いつまでたってもやってこない衝撃と痛みに、ルビーは閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げていった。
  次に開けることはないであろう『闇』が、光に塗りつぶされていく。

  けれど、その光が弱く感じるのは、気のせいなのだろうか。

  血の、

  ルビーはぼんやりとした調子で閉じようとしていた意識を呼び覚ましていった。
  やがて、自分が誰かに抱きすくめられていることに気がつく。

  二つの腕。
  すっぽりと包み隠されるように抱きしめられて頬に布の感触がする。
  この暖かさは、とても心地よかった。

  血の、においが

  だがその瞳が『現実』を把握することによって徐々に見開かれ、そして歪む。
  自分がどのような状態で、状況に陥っていて、そうして…そうしてようやく、この腕が誰のものか思い当たった。

  わかってしまったら、どうしようもなかった。
  ゆっくりと顔を上げる。
  体は痛いままだし、切り落とされた左腕だってもう鈍い熱しか感じない。

  それでも、顔を上げた。
  そして息を飲んだ。

 「………」

  空白の名を唇に乗せる。
  その名が届くはずはないのに、それでも『彼』はゆっくりと顔をルビーのほうへと向けた。

  血の、においがする

  見覚えのある顔。
  いや、違う。大切な人、であるその顔を間違えるはずなどない。
  
  一度は氷解した心が、また凍り付いていく。
  
 「……く、ら……」

  今度こそ、咽の奥で必死に声を出し『ことば』にして音にした。
  自分のほうを見ていた顔が、ふ、と弱々しく笑うのを見てルビーが、叫ぶ。

  自分のものではない、血のにおいがする。

 「朔良!!」

  抱きしめられていてもわかる(ルビーはそういう風に出来ているから)。
  その背中が、鮮血に染まっていることを。







  刃にして劔。その名を、
  〜私は殺さない、奪わない。だけど、守るためなら…相手が外道なら、ねじ伏せ、捻り潰し、斬り刻んであげる。〜




  


  ルビーの叫び声があたりを包む。
  だがそれよりも彼女は、自分が置かれている状況……皮肉にも、『叫ぶ』ことによって彼女の意識は平静を取り戻した…に気づき、痛みを叫ぶ体をなけなしの力で動かし、瞬時に指先に魔法を構成する。

 「……お前は、風の子ども…! 荒れ狂え、『パズス』!!」 

  嵐の申し子と言われる神の名前(発動呪文)を叫ぶと、それだけで目も開けていられないような『範囲限定』の魔法が発動した。
  それは狙った相手、つまりターコイズに向かって放たれ、いままさに第二撃を振り下げようとした彼を吹き飛ばした。

  だが、それが所詮何の役にも立たない一時だけの時間稼ぎであることをルビーは知っていたし、魔法を放った瞬間に腹部を貫かれるような激痛に小さくうめき声を上げる。
  
  その瞬間、抱きすくめられていた腕の強さが増す。

 「さくら…!!」

  感触に後押しされるかのようにルビーが朔良の名を呼ぶ。
  彼は、

 「さくら、どうして……」

  彼は、ルビーが『殺されよう』としたその瞬間に。
  その身をかばったのだろう。自分の体で、その背を切り落とされても、なお。

  目を閉じる瞬間に、すべてを許し、覚悟した瞬間の光景が蘇る。
  
  そう、ルビーは『呼ばれた』のだ。

 「さくら……さくら、さくらぁ……」

  ルビー、と。
  そして抱きしめられ、今に至る。

  なんて無様なのだろうとルビーは己の浅はかさを呪った。
  守りたいと思った。
  大切な人たちを、友だちを、同志を、そして戦友を。

  傷つけられることのないように、今度こそ自分自身の力で守れるように、と思っていたのに。

  それが、このざまだ。

 「……さくら、さくら、さくらぁっ!!」

  壊れた機械のように、まるでそれしか呼べなくなってしまったかのように、ルビーが朔良の名前を叫び続ける。
  抱きしめられている、その力が弱まることはないのに返事がない。

  戦わなくてはいけない。
  今すぐこの腕を離して、行かなくてはいけない。

  ああ、でも、もう体が。

  体が、言うことをきいてくれない。
  痛くて痛くて、指一本を動かそうとしても全身を駆け抜ける鈍痛が、意識さえ奪い去ってしまいそうだった。

 「さくら、さくら……さくら!」

  行かなくてはいけない。
  行かなきゃいけない。
  でも、行けない。動けない。

  無様だった。

  自分を見つめている漆黒の瞳は優しい色を持ったままだ。  
  痛いだろう。きっと痛いに決まっている。

  守る、と言ったのに。その背中を、守ってみせると約束したはずなのにだ。あの時、ルビーは朔良と『戦友になる』と誓ったあの日から、ずっと。

  それなのに、その約束すら守れないのか、と、ルビーは確かに絶望した。

 「…ごめんなさい。」

  絶望したその時、ルビーの双眸からボロボロと涙がこぼれ落ちた。
  
 「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…ごめんなさい…!!」

  守れなくて、
  痛い思いをさせて、
  こんな役立たずで、
  期待に応えられるような器でもなくて、

  そのすべてに、絶望し、嘆き、ただ謝罪の言葉をくり返した。

 「ごめんなさい…」

  許して、とは言えなかった。
  



 「お前は……泣いて、ばかりだな。」




  その時だった。
  今まで微動だにしなかった朔良の体が動き、片方の手でそっとルビーの涙を拭った。
  その声と、その動き、何よりその優しい瞳のままであることに、目の前の少女が驚いていることに気づき、朔良は背中に走る痛みを堪えるように、時折眉根を寄せつつも、溢れ出て止まらない涙を拭い続ける。

 「俺といると、お前は…泣いてばかりだ。」

  苦しいであろう、痛いであろう、その下にあっても朔良はそんなことは口にはしなかった。
  ただ、目の前のの顔を見つめ続ける。

  驚いたような顔だったが、やがて顔全体をくしゃくしゃにさせて、必死で何かを紡ごうとするのに言葉にすら詰まらせる動き。

 「あの時も」

  ルビーと朔良が『戦友』となったその夜。はじめて彼女が彼の前で涙を流し、それを抱きしめた、あのとき。

 「あの時も」

  空からの帰り道。別れたはずのあそこで、彼女は静かに泣いていた。
  何か言っていたのか、しかしその言葉は遠すぎて彼の耳に届くことはなかったのだけど。

 「そして、いまだって」

  何か言いたげに開閉する唇。
  けれど嗚咽が邪魔をして言葉にさえならない。

  それでも朔良はルビーの涙を拭い、かすかに笑ったまま片方の手で彼女の体をしっかりと抱いていた。

 「ひどい顔だぞ。」

  からかうような響きだった。
  だけどルビーは笑うことができない。嗚咽をこぼし、涙を流し、朔良の言う『ひどい顔』のままで、何かを伝えようと必死になっている。

 「……すまない。」

  泣かせてばかりで、
  
 「痛いだろう?」

  普通、片腕を切り落とされて痛くないわけがない。
  気絶すらしてしまうような激痛であろうはずなのに。

 「お前の、望むような……俺でなくて、すまない。」

  違う、とルビーの声がかすかに聞こえた。
  朔良がその言葉をよく聞こうと耳を澄ます。
  『いつものように』、彼女の話す声は時折、蚊の鳴くような小さな声になってしまって聞き取りづらいから、それをよく聞こうと。

  一字一句、聞き漏らすことのないよう。

  それでも朔良は言った。
  片腕は彼女を逃がすことないように抱きしめたまま、その背で彼女の身を守れるように、ぎゅ、と。

  その言葉で、彼女の言葉がかき消えてしまっても、伝えようと。

 「約束だ。」

  紅色の瞳からこぼれ落ち続ける涙を見て、場違いにもそれがこのまま紅玉の雫になって散らばるんじゃないかと、朔良は思った。

 「お前が俺の背中を守るように、俺もお前の背中を守る。」

  戦友だから、と彼は何の気負いもなく、そう言った。
  言ってのけてしまった。

  もしこのまま彼女をかばっていたとしても、遅かれ早かれあの『殺人鬼』の刃が襲いかかってくるというのに。

  それでも動じることなく、ただルビーの涙を拭い、抱きしめ、笑いかける。

 「……約束。」

  ルビーがようやく口を開く。
  頬に涙を伝わせながら、拭い続けても溢れ出る涙を止められないまま、顔を上げて朔良を見る。

 「約束。」

  朔良の顔がゆっくりと近づいてくる。
  赤い瞳が黒い瞳を見、そしてお互いの吐息が伝わりそうなところまで近づき、止まる。

  身を屈ませ、額や鼻先がくっつき合うような近さで、朔良はただ笑っていた。

 「約束……やくそく。」

  それは縛り付けるものであり、
  祈りであり、
  願いであり、
  制限であり、
  呪(しゅ)であり、
  

  やくそく、そのものである。


 「……おぉりがろっとぉおおお!!!!」

  その時だった。
  ルビーの魔法を打ち砕いて、彼の『殺人鬼』が叫ぶ。
  憎悪の声。自分の『楽しみ』に水を差した恨みの声。凶暴な声のまま、その気配が爆発的な勢いで殺意に溢れていく。
  
  朔良の腕の力が強まり、涙を拭い続けていた片方の手をまた彼女の細い背に回して、抱きしめる。

  守るように。

 「それがお前のいとしぃやつかぁ、オリガロットぉ!」

  いとしい? 愛おしい?
  違う。そんなものじゃない。

  抱きしめられる腕の中(拘束にも似た、壁だ)ルビーが首を横に振る。

  だがルビーのその姿がターコイズには見えない。
  見えるはずなどなかった。彼女の体は、突然の乱入者によってその腕の中に隠されているのだから。

  それがまたターコイズの神経を逆撫でる。

 「お前を守り! その身を犠牲にして! 俺からお前を奪い去るつもりなんだよなぁ! そこのいえろーもんきぃ!!」

  差別用語など吐き捨てるターコイズに向かって朔良は首だけ巡らせた。
  そこにはルビーに向かって浮かべていた優しい笑みはなく、何の感情もこもらない瞳で、視線を流す朔良の顔があった。

 「『奪う』だと、巫山戯るな。
  俺はこいつを奪うつもりはないが、お前のものじゃない。そして、お前には手が余るし、不相応な上に、似合わない。」
  
  きっぱりと言い切り、そして唇を歪める。
  その表情は確かに、相手を小馬鹿にした嘲笑が浮かんでいた。
 
 「お前じゃ、役者不足だ。」

  大気が、鳴動する。

  朔良の言葉を聞いた瞬間、ターコイズのまわりの大気が確かに鳴動し……そして目の眩むような『邪悪』があたりを支配していった。
  ターコイズは憤怒の気配のまま、だがしかし表情を歪ませて『笑み』の形を作っている。

  それこそまさに、悪魔そのものの、邪悪な笑みでしかない。

 「…ならぁ!!」

  歪曲刀を翻し、マンイーターの刃を逆さにして『殺人鬼』は笑っていた。

 「なら、守ってみせろよぉ! その体でぇ! その命でぇ! かばうだけしか出来ない弱者がさぁ!!」

  にたぁり、と笑んだままゆっくりと構える。
  朔良もそれを視線の先で捉えたままだが、臆することさえなく腕のなかのルビーを抱きしめていた。

  何ものにも侵されることのない、『城壁』のように。

  ただ事の成り行きを見守るだけであったルビーが我に返り、体を動かそうと指先に力を込める。
  だがそれだけで意識を奪い去られるほどの激痛が全身を駆けめぐり、うめき声を上げるだけになってしまう。

  動かない。どこもかしこも、糸の切れたマリオネットのようにピクリとも動かなかった。

  その事実に、ルビーは改めて自分の無様さに歯痒い思いがした。
  何も出来ないのか、と崩れ落ちそうになる自我で思う。

 「……大丈夫だ。」

  だけど、

  朔良のその声で、ルビーはハッとし顔を上げて朔良のほうを見上げた(たったそれだけでも体に走る痛みは止まない)。
  彼はターコイズから視線を外し、ルビーのほうを見つめていた。

  血で絡まった金糸の髪を梳き、ゆっくりと頭を撫でる。

 「大丈夫、だ。」

  何度も、何度も、まるで呪文のように口にする。

 「俺がいる。」

  それは覚悟を決めたものしか出来ない、声。

 「俺を、信じろ。」

  そしてルビーは知ってしまった。

  その声が、覚悟している声だということを。
  彼はこの腕を離しはしないだろう。けっして、何があっても。

  傷つけられても、斬りつけられても、切り落とされてでさえも。

  『城壁』は、何からをも内なるものを守るためのものだから。
  でも、城壁は?
  敵に侵されようとする城壁は、誰がいったい守る?

  守りのない城壁は、ただ崩れ去るのが宿命ではないか。

 




 「……ひどい、ひと…」





  呟き、ルビーはかすかに笑んだ。
  頬を伝っていた涙が唐突に止まり、力を無くし、ただ滂沱していた瞳に光が戻る。

  『ひどいひと、あなたはなんてひどいひと。』

  どす黒い血にも似た紅蓮の瞳が、ゆっくりと光を取り戻し、紅玉……彼女の名、そのままのルビーの輝きを持って透明感を持つ。
  くすんだ金糸の髪は、風に靡く麦穂、あるいは日輪の輝きを持った黄金へと変わっていくかのような、錯覚を与えていく。

  『あなたはわたしからつるぎをうばい、ねがいをうばい、そうしてさいごには。』

 「ひどい、ひと…ね…」

  痛みが走っても構わず、ルビーは指先に力を込める。
  投げ出されたままだった足先に神経を集中させ、全身のありとあらゆる感覚に檄を飛ばす。

  『そうしてさいごには、あなたはあなたじしんでさえわたしからうばっていこうというの?』

  そんなこと、

  許せるはず、ないではないか。

  『ああ、なんてひどいひと。』

  ルビーは笑んだ。
  苦痛も、怒りも、悲しみも、恐れも、怯みも、虚しさでさえ、彼女から遠く後ずさっていく。

  『そしてなんて、』

  その微笑みは、穏やかで儚げであるにもかかわらず、何ものをも犯すことの許されない強さを秘めていた。

 「あいしてるわ。」

  『そしてなんて、いとしいひと。』

  その言葉がすべてだった。
  愛ではない。恋でもない。そのどれでもない、ただいとしいと思う。

  そして言える。『あいしてる』と。
  
  動け、とルビーが全身に命令する。
  動け、動け、動け、動け、動け、動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け!!
  痛むならいくらでも痛むといい。
  目の眩むような痛みも、意識を奪い去るような痛みでさえ、今のルビーを止めることなどできない。

 「そして、」

  刹那−。

  ルビーの視界を、あの白い世界が覆い尽くしていった。
  けれどルビーはそれにもう恐怖さえ感じない。

  胸に穿たれた『最後から二番目』の穴は、目の前の彼が埋めてしまったから。

 「信じるわ。」

  呪いは解(ほど)けて、『約束』が彼女を突き動かした。




  迫る『殺人鬼』に、少女がゆっくりと呼吸を整え、朔良を見る。
  互いに交錯する瞳。そして頷くルビーの顔を見て、彼は微かに笑った。

  拘束する腕の力がなくなると同時に、ルビーは全身のバネを使って飛んだ。
  痛みは遠い。彼女の命令が、祈りが、願いが、再び彼女の何かを蘇らせた。

  文字通り、彼女の背には翼が出現し、風を捉えて駆け上がっていく。

  無くし、解けてしまった『力』が急激に集まり、少女の掌に凝縮される。
  切り落とされた腕にも風が集まり、形を作り……そこに翼を出現させた。
  飛び出し、目の前にターコイズを見たルビーが『劔』を作り出すまでは、まるで瞬きさえも追いつかない圧倒的な速さであった。

  作り出された劔は刃を光らせ、力を持ち、少女の掌に柄を握らせることを『許す』。

  その刃は『斉藤 一』ではなく、『山南 敬助』でもなく、その二つもどれにも似ず、けれどその二つの何かに似た刀であった。

 「オリガロットォォォォォ!!!!!」
 「ターコイズゥ!!!!」

  殺人鬼が叫び、少女もまたありったけの力で持って名を叫んだ。

  交錯する二つの刃。
  その瞬間、風が、止んだ。









  沈黙が、世界を包んだ。









 〜「その亡骸を抱いたまま、僕等は飛べない鳥の幻影を見る」に、つづく〜