思い出すのは、数ヶ月前に交わされた他愛のない会話。

  日本とインドという遠く離れた大地の上、それでも昨今の機械技術というものはめざましい進歩をし続け通信回線という画期的なものを作り出してくれた。
  その通信回線もまた、日々進化を遂げている。
  人ごと回線にのせてくれないだろうかな、とも思うのだがそれは何十年も先の話となるだろう。

  なので、真夜中(日本では)の煌々と部屋の明かりを照らした中で、優華はサラスと通信回線を楽しんでいた。

  どれくらいの頻度で行われているのかと言えば、討論が激化(泥沼である)すれば一週間に何度も、お互いの都合が悪ければ数ヶ月も連絡しないという感じで、『発行日不明』のような感覚であった。

 「………で、最後の最後でトラップが発動するっていう仕組みなんですよ。」

  相手が慌てふためいている間にデータをクラッシュ。
  ついでに相手のものもクラッシュしてやったら楽しいと思いません? と優華は真面目な顔で聞いた。
  真面目に聞かないでほしい内容であったが、彼女は大まじめだ。
  だから尚更タチが悪い。

  しかしそれを口に出すこともなくサラスは苦笑を浮かべて、彼女の疑問に答えた。

 「そうであるなぁ…やはり、拙者も『師匠』さんと同意見なのであるよ。」
 「むむ、サラたんまで裏切るのですかっ。」
 「裏切るとか、そういう問題ではなく…………リスクが高すぎるのである。」

  現在の技術では特定のデータを破壊するのは勿論のこと、相手のデータを短時間で破壊するのは難しい。
  特に相手のものがどのくらいの容量を有しているのかわからないし、それ相応の対策だって立てているだろう。

  何よりもまず問題なのが。

 「先にこちらのデータが相手の手に渡るというのも、改良の余地があると思うのであるが。」
 「うーん、そうですか……だって、目的のものが手に入ったあとってのが一番油断するでしょう?」
 
  それは人間の心理なのだが、それはそれで手のうちようはある。
  そう思ったが、サラスは言わずにおいて苦笑を浮かべるのみにとどまった。

 「拙者としては、この前の『スレイヤー・キラー』のほうが面白かったのである。」
 「てことは、今回のは及第点ってところなんですね、ちぇー。」

  廃棄かー、あんまりしたくないんだけどなー、と言いながら優華がしょげる。
  そこでサラスが慰めるように、まあまあ、と彼女を宥めた。

 「廃棄することはないと思うのである。プログラム自体は良くできているのであるし、別のものに流用も出来ると思うのである。」
 
  そこで考えてみてはというサラスなりの提案であった。
  優華も渋い顔をしていたが、今回は確かに問題ありのプログラムだったので素直にそれを受け入れる。

  なら別のものをまた考えておこうと頭の中を切り替えることにした。

 「して、柊殿。」
 「はいな。」
 「今回のプログラムは、何という名前なのである?」

  聞かれ、優華は困ったように苦笑を浮かべる。
  あのねぇ、使うのはやめておけって言われてるのにどうして名前なんて聞くんですか、と不満そうな顔をしてみせるが、息を吐いて唇を開く。

  名前ならある。
  キーワードのように、子供のように、彼女は自分のプログラムに名前をつけている。

 「『ネームレス』。」

  名無し、という意味である。

 「……その意味は?」

  別の意味を含めて名付けたのであろうと結論づけての言葉である。

 「それはね……」


  空白の音が互いの空間に響いた。
  優華の唇が音に従って動き、サラスはそれを黙って聞いている。


 「……なるほど。」
 「ね、そのまんまでしょ?」
 「ああ、確かに。どちらかというと洒落が聞いているのである。」

  相手が納得している様子を見て嬉しいのか優華の顔に笑みが浮かんでいる。
  頷きながらサラスも楽しげに笑い返していた。



  思い出すのは、大抵そんなものばかりだ。
  喧嘩などしたことはなかったし(激論は論議であって、喧嘩ではない)、それ相応の手段を用いたことなどもなかった。
  対立するならするで理由があって、それは優華も納得の出来るものであって。

  だけど、どうしてだろう。

  どうして、今、サラスが『あちら側』にいるのか、優華には理解できなかった。
  理解、できるはずもない。



  頭の奥で笑い声が響く。
  あの日の記憶はあんなにも優しい色をしているのに、ここにあるのは闇色が広がるばかり。

  硬質で無機質なガラスが月光に照らされている。








  scene03<墜落微笑> 
−『策士』対『策士』 始まりを告げる音。堕ちていく対価。−








  どうして『そちら側』にいるんです?
  そんな答えのない質問を、優華はしようとはしなかった。

  どんな理由であったとしても聞かせてはくれないだろう。言う、ものでもないだろう。

  『そちら側』か、『あちら側』か、理由など聞いたところで現実には変わりない。
  ただ、目の前の事象を受け入れる。現実として、受け止める。

 「正直に暴露しておきましょうか。」

  赤いフレームを指先でなぞり、内緒話でもするかのように優華がその手を唇へと下ろす。
  しぃ、と音をたてて一つ指をたてた。

 「もしあなたが敵にまわったら……とてつもなく『嫌な敵』になるって、思ってたんですよ。」

  距離はまだ開いている。
  歩いて十歩。武器を持ち出したとしても咄嗟に反撃出来る距離だ。

  それが安全圏。

  相手にとっても、優華にとっても、『話』が出来るギリギリのライン。

 「こちらの手の内も、弱点も知っている。私の弱点のいくつかを露呈してしまっている相手である貴方になら、対抗策はいくらでも打ち立てられてしまいますからね。」

  ほう、と相手が答えた。
  感心しているのか、それともただ答えただけなのか、それは優華の知るところではない。

 「だから、今回だってもしものために『戦える』人物に救援を要請していたんです。」

  それがアルセウムであり、セシルであり、ルビーであった。
  パーティ会場に潜入するためのカモフラージュという意味合いだってあった。
  そのために舞鼓と桜姫だって呼んであるのだ。しかし、真の目的は今、自分で暴露した。

  敵の中枢システムに潜り込む必要があったのだ。確固たる証拠を掴むためには、それが必要不可欠であることは明白だった。

  もしものための、保険。
  『攻撃魔法を一切使用できない』制限つきの優華自身が苦渋の選択で選んだこと。
  そう、もし優華が攻撃魔法を使用できるのであれば、今回のことだって自分一人で事に及んでいた。

  緑の魔法しか使えず、しかも数少ない攻撃手段(魔法)も使えない。
  補助的な魔法に関して言えば、このメンバーの中で最も使えるという自負もあった。しかし、補助魔法は所詮補助でしかない。精神にダメージを与えるにしても、対抗されたり、心が強いものにはそのダメージは弱くなってしまう。
  補助魔法とは、その程度だ。

  そんなものなのだ。

  なんて、笑える話。なんて、お笑いぐさ。

 「……自分だけ安全圏にいるというわけであるか。」
 「まさか。それに、相手方に気付かせずに『潜り込む』ことだって出来ましたからね。ここのセキュリティレベルは、あなたが罠を張ってさえいなければ、てんでお笑いにしかならないくらい甘々ちゃんでしたから。」

  負け惜しみではなく、本当にそう思ったから言った。
  相手方にサラスがいなければ、今回これほどの自分が追い込まれることはなかっただろう。

  だが、実際、追い込められている。

 「…………まったく、もう。」

  追い詰められて、填められて、自分から脱落するような無様な醜態をさらすことになったのだ。

 「『策士』は前に出てはならない。」

  そして今、自分が吐いている言葉は全てイヤホン越しにメンバー全員に届いている。
  言い訳にしか聞こえないようなことを言っているのはわかっている。

  利用してごめんなさい、と優華は心の奥で思った。

  でも、協力してくれたことには本当に感謝している。
  手伝って欲しい、と言ったときに頷いてくれたことは、掛け値なしに嬉しかった。

 「それが『定石』です。前線に出て、もし自滅するようなことがあれば……その時点で、相手の策に填められてしまう可能性が高くなりますしね。」

  だから、出来ない。

  自分だけ助かってそれで仲間たちが罠に填められ、脱落し略奪されるくらいなら私は舌を噛み切って死んでやる。
  たとえそれが『策士』として未熟極まりない汚点であったとしても、笑ってそれを実行する。

  優華は唇に苦笑を浮かべた。
  眉根を寄せ、けれど唇を上に持ち上げたまま、組んでいた腕を解く。

 「……やれやれ、どうして。」

  大きく息を吐いて、仕方なさそうな顔をして前髪をかきあげた。
  黒髪がハラハラと舞う先で、ガラス越しのルビーが何事かを叫んでいるのが見えた。ああ、でも聞こえない。強化ガラスは音さえ遮断してしまって、聞こえないのか。
  (違う。)
  (違う。)

  (音を、音として、認識出来ない。)

  (自分の心が、音を音として認識しようとしていない。聞きたくないのだ。)
  (聞いてしまったら、そこから崩れ落ちてしまいそうだから。)

  舞鼓やアルセウムだってそうだ。
  桜姫だってガラスを必死に叩いてどうにかこちらに呼びかけようとしている。

  セシルの表情は、あまり見たくなかった。

 「…まったく、損な役回りを引き受けたものです。」

  呆れたような口調ではあったが、その顔に暗いものはない。
  
 「ねえ、そう思いません?」

  ゆっくりと顔を上げれば、視線の先にかつての級友が佇んでいた。

  その表情は無きに等しく、常日頃から可愛いと言って憚らなかった優華はなんとなく面白くなくて、首を傾げてみせる。

 「サラたん。」

  視線の先にいるのは、サラスだった。
  名前を呼んでも表情の変わらないサラスを見返し、それでも優華は困ったような顔を崩さない。

 「わかっていて、残りの全員をここから出したのであろう?」

  ここに残ったのは敵の策に填らせないためだ。
  だがこの部屋から出るには誰かが残らなければならなかった。

  そして、相手の策に自ら飛び込んだに過ぎない。
  少なくとも、あのメッセージがなくても優華はきっと自分から残っていただろう。
  
  敵の追撃を防ぐには、ここがうってつけだったこともある。強化ガラスはちっとやそっとの衝撃ではびくともしない。ついでに言うなれば、敵が開けることが出来ないように扉に細工だってしておく。
  それをするためには、コンソールがあるこちら側で事を起こすしかなかった。

  事を行うためには、それが一番確実だったのだ。

  あの四人のなかでもっとも戦闘能力が低く役に立たない。だが、この状況を打開できるだけの知識を持っているのは自分だろうと判断して(傲りや慢心からではない。冷静にそう分析したにすぎない)、こちら側に残ったのだ。

  それを目の前の相手は気づいていたらしい。

 「…優華どの、あなたのその『魔法』と『知識』は厄介な代物だ。」
 「だから先に潰しに来たわけですか。随分と高く評価されたものですねぇ。」

  おどけた拍子で言っては見たが、その判断は確かに正しい。
  その気になればここのメインコンピューターにでも『騙くらかして』おこうかと思っていたからだ。

  あの事件から三年。

  ひそかに『緑』の魔法の技術を習得し、独自にアレンジを加えてきた成果もある。
  そのひとつが『騙す』ことのできる技術だった。

  しかし、それを先に見越していたらしい。

  見越した上での策略。
  優華の性格も考慮した上での、罠。

  糸で操られるマリオネットのように、相手の手で動かなければ別の糸が引かれてしまう。
  別の、糸。
  そこで優華は視線を流す。その先にいるのは、金の髪の女性。青い瞳が驚愕に見開いたまま、自身の『恋人』をジッと見つめている。

  ああ、と思った。
  思って、目を閉じる。
  
  次に狙うのなら、彼女だろう。
  優華は自分がサラスならそうすると思った。もし優華が手の内に堕ちなければ、次に狙うのは彼女だ。
  そこから少しずつ崩していけばいい。

  少しずつ、少しずつ、食い破っていけばいい。

  それがわかって。
  わかっていて、わかってしまって。
  
  せめて『心の準備』はさせなければと思ったのもまた、事実だった。

 「まあ、あの時、私の側にいたサラたんなら…考えるでしょうね。ここのビルの電子頭脳やら、システムを騙そうとするってくらいは。」

  自分は爪が甘かったのだ。
  そういう事態(自分が先にリタイアする可能性)を考慮しておけばよかったと、ひそかに毒づく。



  どうやら、今回の事件は、

 「……嫌になっちゃいますね、ほんとに。認識が甘かった、とも言うべきなんでしょうけど。」

  相当、危険度の高いものであることは間違いないだろう。

  相手方がサラスを持ち出してきた時点で何となく予想は出来た。
  サラスがいるのなら、『こちらのこと』がわかって持ち出してきたのなら、まだ他にもいるはずだ。

  自分たちに関わる『人物』が、こちらに確実にダメージを与えるために。

  籠絡し、壊滅させ、そうやって追い詰め、敗北させるためのものがあるはずだ。

  ただの『宝石』がらみのいざこざではない。
  裏にあるのはもっと複雑で、もっと暗く、もっと深い………そう、蜘蛛か蟻地獄のような、ものだ。

  ただの穴かと思って手を伸ばせば、そのまま体ごと呑み込まれて頭から食い潰されていく。そんなものだ。

  裏に何が隠されているのかはまだ見えない。
  まだ見えて来ない。知る術が、予測するだけの材料があまりにも乏しい。



  ならばここで消えてしまうのは非常に心苦しい。
  戦略面から言っても、この先予想の範囲内にある『彼ら』がここにいるのなら、こちらの絶対的不利は明白だからだ。

 「……もう。」

  どうしてくれようか、と思いながらも、今回のこの場面を打開できるだけの策が考えつかない。

  『策士』といいながら、それを目差していながら、自負もしているはずなのに、それにたり得る働きができない。
  これから先のことも考えがつく。
  そしてサラスの背後に、もっと、もっと暗い何かがあることもわかる。

  わかっている。だが、わかるだけで何も思いつかない。

  考えがまとまらない。
  そうして、そこまで考えて優華は納得した。

  今、(言葉にしなくとも、声に出さなくとも)目の前に『敵』として立っているサラスに動揺しているのだということを。
  
  動揺し、冷静な判断が出来なくなっているのだと『納得』した。
  
 『ゆかっ!』

  耳元のイヤホン越しの声だけが、この世界に繋ぎ止める全て。

  何もかも投げ出して、逃げ出してしまいたい衝動を繋ぎ止めてくれる唯一のもの。
  冷静になれ、と自分に命令するためのもの。

 『ひーちゃん、やめて! どうなってるの、それ!!』

  震える指先を握りしめ、無理矢理に怯えを止める。

  言葉を言葉として認識出来るようになった。
  『聞こえなかった』(サラスとの会話の最中でも、耳にあてられたイヤホンから声は聞こえていた。聞こえていたのに、『認識』できていなかったのだ。)それが聞こえるようになって、ホッとする。

 『……………    』

  ホッとして、それからもう一度、小さく謝罪の言葉を呟く。

 「ごめんね。」

  動揺も、怯えも、震えも、みんな消えて無くなってしまえばいい。
  理由など後からつけてしまえばいい。今、すべきは目の前にある。

  目の前にある、自分の置かれている劣勢を立て直さなければならないということだけだ。

  絶体絶命というのは、おそらくこういうことを言うのであろう。
  だけど、何もしないわけにはいかない。

 「…ほんとは、肉弾戦とか苦手なんですよ。」

  覚悟を決めて一瞬、目を閉じる。
  右腕を『伸ばし』、そこに仕込んであった折りたたみ式の杖を取り出す。
  細身の組み立て式のそれを掌に納め、くるりと回す。

  それを見たサラスが微かに目を細めた。

 「ほう、棒術であるか。」
 「ま、何があるのかわかったもんじゃないのが人生ってヤツですからね。」

  カシャカシャと杖を元のサイズに組み立て、すらりと構えた。
  それでもまた、劣勢は変わらない。

  腕比べで戦って勝てるようなら最初から苦労はない。
  自分はルビーほどの武術の才もなければ、セシルほどの技術もないし、アルセウムのように場慣れもしていない。
  そんな状態で勝てる相手なら、『敵』にまわしたくないなどと、思いもしない。

  素人に毛が生えた程度の腕しかないが、それでも何もしないままいるよりはずっといい。
  何もしないまま終わるのなら、ここから飛び降りて死んだほうがまだマシだった。

  心の全てを抑えつけ、唇の端を持ち上げる。
  
  余裕など微塵もないのに、それでも余裕があるふりでもしなければやってられない。
  勝ち気に笑み、『いつものように』おねーさんぶって、笑って唇に言葉をのせる。

 「来なさい、若輩者。おねーさんが相手をしてあげるわ。」

  勝負は、そのすぐ後から始まった。

  詰めていた距離のままほぼ同時で床を蹴る。
  蹴って走る。
  
  十歩の距離が見るまに縮まり、優華が杖を上段へ振り上げた。

  それを左腕で受け止め、そのままサラスが自身の脇につけられたホルダーから抜き身のナイフが放たれる。
  鈍色の光を受け、輝くそれを見た優華が咄嗟に後ろへと身を引いた。

  そのすぐ先。鼻先を刃が通り過ぎていった。

  大振りのナイフの切っ先が残像を作っていく。
  そのまま反転し、杖を振って胴を払う。しかしそれを予測していたサラスが後方へと避けた。

  距離は五歩。
  
  互いの顔を視認することが出来る距離。
  筋肉の動きを。
  瞳の動きを。
  それこそ、歴戦の戦士でなくとも確認できる距離だ。

  後方から叫ぶような声が聞こえる。

  耳朶をなぶるような、詰られるようなそれに、優華は今すぐ両手で耳を塞ぎたくてたまらなくなった。
  ああ、でも両手をふさげはしない。
  両手は杖を持っていて、それを捨てることがは出来ない。

  お願いだから。

  自分の唇から漏れ出そうになる言葉を必死に呑み込む。かき消す。

  お願いだから、挫けさせないで。

  膝から崩れ落ちそう。
  崩れ落ちて、そのままナイフをこの胸に突き立てられればどれほど楽だろう。
  考えなくていいのだ。
  こんな、わけのわからない状況に心を痛めることもなく、こんな、こんな『友達』と闘いあうような状況など早く逃げ出してしまいたい。

  逃げたい。

  けれどそれは出来ない。
  出来るわけない。
  逃げるくらいなら、ここで血を吹き出す心をそのままにいたほうがまだマシだった。

  こんな状況になった責任だとか、
  せめて心構えを、だとか、

  そんなものはどうだっていい。そんな言い訳など、もう言えない。

  ただ頭の中にあるのは、せめて切っ掛けになってくれたらいいということだけ。
  切っ掛け。そう、これから起こる得る『最悪のシナリオ』を逆転させるための布石。

  優華の思うとおりなら、もしも『予想どおり』だとしたら、サラスの他にも誰かがいるはずだ。
  
  後に残るメンバーの心を抉るために。
  えぐり取って、ズタズタにして、そうして敗北へと導いていくために。
  だから、布石を。

  優華の脚が床の上を蹴る。

  その反動で杖を横薙に振るって足払いをかける。
  サラスはそれをジャンプで避けた。しかし、上空はもっとも防御が薄くなる時でもある。
  
  優華の指先が素早く『印』を結ぶ。

  上から下へ、五芒星を空中へ描き最後に中心部をついた。

 「『我が呼び声に答えよ』!」

  簡略化した魔法は紡がれ、側に置いてあった観葉植物(大理石に入れられた豪奢なものだ。こういうものが置いてあるのは、自然を欲しくなる人間の作ったものとしては定石)が蠢き、サラスへと殺到する。
  蔦が伸び、葉が開く。
  ジャンプ状態のサラスはそれを避けきることはできない。
  蔦の一つが足下にからみつき、そのまま床へとサラスの体を叩きつけた。

  だがサラスの手にはナイフがある。蔦もそれほどの耐久度はない。

  その間にもっと複雑な魔法が編み上げられるはずだ。
  もっと有効なもの。
  それでも最近腕を上げていたのはどれもこれも実践では役に立たないようなものばかりで、もっとちゃんと別のことも教えておいてもらえばよかったと優華は歯噛みする。

  しかし、今はそんなことを言っている場合ではない。

  サラスから離れながら、唇を動かす。
  簡略化された『印』を描き、そのまま魔法を発動させようとした。

  したのだ。

  そう、しようと、した。
  それは適わなかった。
  
  唇が引き結ばれると同時にサラスの顔が上がる。
  ゾッとするような色を称えて目があった時、優華は自分の魔法の他の『魔力』が動いていることに気がついた。

 「…………しまっ!!」

  サラスの魔法は言葉ではない。
  意識とともに紡がれる魔法であったはずだ。少なくとも、簡略化された魔法をいくつか保持しているはずである。
  優華が魔法を止め、防御に入ろうとしたが、既に遅かった。

  轟っ!!

  と、空気が裂かれ、魔法が『発動』する。
  サラスの体を中心に爆裂の連鎖が巻き起こる。

  金の属性の得意とするところの火の魔法であった。
  
  床が揺れ、壁にヒビが走った。天床でもある廊下の手すりがいくつか壊されてしまう。
  反動で今度は優華の体が爆発の衝撃で宙を舞う。
  その途中で思わず杖から手を離してしまい、床を高い音を立てて転がっていった。

 「……あ、ぅ……」

  衝撃でチカチカとする目を、頭を振ることで払おうと優華はよろめきながらも起きあがる。
  手すりの壁を支えに、背にしながらゆっくりと立ち上がった。

  肺にうまく空気が入らない。
  痛みで横隔膜がうまく動いていなかった。
  苦しいながらも一度咳を出し喉の余分な空気を出してから、ゆっくりと顔を上げる。

  すぐ側に、サラスがいた。

  先ほどの攻撃で近づいてきたらしい。
  数秒とは言え相手から目を離していたことに優華が内心で舌打ちをする。
  だが、それは遅い。
  
  鈍色が電光に照らされる。

  振り上げたナイフが空を切って、肉に突き立てられた。

 


  叫び声が、上がる。




  それは優華のものではない。優華は歯を食いしばって痛みに耐えた。
  上がった声は、セシルだ。

  舞鼓たちも叫んだのだろう。しかし、ひときわ大きな声を上げたのはセシルだった。

  無理もない。
  そんなことをぼんやりと思いながらも、優華は突き立てられたナイフをそのままに体を横に移動させる。
  肉が裂け、神経や筋肉の糸がブチブチと千切れていくような感覚に脳髄をかき回されながらも、どうにかナイフから逃れた。

  そのままの勢いでサラスからなんとか距離を開けて後ずさる。

  サラスが引こうともしなかったナイフには、優華の血がこびりついて、ぽたぽたと血を滴り落とさせていた。

 「甘いであるな。」

  その時、ようやく黙り込んだままだったサラスの唇が動く。
  空気を振動させて震える声に優華が顔を上げて彼を見つめた。

 「杖など、あなた程度の筋力の持ち主が出してきたところで、相手にダメージを与えられるものではない。」

  血がこびりついたままのナイフの切っ先が、ヒュッと優華に向けられる。
  優華が一歩、後退した。
  その一歩をサラスが埋める。
  もう一歩、というところで優華は自分の背中に硬質的な感触が当たったことに気付いた。

 「相手を怯ませるのであれば、こういった刃物や銃器のほうがよほど役に立つのであるよ。」

  顔を巡らせれば、下まで続く吹き抜けの空間が眼下に広がっている。
  闇が口を開いて、そのまま手招いているような感触がして、優華の背筋が凍りつく。

  それでもサラスから視線をこれ以上逸らすのは得策ではないと判断して、顔を元の位置に戻した。

 「………あなたなら、わかっているはずであろう?」

  わかっていてしていない。
  それはなんてエゴだ。

 「相手の身がそれほどに大事か。」

  傷つけるのが嫌ならば、この場になど残らなければ良かったのだ。

 「それとも、自分が手出しをする必要もないなどと、高をくくっていたのであるか?」

  剣を持つのは別の人間だと、傲慢それを見ているだけのつもりだったのか。

  それは言葉だ。
  断罪、という名の、執行するためのものだ。

 「あなたは、傲慢であるな。」

  サラスがゆっくりと視線を上げて優華の顔を睨み付ける。鋭い眼光は、溶鉱炉の熱を持っていて視線だけで焼き殺されるかのようだった。
  傷つけられた肩口を押さえながら、それを逸らすことなく優華は見つめ返す。

  その瞳は、未だ折れていない。
  光を保ったまま、折れもせず退きもしていない。その目に、サラスの唇が歪んだ。

 「そうやって、何でもあなたの思い通りになるとでも思っているのであるか?」

  言いつのる言葉は、まるで弾劾のようだ。
  裁判官が執行書を読んでいるような響きにも似ていた。

  そんなことを考えて、優華は小さく目を瞬かせる。

 「何でも欲しがり、何でも手に入ると思いこみ、何もかも自分の都合の良いようにする。」

  追いつめられたのはこちら側のほうなのに、
  どうして、あなたのほうがそんな顔をするの、と言いかけて優華は口をつぐんだ。

  今のサラスの言葉は、優華に向けられたものではないような気がする。
  直感だがそう思って、彼女は自分の考えに納得して目を伏せた。

 「強欲で、傲慢で、エゴだらけだ……よくも、そんなことばかり口に出来るものである。」

  闇の中、サラスの声だけが響く。
  姿になど、武器になど騙されることなく、優華は心を澄み渡らせる。

  断罪されるのもこちら側。
  執行官は、目の前のサラスなのだとしたら。
  
  目を閉じ、肺に空気を送り込む。

  ああ、そんなこと、




 「んなもん、とっくの昔にわかってるんですよ。」




  言い放って優華は唇に笑みを浮かばせた。
  いっそ晴れやかなまでの笑顔を表情にのせて、サラスを見やる。
  その瞳に翳りはなく、迷いもなく、臆する気配さえない。

  突きつけられた鈍色のナイフにでさえ、恐怖する色を微塵も見せていなかった。

 「傲慢? 結構。」

  傷口を押さえていた手を離す。

 「強欲? それも当然。」

  両手を軽く挙げる。

 「エゴ? そんなもの、いつものことですよ。」

  そうでもしないと、

 「策士なんて肩書き、背負えませんし、口にも出来ません。」

  策士とは、
  総てを成すための、策を考慮し実行する者のことだ。
  ありとあらゆる状況を想定し、考慮し、劣勢を覆し、勝利を得るための最良のものを導き出す役目を担う。

  統べてを思い通りにするために、自分の考える通りに行動する。策を、打ち立てる。

  だからこそ、臆するわけにはいかない。
  はじめから『出来ない』などと、絶対に口に出すことは許されない。

  不可能を可能とするために存在する。

 「いけませんか?」

  軽く小首を傾げるようにしてサラスに問い返す。
  その表情は、追いつめられているにも関わらず、まるで無邪気な子供のような輝きに満ちている。
  臆することなど忘れている。
  怯えの震えなど、その体に浮かんでさえいない。

  退くことも知らない。
  泣いて命乞いをすることさえもない。敗北、しているはずなのに。

  その『敗北』でさえ受け入れて、その先へと突き進むために笑っている。
  今の負けなど、先の勝利にとって布石の一つでしかないとでも言いたげだった。

  その表情が、態度が、心の一つ一つが。

  サラスの気を、触れさせる。

  対面する相手の顔がゆっくりと歪み怒気を孕むのを、優華は他人事のように見ていた。
  それから、ちらりと後方へと振り向く。

  視線の先では、強化ガラスと下へと落下する吹き抜けを越えて、仲間達がいた。

  誰もが何かを叫んでいる。
  何を言っているのか、容易に想像できる。
  やめろ、と。
  やめて、と。
  そんなことを言っているのだろう。

 「………何かを我慢して、自分から『手放す』ような無様な真似はしません。」

  それらを思考の先から閉じて、もう一度サラスのほうへと向き直る。
  頭のなかに哀しげな表情の仲間達を残して、ただ前方にいる『彼』のために言葉を紡ぐ。

 「憎いですか?」

  こともなげにそんなことを言ってみせる。
  
 「悔しいですか? あなたが諦めたことを、私がけして手放さないのが。」

  その言葉は容赦なく、サラスへと向けられる。
  
 「…………なめるな。」
  
  そこで優華の口調が変わった。
  表情も変わる。今までのどこか優しげな、勝ち気なものは存在していない。
  紫色の人工の瞳に翳りを浮かばせ、鋭い声が喉を震わせる。

 「私を、なめるな。何かを捨てて、何かを得るくらいなら、最初から選んだりしません。
  そんなの、最初から私のなかに選択肢として入っちゃいない。」

  ニヤ、と唇に侮蔑の笑みを浮かべてみせる。

 「それが貴方と私の差なんですよ。手放す貴方と、手放さない私……どちらが勝者か、あなたでもわかりますよね?」

  それは、勝者の笑みでもあった。敗北者へと向ける、無慈悲なもの。

 「私が嫌いでしょう? サラス。」



  吹き抜けからふく風が、一瞬二人の間を走った。
  まるで、交わることのない見えない断絶の証のように、冷たい風が頬を撫でて走り去っていく。




 「……嫌いだ。」

  ようやく口を開いたサラスから、言われ優華は一瞬哀しそうな顔をした。
  しかし、次の瞬間には唇の端を持ち上げている。

  哀しそうな顔をしたのは、ほんの一瞬。
  そして、その一瞬の間だけで、自分のなかの感情を書き換えてしまったのだ。

  まるで、小さな子供を見ているような顔で、サラスを見つめている。

 「私は大好きですよ。」

  嫌われたって、構いません。
  
  そんな風に、言う。
  あえて言葉を選んで、けれどその実、優華自身の言葉で持って言葉を落とす。
  それがどれだけ、相手の柔らかい部分を抉り出すかを知っていながら、実行する。

 「…今すぐ、拙者の目の前から消し去りたいほどに…!!」

  溶鉱炉の瞳が、ギラリとサラスの瞳に宿り優華の体を射抜く。
  突きつけられたナイフに、じりじりとした確かな『殺意』が宿っていった。

 「どうぞ。」

  だが、優華は、笑って両手を広げる。
  地団駄を踏む聞き分けのない子供にするように、母親や姉が、幼子に向かって愛情を向けるのと同じ仕草で。
  
  それが相手の胸の一部を抉り出すことも知っていて、それでも尚、迷いはなかった。



  引き金がどれだったのかはわからない。
  音を立てそうなほど噛みしめられた唇から、血のような音が静かな空間に響き渡る。



  視線の先。
  優華は走り抜けた切っ先が自分の脇腹を貫いたのがわかった。

  痛みと熱さと、腹にのめり込んでいく鋼の異物感が、脳裏を過ぎる。
  踏み込むようにして奥深くに突き立てられた刃の反動でたたらを踏んだ足が浮かび、頭から体が手すりを越えていく。

  背中で、ずるり、と鉄製の柵を越えたのを感じた。
  空中を堕ちていく体は、スローモーションのようにまわりの景色を瞳に焼き付けていく。

  堕ちる直前、優華はそっとサラスを見た。

  それから、仕方なさそうな苦笑が浮かぶ。
  悪戯をして泣き出してしまった子を、しょうがない、と言った感じで見つめる時のような、優しい色とともに。



  ああ、
  そんな、顔、しなくたっていいのに。



 「…ごめんね、」

 

  誰に向けて言ったのかは、優華は自分でもよくわからなかった。
  ただ、言いたくなって唇にのせた。

  風を切って消えていくのがわかっていて、それでも声に出さずにはいられない。
  懺悔のような、けれどこれはけして懺悔などではない。後悔の念などではない。

  ただ、言いたかっただけなのだ。

  そうして、堕ちていく中、その先で『友達』がこちらを見ているのも、見えた。



 「ごめんね。」



  もう一度、同じ言葉が唇をついてでた。

  一緒に、行けそうもない。
  



 「ごめんね。」

  私がみんな悪い。
  そう思って、擦り付けて構わない。全部全部、悪いことだって、みんな知っている。

  だから、そんな顔しないで。

  落ちていく中、ぶちぶちと途切れる意識のなかで、かすかに優華は思った。

  そんな、顔。
  しないでくださいよ、『サラたん』。

  急速に速度を増す景色のその先にいる、褐色の肌の少年に向かって思いを巡らせる。
  ふと、シャツから覗く首もとに手製だろう銀細工のアクセサリが光っているのが見えた。

  ……ああ、それが、あなたの

  思って、唇から苦笑がこぼれ落ちる。
  心の奥深くで、言えなかった言葉を小さく紡いだ。

  泣きそうな顔、しないでくださいな。

  私に言ったことも本当ですけど、あなたも大概だと思いますよ。
  だから、もういい。

  もう、いい。
  


  空気を体が吹き抜けて消えていく。
  闇に堕ちていくその先で、優華は目を閉じた。

  もう、いい。

  そう思って、ふつり、と意識が








  





















 「ゆかぁぁぁあああああぁぁぁ!!!!!!」

  ルビーの絶叫が空間を揺らす。
  堕ちていく優華へと手を伸ばし、けれどけっして届かないその距離で虚しく掌が空気を捕まえてしまう。

  舞鼓がガタガタと震えながらそれを見ていた。
  呆然としたまま、闇にのまれる吹き抜けの下から目を離せないでいる。

 「ひぃちゃんっ!」

  がしゃり、と桜姫が手をかけて手すりをよじ登ろうとするが、片手に持った小型PCが邪魔でそれが出来ない。
  反射的にそれを捨ててしまおうとした。しかし次の瞬間に、これが優華から託されたものだということを思い出して、悔しそうに唇を噛む。

  手すりに片手をかけたままの桜姫をアルセウムが腕を持つことでさらに止める。

  桜姫が顔を上げると、アルセウムは険しい顔で頭を横に振った。
  行くな、と視線が物語っている。

 「…………どうして。」

  震える声が空間に小さく響いた。
  セシルはその場に座り込んでしまっていた。いつからなのかは覚えていない。けれど、両の膝は崩れ脚は完全に冷たい床の上にある。
  暗い闇の底。

  すでに優華の姿は消えてしまって、どこにも見えない。
  落下音も、衝撃音でさえ呑み込まれてしまって聞こえてこない。

  唇を噛みしめ、ゆっくりとセシルは顔を上げた。

 「どうして、こんなことを…」

  顔を歪ませ、視線を閉ざされた強化ガラスの先にいるサラスに向ける。

  何の感情も浮かんでいない彼の人の顔と、過去の光景がだぶる。
  仲が良さそうに語り合っている学院にいたころの、サラスと優華の姿。

  二人のそんな姿に落ち込んだことがなかったと言えば嘘になる。

  それでも、サラスはセシルにとって大切な人で。
  優華も、友人の一人で、それは変わりない事実。
  それにサラスは自分の恋人であったし、優華は彼女が言うところの『可愛い彼氏』がいるのだからお互い友人の域を超えるはずなどなかった。

  サラスには優華みたいな人がいいのかも、と彼女にもらしたことがある。
  その時、優華は心底驚いたような顔をして、何言い出すんですか、と言った。

  『サラたんにはセリたんが一番に決まってるでしょう。』

  何の理由もなく、ただ一番なのだからそんなもの気にするな、と明るく笑い飛ばした。
  その笑い声で、なんとなく、笑ってしまった。

  思い出すのはそういうものばかり。

  笑っているのが当たり前の、そんな姿ばかり思い出してしまう。

 「どうしてなんだ!!」

  拳を握りしめたまま、理不尽な思いを抱えてそれを振り上げる。
  空気をきり、勢いをつけて床へと叩きつけられた。

  どん、と鈍い音が空気を揺らす。

 「どうしてなんだ、ラス!!!」

  血を吐く思いでセシルは、サラスに向かって叫ぶ。
  叫び声は空気を揺らし、サラスの耳にも届いている。

  届いているはずだった。
  しかし、サラスの表情は変わらない。無感動なまま、何の動きも見られない視線でセシルを見つめている。








  黒い光が、その瞳を揺らしている。

  それ以外には何もない。
  何一つとして、ない。









 <04へ続く>