これは、いつか遠い昔に『あのひと』が遺した、お話。


 「彼女は劔を執るよ。
  それは、不幸かもしれない。苦痛かもしれない。それでもきっと、この剣を必要とする。
  大切なひとを守るために。愛するひとを守るために。いとしいひとを守るために。
  ただそのためだけに彼女は『剣』を執るんだ。

  『これ』は、そのためだけに彼女に遺す、ものだよ。

  力を求めるということは、ただまわりを傷つけるだけかもしれない。下手をしたら、望まない相手まで斬ってしまうことだってあるかもしれない。
  だけどね…それをさせないために、彼女はきっと、劔を執る。

  だからその時まで、これは遺しておいて欲しいんだ、『翡翠』。」
 

  遠い昔、セピア色に褪せてしまった思い出の底の底。
  翡翠という一人の女性に遺した、言葉と『剣』。

  彼は刀工だった。
  彼は愛する者のためにしか剣を作らなかった。
  彼はおかしな人だった。
  彼は……彼は、『風』、そのものだった。

  風のように女性の心をあっという間に奪い去り、いつの間にかその側から消えてしまっていた。

  遠い昔、遠い遠い昔。
  彼は、生まれてくるかもわからない『彼女』のためだけに『剣』を作った。

  ただ、そのためだけに作られた剣は、鞘に収められたまま二十数年も時を待つ。
  待ち続けた。ただ、『そのため』だけに、待ち続けた。

  統べてを切り裂くその劔の名は、



 
  『紅(くれない)』と、言う。




  そして、現在(いま)。
  『紅』は己を握り、その力を奮うことを『彼女』に許し、彼女の手の中に存在していた。
 
  風によって空間を跳び、ロシアの地から遙か遠い其処まで、たどり着いたのだ。
  
  ルビーが振りかぶっていた剣をゆっくりと下ろす、交錯していた二つの影は今や二つに分かれ、互いに距離を持って立っている。
  ゆっくりと、片手を上げ拳を握る。
  
  キィン−、と。

  剣の柄の部分を叩くと、低いうめき声を上げてターコイズがドッとその場に倒れ込んだ。
  傷が深いようだが、死ぬほどのものではない……そうしたのは、ルビー自身。

 「……これぞ、我が奥義……」

  剣を払い、血を落とすと顔を上げる。
  そこに浮かぶ面は、紛れもなく『もののふ』のものだった。

 「神無風(かみなきかぜ)。」

  出来るとは思っていなかった、とルビーは内心で息を吐いていた。
  
  剣を使う者として、流派(無きに等しいが)に属するものとして、師匠でもある祖母から受け継いだ『技』のひとつ。
  兄である瑪瑙の『神成風(かみなりかぜ)』とは真逆の意味を持つ技。
  そして、今まで一度たりと使えたことのない、まさに奥義。

  それを土壇場で、今もっとも威力のあるそれを出せたことに、ルビーは息を吐いたのだ。

  緊張感がすぅ、と音を立てて引いていくような感触。
  滾っていた血や肉、臓腑や筋肉の一束に至るまでの奇妙な高揚感が静かに、静かになっていく。

  ターコイズにはもう戦う力は残っていない。

  殺さないではいた。
  殺しはしないがこの場での戦闘能力の一切を奪った。
  傷はそれほどに深い。気絶させてその場をやり過ごす、なんて甘ったるい考えが通用するような相手ではないから。

  だから全力を出した。
  守るために。
  ただ、『彼』を。
  
 「………朔良。」

  ふと名前を呼び、手の中の剣を『消して』彼の側へと駆け寄っていく。
  背にある羽はすでに消え、腕を構成していた翼も消えかかっている。

  駆け寄りながら自分の髪にかろうじて巻き付いていた黒いリボンを取り、上腕部に止血を施す。

  手際よく血の巡りを止め、これ以上失血しないようにしながら、未だ膝をついたままでいる朔良の側へと近づいた。
  よく見ると、彼の背の傷も相当深い。
  早くリョウたちと合流しなければ、と思いながらルビーは身を屈める。

 「…朔良、終わったよ。」

  その顔をよく見ようと……まるで何かを確かめるように……顔をうつむいている朔良の表情を確かめようとして、ルビーも膝をついて下から彼をのぞき込む。

  のぞき込むと、彼はなぜか一瞬、泣いているんじゃないかと思うような顔をしていた。
  ……でも、それもほんの一瞬。
  目が合うと、朔良はふぅ、と表情を緩ませる。

  いつもの、ルビーの好きな彼の微笑み。

 「終わったか……」
 「うん。もう、大丈夫…だと、思うの……」
 「殺し、たのか?」

  一瞬、言葉に詰まる朔良の問いにルビーはゆるく首を横に振る。
  そのとき、なぜか朔良がホッとしたように見えたのは、ルビーの目の錯覚なのだろうか?

  だがその真意は聞かず、ルビーは朔良に手を差し伸べる。

 「行こう。傷が、深いから…楓ちゃんに、見てもらわなきゃ……」
 「…そうだな…だけどな、お前のほうがひどいぞ…」

  片腕、一本。

  他にも体のあちこちに無数の細かい傷がある。
  だけど一番ひどいのは、腕。落とされた腕。未だ赤黒い傷口がのぞく(グロテスク)それ。

  でも、大丈夫。
  
  言葉にはのせず、ただルビーは静かに笑んで見せた。
  大丈夫、このくらいの傷ならまだ動ける。

  まだ、大丈夫。『まだ』。

  そうしながら、朔良の腕の下に体を入れ、支えになるようにして立ち上がろうとした。

  その時。




  『ぞくり』、とルビーが微かに身を震わせる。
  その眼前に、立っている者を見て信じられない思いで、いるのだ。

  それは朔良とて同じことだった。
  思わず身構え、それから自分こそがルビーの行動の阻害をしているということに改めて気づき、小さく舌打ちをする。

  そこに、居た。

 「………俺にトドメも刺さず、どこに行く気なんだよぉ。オリガロットぉ。」

  にたぁり、と。
  口の端から血を滴らせ、胴体を斜めに切られながら、それでもターコイズはその場にすでに立ち上がっていた。

  なんて快復力、とルビーが頭のなかで自分の認識の甘さに後悔する。
  
  ぎゅ、と支えている朔良の腕を握り、全神経を眼前の相手に集中させていく。
  心が、急速に冷えていくようだった。

 「そう、その『目』なんだよぉ、オリガロット。」

  けれどターコイズはその場に立ったまま、凶暴に笑んだまま、そんなことを口にする。

 「お前は所詮、『ひと』なんてものにはなれない。
  『ひと』は俺を殺人鬼と呼ぶがぁ……ならなぁ、オリガロット、お前はいったい『なんなんだ』よぉ?」

  刹那。本当に、その刹那にも似た、瞬間。

  朔良の腕にルビーの握った力が増す。
  それは本当に些細な力。けれどなんて大きな、変化。

 「お前は『ひと』じゃねぇんだよ! 俺が殺人鬼なら、お前は殺戮鬼じゃねぇか!!
  後ろを見てみろよ、振り返ってみろよ! いつかお前は気づくはずだ、いやもう見えてんだろぉ?! お前の後ろをよく見てみろよ、足下を見てみろよ!!」

  ターコイズが、指さすその先。
  ルビーの呼吸が知らず上がっていく。肺が、急激な酸素の供給によって静かに、痛む。

  ひとには、なれない

  彼女のなかの『ルビー』が後ろを振り返る。足下を見下ろす。
  その視線の先に積まれたのは、物言わぬ骸の山、山、山。

  わかっていた、はず

  直ぐ側にあるはずの朔良の体温でさえ、遠くにあるように感じる。
  熱はまるでガラスを一枚隔てたように、冷たささえ感じるようで。

  つるぎは、ひとを傷つけ続ける
  傷つけて、傷つけて、傷つけて、斬って、斬って、斬って、斬って、奪い取って
  つるぎは、そうして、奪っていくしかできない

 「お前はそいつとは違うんだよ! いつか、来る。そいつはお前を……!!」




  ああ、わかっている

  そんなこと、言われなくたって
  わかって、いるから

  思わず閉じていた瞼を上げ、力を込めていた指先をそっと緩めて、ルビーはただ、思う。

  ひとにもなれず、つるぎにもなれない、そんな半端物が、出来損ないが。
  いつまでも、側にいることができないことくらいわかっているから。

  痛いくらいに、泣きたくなるくらいに、わかっているから。

  でも、それがいったい




 「それがいったいどうしたの?」




  ただ黙ってターコイズの言葉を聞いていたルビーが唐突に口を開いた。
  閉じていた瞼を開けると、そこにあったのは苛烈な烈火にも似た、色の瞳。
  その強い瞳に……先ほどとはまったく違う色を放つ瞳に、ターコイズも、そして朔良も言葉を失う。

  ルビーがゆっくりと、言う。

 「だから、どうしたの?」

  その瞳に迷いはない。口調にも一片の迷いも、恐れもない。
  目の前の『殺人鬼』が目を見開く様を見て、ルビーはふと表情を緩める。

  覚悟は、ある。
  
 「ひとじゃない? 殺戮鬼? だから、どうしたというの?
  私は、『私』!」

  浪々と、まるで一節の唄でも読み上げるようにして、その声は響いた。
  唄にも似ている、それは、

 「私の名前は、ルビー。それ以外の何ものでもないし、何かが『私』にはなれない!」
  
  覚悟や、決意にも似ている。

  ルビーは、もう迷わない。
  決めてしまっているから。願いも、祈りも、すべて。
  その胸の内に輝かせ、少女はただ叫ぶ。

  『世界』に、見せつけるかのように。

 「貴方が私を言葉で括ろうとしたって無駄よ。貴方の言葉なんて、私には関係ない。ただ、私は私で在る限り、何度でも何度でも、言うわ。」

  その叫びは、一筋の光線のような輝きを放っていた。

 「『それがどうしたの』、って!」

  ……ああ、大切な思い出の人。
  あなたが、お前は人間だ、と言ってくれたから、私は今此処にいます。

  大切なともだち。
  あなたが、私が必要とされなくなったら斬ってくれても構わない、と言ってくれたから、私は今言葉に出来ます。

  大切な同志。
  あなたが、私を捨てられても拾ってあげるから、と言ってくれたから、私は今笑うことが出来ます。

  大切な道しるべたち。
  あなたたちが、私の暗い世界を照らしてくれたから、私は今決意することができました。

  そして、

  私の大切な戦友(いとしいひと)。
  あなたが今、ここにいてくれるから、私は立ち上がる事が出来ます。

  つまずいても、転んでも、立ち上がってあなたの隣に立つと、言えたことが、私の在処。

  空白の声に乗せて言う。
  ありがとう。と。



  白い世界が脳裏を掠める。
  わかっている、わかっているから。もう少しだけ、待って。



 「………それが、どうした…か。」

  茫然自失としていたターコイズがぽつりと口を開く。
  その声に狂喜の色はない。狂い続けた男の声しか聞いていなかったルビーが、何を言っているのか判断できずにいると、ターコイズがおかしそうに笑う。

 「それがどうした、それがどうした、それがどうした、それがどうした……!!」

  クククッと喉の奥で笑いながら自分の前髪をかきあげる。
  その仕草は『人間』じみていて、ルビーは訝しそうに相手の動向を見つめているしかできない。

  ターコイズが笑いながら朔良とルビーほうへと歩み寄ってきた。

  だが、殺気が、ない。
  溢れんばかりの邪悪さも、目の眩むような狂気でさえ、その体からきれいに消え失せてしまっている。

 「ああ、お前は本当に、良いなぁ。」

  そうして朔良も、そしてルビーでさえもどう対処すればよいのかと思っているところで、ターコイズはすでに二人のすぐ側まで来ていた。
  立ち止まれば、わかる。

  ターコイズは、朔良より頭一つ分も背が高い。
  そのくせ細い(恐ろしいほどに鍛え上げられた筋肉の鎧を身にまとっているけれど)。
  白銀が光に透けて、本当に白い。
 
  そう、この人は私の現身(うつしみ)。

 「……わかってんのか?」
 
  もし、私の前に道しるべが現れなかったら。
  もし、私の前にともだちや同志が現れなかったら。
  もし、私の胸に『恋』を落としたあの人が現れなかったら。
  もし、私の横にこの人がいなかったら。

  私は、きっと、『こうなっていた』はず。
  鏡に映った、私の、半身。

 「いつか、離れるぞ。力のある者の宿命みたいなものだぜ……?
  有り余る力は、傷つけるだけしかできねぇ。お前のまわりにいる『人間』がもし不必要に触れようとしたら、豆腐みてぇに崩れちまうことだってある。
  そうなっちまったら、お終いだ。
  人間はお前に恐怖する。お前を遠ざける。お前を罵り、嘲る。」

  そんなこと、わかっている。

 「そうかも、しれない。でも、私は知っているわ。
  人は優しい。人はあたたかい。人は……とても、とても、いとおしい。
  私を絶望させるのも人間なら、私『たち』を救ってくれるのも人でしかないの。」

  それを、この人は知らないのだ、とルビーは思ってターコイズを見る。
  思う。今なら、思う。
  (横に朔良がいてくれなかったら、きっと思いつきもしなかっただろうけど)

 「私は、奪わない。傷つけない。殺さない。誰からも、誰であっても……悪人以外なら、ね。」
 
  クスリと微笑むと、ターコイズもまた笑う。
  
 「甘いなぁ、ゲロが出そうなくらい甘ったるくて、世迷い事でしかない…夢みたいな、話だな。」
 「そうよ、夢でしかないわ。でも願うくらいなら、目指すくらいなら構わないでしょう?」

  そうだな、と言ってターコイズがスッと何かを差し出す。
  それは切り落とされたルビーの『左腕』だった。

  なにを、と言うよりも早くターコイズが静かに唇に『魔法』を乗せる。

  その瞬間、ルビーの片腕に左腕が戻っていき(光の粒子のような、微細な粒になって流れて)、やがて完全な腕へと、なる。
  ルビーが驚いたように左腕を動かす。問題なく、動いた。

  血でさえ欠片もなく、痛みもない。

 「…お前、は。」
 「そっちのイエローの傷もついでに治しといたぜ。出血大サービスだ。」

  朔良が驚いて思わず背中に力を入れる。
  だが痛みはない。視線を落とすと、ルビーの全身にあった無数の傷でさえも跡形もなく消え去っていた。

  ターコイズがさらに手を伸ばしてルビーの上腕部に結ばれていた黒いリボンを解く。
  
  しゅる、と音がして風に流れるその様を身ながら、ターコイズは踵を返した。

 「これは治療代がわりに貰ってく……『ルビー』。」

  その名を、オリガロットではなく、ルビーと呼ぶ声。
  それは悪意などはない。普通の、もの。

 「お前がひとになりたいって言うんだったらなればいい。お前が人間を語るならそれもいい。
  俺は、お前とまだまだ殺合い(ころしあい)たいんだよ。お前が、お前であるうちは、何度でも、何度でも、な。」

  ざくざくと大地を踏みしめながらゆっくりと、その姿が消えていく。
  空気中の『何か』にとけ込むように、その体がパキパキ、とありえない音をたてながら消えていく。

  此処ではない、どこかに行くために。

 「だかな、ルビー。もし、お前が『お前』でなくなったら…その時は俺が『それ』を殺してやるよ。」

  『ルビー』が、『ルビー』でなくなった、そのときは。
  意味など、ありはしないと、言いたいのか。

 「またな。俺の獲物、俺の敵……俺の、いとしいいとしいお嬢ちゃん?」

  それを聞いたルビーがきょとん、とし……それから徐々に困ったように表情を歪ませ、小首を傾げて口を開いた。

 「あなたに殺されるのなんか、まっぴらゴメンよ。それから…敵に『いとしい』だなんて、変な人ね。」
  
  ターコイズがその言葉に満足したかのように唇の端を持ち上げ、やがてその姿が、完全に消えた。
  虚空に消えて、音も気配も、すべてが消える。






  静寂が、あたりを包み込んでいった。





  ぼう、としていたルビーの投げ出されていた手に、朔良の手が重なる。
  そのあたたかさに気づき、彼女が顔を上げ、ちょうど斜め横にある彼の顔を見つめた。

  しばらく言葉もなく見つめ合い、けれど握りあった手をゆっくりと絡めていく。

  指の一本一本を確かめるように。そこに(ちょうど、朔良はルビーの左横にいたから、無くしていた左手で)互いがいることを確かめるように。
  やがて唐突に、どちらともなく微笑みが浮かぶ。

 「ふふ……」
 「……くく…」
 「ふふ…あははは…」
 「くくく……ははは…」

  堪えきれなかったように、ルビーが大声をあげて笑う。
  朔良も同じだった。可笑しそうに笑い、それからずるずるとその場に座り込んでいった。
  それに合わせてルビーもその場にしゃがみ、それから朔良の背にもたれ掛かるようにして背中を預ける。

  背中合わせに、二人はしばらく笑い続けていた。

  何がそんなにおかしいのかは、わからない。
  だが笑えた。大きな障害を取り除いたという満足感からかもしれない。あまりにも巨大な緊張感を退けたからかもしれない。
  けれど、そんなことはどうでもよいことのように、二人はしばらく口を開けて笑っていた。

  つなぎ合っていた左手は、そっと外してルビーが朔良の手に重ねるようにしてその上に置いている。

  そうしてやがて、笑い続けていた朔良がふぅ、と息を吐いて、空を見上げる。

 「…終わった、な。」
 
  その言葉を聞いたルビーもまた、思わずこぼれた(笑いすぎて)涙を拭って、こくこくと頷く。

 「そう、ね…でも、まだ脱出が、残ってるわ…兄くんと、ユカを、奪還して…それで、帰らなきゃ…」
 「そうだな。だが、ここまで出来たんだ…なんとか、なる。」

  なんとか、と呟いて、朔良とルビーが背中合わせのまま力を抜く。
  痛みはもうないが、疲労感だけは残っていた。

  指の一本を動かすのさえ億劫な、疲れ。

 「「疲れた……」」

  思わず口からついて出た言葉は、絶妙なタイミングで二人の口から同時にこぼれ落ちた。
  それを聞いて、また可笑しそうにルビーと朔良が笑う。

 「もう、なにもしたく…ない、わ。あんな、厄介な相手…もう、こりごり、よ…」
 「…またな、とか言っていたぞ?」
 「うぅ、なんだかとても嫌な「またな」、だわ…」

  げんなりと呟くルビーに、朔良がからかう響きで笑い声を上げる。
  
  ルビーがふくれたように息を吐き……やがて、こほ、と咳がついて出た。
  なかなか止まらない咳にルビーは左手で口元を押さえた。
  何度か咳をくり返し、その振動を背中で感じた朔良が笑うのをやめて、聞く。

 「どうした? 笑いすぎたのか?」

  



  ああ、かみさま





 「………うん。」

  『きゅ』、とルビーが口をおさえていた左手を握り込む。

 「…えへへ……なんだか、おかしい、ね…」

  なんでもなかったように、笑いながら、言う。
  
  それでも心の中で、思った。
  ……かみさま、と。
  遠い昔にその存在を否定した、「かみさま」の名前を心に浮かべる。まるで、すがるように。

  かみさま、もう少しだけ、時間をください
  朔良に、この人に、伝えたいことがあるんです
  伝えなきゃ、いけないことがあるんです

 「…ね、朔良…」
 「うん…?」
 「……無事で、なにより…怪我、しちゃったけど……朔良が、無事で…嬉しい。」

  そう、それだけは本当。
  無事で良かった。生きていてくれて良かった。失わずにすんで、よかった。

  乗せた手から、大好きな彼の体温を感じながら、背中を預ける心地よさを感じながら、ルビーは空を見上げる。

  まるで、『あの日』の空のような、青さ。

 「お前も無事で……と、言いたいところだが。怪我のしすぎだ。帰ったらうんとお説教してやる。」
 「うぅっ……だ、だって、ほら…ターコイズの狙いは、私だった…わけだし、それにあの…」
 「言い訳は聞かない。優華さんにも言ってダブルで、お前にも心底思い知るようにしてやるから覚悟しておけよ?」
 「ひ、ひど…っ!」

  ああ、それはなんて、しあわせな光景だろう。
  大好きな人たちといる風景。
  私の大好きな人。

  ユカ、どうか許して。

 「……お前は、無茶しすぎだ。」
 「…そう、かな…」
 「そうだ。俺だっていたんだ…信じろ、と言ったのにどうして向かっていったんだ。」

  兄くん、どうか幸せに。

  私はもう帰れない。
  あの、幸福な箱庭に。

 「……だって…」
 「それに、だ………どうして、言葉につまる?」
 
  どうか気づかないで、いとしい人。
  背中合わせの、いとしい人。

  優しくて、強くて、とても綺麗な、目の眩むような人。

 「…ぅえ…?」
 「『あいつ』と話したときは言葉が切れなかっただろう。どうして、俺と話すと……その……」

  心に、触れるたびに憧れた。
  あなたはきっと知らないのでしょう。あなたがいなかったら、私はきっとここにはいなかった。

 「…朔良……やきもち?」
 「………そ、そんなことはないぞ。」
 「照れ隠し?」

  あなたがいてくれて、よかった。
  あなたでよかった。
  あなたが笑って、そこにいてくれるだけで、私は嬉しいから。

  だから、もういいよ?

 「…からかってるのか。」
 「……だったら、ちょっと、嬉しいかも、って。」

  だから、もう、私を置いていっていいよ?

  あなたには未来がある。輝ける明日、無限の可能性に満ちた、あなたの夢を紡げる道。
  私には、それがもうないから。
  歩ける道のない者に、隣を歩く資格はない。

  それが、絶対的な、あなたと私を別つ、すべて。

 「…わかってる。それが、お前の…くせ、みたいなものくらい…わかってるんだ。」
 
  ああ、私の愛しい人よ。

 「……だいすきよ、朔良。」

  ありがとう、私の側にいてくれて。
  ありがとう、私に言葉をくれて。
  ありがとう、私の手を握ってくれて。

  たくさんのありがとうと同じくらい、たくさん、たくさん、ごめんなさい。

 「だいすき…だいすきよ。舞鼓も、サラも……楓ちゃんも、珠洲せんせも…みんな、みんな。」

  愛しい人よ、どうか許して。
  これが最後ですから。もう、あなたの隣から去っていきますから。

  だから、最後に、

 「でもね……私が、笑ってくれて…一番、嬉しいのは…朔良、なんだよ?」

  最後に、言わせてください。

  それを最後に私は全ての扉を閉じるから。
  この世界に触れさせないように。白い世界が、溢れ出さないように。

  ……ああ、それなのに。
  こんなにも、胸が千切れて、今にも泣いてしまいそうで。

 「……それは、光栄、だな。」
 「ほんとよ…ほんとに、ほんとなん、だから…」
 「ああ、信じる。」

  痛い。千切れていく。
  覚悟しているはずなのに、もう決めてしまっているはずなのに。

  つきつけられている、はずなのに。

 「……俺も、お前が笑っていてくれるほうが、嬉しい。」

  手放さなければいけないことくらい、わかっているのに。

  もう少しだけ、もう少しだけ、と望んでしまう、この浅ましさ。
  
 「お前が、泣くより、そのほうがずっといい。」

  ……朔良。
  あなたに会えて、私は幸せです。
  あなたに会わなければ、もしかしたら私はまだ壊れなかったのかもしれない。
  でも、あなたに会えるのなら、私は何度だってこの道を選ぶから。

  あなたの隣を歩く戦友として、ほんのすこしだけ、横にいさせて。

 「…私も、嬉しい。朔良が笑って、いてくれたら…それだけで、笑えるの、よ。」

  本当に嬉しかったの。
  私の『世界』は、こんなにもいとしいひとたちでいっぱいだったのか、と思うくらいに。

  だから、もういいよ。
  もう、私は十分なくらい、幸せになれたから。
  あなたが知らないほど、私はたくさんの幸福な記憶を心にしまっているから。

  手を、放そう。
  立ち止まろう。
  閉じて、しまおう。

 「朔良。」

  


  ありがとう




  だから、ね。
  どうか許して。

  あなたに伝えることができなかったことがあること。
  あなたにまだ嘘をついていること。
  あなたから離れるかわりに、あなたと、大好きな人たちの思い出を連れて行くことを。

  さあ、扉を、閉じよう

 「……だいすき、だよ。」

  この、扉を閉じよう



















 「……く、らーーー!!!」

  ふと、聞こえてきた声に朔良が顔をあげる。
  視線の先に見覚えのある人影が見えてきて、彼はふと表情を緩める。

 「…来たぞ、ルビー。お迎えだ……みんな、無事、みたいだ。」

  背中に感じる少女の体温。さらさらと風に揺れる金の髪を感じながら、ホッと息を吐く。
  誰一人欠けることなく、そしてあの二人を『取り戻した』ことに、一安心した。

 「帰ろう。あそこへ…俺たちの、場所へ。」

  やがて髪を振り乱し、息を切らしながら黒髪の少女と、日に焼けた黒い肌の少年が揃って自分たちのところへ駆けてくる。

 「朔良さん!」
 「朔良殿!!」

  ほぼ同じタイミングで名前を呼ばれ、朔良はルビーの手と触れあっていないほうの手を軽く挙げてみせた。
  無事だ、という意味を込めて。

 「ご無事で、何よりです……二人とも、なかなか来ないから心配して…」

  肩で息をしながらもホッとしたような表情を浮かべる舞鼓に、朔良も苦笑を返す。
  
  本当は無事でもないんだが、とは口には出さず、ただ笑みを返し肯定の意志を現した。

 「心配をかけてすまない。俺も、こいつも、大丈夫だ。」

  後ろを振り返ろうとするが、背中合わせでそれはできない。
  常ならば一番に声を上げるのであろうが、疲れているのかルビーはまだ一言も口を開いていない。

  位置関係からか、舞鼓にもサラスにも、ルビーの姿は朔良の体に隠れてしまって、風でなびく金髪しか見えていないはず。

  サラスがザクザクと大地を踏みしめながら近づいてくる。
  ルビーの姿を見るためなのだろう、朔良の横を通り過ぎながら口を開く。

 「よく、頑張ったのである。ルビー殿。たった二人であれだけの敵を」

  そこで、唐突に、サラスの言葉が切れた。
  不自然なほど唐突に、そして続きの言葉も出てこない。

  歩みも止めてしまって、ただルビーの姿を見つめるだけになっている。
  視線を、そらせないでいる。

  その尋常の無さに気づいたのだろう。舞鼓が顔を上げて、「サラスさん?」と声をかける。
  朔良もまた、ゆっくりとサラスの姿を振り仰ぐ。
  サラスは、

  信じられないものを見ているような、そんな、まるで心が凍り付くようなものでも見ているような、顔をしていた。

 「さ、くら、どの……!」

  ようやく口にできたのだろう。
  凍り付いた唇から自分の名前を呼ばれ、朔良もまた、その『尋常』でないことが起きていることに気づく。

  思わず体を動かすと、ずるり、とルビーの体が『崩れ落ちる』。

  支えが崩れた小さな、彼女の体が横向けに倒れていく。
  触れあっていたはずの手は、簡単にずれてしまって、冷たい空気が朔良の肌を撫でていった。

  どさり、と何の抵抗もなく倒れ込んだ、その左手が。
  赤く、赤く、染まっている。
  胸元と、それから口にも、真新しい鮮血が、こびりついていた。

  







  ねぇ、朔良?
  あなたは知らないかもしれないけど、私は幸せだった。
  とても、とても、目が眩むほどの幸福に包まれていたの。

  だから、もういいよ。

  私から、解き放ってあげよう。
  あなたが私のせいで悲しまないように、あなたが私のせいで辛い思いをしないように。
  
  あなたは、もっともっと、しあわせにならなくっちゃ。

  私は、もういいから。

  私は、この扉を閉じるから。
  この、白い世界に留まるから。

  ありがとう、私のいとしい人たち。








  「その亡骸を抱いたまま、僕等は飛べない鳥の幻影を見る。」
   〜静かに、静かに、壊れていく。気づいてあげて。その扉を開けて。すべてが、手遅れになる前に。〜







  そして、
  さようなら、私の愛しい人よ。







 〜覚悟、代償、昏睡、夢、そして。 に、つづく〜