遠く、遠く、聞こえるのは水の音。
  落ちていく滴の一つ一つ。
  それが伝い落ちる涙のように、一滴の水。目から溢れ、こぼれ落ちる思いの証。

  ぽつん、と遠くに鳴る音。

  喧噪の中では消え去ってしまうほど小さな音だ。
  静寂の中だからこそ、聞こえる音。

  耳を傾けなければ忘れてしまいそうになるそんなもの。

  水は、彼女が生まれた時から共にあるものだった。

  生まれ故郷は海の村。
  寄せては返す波の音と、水の音で育っていたからだ。
  そして彼女の身のうちに宿る『力』もまた、水のもの。

  聞こえてくる水音によって覚醒へと導かれ、舞鼓はゆっくりと瞼を開けていった。

  視界は狭い。
  音は反響によって鼓膜を揺さぶるものの、ぼんやりとした頭ではそれを確認することも出来ない。

  薄暗いコンクリートの感触。
  足下の肌の部分から感じる冷えた固いそれは体温を奪っていくかのようだった。
  身を包む空気も肌寒さを感じ、光は弱い。

  頭上にある小さな光源のみで照らされている室内。

  ボイラーと思しき機械たちは静かな鳴動を繰り返している。
  水音だけでなく、鳴動もあっただろう。巨大な施設に物質を供給するための施設のひとつなのだろうが、このビル自体がまだ本格的な活動をしていないこともあって、鳴動は微かで静かなものだ。

  やがて視界はゆっくりと開けていき、意識もまた澄み渡っていく。

  舞鼓は顔を上げ、体を緩慢に動かした。
  かしゃり、と金属音が響く。
  見れば、片手が鎖に繋がれている。それは壁から直接伸びているもので、舞鼓の力ではまず解けないものであった。

 「………ここ、は……」

  肺に空気を送り込み、ようやく声を絞り出す。
  呟きは空気に解けて消えていくが、それでも声を出せば脳内のシナプスは繋がっていった。

  蘇るのは、意識を失う前のことだ。
  セシルと桜姫の姿。
  舞鼓は一番後ろから二人の姿を見ていた。
  これからどうするべきか話し合ったこと。
  セシルが廊下の先の安全を確認したこと。

  そうして、セシルが『息を吐いた』のとほぼ同時に。

  舞鼓は、後ろから呑み込まれたのである。
  まったくの語弊はない。本当に、闇の手に包まれるかのように視界がいきなりブラックアウトしたのだ。

  意識はあった。
  ただし、闇に瞬時に呑み込まれていく記憶は思い出していて気持ちの良いものではない。

  顔をしかめて、舞鼓は不意にその時に何か懐かしい匂いがした気がしたのを思い出した。

  懐かしい匂い。
  塩の。
  そう、潮の香り。
  
  寄せては返す、海に近いこともあって風に乗って流れてくる香り。

  故郷の、

 「ひーさま。」

  故郷の、『匂い』だ。
  そう思い当たった時に、タイミング良く舞鼓は名前を呼ばれて反射的に振り返った。

  反射的にではあったものの、舞鼓は耳をたどったその声を知っている。
  知っていて、そして瞬時にそれが誰かを思い当たった。

  思い当たると同時に、何故、という思いと、やはりという感情が交錯する。

 「ひーさま。」

  そうだ。
  サラスが現れたのであれば、『あのこ』がここにいないという確証もなかった。

  舞鼓は目の内に移る姿に微かに瞠目する。

 「…………あなたは…」

  名前を呼ぶ、その声は何一つとして変わらない。
  何も、いつものように、いつもと同じく、自分に対する尊敬と愛情の心を込めて囁かれている。

  ただ、姿が違う。

  懐かしい英国に居た頃の日溜まりのような雰囲気など、根こそぎにされている。
  あるのはただ闇にとけ込むような闇色の空気だけだ。

  ぱちり、と彼女が持っていた鉄扇が閉じられる。

 「…ゆゆ…」

  だから舞鼓はその名を口にした。
  夢見るような(ただし、それは悪夢なのだけど)声で名を呼べば、ゆゆは嬉しそうに微笑んだ。
  本当に、嬉しそうに微笑んでいる。

  それが、背筋を凍りつかせるような感覚を連れてくるなど、舞鼓は夢にも思わなかった。

  ただ、震えそうな体を押さえつけるので精一杯だったからだ。











  scene06 <哀鴻遍野> 
−目眩がするような裏切りを贈る−












  思えば、舞鼓はゆゆの『違和感』に気付いていた節があった。

  優華の『手助け』をすると決めたその日のうちに、ゆゆもまた『お暇』をくれるように、と舞鼓に申し出ていたのだ。
  彼女もまた優華の手伝いをするのかと思っていたがそうではないという。
  ゆゆにも願ったが断られてしまったのだと、優華は言っていた(もっとも、ゆゆを積極的に参加はさせたくなかったらしい。ただ、舞鼓のことを心配するのでは、とそれとなく誘ってみたのだと)。

  お暇の理由については母親のほうの体調が思わしくないための看病によるものだとも。
  そう、ここのところゆゆの母親の姿を見かけていなかったのだが、体調不良に寄るものとは聞いていたので、舞鼓もゆゆの申し出を受け入れた。

  だが、なんとなく。
  なんとなく、ゆゆの『言葉』に違和感を感じたのだ。

  直感的なものとも言って良い。
  確証はなかったが、いつもと違う。そう、何かが違う。

  だが、その時はその思いを打ち消していた。何か事情があるのだろう、と舞鼓は思ったからだ。

  その事情がこのためだというのなら、なんて皮肉なのだろう。
  舞鼓は微かに目を伏せ、それからもう一度顔を上げた。

 「……どうして。」

  浮かぶのは、ただ疑問ばかりだ。
  どうしてこんなことをしているのか、舞鼓には想像も出来ない。
  だが、自分は『捕らえられた』のだという直感があって、そして片手に繋がった鎖もまたその答えとなっているのだ。

  分断されたのだ。
  ゆゆの言葉はない。だが、それだけは舞鼓にだってわかった。

  サラスも『あちら側』にいるのだから、ゆゆもまた、そうなのだろう。

  それはよくわかった。
  長年側に置いているからこそ、わかってしまった。
  気配だとか、空気だとか、そんなことは舞鼓にはわからない。

  『敵』としての気配を察知できるルビーたちとは違うのだ。しかし、ゆゆに関して言えば、舞鼓にとって近しい者であるならばそれくらいはわかる。

  だから舞鼓はどうして、と思った。
  いったい何があって、自分たちの敵へとまわったのかと舞鼓は疑問を口にした。

  ゆゆからの答えはない。
  だが、舞鼓の言葉に耳を傾けている。その瞳に、狂気や自失といったものは見られなかった。

  いつもと同じ黒い瞳。
  丸い、子犬のような瞳が。しかし、それが今やガラス玉のような感情の篭もらない色で、舞鼓を見返している。

  ぞくりとするような、温度差だ。

  普段のゆゆを知っているものならば、今の彼女の姿に衝撃を受けるだろう。
  舞鼓もまた、そうだった。
  (だが、不思議と心は冷たいままだ。)
  (疑問はあるが、さざ波さえ起こらない。小さなさざめきさえもない、静かな心内。)
  
 「どうして、こんなことを。」

  もう一度、答えて欲しいという願いを込めて舞鼓は口を開く。
  目の前のゆゆに向かって悲しげに、切なげに言葉を続ける。

  だがゆゆの表情は変わらない。
  何を思っているのかさえ掴めないような、風のない水面のような、そんな表情を浮かばせているだけだった。

  ゆゆは黒い瞳で舞鼓を見つめている。

  感情のない瞳は、舞鼓が今まで見たこともないような薄ら寒いものだった。

 「あなたが、なぜ?」

  それでも舞鼓は再度問いかける。
  体を動かそうとして、かしゃり、と自身に繋がれた鎖が音を立てた。

  鎖は外れることはない。鋼鉄のそれは、舞鼓の非力な腕では壊せるような代物ではなかった。
  それと同時に、それがゆゆと舞鼓を分ける一筋のもののようだとも、思える。

  だがその音を耳にした瞬間、ゆゆが微かに眉根を寄せる。

  瞳に、感情の色がうっすらと戻っていった。
  一文字に結ばれていた小さな薄い唇が、開き、上下する。

 「…ひーさまのためだよ。」

  言葉が。
  かすかな声が空間に響いた。
  それは懐かしい(でもほんの数日前に聞いたばかりの、そして昔から知っている)彼女のもの。

  ゆゆは何一つとして変わっていなかった。

  『変わって』などいないのだ。
  いつも通り、いつもの姿で、舞鼓の前に立っている。

  舞鼓が顔を顰めた。違う、と小さな声でゆゆに告げる。
  しかしゆゆは首を傾げて、不思議そうに目を瞬かせた。そしてもう一度、

 「これはみんな、ひーさまのためなんだよ。」

  何の迷いもなく、言い切った。
  疑いもない。何一つとして、そんなものが存在していないと言わんばかりの声。

  舞鼓は、冷水を浴びせかけられるかのような衝撃に襲われた。

  ゆゆは、何一つとして変わっていない。
  狂気も、ない。
  憎しみも、悲しみも、怒りも、そんなものはまったくといっていいほどなかった。

  それは純粋なまでの『真摯』さ。

  ……それが、ただひたすらに突き進む狂気と同じ色合いを持つことを、舞鼓は知った。
  思い知らされた。
  他ならぬ、ゆゆの姿によって。

 「私は、こんなこと望んでいません。」

  それでも挫けるわけにはいかない、と舞鼓は改めて言葉を紡ぐ。
  強い意志を称えた瞳が、ゆゆを見つめている。

  ゆゆは動かない。
  舞鼓は動いた。
  何とかして自分の意志を伝えようと、自由にならない体を動かす。

  鎖を動かし、ゆゆのほうへと舞鼓は近づいていく。

  しかし、繋がれた枷はゆゆからほんの数歩先のところで、舞鼓の行く手を阻んだ。
  がちゃり、と、白い肌に鎖が食い込んでいく。
  それでも舞鼓はさらに動こうと藻掻く。

  白い肌に傷がつき、血が流れ出しても、構いはしなかった。

 「ゆゆ…お願い、もうこんなことは、」
 
  やめて、と。
  そう、言いたかった。
  舞鼓は願いを込めて言葉を紡ごうとする。

  しかしそれは適わなかった。
  それよりも早くゆゆは首を横に振ったからだ。それは実に簡潔な『拒絶』でもある。

  舞鼓の瞳に強い意志があるように、ゆゆの瞳にもまた迷いなく強い光が宿っている。
  けして自分の意志を曲げよようとしない、闇色のそれがある。

 「だって、ひーさまのためだもん。」

  そんな、ことばかり言う。
  何が自分のためだと言うのだろう。ここに連れ去り、鎖に繋いで、彼らから分断して。

  いったい、どれが自分のためだと。

  舞鼓はかすかに目眩を感じた。
  哀しそうに目を伏せ、だがこのままではいけない、と必死に訴えかける。

  もしもこのまま自分が挫けてしまえば、ゆゆは何をするのかわからない。
  自分のためだということ、それを実行するために向けられるもの。

  主人為、舞鼓のために、いったい何をするのだと。
  (そしてそれは、舞鼓がきっと望まないはずのものであるということ)

 「ゆゆ、私は違うの。」
 「大丈夫。」

  なんとか彼女に伝えようと舞鼓は必死に言葉を探した。
  何度も心の中で浮かんでは消える言葉で告げようとする。

  望んでいないのだ。
  ゆゆが『あちら側』にいることも、これから彼女がしようとしていることも。
  しようとしていることが何かはわからないが、それはきっと哀しいことしか連れては来ないはずなのだ。

  それを伝えなければいけない。
  しかし、ゆゆには、

 「大丈夫。全部、私が片付けるから。」

  ゆゆに、届かない。
  まるで薄い硝子の板を隔てたかのように、彼女に届かない。

  ゆゆは微笑んでいる。
  何の迷いもなく、舞鼓を安心させるために優しい口調で、告げる。
  それは舞鼓に絶望しか連れて来ないとしても、けして止めることはない。

 「ひーさまはそこで待ってて。私がみんな、全部片付けてきますから。」

  嬉しそうに、宝物のようにゆゆは舞鼓を呼ぶ。
  ひーさま、と。

  その声にはいつもの音を連れてきているというのに、世界と同じように舞鼓には冷たいものしか与えてはくれない。

  ゆゆには舞鼓の願いは届かない。
  いや、あえてゆゆは聞かないのかもしれない。

  それは、『舞鼓のほうが間違ったことをしている』のだという、ことなのだとも感じられた。
  しかし舞鼓はそれを認めるわけにはいかない。
  舞鼓のしたことが間違いで、ゆゆがいる『あちら側』のほうが正しいというのであるのなら、

  (すべては、どこから始まったのか)

  堕ちていった優華の姿が脳裏を掠める。
  あれが『正しい』ことなのだと、どうして言える?

 「ゆゆがすることは、みんなひーさまのためです。」

  届かない。
  交わらない。
  何かが、邪魔をしているかのようだ。

  そう何かが邪魔をしているような。

  何かが、 あるのだ。

  やがて言葉もなく、ほぼ同時に舞鼓とゆゆは互いを呼んだ。
  声は小さく、さやけく消えてしまいそうなほどだった。

  近づくことのない距離が、まるで二人を分ける絶対的なものの象徴のようだ。
  
  舞鼓はそう思い、哀しげに顔を歪める。
  伸ばそうとしていた手が床にことり、と落ちた。




  どうしてこんなに遠いのだろう。
  いつの間に、遠くなってしまったのだろう。



  疑問に答えはなく、心の内の声は虚しく消えていくばかりだった。













  

  同時刻。
  荒い息をつき、肩を上下させながらアルセウムはその場に座り込んでいた。
  床に直に座り、壁に背を預けて音を立てて肺に空気をため込んでいる。

  数十分ほどがむしゃらに走り回っていたのだ。
  『敵』から逃れるためであり、場所を変えていったのもその目を欺くためもあった。
  実際、敵らしい気配はない。そういう類を察知できないアルセウムでも、静寂を保ったままの室内にも部屋の外にもそれらしいものを感じ取ることはない。

  大きく息を吐いて、急速に空気を求め続ける肺を落ち着かせる。
  そうして、ようやくちらりと視線をあげた。

  視線の先にいるのは、黄金の髪の少女。
  ぼんやりとしたままで座り込んでいるルビーの姿。

 「…………おい。」

  なんとなく声をかけづらくて、この室内に飛び込んできてからは一言も会話を交わしていない。
  どんな言葉をかけていいのか、わからなかったということもある。

  ルビーの焦点は定まらないまま、虚空をただ見つめている。

  魂の抜け落ちたようなそれが、人形の硝子の目を思い起こさせて酷く気分が悪い。

 「……ルビー、おい。」

  呼吸を整え、何を話していいのかもわからなかったがアルセウムはとにかくルビーを呼んだ。
  しかしルビーの反応はない。

  虚空を見つめ続ける視線に力はない。存在さえもしていない。

  苛立ったようにアルセウムが思わず舌打ちをする。
  やばい、と。
  この症状には覚えがあった。本当の意味での『やばい』と感じること。

  心が、折れているのだ。

  人が動くのは所詮は人の心がすべて。
  立ち上がることが出来るのは人の心の強さならば、折られるのは心の弱さ。

  血を吐くような光景が蘇る。

  心を折られた光景が、脳裏を掠めて、ダブる。

 「ルビー。」

  そんな苛立ちを抑え込み、アルセウムは再度名前を呼ぶ。
  そこでぴくり、と動きがあった。

  ルビーの瞳が動いた。同時に、指先がそっと持ち上がっていく。

  反応があるうちはまだ立て直しがきくだろう。そう思い、アルセウムはホッと息を吐いた。
  だが、それは違う。
  『反応』があったとしても、それはアルセウムの声に応えたわけではない。

 「……? どうした…」

  ルビーの様子がおかしいことに気づき、アルセウムが訝しげに声をかけた。
  しかし彼女は応えることなく指先を動かし、かちり、とイヤホンの電源をオンにする。

  独特のノイズ音と同時に、他の音源のすべてに繋がる。

  混濁した音だ。
  何か別の声が聞こえてくる。耳が痛くなるような静寂や、剣戟の音もした。
  舞鼓たちのものと繋がったのだろう。そういえば、離れてから連絡を取り合っていなかったことを、今更ながらにアルセウムは思い出した。

  ルビーは震える唇を動かして、声帯を動かす。
  息の漏れるような声で、小さく誰かを呼んだ。

  空気に溶けて消えてしまいそうな声。

  側にいるアルセウムにも聞こえてこない。そのくらいの小さな、囁くような声だ。
  空白のような、けれど誰かの名を呼んでいることだけはわかった。

  無線のその先で、それぞれの声が応える。

  『どうしました?』
  『どうしたんだい…?』
  『どしたの、何かあったの?』

  三人ともどうやら無事らしい(今のところは、だが)。
  それぞれの背後から聞こえてくる音が違うのが気にかかるが、それでも声がするということは生きている証拠でもある。

  心配そうな声で、ルビーの小さな声なき声を聞き取ったのだろう。疑問を投げかけてくる声がする。

 「………か……」

  だがルビーの反応は鈍い。
  唇が何度も動く。しかし、そのどれもが声として成立しないのではないだろうか、と思うほどに小さなものだった。

  アルセウムが訝しげに眉を寄せて、ゆっくりと体を起こす。

  ルビーの側へと近づいて、彼女のすぐ横へと腰を下ろそうとした。

  その時になって、はじめてルビーの声のすべてを聞き取ることが出来た。

 「…………ゆか。」

  小さな声は、消えてしまった『彼女』を呼ぶものだった。
  
  気づき、アルセウムの背筋に戦慄にも似た衝撃が走る。
  違う。
  ルビーは、アルセウムの声など聞いていなかった。

  一欠片でさえ聞いていなかったのである。

  そのことに気づき、アルセウムの心に再び暗転としたものが過ぎる。

 「…ゆか…」

  無線の先の声は、相変わらずどうしたのかと心配そうな舞鼓たちの声がする。
  そのどれもが、返答のない相手を気遣うような優しさがあった。

  (どんな状況にあるかは、まだわかっていない)
  (それでも、気遣いは優しいものであった)

 「ゆか……ゆか…」

  徐々にルビーの声がはっきりとしたものになってくる。
  同時に、瞳にありありとした黒いものが、ゆっくりと浮かび上がっているのが見て取れた。

  目の前で、アルセウムはその変化を見せられた。

  バキバキと、
  音を立てて崩れたそれが、必死で何かを掴もうと藻掻く音。

  瞳に光りはなく、ただ闇色だけが広がっていく。
  そう、まるで浸食されていくかのような、色。

 「ゆか……おねがい、へんじ、して……」

  ガタガタと震え始めている。
  アルセウムは直感的にルビーが一番『脆い』状況にあることに気付いた。

  いや、脆いなどというレベルではない。
  すでに打ち砕かれて、どうしようもない状況にまで陥っていることを知った。







  どうして応えてくれないだろう。

  どうして、応えてくれないのだろう。







  何度も、何度も、ルビーは呼ぶ。
  助けを求めるように、縋るような声で彼女の名前を呼び続けた。

  他のものなど何も見えていない。

  ただ、闇に怯える子供が母親の手を探すように、必死で呼び続けている。








  『彼女』は、ルビーの大切な存在だ。
  昔から、今でも、そしてこれからもそれはきっと変わらない。

  灯火だから。

  深い夜道を照らす洋燈の火。
  優しく待っている手の持ち主。味方であり続けてくれるという、絶対的な信頼とともにあって。
  そう、大切な。

  とても、大切な。

  だから本当は、




  本当は、あの時、優華が目の前から脱落したとき、最もダメージを受けたのはルビーだった。
  信じていると言った。
  きっと生きている。待っていると、言った。

  だが、心のどこかで恐れていたのだ。

  優華がいなくなってしまうことに。
  いつかの時とは違う。目の前で、本当に目の前で、見せつけられた。
  『いなくなって』しまうことを、思い知らされていた。

  助けたいとも思う。
  助けるのだという、決意もあった。希望も、胸にはあった。

  しかし、その希望は打ち砕かれた。

  信じるということを教えてくれた『彼』によって、無惨にも、打ち砕かれてしまった。
  
  信じても届かないことがあるのだと、そう、思い知られる。
  心のヒビも穿たれた穴も、何もかも、血を吹き出して止まらない。




 「………ゆかぁ…!!」

  だが、ルビーの悲痛な声にも応えるべき声はない。
  他のものは聞こえなかった。
  (聞く余裕が、すでにないのだ。それだけを求めて、必死で、他の何かに対するものが抜け落ちてしまっているから)

  聞こえない。

  それは、縋る手を払いのけられたようなそんなものをもたらしている。
  (その時、ルビーの脳裏で始めて、)
  (血で真っ赤に染まる優華の姿が、写った)

  (それは考えるまいとしていた光景。しかし想像してしまったら、もうお終いだった)

  (体は上空からの衝撃に耐えきらず、落下した激突の力によって潰され、ぐしゃぐしゃになっている)
  (どこもかしこも折れ曲がっていて、内蔵がはじき出され、頭蓋が割れて脳髄が飛び出している)

  (そして、月の下に立つ朔良の姿)

  (銃口を向ける、姿が)
  (銃声とともに)

  (その二つが、交錯する)

  ルビーの中で、何かが、ふつりと音を立てて切れた。





  ふつり、と。

  瞬間、アルセウムが咄嗟に事態の異常を察知し、ルビーへと手を伸ばそうとした。
  だが、その手に意味はなかった。





 「あ……あっ……あぁっ………ッア!!」

  瞬間、ルビーの喉からわき上がったのは獣の雄叫びのような、身を切り裂かれるような絶叫だった。

 「                         !!!!」

  その声は、いや、もう声などと呼べる代物ではないそれは。

 「                        !!!!!!!!!」

  とても人の体から引き出されるとは思えない。獣の咆哮か、断末魔か、あるいは魂を直接引き抜かれ、背筋から叩き割られたらこんな声が出るのかもしれない。そんな、不気味なまでの『音』だった。

  目の前で聞いているアルセウムだけではない。音声だけで聞いている舞鼓たちもまた、息を呑む。

  身を凍らせるような、絶叫が響いている。

  人間のどこからこんな音が出せるのだろうか。
  人間はどうやったら、こんな声が出せるのだろうか。

  いや、そんな疑問はすべて鼓膜を裂くような絶叫が証明している。

  アルセウムは反射的に絶叫するルビーの腕を取った。
  しかし藻掻く力によって弾かれ、ついで襲いかかってきた爪で頬を切り裂かれる。

  つんとした痛みがしたが、構いはしなかった。

  ルビーの体を抱き込み、そのまま口を手で塞ぐ。
  あのまま絶叫しつづけていれば、いつ見つかるかわからなかったし、同時に舌を噛み切るともかぎらない。
  何より、聞きたくなかった。

  腕のなかでルビーは渾身の力で暴れ続け、錯乱している。
  がむしゃらに逃げようと手や足で、アルセウムの体を叩き続け、蹴りつけていた。

  それでもアルセウムは離そうとはしない。

  オンになったままの無線を無理矢理に切り、それからルビーの耳にあるそれももぎ取って放り捨てた。
  甲高い音を立てて落下したそれには目もくれず、アルセウムは癇癪を起こして暴れ続ける子供のようなルビーを抱き留め続ける。

  





  悲鳴はくぐもったままだが、上がり続けていた。
  喉が潰れるのではないかと思うほどの音で、ずっとずっと続いていた。

  ああ、そういえば暴れ続ける子供を宥めるには、こうするのが一番だったな、とアルセウムはぼんやりと思った。

  他のことは考えたくなかった。
  ただ、
  後になってどうにでもすればいいのだと、心のどこかで諦めたように思った。







  ようやく。
  どれほどの時が過ぎたのか、ようやく収まった室内で、ルビーは床の上に仰向けで寝転がっていた。
  瞳からは涙がこぼれ、伝い落ちている。

  いつの間にか泣いていたのかはわからなかったが、ルビーは流した涙を拭おうともしない。

  その横でアルセウムもまた黙り込んだまま座り込んでいた。
  互いに視線を合わせることもなく、違った場所を見続け、考えているかのようだった。

  ルビーは天井を見上げたまま動かない。
  アルセウムも、座り込んだまま一言も口を発しようとしなかった。

  やがて、ルビーが何も言わずにゆっくりと起きあがる。
  その途端、頬にあった涙がパタパタとこぼれ落ちたが、そんなものを気にする様子もなく、上半身を持ち上げてゆっくりと床を這っていった。
  コンクリの上を掌が滑っていく。アルセウムが顔を上げて彼女を見た。

  ルビーは、部屋の隅に落ちていた小太刀を手に取っている。

  それは『蒼』。彼女の剣だ。
  掌で確かめるような握り、ルビーはその刀身を見つめている。

  刀身に曇りはない。

  そして何も、応えない。

 「………いらない……」

  なんて、役立たずな。
  ぽつりと浮かんだその声は、苛立ちを含んでいた。

 「いらない……こんなもの。」

  役立たず。
  役立たず。
  肝心な時に何一つとして守れず、討つこともできず。

  なんて、役立たず。

 「こんなもの、あったって何の役にも立たない!!」

  苛立ち、ルビーはそれを渾身の力で投げ捨てた。
  宙を飛び、がつん、と甲高い音を立てて小太刀は壁に投げつけられ、落ちる。

  その音でさえ不快だと言わんばかりに、ルビーはギリギリと唇に歯を立てた。

 「役立たず!!」

  それは、
  その罵倒は、八つ当たりだ。

  そして、ルビー自身に対する、自傷の言葉でもあった。

 「役立たず!!」

  何度も何度も、罵倒する。
  その声は怒りと侮蔑を含んでいるのに、哀しげで、身を切られるような声だ。








  剣になりたい、と思った。
  剣になれば、すべてを守れると思っていた。

  何かを傷つけて、たとえ望まない何かを切り捨ててしまったとしても、守れるのならそれでもいいと思った。

  でも、守れない。
  何一つとして、大切なものを守れていない。

  この手からはみんなこぼれ落ちていくだけだ。








  望むものはみんな、こぼれ落ちていくばかりだ。









 <07に続く。>