響き渡る悲鳴にも眉一つ動かすことなく、サラスはその一歩を進めた。
  かつり、と人工石の廊下を鳴らす音が響く。

  硬質的なその音は、破壊されてひび割れた隙間からルビーたちの元にも届いた。

  一歩一歩と近づいてくるその足音は止まることなく、着実に距離を縮めている。
  まだ衝撃から立ち直れないメンバーが多いなか、ただその音だけが動いているものの証のようだ。

 「………おい。」

  そんな中、つぅ、と頬を伝う汗を拭うこともせず、アルセウムがようやく声を振り絞る。
  
 「…おい……どうすんだ…」

  それは疑問ではない。
  自分に対する自問のようなものであったし、誰かに確認するためのものでもあった。

  意味の薄い言葉でもあった。
  だから誰も動けない。
  セシルは未だ膝をついたまま立ち直ることも出来ず、他の面々だってそうだ。

  未だ、優華の『脱落』から立ち直れていない。

  無理もない。
  目の前、手の届きそうな、けれどけして届かない絶望的なその先で繰り広げられた光景。
  惨劇。
  血生臭い殺し合いではない。
  そんな、悪夢のような光景ではない。

  夢、などではないのだ。

  現実に起こるもの。
  そうして落下していった優華の姿が、未だに全員を恐慌状態に陥らせているのだ。

  この時点で、優華が『心構えになれば』という願いは果たされなかったことになる。
  彼女自身が招いた『光景』が、今の無防備極まりない状態を作り出してしまっているのだから。

  サラスが何も言わず、コンソールまで近づきそのまま手を近づける。

 『パスワードを要求します』

  機械で作り上げたと思しき電子音声が廊下に響き渡る。
  ぎくりとアルセウムが身をすくめた。同じく、ようやく我に返ったルビーが反射的に身構えた。

  だが、舞鼓やセシル、桜姫は未だに動けない。動ける状態ではなかった。

  そのことがサラスに対してどれほどの『布石』を生み出させるのかさえわからない。だが、ルビーたちにとって圧倒的に不利な状態が今だということは明白だ。

  なんとか動こうとルビーが口を開こうとする。

 『            』

  それと同時に、サラスの唇が『パスワード』を告げた。
  正しい発音で行われた照合。

  アルセウムが咄嗟に舞鼓の腕を取った。
  ルビーも刀を構える。

  だが、刀を向けられるべき相手ではない。(優華を陥れたのに?)
  刀を、向けてはいけない。(サラスが、優華を傷つけた。)
  友達は、手にかけてはいけない。(そんな道理が通用するのか。)

  少なくとも、セシルの目の前ではサラスは切れない。
  (切ってはいけない。切るなど、してはいけないのだ)
  (そしてそれはきっと、優華も望んではいない。)

  ルビーの脳裏でグルグルと思考が回る。
  しかし、その思考は途絶えた。

 『パスワードが違います。正しいパスワードをもう一度要求します。』

  その言葉でかき消されたのだ。

  驚いてルビーが扉越しのサラスを見る。
  サラスもまた、僅かに表情を動かしていた。

 「…………『          』。」
 『パスワードが違います。』

  改めてサラスの唇から漏れた、その言葉でさえ拒否された。
  おかしい。
  サラスは少なくとも『あちら』側の関係者なのだから、ここの正しいパスワードを知っているはずである。

  知らないはずがないのだ。

  その時、サラスの顔に歪みが生まれる。

 「……やはり、ここまできて『あなた』が邪魔をするであるか…!」

  その言葉が弾かれるようにして『我』が取り戻させる。
  ルビーもアルセウムもまた、混乱に陥っていた頭を回復させるのに役立った。

  桜姫がゆっくりと手元にある小型PCを見つめる。

  指先で触れればそれは冷たさしかないはずなのに、どことなく暖かさを持っているようであった。

 「……ひーちゃん。」

  彼女の、ぬくもりだ。
  柊 優華の置きみやげでもあった。

  それはまるでその場で固まってしまっている全員に向けての叱咤のようでもある。

  ルビーの脳裏に振り返る優華の姿が映る。
  怒ったような顔で、急いで。 と言っている。

  そんな、声。

 「優華どの。ここまできて策を弄するか!!」
 「ゆかが、まもって、くれてる…んだ。」

  対照的な言葉。
  けれどそれで決まった。

  ルビーが静かに目を閉じる。
  瞼の裏に見えるのは、堕ちる直前の優華の姿。優華の、『ごめんね』だ。
  動かない指先に力を込めて、血の巡りを取り戻す。
 
  脳裏に優華の姿が映っている。
  こちらを見る『いつも』の彼女の姿。
  空白の声は何を言っているのか伝わることはなかったが、それだけで良い。

  ギュゥ、とようやく握り拳を作れば、それだけで元に戻った。

  顔を上げ、喉に空気を送り込む。
  声を出すために体中の細胞という細胞を奮い立たせて、無理矢理に言葉を絞り出した。

 「…………行こう!」







  scene04 <哀歌葬送> 
−続く裏切りの連鎖。螺旋のように巡り、巡る。−








  ルビーの言葉に驚いたように舞鼓が振り返る。

 「でも…ルビー。」

  まだ迷いを残した声で名前を呼ばれ、ルビーは改めて首を横に振った。

 「ここに、残って……も、意味は、ない…よ。」

  サラスを相手にするわけにはいかない、と彼女は断じた。
  何かを言いたそうにセシルの唇が噛みしめられるのが見て取れる。それでも、ルビーは自分の言葉を曲げることはなかった。

 「ゆか、は……私たち、を…行かせよう、としたわ……」

  そのために自分から相手の策に堕ちたのだ。
  
 「だから、行かなくちゃ……それに、ゆかを…助けに、いかなくちゃ……いけ、ない。」
 「………ここから落ちて、助かると思ってるのか。」

  アルセウムの事実を告げる声。
  事実を言う彼の言葉は胸を抉るようなものであったが、アルセウムもまた冷静に物事を受け止めているのだ。

  その意志の強さに密かに胸の内でルビーは苦笑いをこぼす。
  表情は変わることはない。
  強い意志を秘めたままの瞳で、アルセウムを見つめる。

 「大丈夫。」

  その言葉は、どれほど理想型であるかわかっている。
  大丈夫、などと言える道理はない。

 「ゆかは、生きてるわ。」

  何の証拠も、決定打となるものもない。ただ純粋な『願い』から生まれたもの。
  それでもルビーは信じている。
  いや、知っているのだ。

  優華が、このままで終わるはずがない、と。

 「だから……行かなくちゃ。」

  彼女が、このまま自分たちを『見捨てる』はずがないのだ、と。
  知っている。信じている。心の底から、そう思っている。

  そして優華がその『思い』を裏切るような真似はしない。

  今までもそうだった。そして今も、これからも、そうであろう。

  ルビーの迷いのない言葉にアルセウムが一瞬瞠目する。
  同じく茫然自失としたままであった桜姫に、力を与えた。
  
 「……そうだよね。」

  力を失った四肢に力を込め、桜姫はゆっくりと立ち上がる。
  腕に小型PCを抱えて、その感触を確かめた後に顔を上げた。

 「ひーちゃんが、こんな可愛い子たちを悲しませたままにするわけない。」

  きっといる。
  待っているはずだ。ならば、行かなくてはいけない。

  二人の言葉にアルセウムが渋い顔をするが、それでも大きく息を吐くことでやめた。自分の言葉など、ルビーにも桜姫にも通用しない。意志の強い、自分の願いを込めた人間になど他人の言葉は通用しないものだ。
  同じく舞鼓も不器用ながら苦笑を浮かべた。
  桜姫の言うことに何故だか納得してしまって、そしてその何故など答えは遠の昔に見えてしまっているからだ。

  セシルは何も言わない。

  何も言わないまま、扉越しにサラスを見つめている。
  それでも動き始めた仲間達に呼応してか、ああ、と声を絞り出す。

 「そうだ……それに、『ここ』に居ても…事態は変わらない。」

  むしろ最悪に向かって転げ落ちるだけであろう。
  そう思い、セシルは哀しげに目を細める。

  思いは揃った。

  アルセウムと舞鼓が先に立ち上がって走り出す。桜姫もまた、小型PCを落とさないようにしっかりと胸に抱いて床を蹴った。
  ルビーもまた走りだそうとしたが、一瞥だけをサラスのほうへと向けた。

  …………憎いのか、と自問する。

  何が起こっているのかはまだわからない。
  サラスがどうして『あちら』にいるのかわからない。どうして優華と対決したのか、わからない。

  友達、ではなかったのか。

  優華とも、舞鼓たちとも、自分とも。
  そして、セシルとも。

  セシルとは………恋人同士ではなかったのか、と思いかけて、彼女をこちら側に誘ったのだという事実もあって。

  (この望まれない状況は、こちらが作り出してしまったのかもしれないのだ。)
  (もし先に、サラスがセシルを『あちら』に呼んでいたのだとしたら……少なくとも、セシルはサラスと対峙するなどという状況には陥らなかったはずなのだ。)

 「……セリ。」

  それでも、ずるいと思いながらもルビーは彼女の名を口にした。
  彼女の矮躯がぴくん、と反応を示す。

  しばし空白の時間が流れ、ルビーのほうからセシルの顔を見ることはできないがそれでも、二人が見つめ合っているのはわかる。

  どんな思いでいるのだろうか、と思い、それを打ち消した。
  
  『こちら』にいて欲しいというのは、ルビーの自分勝手な我が儘にすぎない。
  ずるいとわかっていて、それでも名を呼んだのだ。
  
  やがてセシルが踵を返す。
  サラスの視線から遠ざかるように背中を向け、その勢いのまま脚を進めた。
  なんて、重い一歩だ。

 「…行こう。」

  呟き、セシルはそのまま走り出した。一度も振り返ることなく、床を蹴り、サラスとの距離を広げていってしまう。
  ルビーはそっとサラスを見た。
  視線はルビーを通り過ぎている。それでも、唇が小さく言葉を紡いだ。

  その言葉は空気に消えていってしまった。

  それが引き金となってルビーも全員の後を追う。
  月だけがある。
  月を背後に、褐色の青年は無言でそれを見送っていた。

  何もないのが、余計に、辛かった。







  


  廊下を走りながら、ルビーは耳元にあるイヤホンをオンにした。
  ノイズとともに全員の呼吸音が聞こえてくる。走っているせいもあってか、息が上がっている。

 「そのまま、聞いて。」

  すぐ前方を走るセシルに追いつくようにスピードをあげながら、声を出す。
  全員が無言なのは聞いている証拠だと思って、言葉を続けた。

 「固まって…いったら、まずい、わ。最悪、そこで敵に捕まったら…ゆかを、助けに行けない。」
 「分散するんだね。」

  ルビーの言わんとすることを理解してかセシルがそれに補足する。
  誰も見ていないということをわかっていても、ルビーはこくりと頷いていた。

 「ただ、舞鼓と…桜姫は……一人に、しておけない……絶対、駄目。」
 
  離れしたアルセウムや、武術の才があるセシルとルビーはまだ一人でもどうにでも出来る。
  しかし今、攻撃手段を持たない二人はそうは行かない。

  舞鼓が歯がゆそうに表情を曇らせる。
  それを背後を見ることで確認したアルセウムが舌打ちをしつつも、そうだな、と返した。

 「で、どうすんだ? まさかこのまま行くってわけでもないだろ?」
 「うん……私が、ゆかを…助けに、行く、わ。」

  接近戦と多人数を対する戦闘に関して言えば自分が一番適任だろう。そう判断してルビーはその案を出した。
  何より、このメンバーのなかでもスピードがある。
  敵の位置も多少なりと気配で察知できる自分ならば、そう危険に遭遇することはないはずだ。

 「だから……舞鼓たち、は…安全な、場所で…待って、て……」
 「ルビー! でも、それは貴方が危険に…!!」
 「舞鼓。」

  続きの言葉に反論しようとした舞鼓に、ルビーは静かに名を呼んでそれを遮った。
  言葉には静かな決意がある。

 「桜姫が、持ってるのは……ゆか、の『切り札』…よ。だから、守って…お願い。」

  誰にも取られないように。奪われないように。
  守ってほしい、とルビーは『願った』。

  おねがい、と言ったのだ。その言葉は舞鼓に衝撃を与えるのには十分な威力を持っている。同時に、桜姫にも自分が持っているものが重要なものであることも、理解させた。
  
  しばらく沈黙が流れ、上がる呼吸の音だけがイヤホンから流れた。

 「………ずるいですわ、ルビー。」

  やっと悔しそうに舞鼓が声を絞り出して言った。
  ルビーがかすかに苦笑し、ごめん、と返す。

 「ずるい、ずるい……こんな時に、おねがいだなんて……ずるすぎます。」
 「うん。」

  その言葉がどれだけ舞鼓にとって重いものか、ルビーはわかっていない。
  本能で、わかっているのだ。理性ではわかっていない。
  ただ『本能』のみで、その言葉を出している。

  だから、尚更にずるい。

 「ほんと、ずるすぎだよ、ルビーさん。」
 「うん、ごめんね。桜姫。」
 「……しょーがないなぁ。」

  溜息をつくように桜姫が言う。
  イヤホンごしでも苦笑しているのがわかって、かすかにルビーが頭を下げる。

 「ひーちゃん、お願いね?」
 「うん。」
 「絶対、連れて帰って来てね。」
 「うん。」
 「約束しましたよ。」

  最後に舞鼓がようやく言う。
  その言葉にもルビーは答えて、片手に持った刀を握り直した。

  そのままスピードをさらに上げ、先行するセシルに追いつく。
  横に並ぶようにして走るルビーにセシルも視線を流した。

 「お願い、できる?」

  舞鼓たちを守ってやってほしい、と言外に言う。
  未だ表情を曇らせ、そしてもっとも今の状況に混乱しているであろうセシルを残す。
  舞鼓たちを守るという使命が、少しでも早く彼女を奮起させるようにだ。

  迷いはあっても、立ち上がることが出来るのならばそれは、最悪の事態を防ぐ切っ掛けとなる。

  振るわれることのない刃に力はないが、立ち上がることに意味はある。

 「………ああ。」

  セシルもまた肯定の意志で言葉を出した。
  それに満足したようにルビーは前方を向き、さらに足に力を込めて床を蹴った。

 「階段で、下に…向かう…わ。そのまま、舞鼓たちは……途中の階で別れて!」
 「わかった。」
 「了解しましたわ。」
 「いってらっしゃい!」

  セシル、舞鼓、桜姫の了解を受けてルビーは一人、別行動を取るために角を反対側に曲がった。
  そのまま廊下を進み、別のルートで下へ行く。

  そこで、前方に何かがいるのが見えた。
  見覚えのある長身。金髪。
  何より、間違えるはずなどない『気配』。

  ルビーが静かに目を細める。それでも、スピードを緩めることなく『彼』を通り過ぎようとした。
 
  だが、アルセウムはそのままルビーに追走しはじめる。

 「………舞鼓たちは、どうするの!」

  叱咤するようにルビーが言うが、彼はそんなことか、と息を吐く。

 「一人ずつだと危ないっつったのはお前だろ。」
 「それは……!」
 「お前だって十分危ないんだよ。」

  アルセウムはもう反論は許さないというポーズで表情を変えず、走るスピードを緩めることもなかった。
  眉を寄せて苦い顔をするルビーだったが、何を言っても聞かないのがわかってか、仕方ない、と言った感じで通信機に指先で触れた。

 「セリ、ごめん。」
 「大丈夫だよ。こっちは私一人でどうにかする。」

  無線越しに別れたセシルがそう言ってくれるのに、もう一度謝罪の言葉を残して通信を切る。
  そうしてキッと背後を睨んだ。
  その視線を受けても背後の彼は涼しい顔をして、それを受け流していた。

 「頑固者!」
 「あのな、お前だって万能じゃねぇだろ。一人で突っ込んでそれで捕まったらどーすんだ。」

  罵声は正論で返されてしまった。
  ぐぅ、と口ごもるルビーに、アルセウムは唇の端を持ち上げてみせた。

  腹が立つ、と思ったが、それでも心の底で感謝の言葉を継げる。

  ………はっきりと言えば、もしも『あちら』側に自分の知っている人間が来たとしたら、ちゃんと対峙できるかどうか謎だったからだ。
  そして、皮肉なことに少なくともアルセウムがいるなら、思考はまだ保っていられるのである。

 「………………バカアル!」

  それでも認めるのはどうにも腹立たしくてルビーが毒づいた言葉を出す。
  気付けば、混乱は沈静化していた。

  火種は残っていても、頭のどこかで冷静な部分が出来上がっている。
  
  何よりもまずしなくてはいけないことへと、ルビーとアルセウムは向かっていった。







  セシルは後ろから徐々に走る舞鼓と桜姫に追いつき、三人はそのまま階段を下りていっていた。
  敵に対処するためにセシルが先頭を走り、二人がそれに続く形になっている。
  
  スピードは幾分か緩められてしまっているが仕方がない。
  何より、走りながら相手に対処するのは難しいし、何より体力も保たなかった。
  泣き言を言ったりはしなかったが、桜姫も舞鼓も、すでに肩で息をしてしまっている。

  常人の体力でこれ以上スピードを速めるのは自殺行為だ。
  最悪、体が限界を超えて止まってしまう。止まる、とはつまり気絶するということだ。
  そうなってしまっては動こうにも動けなくなってしまう。スピードを緩め、続けて走るほうが距離も稼げるというもの。よって今、セシルはかなり減速して走っていた。

 「……それで、どこに行ったほうがいいんだ?」

  先頭を走りながらもどこに行けば、というところでこのビル内のことをあまりよく知らない(当たり前だが)セシルが疑問を浮かばせる。
  その問いは、同じような境遇の舞鼓と桜姫にも首を捻らせる内容だった。

  隠れるにしても見つかるような場にいてはいけない。
  どこか適切な場所は…、というところでセシルはそれを止めた。

 「仕方ない。ルビーさんたちが戻ってくるまで、私たちは隠れながら場所を変えよう。」

  撹乱作戦に出ることにする。
  そうすれば敵の目をごまかせるし、発見させる恐れも少なくなる。

  少なくとも、休憩しながらでも移動は続けなくてはいけない。
  だが、休憩しなければ舞鼓たちの体力が保たないだろう。
  そう論じて、セシルは階段の先にある廊下を見る。

  背中を壁につけ、その体勢のまま移動した。

  覗き込むようにして先を確認し、ついで気配にも気を張り巡らせる。

 「…………敵は、いないな。」

  空気は妙な静けさを発していた。
  人影もなく、足音や他の音もない。まったくの静寂だった。

  耳が痛くなるような、感覚。

  しかしそこでセシルは、ホッと息を吐き出す。
  その時、セシルはここにきて『気を抜いた』。

  詰めていた息を吐き、全身にみなぎらせていた血をとどめ、一息に吐いてしまった。

  サラスから離れ、ここに来て始めて。
  
  気を抜いて、いた。
  抜いてしまった。

  仕方ないかもしれない。仕方ないのだろう。いつまでも張り詰めておけというのも、残酷な話だ。

  だが、逃れることなどできない。


 「え。」


  その時、耳に落ちたのは舞鼓の声だった。
  気がついてセシルと桜姫が顔を上げる。

  何もない空間を見た。
  今、そこに『舞鼓』がいた空間を見つめていた。

 「まい、こ。」

  もしもここに優華がいるならば、気を抜くな、と忠告していただろう。
  敵は『その瞬間』を狙う。
  気を抜いた瞬間を。ホッと、張ってして気を緩めたそのほんの一瞬を。

  逃すことなどない。
  逃す道理がない。その瞬間こそが、決定打となるのだから。

  相手を陥れるための策の、最高の結果を導き出せる時間。

 「舞鼓、さん…!」

  カタカタと桜姫の体が震え始めている。
  彼女もまた、何が起こったのか理解できたのだろう。

  浚われたのだ。

  セシルがほんの一瞬気を抜いた瞬間に、まるでかの音楽である『魔王』の一説のごとく。
  闇に紛れ、まるでそれを狙いすましたかのように、ぱくりと舞鼓を呑み込んでしまった。

  何の前触れさえなかった。
  ただ、セシルが気を抜くのを待っていたのだ。
  その絶妙なタイミングを、待っていたのだ。

  なんて相手だ。
  なんて、残酷で、残忍で、そして冷静で、冷酷な…………戦術のお手本のような、狡猾さだろう。

 「セリさ……ど、しよ……!!」

  桜姫がついに混乱の極みに達してしまった。
  無理もない。彼女は普通の少女である。こんな、前代未聞の、現実離れした状況についていけるわけがない。
  ここまでパニックにならなかっただけでも、称賛に値する。

 「……桜姫。」

  だから、セシルも覚悟を決めた。
  これは自分の甘さによって招いた結果だ。
  ルビーから「頼む」と言われていたのにも関わらず、それを達成できなかった自分への憤りとも言える。

 「桜姫。逃げて。」

  その言葉に桜姫の網膜が丸くなったのを見て取った。
  淡い色合いの瞳が揺れている。

 「でも、セリっ!」
 「ごめん。多分、今の私じゃ……きみを側において、守りきる自信がない。」

  言って、セシルはゆっくりと掌に魔力を集める。
  静かなそれは形となって、形となる。

 「桜姫。きみは持っているそれは、切り札だ。」
 
  側において守る自信がない。
  それでも、敵と対峙した場合、それを先に行かせないために全力を振るうことはできる。

  舞鼓はさらわれてしまった。それは、自分の失態だ。

  ならば、これ以上失わさせるわけにはいかない。それだけは、絶対に出来ない。

 「これから必要となる。それだけは、奪わせるわけにはいかないんだ。」

  ここから『全員』が脱出するために、必要なことをしなくてはいけない。
  自分でしなくてはいけないことを考え、模索し、実行していかなくては駄目だ。

  ただ闇雲に動いてはいけないのだ。
 
  力だけで押しのけられる相手でないのは明白であったし、きっと『サラス』はそれをさせてはくれないだろう。

 「…………ここで私が出来るだけ食い止める。だから、君は逃げて、逃げて、逃げ切ってくれ。」

  絶対に捕まらないでくれ、と言い含める。
  それが一人となる桜姫にとってどれだけ惨いことを言っているのかもわかっていた。わかって、セシルは言った。

  怖いだろう。怖いに決まっている。

  優華があのような形で『脱落』し、舞鼓も側にいながら消えてしまった。
  ルビーとアルセウムは別行動を取っているが、今、この状況を伝えるわけにはいかない。
  伝えてしまったら、彼女たちに不安材料を与えることになってしまう。

  今は、救出を最優先とするほうが良いのだ。

 「…それで、ルビーたちから連絡が入ったら、君だけでも合流してほしい。」

  そうすれば、危険はまだ退けられる。
  ルビーとアルセウムならば、自分より頼りになるだろうということを言い含めて、セシルはとん、と桜姫の肩を押した。

 「頼んだよ。」

  それは別離の合図だ。
  行け、という意味の無言のもの。
  不安そうな顔の桜姫を無理矢理に引き離し、決断を促すため。

  やがて桜姫も理解したのだろう。踵を返して走り出した。

  自分の無力さに歯噛みをしながらも、桜姫は廊下を走る。
  セシルの元に残っても自分が足手まといにしかならないことを理解したからでもある。
  守りながら戦うには、セシルにとって負担がかかってしまう。

  だから、走る。
  涙を堪え、歯を食いしばって桜姫は廊下を駆けていった。

  託されたものを、守るために。

  桜姫の遠ざかる足音を聞きながら、セシルはゆっくりと目を閉じる。
  掌に集まった魔力は形となって完成し、一振りの日本刀となって彼女の手の内にある。

 「…………ごめん、桜姫。」

  ぽつりと呟いて、セシルは天井を仰ぐ。そのまま瞼を開けて、ヘイゼルの瞳を瞬かせた。
  暗い光でひかるそれをそのままに、セシルは唇を噛んだ。

  手の内にある日本刀の柄に力を込める。

 「どうしてなんだ。」

  疑問が、

 「どうして、こんな酷いことをするんだ。」

  口からついて出た。
  セシルは表情を苦悶に引きつらせて前を向く。

  そこに、居た。

  居ると思った。居るのがわかったから、セシルは叫ぶようにして言葉を上らせたのだ。

 「どうしてなんだ、ラス!!!」

  廊下の先にいたのは、サラスだ。
  おそらく別ルートからここまで来たのだろう。
  そして、セシルが一人になるのがわかって、あえて姿を出したのだ。

  その瞳に動きはない。
  ガラス玉のように動かないそれに、セシルは射抜かれている。

 「答えてくれ!」

  血を吐く思いでセシルが言う。
  だが、サラスは変わらない表情で彼女を見つめている。

  何の変化もない。

  それが、セシルには哀しくて仕方がない。冷たい。冷たい。背筋に氷をあてられるかのような冷たさで、ぞくりと、震える。

 「何も。」

  そこでようやく、サラスが口を開いた。
  声は硬質的で、感情の一切を感じられないものであった。

 「何も、答えなどないであるよ。」

  切り捨てるかのような、無情な言葉がサラスから告げられていく。

 「拙者は何も酷いことなどしていないのであるよ、セシル。」

  告げられ、セシルは泣きたくなった。
  泣きたくなって、だが涙は一粒としてこぼれ落ちることはなかった。

  心のどこかで、彼がそう言うことを予感していたからでもある。

  わかって、しまったからだ。
  予感して、心は既にそれに対する準備をしてしまっていて、涙を流す衝撃を与えてくれなかったからだ。

 「………ラス。」

  それでも、彼は自分のことを『呼んで』くれないことが、辛かった。
  心を切り裂かれるというのはこういうことなのだ、と思う。

  まるで鋭いナイフに心臓を突き刺されるかのような感触。

  いっそ、そうしてくれたらとも思う。
  痛みは感じなくても、その瞬間に、もしかしたら『それ』は同じ痛みをこの体にもたらせるかもしれないから。









  階段をひたすらに降り、廊下を走り抜け、大きな広場へとルビーたちはやって来た。
  おそらく会議場か何かなのだろう。ゆうに100人は入るようなそこは、出口と入り口が直線上に作られている。

  敵に見つかる確率がもっとも高い場所でもあった。
  見通しがきくのは互いの姿を視認するのに最も適した場所でもあるからだ。
  それでも気配はない。気配を探っても、それらしいものは感じられなかった。

  ルビーが密かに眉をひそめる。
  いかにも罠、という感じだ。

  ちらりと後方を振り返り、アルセウムを見る。
  視線に気付いたのだろう。彼もまたルビーに視線の意味を求めるような訝しげな表情をしてみせる。

 「……先、ちょっと…探って、みる。アル、待ってて。」

  先行して危険はないかどうか探ってみようというのだろう。
  その意図を読み取ってアルセウムは渋い顔をした。
  それでも探索行動はルビーのほうが長けていると言っても良い。それをアルセウムもわかっていたので、渋々ながらも何も言わずに首だけを動かした。

  行ってこい、という怠業な仕草。
  それがなんとなくおかしくて、ルビーは表情を緩めた。

 「おとなしく、待っててね?」
 「まて、俺はどこかの子供か。」

  ルビーのからかいを含んだ言葉に複雑そうな顔をするアルセウムを置いて、彼女は姿勢を低くしたまま移動を始める。
  スピードは常よりは落ちるものの、それでも常人よりはよほど熟練した仕草で音を立てずに移動できるのはさすがとも言える。

  ブーツのヒールの音も立てないのも常人には真似できない。

  そう思い、アルセウムはおとなしく出入り口のすぐ側で待つ。
  あたりをゆっくりと見回す。
  部屋の大きな窓から見える景色は、闇だ。

  月がある。それでも、闇が一面に広がり、わずかな月光だけがあたりを照らしていた。

  ルビーもまた、月光の下であたりを注意深く確認しながら、思考を巡らせていた。
  優華のこと。
  離れてしまった舞鼓たちのこと。
  連絡がないのは無事な証拠だということにしておいて、そっと息をつく。

  どうしてこうなってしまったのか、まだわからない。

  サラスがいったい何を考えているのか、ルビーには想像も出来なかった。
  想像する材料もない。
  察する材料が、あまりにも足りない。

  何より、優華のことが心配だった。

  大丈夫だと、思う。
  大丈夫だと思いたい。

  優華は、大切なものを残したまま勝手に行くようなことをしない。
  かつて一度だけ、何も言わずにいなくなってしまったことがあった。それでも、それは回避された。それに、彼女はきちんと『残して』くれていたのだ。

  繋がっている。繋がりは、まだきちんと残っている。

  信じなければいけない。
  信じるということは、とても難しいことだ。裏切るほうがいっそ簡単で、諦めてしまうほうが楽なことだってある。

  それでも信じていれば、繋がるものはある。

  それはかつてルビーが得たものでもある。
  信じて、ちゃんと繋がった証が、彼女を奮い立たせていた。

  そう、証。

  かつて、彼女に『信じる』ということを教えたもの。
  それが彼女を奮い立たせたのであれば、





  彼女を崩れ落とさせるのもまた、同じものであるのだ。





  瞬間。
  ルビーは、体に襲いかかってきた『気配』にぞくりと体を震わせた。
  今まで感じたことのない気配。
  先ほどまでは何もなかった。突然、わき起こったそれに全身が注意信号を発している。

  それはアルセウムも同じであった。

  背後。
  本当にすぐ後ろでわき起こった気配にきづき、弾かれるように振り返る。

  しかし、振り返ろうとしたところで、がくりと体が崩れ落ちた。

 「…な……」

  体が言うことをきかない。
  意志はある。しかし、意志はあっても体が言うことをきかなかった。

  四肢が動かない。筋肉の糸という糸を封じ込められ、神経でさえも縫い止められてしまったかのように、全身が動かない。

  動かない体が、重力で従ってドゥッ、と床に転がった。

 「な、に……」

  かろうじて唇が動く。
  しかし顔を上げることさえままならず、アルセウムは突如として自分の身に降りかかった事態に混乱する。

  心臓がドクドクと音を立てて動いている。
  肺が、空気を求めて急速に上下しているもの、わかった。
  視線だけが上へとのぼっていく。

  『そこにいる』、黒い影をアルセウムはここに来て始めて視認した。

  足から腰へ、黒い服を着込み、闇へととけ込むかのようなそれ。
  右手に持っているのは鈍色の銃身を光らせるデザート・イーグルだった。
  
  やがて胸から顔へと、移動し、アルセウムの瞳が驚愕に見開かれる。

  バカな、と。
  同時に、最悪だと思った。
  本当に最悪だった。少なくとも、ルビーにとって『これ』はとてつもなく最悪の相手でもあった。

  直感的に感じる。

  今、この場にいる人物は敵である、と。
  味方などではない。けして、ただの勘ではあるが、それでもアルセウムはその勘が真実であると悟っている。

  同時に、ルビーが敗北するのだと感じた。

  勝てるはずがない。
  武器を振るう暇もなく、否、武器など『振るえず』に敗北するだろう。

  振り返るな、と。
  振り返るな、逃げろ。
  先を行っているルビーへと胸の内で叫ぶ。

  お前がもしこいつと対峙することになったなら、お前は確実に負けてしまう、と。

  視線を外し、アルセウムはルビーを見た。
  その時、示し合わせたかのようにルビーがこちらへ振り返るのが見える。
  黄金の髪が動きにあわせてひらめき、紅の瞳がこちらを見た。

  そうして、アルセウムはああ、と息を吐くように胸のうちで毒づく。

  さいあく、だ。






  一人、闇のなかの廊下を走る桜姫は、とりとめもなく優華のことを思い出していた。
  コンピューター室での会話。
  潜り込んでいた時に、優華と交わした会話が脳裏を過ぎっていく。

 『ねぇ、ひーちゃん。』
 『はいはい、なんですか?』
 『あのさ、聞きそびれてたんだけど。私たちの他にも誘った人っているの?』

  それはここに忍び込む前に聞こうとしていた話だった。
  聞かれ、優華はうーん、と首を捻る。

 『まあ、誘ったんですけどねー。忙しいみたいで、断られちゃったんですよ。』
 『ふーん……誰誘ったの?』

  桜姫の疑問に、優華は苦笑して答えた。
  私ってば人望がないですから嫌がられたのかもー、と先に言って、口を開いた。

  その名前が、桜姫の心に暗い影を落とす。

 「……ひーちゃん!!」

  その名前のなかに、サラスも入っていたからだ。
  そして、そのほかにもいくつかの名前を出されていて、もしその人達が『あちら』にいるとしたらと思って、桜姫は表情を歪める。

 「…ひーちゃん……違うよね…絶対、違う、よね。」

  自分の考えを打ち消すように呟いて、桜姫はさらに走り続けた。
  腕のなかの小型PCが、ズシリと重くなったような気がした。





  振り返ったそこで、反射的にルビーは刀を構える。
  だが、次の瞬間、自分の目に映った光景に打ちのめされるように驚愕する。

  出入り口で倒れ込んでいるアルセウムがいる。
  同じく、その側で立っている人物がいた。

  黒い服。
  黒い髪。
  その姿を、ルビーが見まごうはずもない。

  間違えることなどけっしてない。だから、尚更、ルビーは何が起こっているのか理解できなかった。

 「……うそ…」

  呆然としながらも唇からこぼれ落ちる言葉は、なんと重みのないものかと思う。

  漆黒の縁に立つ『彼』を、ルビーは誰よりもよく知っていた。
  闇のなか、ゆうらりと浮かぶその形。

  叶 朔良が、そこに立っていた。

  赤茶色の瞳が、この世のものでないかのように輝いている。

  ルビーは知らず、自分の持っている刀の切っ先がぶれていることに気付いた。
  震えているのだ、とわかった。わかったところでどうすることもできなかった。
  頭が理解できなくても、体が反応している。

  顕著なまでに、反応を示していた。
  彼が、『あちら』側にいるということを、本能で察知していたのである。

  




  悪夢は、醒めない。

  悪夢は、まだまだ続く。






  心を食い破るまで、ズタズタに引き裂くまでは。





  終わらない。





 <05 に続く。>