剣とともに生きようと始めて思ったのは、もう昔の話。
刀を手に舞い踊るように戦うことが出来たのは、身近に素晴らしい師がいたからだ。
どうして戦うことを選んだのか、と聞かれても、理由はいつだってたった一つでしかなかった。
『守りたいから。』
この手で、色んなものを。
天空に光る星も、雲も、太陽でさえ掴めない短い手と指で、せめて大切なものがこぼれ落ちることがないように、と。
大切な、幸せな光景を守りたい。
舞い散る火の粉を薙ぎ払い、略奪者を両断できるのなら強くなることは苦痛ではなかった。
たとえばそれで人から蔑まれても、貶されても、それだけは捨て去ることができなかった。
守りたいと思う。
心の底から、そう願う。
まわりから肉体的にも精神的にも極限まで追い詰められた経験もあったせいか、その『守りたい』という思いは強くなったのかもしれない。
あれは痛い。
あれ、は、心を食い破られてしまう。
ブチブチと音を立てて、少しずつ浸食してくる。
そんな痛みを誰かに与えないように、せめて肉体だけでも守るようになれたのなら。
それが自分の本懐となる。
でも、
だけど。
もし、守りたいものがあって、大切なものがあって、
その二つがまったく違うベクトルにいたとしたら、
どうすればいい?
守りたいものがある。
それは自分を導いてくれる灯火。優しい腕。柔らかな約束。
一つ一つを与えてくれた人々。
それは自分にとって大切な、そう、とても大切な。
けれど、大切なものもある。
一番大切なもの。
心に響くもの。今、もっとも自分の心を脅かし、浸食し、それでもまたいとしいと思うもの。
守りたい、と。
その両者はまったく違う位置にあって、交わることはない。
同時に、どちらか片方を選べない。
選んでしまったら、その瞬間、取り返しのつかないことをしてしまう。
『守りたい』と思う心を、裏切ってしまう。
だが、その迷いが、敗北を招いた。
たくさんのものを守りきれずに、傷つけてしまった。
いくつもいくつも、握りしめたはずの指の間からすり抜けて、こぼれ落ちていってしまう。
止めたいのに、止められない。
キラキラとした光の粒は、恐ろしいほどの速度で指の間から落ちていってしまうのだ。
でも、どうすることもできない。
閉じた掌のどちらかを開いて、片方を抑えればどちらかを守れるのかもしれない。
それでも出来ない。
どうしても、
それだけが、出来ない。
この掌にすべてを望め、と貴方は言っていました。
すべてを望んだところで手に入らないのだと思い知った時、私はどうすればいいのですか?
すべてを望み、手に入らず何もかもを無くすかもしれない。
そう思ったときの確かな絶望を、あなたは教えてはくれなかった。
すべてを守るには、この手はあまりにも無力なのに。
ああ、彼の言ったとおりじゃないか。
なんて、無様なのだろう。
本当にバカな話。
泣きたくなるほど、笑い出したくなるほどに、バカな話だ。
scene07 <落涙昇華> −剣は折れたのか? 負けてそこで終わりなのか?−
剣の名は近しいものなら誰でも知っていた。
ルビーの持つ日本刀の名前。
一つは、『山南敬助』。脇差しとの二刀流を主旨とした、切れない刃。
一つは、『斉藤 一』。巨大な太郎太刀、そして斬馬刀をモチーフとし、リーチの差を埋めるために用いられるもの。
一つは、『紅』。最も一般的な日本刀であるとも言える。
一つは、『蒼』。彼の源平の合戦の英雄が、最期の自刃に用いたとされるものを真似たもの。
一つは、『空』。巨大な、しかし細身の刃。
『紅』は、今はない。
顕現させてから消えることはないものの、既に手の内にはなく『かの人』がその手中に収めているからである。
『蒼』は、今、打ち棄てられている。
役立たずだと罵倒され(その言葉は自分自身に返ってくるものであることを知りながら)、部屋の隅に転がったままだ。
他の剣はない。
もう顕現させることさえ意志にないのか、その掌から魔力となって放たれることはなかった。
だがしかし、『蒼』は、元々の小太刀であるそれは、消えることはない。
本当の刀工を造り上げ、完成させたもの。
夜の闇の中であろうとも消えることのない冴え冴えとした光を放っている。
目の中を焼きそうなほどに、冷たい、だが一筋の強烈な光。
穢れなき刃。
その刀身に一点の曇りもなく、迷いもなく、無言でその存在を示している。
ぼんやりとそれを見ていたアルセウムがゆっくりと体を浮かせた。
かつり、と靴音が室内に響くが、ルビーはそれに反応を示そうとしない。
虚ろな瞳は光さえもなく、ただ一点だけを見つめて動かない。
アルセウムが剣へと手を伸ばす。
柄へと指先を伸ばした時に、一瞬、指を引いた。
躊躇うかのように、だがその真意を測れるはずもなく、アルセウムは次の瞬間には柄を握り込んでいた。
かちり、と甲高い音が鳴り、床から刀身が浮かんでいく。
剣は何も言わずにアルセウムの手の内に収まっていた。
清らかな、けれど退くことを知らぬと言わんばかりの光を持っている。
何も言わず、語らない。
アルセウムは一度、ギュゥ、と音がなるほど柄を握りしめた。
そうしてそのまま、踵を返す。
靴音を立てて座り込んだままのルビーの側へと、歩みを進めていった。
すぐ側に立ち、それから片膝を立てて体を下ろす。
目と鼻の先にいるというのに、ルビーからの反応は未だになかった。
アルセウムは苛立ちにも似た表情を浮かべると小さく舌打ちをする。
だが、思い直して、ゆっくりと片手を上げた。
そう、その手の中にあるのは、『蒼』だ。
「………執れ(とれ)。」
残された一振りの刃を、たったその一言だけを告げてアルセウムはルビーへと差し出す。
『蒼』は『紅』と対を成す物でもある。
『紅』はここにはない。
朔良に奪われているからだ。
今、あの剣は彼の人の手の中にある。
手の中にあって、そしてその力を奮っているのだ。きっと、何も言わずに、ただその奮われる意志の力によって、その刀身が導くべきものを出しているのだろう。
「…執れ。」
アルセウムはルビーをジッと見つめている。まるで訴えかけるような瞳だった。
今、アルセウムの手のひらのなかにある『蒼』は、ルビー自身が捨てたもの。
奪うくらいなら、
傷つけるくらいなら、
殺めて、しまうくらいなら、
そしてその全てを決意さえも出来ず、迷ってばかりで何も出来ず、
役目を果たすこともできないようなものならば、
捨ててしまおう、と決意し、乱暴に投げたはずの剣が今、ルビーの目の前にあった。
捨てたはずなのに、その剣には一点の穢れさえもない。
曇りも、迷いもなく、訴えかけてくる。何の躊躇もない。何の恐れもない。ただ真摯に、一身に、訴えるのだ。
……執れ、と。
その手にもう一度執れ、と。
声なき声で訴えかけてくる。
その声に耳を塞ぎたくなるような衝動に駆られて、ルビーは顔を歪めた。
「…………」
やがてルビーは声もなく静かに首を横に振る。
たとえ剣が(それを差し出すアルセウムも)訴えかけたところで、何の意味もない。
ルビーにはもう、その剣を執るだけの力がない。
奮うべき意志が欠落してしまっているのだ。
瞳は曇り、
闘志もなく、魂は疲弊しきり、心は千切れていた。
いたたまれなさそうに、ルビーが目を伏せる。
投げ出された両腕には力がこもらないが、もし力があるのなら耳を塞いでいただろう。
何も聞きたくはない。何もしたくない。
哀しげな色が少しだけ瞳に宿った。
それでもアルセウムは無言で剣を差し出す。
執れ、と。
この手の内にある、無垢なる刃を、すべてを切り裂く剣を執れ、とそう視線で訴えかけている。
まるで、そうしなければこの先に待つ『運命』を知っているかのようだ。
(ああ、実際知っているのかもしれない。
剣(武器)を執る事さえ出来なかった。その無力な手を、知っているのかもしれない)
それでもどうしても、剣だけは執れない。
それだけはどうしても、できない。
ルビーがもう一度首を横に振る。
剣は執れない。執れるわけがないのだ。こんな、迷いを残したまま、決意もなく、力もなく、魂でさえも薄い。
そんな状況で握ったところで、剣に力が宿るわけがないのだ。
「………ごめん、なさい。」
ぽつりと、ルビーが口を開いた。
その乾ききった唇からもれた声にさえ、強さはない。
諦めきった力のない音が室内に響く。
それを聞いたアルセウムの顔に苛立ちが浮かんだ。
ぎりりと歯ぎしりをたて、ルビーの手を取る。
何をするのだと思う前にアルセウムは片手に持っていた『蒼』を無理矢理ルビーの手に押しつけようとしていた。
いや、執らせようとしたのかもしれない。
その存在を忘れるな、と。
この剣はお前のものだと言いたいのだろうか。
力は、もうないのだ。
(脳裏に走る光景は、血まみれの『未来』)
「…っ!!」
脳裏に思い描いた悪夢のような光景に震え、ルビーは全身でそれを拒絶した。
たまらず手を挙げ払い落とすように叩いた拍子に、アルセウムの手から剣が落ち、転がっていく。
薄闇のなかであろうとも、光を失うことのないその刃。
甲高い音を立てながらその存在を現している。
その音を耳にした時、アルセウムの瞳に完全な怒りが浮かんだ。
「…っいいかげんにしろ!!」
ガッとアルセウムがルビーの襟を掴み、自分のほうへと引き寄せる。
耳の痛くなるような声を上げ、襟を締め上げる。
痛みはあっただろうに、それでも彼女の瞳に光が戻ることはなかった。
ただ、虚空を映すだけだ。
それが余計にアルセウムの神経を逆撫でさせる。
「甘えるんじゃねぇ!」
怒号が空間に響く。
何も出来ないわけではない。彼女は、ルビーには止めることの出来るものがある。
こんな、理不尽な状況で、それでも全てを投げ出していいはずはない。
すべてを投げ出せば、それはそれで楽だろう。
だが、後は? その後は、いったいどうなるのか。
目に見えているはずなのだ。
投げ出せば、本当の意味ですべてを失うことになってしまう。
何より、まだ守る力が残っているのに、それをせずに逃げ出すなどと、そんな真似が許されるはずはない。
それは単なる甘えだ。
甘えからくる、弱い言い訳でしかないのだ。
だが、アルセウムの言葉は足らず(多かったところで、届くかどうかはわからないのだが)虚しく響くだけだ。
彼女の心に届かない。
(その手に)
(守れるものがあるはずなのに、何もしないのは、おかしい)
このままでは後悔するのが目に見えている。そうして、その後でルビーが酷く泣くことだってみんなわかっている。
ただ、何よりも、
奥歯を噛みしめてアルセウムはルビーを見据える。
自分がそうしたいから、するのだ。
大切なものを守れずに涙する姿など、誰のものであっても見ていて気分の良いものではない。
「…執れよ。」
何度でも、アルセウムはそう言って剣を差し出す。
そのたびにルビーは首を横に振った。
だが、アルセウムはまったく引くつもりはなく、変わらぬ強さで剣を差し出すのだ。
何度でも、
何度でも、
何度でも、
「執れ。」
その瞳に光が戻るように、
無気力な姿に力が戻るように、
その体に意志の力を取り戻させ、生命力が宿るように。
虚無を、取り払うかのように。
今の腑抜けのようなルビーは見ていて気分の良いものではないし、むしろなんと無責任だと腹立たしささえ感じる。
それでも放っておけば舞鼓は怒鳴りつけるだろうし、優華あたりからは折檻をもらうかもしれない。
桜姫だって黙ってなどいないはずだ。
損な役回りだと思いながらも、アルセウムは剣は差し出す。
それに、
失うことがないように動くのもまた、必要だとも思うから。
涙が流れないのなら、それが一番いいはずなのだ。
だから差し出す。
何度でも、
何度でも。
そうして時間は巻き戻り、優華が脱落したのと前後してのこと。
夜はまだ浅く、星も月も天上に輝いていた頃。
だが時間など関係なく、常に窓を塞がれ、人工の明かりと機械たちに囲まれたその研究室はいつもの明るさの下にあった。
その中でタナトスはいつものように所長席の安楽椅子に座っている。
まわりの<チーム>のメンバーがどれほど忙しく立ち回っていても、そこから動こうという気配は見せなかった。
側にいた老齢の女性の睨むような視線をそよとも受け付けず、さて、と小さく唇を動かした。
タナトスの前方には机を挟んで二人の青年がいる。
いや、もう片方は青年に手がやっと届きそうな、という年齢ではあったが、この際、青年でも間違ってはいないだろう。
どちらの表情も固く、この邂逅をけして良いものではない、と予想しているのだろう。
まあ、半ば攫って脅したあげくに連れてきたのだから仕方ない。
「今回、君たちに『ご同行』願ったのは他でもない。」
だから攫って来られたんだ、と片方の青年が言い返そうとして、もう一人に制される。
不服そうな顔をしたが、彼もそれに応じて止まった。
そんな様子を見てタナトスはうっすらと笑みを浮かべると、手元のコンソールを叩く。
「どうやら、君たちの『恋人』が危険に巻き込まれたようなのだ。」
タナトスの操作によって映し出されたディスプレイには、30分ほど前の時間が示されている。
これは? と片方の青年が視線で意味を促す。
「これは優華に持たせた『あれ』の入れ物に使っている発信器からのものだ。
優華が常に携帯するようにしてあり、もしその手から離れた場合、『あれ』からの信号が途絶える。」
一時的に体から離れているのなら発信は止まる。
しかし30分ということはない。
パーティ会場にいる間はさすがに事前に連絡を取り、『侵入』してからは発信を始めるように仕掛けてあった。
だが、その信号が止まっている。
「『あれ』が恐らく、優華の危機を伝えているのだろうな。」
つまりは、そういう意味なのと言いたげにタナトスはコンソールを操作して画面を消した。
優華の名前を出された時に、一人の青年が顕著な反応を示した。
体を大きく乗り出して、タナトスからの説明を求めている。
その素振りを手で軽く制止ながらも、タナトスはあくまでも落ち着いた様子である。
「優華の危機、ということは同じく、同行している桜姫とやらも危険に巻き込まれている可能性が高い。」
さらにもう一人の青年の痛いところをついた。
しかも的確に、である。
今までに会ったことがなく、今回が初対面だというのに何という根の回しようだ。
青年が苛立ったような表情を浮かべる。
「故に、こちらから救援を出す必要があってな……
優華からの要請を受けて、間に合わなかった君たちに助力を申し出ようと思うのだが。」
つまりは自分たちに助けに行け、と言っているのである。
優華からの要請を受けたのは桜姫や舞鼓、そして敵側に寝返っている(この時点ではまだ知られていないが)サラスたちだけではない。世界中の、ありとあらゆる場所にいる友に向かって、優華は助力を願ったのだ。
それは助力の類が違うものもある。
一緒に行って欲しい、ではないものもあるという意味だ。
『戦場に共に向かう』だけが助力ではない。
他の意味での協力だって必要だ。だから彼女は言った。
『力を貸して欲しい』、と。
今回、この場にいる二人の青年は『戦場に共に向かう』という要請を受けたのだが、色々と個人的なゴタゴタがあり時間に間に合わなかったのである。
だが少し心配していたところへ、迎えが来た。
茶色い髪を靡かせ、見事なまでのプロポーションを誇った妖艶な美女の突然の『お出迎え』であった。
美女は開口一番にこう言った。
『ついてきなさい』と。
反論も何も許さない。一瞬で夜の風の中へと連れ去られ、この研究室まで連れて来られたのである。
その女性も、今はこの室内で画面の前に座って何事かを操作している。
「………ほとんど脅しじゃないか。」
溜息をつきながら青年は呆れたように言う。
タナトスの申し出は、助力を願いながらも『もし行かなければ大変なことになる』と暗に言っているのだ。
これで行かなければどうなるのか、と。
願いとは裏腹な、脅し。
しかしタナトスはその反応にも笑みを作るだけでさしたる反応を示さなかった。
それがまた相手の神経を逆撫でるのだが、そんなものはお構いなしだ。
「そう思ってもらって構わない。こちらからも出て行きたいのは山々なのだが………残念ながら、『これ』の解析のほうが先決でな。」
これ、と言われても二人にはピンと来ない。
先ほどから忙しく立ち回っている人々がいるのもわかるが、画面内に映し出されている内容はほとんどが意味のわからないものであったからだ。
タナトスの表情に暗いものが宿る。
どことなく侮蔑を含んだような解さない色合いが瞳に浮かび上がり、漆黒が揺らぐ。
「思っていたよりも、とんでもない相手だったようだ。」
それは意味をなさない呟きでもあった。
同時に、誰かに向かって放たれたようなものでもある。
だが、次の瞬間に瞼を伏せることでそれを消し、タナトスは二人に向き直る。
「あまり派手に動くわけにはいかない。もしそうなれば、あちら側に有利なものを渡すことにもなるのでな。」
まだ証拠が出そろっていない。
そう思い、タナトスは静かに心の内で舌打ちをした。
優華からの通信が途絶え、怪しいとされる情報が手持ちにあっても解析を終えていない。
相手は強大だ。
社会的に様々な方面に有利な『脈』がある相手は厄介なものだ。
同時に、
この解析が優先されると思うのも事実だった。
おそらく、これが今回のキーポイントと成りうるものでもあるのだから。
「やってくれるか?」
問いかけ、返答を待つ。
青年たちはどちらもすぐに動いた。
「ああ、仕方ない。」
片方は半ば諦めたような表情のまま了承の意志をタナトスに向かって告げる。
「もっちろん、行く!」
もう片方が任せろ、と言いたげに胸を張って答えた。
そして二人はそのまま別の人物の案内を受けて、そこから移動する。
準備があるのだろう。タナトスもそれを見送っていた。
やがて室内にはタナトス一人となり、硝子を隔てた外で動き回る<チーム>の面々とも完全に隔絶された空間が広がる。
忙しく立ち回るその様子を見ながら、静かにタナトスが口元をつり上げる。
意味を解さない笑みであった。
二人の青年に向かって軽く敬意を払いながらも、タナトスは心の内で思惑を巡らせている。
今回の事件は、思っていたよりも厄介な代物だった。
だが、
『必要以上』の手助けは、タナトスはするつもりはさらさらなかった。
「『協力者』もいるのだから、最悪のことは起こらないだろう。
あいつもそろそろ、人を『使う』ことに慣れたほうがいいはずだしな。」
外道である。
鬼畜生でもあった。
外面では脅すようなことを言いながら、頭の中でタナトスは既に今回の『事件』に対してのレベルを見極めていたのだ。
それは長年培われた経験の勘とも言える。
そう、今回のレベルは、自分が直接手を貸すにはまだ『低い』。
これは彼らが、ひいてはそこにいる『弟子』が解決するべきレベルの代物なのである。
「………まあ、死なない程度には手助けはするがな。」
聞こえていないことを承知で、恐ろしい一言を口から零す。
今回の事件も、タナトスは『試験』にするつもりなのだ。
成長するためのもの。
成長を促すための体のいい餌でもある。
壁にぶち当たれ、とタナトスは思った。
今の危機的な状況は、まだ序の口なのだ。
まだ楽しくない。
死の神たる『タナトス』にとって、今回の事件はまだ欠伸の出るような程度であるしかない。
「今回はお前にとっても良いレベルだろう。丁度良い。これを乗り越えてみせろ。」
危機を乗り越え、成長しろ、と。
無責任なことを思い、企み、そしてタナトスはそれを実行することにした。
そこにある『弟子』たちの出来事すべてを許容して、それでも尚、自分たちでどうにかしろと。
「さあ、楽しい楽しい、悪巧みの時間だ。」
邪悪極まりない笑みを浮かべて、タナトスは椅子から立ち上がる。
青年達に聞こえないように呟きながら、凶悪な思惑を胸に秘めて一歩を進める。
けれど、忘れてはいない。
彼にとって弟子達は勿論、大切な預かり物であるのだ。
そして同時に、『信じて』もいる。
けして口にはしないが、かつての師と同じく(思い切り嫌な顔をするだろうが)彼らの力を信頼しているのだ。
だから手助けはする。
タナトスがするべきすべての事柄を、完全に完璧に、仕上げてみせる。
必要なことを全て、だ。
そのために彼は動く。
自分のしたことが失敗へと繋がらないために、誰も欠けないために。
反吐が出るような矛盾を抱えて、師は弟子を思った。
それから同じく……いや、また時間は変わり。
優華はたゆたう水のなかに在った。
ビルの一階部分に作られた巨大な噴水の広場。
水が溢れんばかりに彫刻の口から流れ出す夜のなかにあって、彼女は目を閉じたまま四肢を投げ出している。
ただ胸は薄く上下を続けていて、それが彼女が生きているという証でもあった。
目覚める気配はない。
しかし地上23階から落下したというのに、その体に衝撃の傷跡はない。
切り裂かれた傷口からの出血だけが、水を薄い赤色に変えてしまっていた。
月明かりの下。
だが、それとは逆に魔力が動き、影が作り出される。
のっそりと大きくなり、自分に近づいてくるそれにも優華は気付くことはなかった。
静かに呼吸を繰り返している。
静かに、
だが、確かに。
柊優華は、生きていた。
<08に、続く>