その時、ルビーの脳裏に過ぎっていたのは闇の光景ではなかった。
  今の冬の空気ではない。

  あの、夏の日。

  別離を覚悟した、あの夏の日の記憶。
  夏であるのに、そこは<白い世界>であり、雪が降り続いていた。
  止むことを知らぬ吹雪が、荒れ狂っていたのだ。

  そこに彼が佇んでいる。

  真っ白な景色のなかで、彼だけが異質で、けれど『本当』のようでひどく心に残っているのだ。
  
  あの日、ルビーは救われた。
  だから、知っている。あの日からずっと、心の奥で思っている。

  救ってくれたのがこの人だから、
  突き堕とすのもまた、この人にしか出来ないのだろう、と。

  心のどこかで思っていた。
  
  其れが今、目の前にある。
  始まろうとしている。そのことに、ルビーは体の震えを抑えることが出来ずにいた。
  言葉もなく見つめ合っている。
  けれど、いつも感じている暖かな瞳の光はない。あるのは、深い闇の底のような冷たい色だけだ。

  雪のような、その冷たさが空気に伝染していっている。

  優華が、倒れた。
  分断されている。
  相手側には、ともだちも、いた。

  だから予想できる。
  今、この場にいる彼は、けして自分の味方ではないのだということを。

  理解できて、それでも心のどこかは悲鳴を上げ始めていた。

  悲鳴で耳が掻きむしられてしまいそうになって、ルビーはやりきれない思いで表情を曇らせる。
  
  違う。
  いつもの、彼ではない。
  少なくとも、今、自分の目の前にいる彼は、彼ではない。

  ルビーの望む、ものではない。



  そこまで考えて、悪夢のようだと思った。
  夢なら醒めて欲しいとも思った。そして、これは醒めることなどない現実なのだと自分自身で断じる。

  都合の良い話はない。

  これまでの事象を考えてみても……都合の良い、出来事など起きるはずはない。



  何より、瞳が、空気が、気配が、彼の存在統べてが物語っている。
  統べてで、警告を発している。

  震える唇が、空気をうまく吸い込むことのできない喉が、必死の思いで声を作る。

 「………どうして…」

  聞きたいことは山ほどあった。疑問も、いくらでもあるはずなのに、唇からついて出るのは短い言葉だけだ。
  このときになって、ルビーはセシルの心境を理解した。

  本当の意味で、同じ立場に立たされて、漸く同じ言葉での理解を果たしたのだ。

  朔良の表情は動かない。
  彫像のように精巧な作り物めいた表情のまま、微動だにしない。
  それは、城壁そのもの。
  外なるものを、完全に取り払う意志を固めたもの。

 「……お前なら、わかるだろう。」

  だが、あえて朔良はそこで口を開く。
  唇が動き、赤い舌を覘かせて言葉のひとつひとつを紡いでいった。正確に、的確に、そうして彼女の意志を確実に叩き折るための言葉が選び取られる。

 「俺がどちら側にいるのかくらい、お前なら簡単にわかるだろう?」

  真っ直ぐなままで、歪みさえも退けるその声が室内に響く。
  嘲弄も、笑みも、侮蔑も、何もない。
  ただ真摯に、現実を突きつけるそれは、どんな『音』よりも残酷極まりないものだ。

  ルビーの顔に驚愕と苦渋が同時に浮かび上がる。

  そう、朔良の言うとおり、彼女はすでにわかっている。
  わかっているから、尚、いたい。

  月を横に、二人は対峙する。それは、いつかの邂逅を思い浮かばせるかのようだった。

  月の光が、まるで雪のようだと思う。
  瞼の裏の光は、月の光か、雪の光かわからない。



  


 『即ち、悪魔(サタン)が
  悪魔が己が姿を 光の御使いに装うは珍しきことにあらず』







  


  scene05 <永久暗黒>−それは知るが故の本能。心を引き裂くのは、己の声なのだ。−











  身を引き裂かれるかのような感覚だった。
  けれど同時に、ルビーは頭のどこかで冷静に今の状況を分析してもいた。

  『もののふ』として、彼女が目差すものとして物心ついた頃からずっと鍛えられてきたルビーの感覚の一部が、この状況を的確に捉えるために無意識に動き出しているのだ。
  
  朔良との距離は約50メートル。
  約60歩。走るならばもっと距離を縮めることが出来る。
  手には拳銃。しかも、自動式拳銃。

  自動装填を可能としているもの。名は、デザート・イーグル。<砂漠の鷹>と呼ばれる拳銃だ。
  イスラエルが作り出した世界最高峰の威力を誇るとされている。
  世界が知る威力の高さと、安定性を持った弾道。
  普通の拳銃よりも一回り大きな銃身。

  そこまで考えて(もっとも、ルビーは拳銃などについては詳しくはない。大まかな概要を知っている程度である)、殺傷能力が高いものを持ってきたのだ、と気付いた。
  ならば朔良の足下にいるアルセウムの命が危うい。

  (考えたくはない。それでも、考えなくてはならない)

  アルセウムも場数を踏み越えてきた実力がある。
  その彼が倒れたまま動かないのは、薬でも打たれたか…あるいは、魔法による効果とも言えるだろう。

  ならば、助けなくては。
  (考えたくない。)
  助けに行かなくてはいけない。
  (考えたくない。)

  頭の中で別々の声がせめぎ合っている。
  掻きむしりたいような発作に襲われながらも、ルビーは目を背けるのを良しとはしなかった。

  これ以上、失うわけにはいかないからだ。
  (ならば、戦ってもいいのか?)
  脳裏に過ぎるのは落ちていく少女の姿。
  あんな光景を、もう二度と目の前では見たくはない。この手から、こぼれ落ちることなど許せはしない。

 「………お前なら、わかるでしょ……か。」

  ぽつりと呟きが室内を揺らした。
  消え入りそうなほど小さな声だったが、朔良はそれを聞き漏らすことなくつ、と視線を上げた。

  ルビーは顔を上げる。
  (考えたくなんてないのに。)
  (頭の中では、すでに答えは導き出されてしまっている。)

  今にも泣き出しそうな顔で、それでも、唇を開いた。

 「嘘だって、思いたい……こと、もある、のよっ!!」

  あなたは言葉が少なすぎる、とそう言いたかった。
  けれど、もうそれは止めた。

  自分の一言で決心がついた。いや、自分の考えを認めたのだ。

  歴戦を経て積み重なった『勘』が教えてくれている。直感は、すでに結論へと証明を終えている。
  認めて、そして『覚悟』を。

  覚悟するのだと、断じた。

  ルビーが自分のブーツから素早く一本の小太刀を抜きはなった。
  しゃん、と空気を鳴らす一振りの刃。
  同時に、魔法で作られた『紅』の柄を握り直す。

  一気に脚に力を込め、そのまま床を蹴りつける。甲高い音を立てて室内を駆け抜けていった。
  『紅』を右手に、『蒼』を左手に持ち、構えながら一歩を踏み出し空間を疾駆する。常人ならば気後れしそうなほどのスピードで、開かれた距離を埋めていく。

  しかしその瞳には色濃く迷いがある。

  覚悟する、と決めたところですぐには出来ない。
  出来る相手ではないのだ。そしてその迷いは、剣先を限りなく鈍らせている。

 「アルを……離して!!」

  それでも叫び、距離を詰めて『捕らえられている』アルセウムを取り戻そうと右手の剣を翻した。
  空気を切り裂き、刃が空間を薙いでいく。

  だが、意志の籠もらない剣先が届く相手ではない。

  朔良がすぅ、と目を細めた。それと同時に、瞳に『感情』が浮かび上がる。

  今度こそ表情を打ち消し、完全なる嘲弄と侮蔑と冷酷な光を秘めた瞳がルビーを見ている。
  そして耳元で外された安全装置の音に、床に倒れていたアルセウムがいち早く気づいた。

  気づき、血の気が引いた。
  朔良に迷いなど存在していない。安全装置が外されたということは、ルビーを『撃つ』ということとイコールなのだ。
  痺れた唇を動かす。どうにかして彼女に伝えようとして、魔法を気力で一時的にはね除けた。

 「来るな! こいつはお前をっ!」


 「黙れ。」


  言葉と同時に、引き金が引かれた。ガウゥン、と銃声があたりに響く。
  同時に肉を裂く銃弾の音がなり、アルセウムが低いうめき声を上げる。
  撃ち抜かれたのは、投げ出された足。右足の、ちょうどふくらはぎの部分だった。ドクドクと血が流れ、痛みが脳天を突き上げる。それでも叫び声を上げることはなかった。

  叫ばなかったのは他ならぬルビーのためだ。
  もし自分が叫べば、彼女は今以上に冷静さを失うことになるだろう。これ以上の混乱は、彼女本来の力を潰しかねないものだ。
  既に魔法によって拘束状態となり、足枷となっているのに、これ以上自分が動揺を与えるべきではない。

  それは意地でもあった。
  しかしすでに彼女は、彼女本来の力を出せずにいる。

 「……あいつのためか。」

  そうして小さく銃を持つ男の声が聞こえて、アルセウムは自由にならない体を首だけ動かして相手を見上げた。
  相手は、こちらを見ていない。
  ただ、駆けてくるルビーを見据えている。

 「健気なものだな。」
 「…このっ!」

  怒りでカッとなったアルセウムが続きの言葉を言おうとする。
  だが続きの言葉を紡ぐよりも早く、朔良の体がゆらりと動き、ルビーを牽制するために銃を構えたのが見えた。

  アルセウムの瞳が見開かれた。
  引き金には指がかかったままだ。筋肉の一つが動き、引き金を引く指先がかすかに隆起する。

  よせ、と言葉にはできなかった。

  言葉よりも先に銃声が響いているからだ。

  長く、長く、空間に響き渡る音。
  音と同時にアルセウムが首を巡らせる。
  視線の先でルビーの体が大きく傾いだのが見えた。同時に、太ももに鮮血が溢れているのも見えた。

 「ルビー!」

  叫ぶが、体はまだ動かなかった。
  妙な魔法をかけられたとはいえ同属性のものであるはずのそれは、解くことはおろか構成の糸口さえ見つからない状況でただ魔力があちこちの神経を分断しているとしか察知できない。

  くそ

  網膜のなか、少女の痩躯がゆっくりと地面に落ちていく。
  スチレンの床にドウ、と倒れ込み、持っていた双つの剣のうちの一本である『紅』がその手の内からこぼれ、高い金属音とともに鳴り響いていく。

  くそ、くそ、くそ!

  倒れたルビーは、うめき声さえ上げなかった。
  いや、声ひとつ立てなかったと言ってもいい。無言で、痛みにさえも苦悶の声一つあげない。
  ただ、もう一度体勢を立て直そうと撃ち抜かれた太ももを片手で庇いながら、体を持ち上げていく。

 「ちく、しょぉ!」

  毒づき、ふがいない自分に叱咤しながらアルセウムが体を動かそうと、全身にかかっている魔法を解くために構成を組む。
  青の魔法が走る。しかし、それは自分の体の中にある別の魔法によって片っ端から『排除』されていった。

 「無駄だ。」

  そしてそんなアルセウムの足掻きを察してか、振り返りもせず朔良がそう言う。
  石積みと土と、多種の土製の金属によって作られた強固な壁。

  城壁の、声だ。
  
 「その『縛(ばく)』は易々と解けるようには組んでいない。
  人の伝達系の神経そのものに作用しているんだ。君も医者を目指しているのならそれくらいわかるだろう。」

  そうやってご丁寧に魔法の内容までご高説してくれている。
  言葉の一つ一つが、アルセウムに今の状況を的確にわからせ、無駄な足掻きだと嘲笑うかのようだった。
  そのことに気づいたアルセウムが悔しそうに歯噛みに、さらに自分の指先に力を込める。

  魔力をもう一度走らせる。
  弾かれるならば何度でも。何度でも、何度でも。

  折れない視線が、朔良を射抜いた。

 「うるせぇ! このくらい…すぐに解いて…お前を、ぶちのめしてやる!」
 「出来るものならな。」

  しかし灼熱の怒りの声を軽く返し、朔良はかつり、と足を進めた。そうして床転がっている『紅』を手に取る。
  握り、刀身に帯びた鈍色の光を確かめるようにして眺めた。

  朔良が握っても消え去ることはない。確かな質量が、掌のなかに収まっている。

  そして半身を起こそうとしているルビーのほうへと、そのまま近づいていった。
  その歩は止まることはない。

 「…なに、してる…」

  朔良の足がルビーへと近づいていることに気づいて、アルセウムが唖然として声を上げた。
  だが、それでも足取りが止まることはなかった。

  ルビーが、ようやく顔を上げる。同時に、朔良は彼女のすぐ側で止まった。

 「…あ…」

  間抜けなほどの声だった。
  気の抜けたようなものだった。
  そして信じられないようなものを見るような目だった。

  丸い大きな瞳が、彼の姿を映し込んでいる。
  夜の闇のなかでさえ、なお輝く夕日の紅。夜を知らぬ、夕暮れのごとく。

 「…さ、く…」

  ルビーが名前を呼ぼうとした。
  目の前の男を、その名を、口にしようと無意識に唇が動く。

 「俺を呼ぶな。」

  しかしそれを朔良自身が止めた。
  ルビーの唇が動きを止める。何を言われているのか理解できず、問いかけるような瞳が朔良を見つめていた。

  ゆっくりと持っていた刀身を持ち上げられていく。鈍く光る色は、何かを魅了するかのようなものだった。
  斬るために作られた刀、そのままの光。

 「虫酸が走る。」

  そして、朔良の口に出されたのは、完全なる侮蔑の言葉。
  空気が凍りつくような感覚。
  闇色が、夕暮れさえも巻き込んで、食いつぶしていく。

  アルセウムの心に嫌な予感が過ぎった。
  黒い予感が警告を鳴らしている。このまま、朔良を喋らせてはいけない。

 「やめ」
 「お前なんかが、俺の名を呼ぶな。」
 「やめろ」
 
  それ以上、言うなと。
  殴ってでも止めようとした。止めるべきだと察した。

  ルビーは動かない。否、動けず、何が起こったのか理解できないまま、殴りつけるかのような言葉を聞いている。
  耳を塞げ。
  目を閉じろ。
  言えない。言ったところで、ルビーは反応しないだろう。できない、のだ。

  だから自分が行くべきだとアルセウムは判断した。
  それでも、どうしても体が動かない。焦れば焦るほど、体は動かず、構成も解けない。

 「やめろ、叶!」

  これ以上、そいつを追いつめるな、と。
  これ以上、取り返しのつかないことをするな、と。
  これ以上、

  これ以上、壊すな、と。

  頭の端で、遠い過去の光景が過ぎる。
  それは、血に塗れた記憶だった。無力な腕を思い知らされた、記憶と今の光景がダブる。

 「汚らわしい。」

  だが、思いは届かず、言葉は紡がれ。
  朱い瞳が、一気に絶望の色に染められていくのが、見えた。

  同時に、アルセウムは朔良の持つ刀が振り下ろされるのを見た。

  空気を切り裂く一閃が、ルビーに襲いかかる。

 「………ルビー!!」

  だから叫んだ。
  壊れかけている彼女を動かすために、力の限りで名前を呼んだ。

  びくり、と彼女の体が動く。

  名前に反応してかはどうかわからない。
  だが、反応したのならば、体は咄嗟に動いた。
  閃く一筋を片手で受ける。

  白羽取りの要領だが、それでも片手で受け止めるだけの技量を持っていることに、驚かされた。

  そこでルビーは体を持ち上げた。
  撃ち抜かれた足ではないほうを軸に立ち上がり、そのまま刀身を翻す。
  刃が掌を薙ぎ、切り裂かれていくのさえものともせず、ルビーは体を捻った。

  捻りを入れたまま体を横にし、刀を流す。

  横切るようにするその時に、ルビーの手が朔良の手に触れた。
  すなわち、刀を持つ手とは反対側の手に。
  銃身を握る、その手に指先が触れて、

  そこから先は一瞬だった。

  ひねり上げるようにして銃身を取られ、反動で朔良の手からデザートイーグルが離れる。
  そのまま、ルビーの手の中へと銃が移り、銃身へと彼女の手が収まった。

  朔良が刀身を翻そうとした時、銃口が突きつけられた。
  もし彼が刀をわずかでも動かせば、それよりも早く弾丸が彼を貫く位置だ。

  彼の人の瞳が一瞬動いたのをルビーは見ることが出来なかった。
  叩き込まれた反動をそのままに体を動かしたのだが、心が、頭が、追いついていない。
  心は、ぶちぶちと音を立てて、食いつぶされていくばかりだ。

  息が苦しい。

  空気を吸う、その一呼吸でさえも毒のように身を苛んでいく。
  毒に犯されて、それでもどうにか呼吸を整える。

  今の自分は一人ではない。

  守るべきものがある今、倒れるわけにはいかないのだ。
  その約束だけで、砕けそうな心を支えている。

  ルビーは、今の状況についていけていない。ただ、心に秘めた約束だけで、動いているだけなのだ。
  (しかし、約束はもう一つある。)
  (背中を守る、というあの約束。それを、破ってもいいのか。)

  (刃を、突き立てても)

  それでも、トリガーを引いた指先に力を込めた。
  迷ってでも、それでもまだ残っているもののために。
  
 「……来ないで。」

  喉から絞り出される声が、空気を揺らす。
  片手で構えた銃口の先。姿勢をしっかりと正し、指先を解くことなく見据えている。
  狙いを外すことのないようにしっかりと……ああ、でも見据える必要などない。

  そんなもの無意味なんだだ。

  銃口のすぐ先には、朔良の喉がある
  ルビーは確かめるように銃身を見、安全装置が外れていることを確認する。

  装置は、外れていた。
  先ほどまで朔良自身が撃っていたのだからロックされていることはないだろう、と判断したが、それでも確認を怠るべきではないからだ。

  あとは引き金を引くだけだ。
  そう、引き金さえ引いてしまえばいい。ルビーはそう思って、目眩を感じた。
  剣の時とは訳が違う。一瞬ですべては終わるだろう。

  一瞬で、
  肉を裂き、血管を引きちぎり、腱を破り、皮膚を焼く。
  銃とは、そういうものだ。

  簡単に人を殺せるように、傷つけることが出来るように作られて使われる。
  誰だって殺せるように出来ている。

  誰でも、
  どんな時でも、
  たとえそれが銃の扱いに素人であろうとも、実力の差があったとしても。

  暴力のように、だが拳を痛めることなくその実感さえ湧かせることもなく、実に合理的に相手を黙らせる。

  引き金を引けばいい。
  劔の時とは違う。片手に持つ、『蒼』は未だに震えているが、それでも銃ならば簡単なのだ。

  実感が、湧かない。
  傷つけるという感覚も、そんなもの全部がまるで夢のように、何にもないのだろう。

  引き金を。
  それだけで、自由になれる。
  この悪夢のような時間が、終わる。

  すでに疲弊し、混乱しきっているルビーにとって、それは甘美な誘惑だった。
  (傷つければ、後になって悔いることも、涙することも全部わかっているのに。)
  (それを考慮できないほどに、追い詰められているのだ)

  銃弾が、
  痛みが、
  言葉が、
  侮蔑の瞳が、
  その統べてで、追い詰められていっているのだ。

  (悪夢、なのだ。)
  
 「………」

  (自由に)

  その時、視線の先で彼の人が不敵に笑ったのが見えた。
  嘲笑をたたえ、侮蔑と哀れみの視線を込めてルビーを見ているのもわかる。

  朔良の足が動く。たったの一歩。しかし、迷いもなく放たれたもの。

  ぐっ、と

 「…!!」

  彼の人が、近づく。
  それだけで銃口は彼の喉元へと届いた。

  ルビーが驚きで震えた。震える銃口は、けれど下ろされることはなかった。
  凍りついた瞳が、朔良を見つめる。

  振動が、伝わる。

 「どうした。」

  振動が、
  (鼓動が)

 「どうした……ルビー?」

  息が荒い。
  (もう随分と前からそうだ)
  
  毒が、体を侵し尽くしていく。

  心臓が激しく鼓動を打ち付けているのがわかる。今にも壊れてしまいそうなくらいの早さで、打ち続けている。
  このまま止まってしまうんじゃないか、とルビーは頭の端で思った。

 「その引き金を引けば…」

  銃口から、朔良の声が、

 「お前は、自由だ。」

  振動してくる。




  息も出来ない。
  (なんて、酷い)

  朔良は知っている。
  どうやったらルビーが止められるのか。
  どうしたら、ルビーが傷ついて、絶望して、動かなくなるのかわかっている。

  知っていて、的確にそれをつく。

  何の迷いさえもなく。
  拒絶を、遂行する。

  蝶の羽を子供がもぐのと同じように、ぶつり、ぶつり、と音を立てて。

 「自由に、なりたいと思ったのだろう。」

  そう、と朔良がルビーへと呟く。

 「そのために、俺を消す算段も少しはしたんじゃないのか?」

  今だけではない。
  いつでも、いつかのときも。
  それがどんな時だったのか限定はしていない。

  それさえも、彼女の心を追いつけるためのもの。
  朔良の唇に笑みが浮かぶ。優しくあやすような、冷たいナイフの笑みが。

 「                    」

  空白の一言は、しかし決定打となってルビーの心をもぎ取った。




  そうして、もがれて飛ぶことも、逃げることも、あるいははね除けることも出来ずに、崩れ落とさせるのだ。




  ルビーが目を閉じる。
  閉じた瞼から、堪えきれなかった涙が一筋だけ頬を伝っていった。
  力を失った指先から、拳銃がこぼれ落ちていくのと同時に涙が落ちる。

  閉じた瞼の裏で、朔良が笑ったのがわかる。
  空気の振動で、見えなくたってわかった。

 

 
  (このまま、心ごと食い破られてしまえばいい)

  その時、ルビーの心は、確かに折れた。
  ヒビが入り、そこからバキバキと音をたてて自壊していく。




 「本当に、」

  そこで朔良の顔に暗い笑みが浮かび上がった。
  唇の端を持ち上げ、愚かな子供を見る父親のように……いいや、そんな優しいものなどではない、底冷えするような顔で彼女を見つめている。

  耳が防げない。鼓膜が破れ、沈黙の世界になってしまえばいいとルビーは思った。
  皮膚など焼かれてしまって、何も感じなくなってしまえばいいとも思った。
  目が潰れ、闇の世界へと塗りつぶされてしまえばいいと、そう思った。

  自由なんて、

 「本当に、お前は」

  この人を亡くして手に入る自由なんて、

 「お前は、馬鹿だな。」

  私のなかに存在するわけなんてないのに。
  それなのに。

  ルビーは絶望した。
  朔良に対してだけではない。それだけではなく、一瞬でも過ぎった自分の思いにも『絶望』したのだ。

  自由になりたい、と。
  楽になりたい、と。逃げ出したい、と。
  そのために、

  刃を、
  (そこまで、強くなど出来ていないのに。)
  (迷いなど、人にはあるものだというのに。)
  (なんて、目眩のするような高潔。)



  心は、今、
  完全に折れる。



  折れた魂を見て、朔良は落ちているデザートイーグルを拾った。
  かしゃり、と金属製の音が鳴るがルビーの反応はない。

  何も言わず、銃口がゆっくりとルビーに向けられる。

  そこでルビーがようやく瞼を上げた。
  瞳から、魂の輝きが根こそぎもぎ取られている。
  いつか見た、絶望の色。

  それでも朔良は銃口を下げることはない。

  トリガーに指先をかけ、銃口を彼女の額へと向ける。

 「……いっそ、無様だな。」

  言葉に侮蔑の音が乗る。
  それでもルビーの瞳は動かなかった。ガラス玉のような瞳が、見つめている。

  標本のようだった。

 「もういい。」

  何が、とは言わなかった。

 「俺の前から消えろ。」

  トリガーに力がこもる。
  それでも動かない。このまま、終わることさえ知覚できていないかのようだ。



 「さよなら、だ。」



  銃声が、















  銃声のほんの一瞬前。
  横から抱きすくめられるようにして抱えられて、ルビーはその場から数メートル吹き飛ぶように移動した。

  いや、移動したというより吹き飛ばされる感じにも似たものだ。
  嵐のような速さで移動し、銃声が鳴りやむ時には朔良の姿は離れた位置にあった。

 「………あ、」

  漸く我を取り戻し、しかし未だカタカタと震えているが、焦点の合わない眼差しが抱えた相手を見る。
  同時に、ぽたり、と。

  血が床に落ちた。

  ルビーを抱きすくめた相手のこめかみから、血が流れている。
  頬を伝い、顎に落ちて水滴となってこぼれ落ちていく。

 「……ほう。」

  息をもらすような声を上げて、感心した顔で朔良が感嘆してみせる。
  手元の拳銃は直ぐさま次の銃弾を装填したが、続けて撃つことはなかった。

  ただ、数メートル先にいる『二人』を見据える。

 「早いな。」

  ルビーを抱きかかえたまま、アルセウムは詰めていた息を吐き出した。
  視線は朔良から外すことはなく、灼熱の熱を涼しげな青の色にのせて彼から油断なく視線を逸らさずに見つめている。

  灼熱の感情を向けられながらも、朔良は表情を変えなかった。

 「もう少しかかると思ったんだが。」
 「…うるせぇよ。」

  毒づき、未だに硬直を残す筋肉の悲鳴にアルセウムは無理矢理『黙れ』と頭の中で命じる。
  
  魔法は解いた。
  
  『あの光景』を見せつけられても尚、複雑に編み上げられた魔法の突破口を見つけるために集中していたのだ。
  そして、あの瞬間。
  銃声が鳴り響く前に、かけられた魔法の解く糸口を掴んだ。
  火事場の馬鹿力にも似た、ほんの一瞬の集中でどうにか『縛』たる魔法を解除したのだ。
  それでもまだ架けられた魔法は余力を残しているのか、筋肉の筋という筋が痛む。

 「…ルビー。」

  ぽつりと腕の中にいるルビーに向かって囁く。
  なるべく朔良には聞こえないように、口もあまり開かないようにしての発声だったから聞き取りづらかったのだが、それでも彼女は反応して緩慢に視線を上げる。

  向けられた目に、光がない。
  輝きが、奪い取られている。

 「逃げるぞ。」

  しかし唇を動かし、ほんの少しだけ空気を奮わせて彼女に意を伝える。
  ぴくりとルビーは反応を示し、驚愕の表情でアルセウムを見上げた。

 「…でも…」

  でも、と言いつのって朔良のほうへとルビーが視線を走らせた。

  心を食い破られながらも、まだ迷いを見せている。
  それは、緩慢なただの心の残りのようなものだ。霞のような残像なのかもしれない。

  それが消え去り、空虚なものになるまでの時間が、
  時間があまりにも短すぎる。

  ほんの十分にも満たない間に起こった『今』の出来事は、まるで悪夢のようだ。

  いや、悪夢ならどれだけよかっただろう。
  悪夢などではない。
  夢、などではなく、これは『現実』なのだ。

  醒めることのない、常世、のものだ。

  悪い冗談のようだった。
  ほんの二時間前まで、誰がこんな状況に陥るなどと予想できただろう。

  それでも、現実には対処しなければいけない。

  対処しなければ、

 「いいから…」
 「でも…でも、アル…」
 「…いいから…」

  もう、

 「でも、アル…!!」
 「退くんだよ! そうじゃないと、俺もお前も、ここで止まっちまうぞ!!」

  堪えきれず、アルセウムが声を荒げた。怯えるようにしてルビーの体が震えるが、構ってなどやれる余裕はない。

  何よりもこれ以上、見続けてなどいられない。
  ここに、これ以上居てはいけない。

  いればきっと、

 「……逃がすと思うか?」

  何もかもが、悪いほうへと終わってしまう。
  救いようのない結末へと、ひた走ってしまうのだ。

  アルセウムが静かに唇を歪めてみせる。挑発的な笑みを作り、朔良に向けてみせた。

 「ああ。」
 「甘く見られたものだな。」
 「そうでもないさ。ただ、お前より場数踏んでる自信はあるぜ。」

  銃口が音をたてて突きつけられる。
  その先から距離はあるとは言え、簡単に外れるような距離ではない。
  それを構える朔良の視線に射抜かれながらも、アルセウムはルビーを一気に横抱きにして体勢を立て直す。

  その、あまりの軽さに、
  背筋が凍り付くような思いが過ぎった。

  それでも表情に出すことなく、視線をそのままに口を開く。

 「…俺は狡いヤツなんでね…」
 「それで?」
 「だから、ちょっとくらい小細工しておくのさ。そのくらいしなきゃ、相手は出し抜けないだろ!!」

  そこに来て、アルセウムは一息に魔法を解き放つ。
  朔良と会話していたのはこのためでもある。
  気付かれないように、少しずつ少しずつ、魔法を組み上げていっていたのだ。

  ドンッ、と
  廊下全体が揺れた。
  爆発音にも似たそれは、白い煙を一気に廊下中に巻き散らかせる。

  朔良が一瞬怯んだのを見逃さず、白い霧のなか、アルセウムは床を思い切り蹴り、反対方向へと反転して走り出した。

  そこで抱えたルビーの手が一瞬、何かを掴もうと伸ばされたのが見えた。

 「…………っ」

  声にならない声が何かを紡ぐ。
  悲痛な、それだけがわかる音が、走る中でも確かに聞き取れた。
  それでもアルセウムはそれを無視して、埋め尽くす勢いの白い霧のなかを走る。

  やがて何かを掴もうとした手が、ゆっくりと下げられた。
  力なく下げられ、もう握る余力さえ残っていないかのようだ。

  それも、アルセウムは見なかったことにした。
  見たくも、なかった。







  どこへ行くかもわからない。ただ、アルセウムはがむしゃらに走る。
  廊下を走り、霧のなかに仄かに光る『非常口』のサインを頼りに、階段へと向かった。

  どこへ行くのか、決めていない。
  勝手な行動はこの先自分たちの状況を追いつめるものかもしれなかった。
  イヤホンからは誰の応答もない。こちらも、オンにはしていないから聞こえないだろう。

  どんな状況になっているのか、さっぱり掴めなかった。
  それは、敗北へと続く布石のひとつだと、アルセウムにだってわかっている。

  けれど、
  けれど、だけど、
  それを抜きにして、もう、あの場から早く、

  1秒でも、早く、

 「……………」

  言葉が、見つからない。
  ただ、抱き上げた体は背筋を凍らせるほど、軽かった。

  学院に居た頃も、線が細いとは感じていた。
  剣を手にした時の凛とした力強さとのギャップにも、驚いたことさえあった。
  だが、ここまで酷いとは、思いもしなかった。

  いや、
  本来のルビーが、彼女である証の生来の何かが、抜け落ちたからそう感じさせるのかもしれない。

  顔は見えない。

  それでも、瞳が翳りを浮かばせているのだけはよくわかった。
  紅の瞳は涙さえ浮かんでいない。
  涙さえも、凍り付いている。

 「……泣くな。」

  それでも言葉をかける。
  抱き上げて走っているのにもかかわらず、支障にならないほどの軽さ。

 「まだ、泣くな。」

  崩れ落ちそうな、
  涙が決壊してしまったら、そのまま消えてなくなりそうな。

 「泣くなよ!」

  腕のなかでひゅぅ、と空気が空洞を駆け抜けた音がした。
  ああ、
  まるで、がらんどうじゃ、ないか。

  何も入っていない。ただ冷たさだけが残る、がらんどうの体。
  本来入っていたはずの何かでさえ、食い尽くされたような気がした。

 「泣くな!!」

  涙をこぼしたとしても、それを拭い去ることのできるものを持っていない。
  ルビーが望む、その相手はいない。

  この手には、

 「…ちくしょうっ」

  この手では、何も守れやしない。
  かつての小さな、何も救えなかった手と同じく、ただ大きくなっただけで何も出来やしない。
  救う手立てさえも見つからない。

  毒づき、表情を変えていたのだろう。アルセウムには自覚はなかった。しかし、抱き上げられているルビーは気付いた。
  気付いて、そして目を伏せる。
  
  涙は、ない。

  ごめんなさい、

  腕の中のルビーが怯えて、震えながらも言葉を発したのがわかった。
  アルセウムに向かって謝っているのがわかった。

  わかって、そのことが悔しくてたまらなくなった。

 「…ご、め…」

  無言のままで、答えることなくアルセウムは脚を動かし、床を蹴る。
  ただひたすらに、走った。

  逃げるように。

  逃げるために。






  

  霧が晴れたなかで、月光の下、朔良は二人を追うことはなかった。
  その場に立ち、静かに銃を腰のホルダーへと差し込む。

  それから、視線が動いた。

  もう一つの手には刀。
  消えないそれは、かすかな熱を残している。

  かすかに掌に力を込めた。押し返される革張りの感触がする。

  そこで朔良は目を閉じた。
  そのまま天を仰ぐ。表情はなく、感情も浮かばせてはいなかったが、天を仰ぐようにして顔を上へと向けた。
  音はもうない。
  
  やがて唇が無意識に言葉を紡いだ。

  それは、ルビーに囁いた言葉。
  奈落へと突きおとすための、塞いだ傷口を新たに開けるためのもの。

  悪魔の、言葉。
  裏切りへの、足音。

 「                 」

  もう一度、囁く。
  それは誰に向けられるものでもない、無意味な音の羅列。






  哀しい、音だ。







 <06へ続く>