞鼓は目を閉じる。
  ターコイズは襲いかかることもなく、舞鼓の返答を待った。

  舞鼓は静かに息を吸い、そして吐き出した。
  ゆっくりと、呼吸を整え、気持ちを平静へと保つ。

  ……必要なのは、邪悪でも、狂気でも、殺意でも、快楽でも、何だってかまわない。

  舞鼓の脳裏を、去っていく小さな従者の姿が過ぎる。
  同時に、親友の悲鳴が聞こえた。
  落ちていく友人の姿だって、あった。

  何も出来ないのが悔しくてたまらなかった。
  いつだって、そうだった。

  何も出来ず、その場にいるだけで力になることができない。
  せめて自分の身を守れればいいのに、それさえもできなかった。

  傷つくのはいつだって自分以外の誰かで、手助けをすることもできない。

  ………心を守るための盾ならある。
  持っている、と言える。
  けれど身は?
  体を守るための盾も、刃も、この手にはない。


  今、舞鼓が欲しいのは、刃だ。


  この最悪の状況を打破するだけの、『力』でもあった。

  
  舞鼓は静かに決意する。
  それは彼女が知らない、彼女だけ持ちうる力のひとつ。

  ……そう、舞鼓は知らない。
  彼女は、一般人や、あるいは熟練した戦士でさえも足下にも及ばないトップクラスの『決断力』の持ち主であるということを。
  彼女はその意志が決めれば迷うこともなく実行できる強さの持ち主なのだ。

  その恐るべき力。

  『決意』さえしてしまえば刃で貫かれようが、拷問されようが、谷底へと突きおとされようが、けして折れることのない『力』。

  しかしそれは、本人が知らぬがゆえの強さなのかもしれない。

  だから舞鼓は言う。
  決意を込めて、言葉を、のせた。


 「……力を、貸してください。」

  ようやく一言、唇からこぼれ落ちる。
  それは何の策も、考えもない、真摯な思いを込めた言葉だった。
  曲がることも折れることも知らぬ鋼の意志を込めた決意の表れでもあった。

  ターコイズの青い瞳に、うっすらと光が宿る。

 「…商談じゃなく、力を貸せだぁ? 俺が何をしたのか、覚えてないのか。」
 「覚えています。この身に刻んでいます。この言葉がどれほど無謀なものなのかも、わかっています。」

  それでも、と舞鼓は言った。
  全ての思いを込めて、目の前の男を見つめる。
  折れることも、負けることもない。舞鼓は決意を込めて息を吸った。

 「それでも、力が欲しい! たとえ悪意の力でも、私には必要なんです!」

  言い切って、舞鼓はそこで『宣言』する。
  力が欲しいと、そのために自分の言葉を使って、真摯に真剣に、願う。

  これ以上、誰も失わないために。
  傷つかないために。
  無くさないために。

  守るために。



  これ以上、悲しい涙を流させないために。



  そう、闇を切り払う意志があるならば。
  どれだけ闇が深くとも、
  どれだけ絶望が深くとも、
  どれだけ悲しみの涙が流れても、
  血を流し、傷を作ろうとも、

  光は訪れる。

  騒々しい足音をたてて、闇を切り裂いていく。

  恐れもせず、迷いもせず、ただ一心不乱に願い続けるものの祈りを聞かぬものなど、この世には存在しない。
  そんなものは、神だけだ。
  祈りを聞かないのは、神だけなのだ。

  『この世にない』ものだけなのだ。

  だから『この世にある』光は、



  やって来る。



  しばし言葉もなく互いを見つめ合いながら、舞鼓もターコイズもその場から動かなかった。
  声を荒げた舞鼓は肩で息をしていたものの、ターコイズは身じろぎもせずジッと彼女を見つめている。

  やがてターコイズはおかしそうに唇の端を持ち上げた。
  クッと音をたてて笑い声をあげ、それから顔にかかった前髪を払う。
  下から現れたその顔は、幼ささえ残るような風貌がある。

 「いい『覚悟』じゃねぇかよぉ。」

  楽しそうに、そして心底嬉しそうにターコイズは笑っている。
  その言葉の意味を理解出来ずに、舞鼓は不思議そうに目を瞬かせている。

  しかしターコイズは舞鼓の心境に応えることはなく、ただ自分の胸に湧いた感情に表情を緩ませているだけだ。

 「俺を使う気ならぁ、そのくらいの覚悟がねぇとなぁ。」

  さもなきゃ、

  喰らい尽くしてるところだぜ、と言ってターコイズは凶悪に言い切った。
  その言葉に舞鼓がビクリとするのを見ると楽しそうに声をたてて笑いながら彼女へと近づいていった。

  そのまま彼女の警戒をものともせず、ホルダーからナイフを抜き放つ。
  それは鈍色の光を放つマンイーター。
  『人食い』という名のそれが、シャンと音を立てて光りを放つ。

  そして目にもとまらぬ速さで数度、振られた。

  舞鼓の目にも映らぬ高速の刃は、終わったと同時に再びターコイズのホルダーへと戻る。
  
  それと同時に、舞鼓の手首に填められていた枷が切れた。
  鎖もバラバラに切断され、甲高い音を立てて床へと落下していく。

  その音を聞き、呆然としたまま舞鼓は自分の手首を見た。
  赤く穿たれた痕。
  それは現実なのだと思わせる反面、どこか現実離れした感覚を舞鼓に連れてくる。

 「………これは損得を抜いたただひとつの契約。」

  その手首を取ってターコイズは言葉を紡いだ。
  傷跡を長い指先が滑る。痛みはない。だが、青い光が指先とともに現れ、傷跡をなぞる先からそれを塞いでいくのを見た。
  舞鼓が呆然としてターコイズを見る。

  目の前にあったのは、殺人鬼でも殺し屋でも何でもない。
  見たこともないようなたった一人の男が、立っているだけだった。

 「我は青ではなく、今のこの瞬間だけ、何の色もないこの少女に誓う。」

  目を奪われるような、そんな感覚に身を奪われる。
  心地よいテノールの声は詠うようにして言葉を生み出していった。

 「この契約は絶対。この契約は一時のもの。しかしこの契約のために、我は自らの死すら捧げよう。」

  白銀の髪が揺れる。

 「我が名は剣。我は涙を止めるために奮われる、王から与えられた一振りの刃。鈍色に輝く身をもって、我は契約の名のもとに生まれる絶対不変の力。」

  やがて青い瞳が舞鼓を見据えた。
  手首の傷口は完全に癒え跡形もない。呆然としたまま舞鼓は気付く。
  同じようにターコイズの手首に何かが『巻きつけられている』。

  それは黒。
  黒いリボンだ。

  古びたボロボロのリボン。

  なのにどんな宝石も敵わないような輝きを秘めているような気がして、舞鼓は微かに息をはいた。
  
 「契約を。」
 「契約を。」

  ほぼ同時にターコイズと舞鼓はそう言った。
  舞鼓は無意識だった。そしてどうして自分がそんなことを言ったのかわからなかったが、だが彼の手首に巻き付けられたリボンから視線をそらせないまま、まあいいか、と思ってしまう。





  そうしてやがて二人は手を離し、走り出した。

  暗い闇を引き裂いて、騒々しいまでの光を連れてそれを引き裂くために。
  繋がれた鎖は切り裂かれ、置いて行かれた。

  もう縛るものはない。
  繋ぐものはない。





  夜明けを告げる足音が、今ここに始まった。









  <09に、続く>