はじめて感じた、途方もない威圧感(プレッシャー)。
  己の体を掴むようなその喩えようもない禍々しい感覚が体を包み込んでいく。
  ぞわりと体に冷や汗が浮かび、背筋がスゥッと冷えていく。

  それは『此処』が日常とはかけ離れたものだから。
  それは『此処』が自分が常日頃身を置いている箱庭の世界とはまったく種の違うものだから。

  だがそんなもの。
  そんなもの気にも留めないで、金髪の少女はただ静かに歩みを進めていた。

 「信じて」、と言われた。
 「大丈夫だ」とも。

  繋いだ手をそうして離した。

  その瞬間、目の前にいた少女はほんの少しだけ寂しそうな顔をして、笑った。
  いつものように困ったように笑って、こちらを見てひとつ軽く頷いたのだ。
  
  それは『此処』と『いつも』が繋がっている証。

  威圧感は止まない。
  あの、少女が進む先にいる『白銀』の何かは普通ではない。
  普通ではあり得ないのだ。

  このプレッシャーも、感覚も、全部あれが発しているから。
  正直、相手などしたくもない。

  ……もししてしまったら、そのときはこの場を包み込むプレッシャーやら殺気やら、何もかもが自分に襲いかかるわけだ。それに堪えられるものは少ないだろう。


  その威圧感は、まるで『死』そのものだから。

 
  真っ黒で、巨大な何か。
  ぽっかりとその口を開ける化け物のような何か。
  今にも自分の首をかっ斬るような鋭い刃のような何か。
  にたりと、笑うそれ。

  そのどれもが『普通』じゃない。

  ならば、それに真っ向からぶつかっていくあの少女も『普通』ではないのか。
  小さな体。細い顎、肩、腕、足。白い肌に、大きな赤い目。
  巨大で真っ黒な何かに対面しようとも、色あせることなく光り輝く金色の髪。そのどれもが普通ではないと?


 「さあ。」


  それと相対する白銀の髪を持った青年が口を開く。
  がちゃりと刃を鳴らして取り出したのは一本の歪曲刀。そしてマンイーター。
  対して、少女もまた『風』を集めて刃を作り出した。
  音もなく出来上がる双振りの日本刀(確か『山南敬助』という名だったはずだ)

 「はじめようかぁ? 俺の宿敵、俺の獲物。」
 「私は貴方を宿敵に持った覚えなんてないわ。」

  きっぱりと言い切り(これ以上ないほど明瞭に言い切って)、少女は……ルビーは静かに息を吐いた。

  『死』というものすら臆しないその姿。
  
  ……『普通』とは、何なのか。

  そんなことをぼんやりと考えていた。
  不思議とルビーのことを心配したりはしなかった。


 
  彼女が、必ず勝つことを知っているから。
 






  Battle Without Honor Or Humanity −『殺してしまおう。この思いも、この心も、みんなみんな、消してしまおう。』−







  ゆっくりと、ルビーはただ歩いていた。
  片手に持った『山南敬助』は一歩ごと足を動かすたびにユラユラと揺れて、ひらめく白いスカート丈でさえ戦いに赴くものではないというのに。

  もう片方もやはり小太刀となる双対の『山南敬助』を握っているが、けっして構えは取っていない。

  そのどれもが、『殺し合い』にいくような素振りを感じさせないものだった。
  だが、それとは裏腹に少女が向かっていく先にいるのは、まさしく、『死』という何かを引き連れた者。

  普通の者は言いようもわからぬ不安感と、逃げ出したくなるような恐怖を感じるだろう。
  少しでも武芸に、あるいは『ころしあい』を身につけた者なら、殺されるという絶望感でいっぱいにされてしまうだろう。
  『死』は、『終わり』という何かは、きっとこんな男のことを言うのだ。

  安らかな終わりが『死』というひとつの終結なら、この男は暴力的なまでに奪い去っていく『死』だ。

  それでもけっして怯まず、恐れもせず、臆しもせずにルビーはただ進んでいく。
  野を駆け抜ける風、木々を揺らす葉音、地面を踏みしめるたびに響く砂の音。
  それに衣擦れが合わさり、呼吸と、聞こえるはずのない、心音も、合わさる。

  じりじりとした永遠とも思える、足音。

  白銀の男が、静かに待つ。
  『自分の領域』に入ってくるのを、ただ静かに、待つ。

  それでもその凶悪な笑みだけは変わることはなかった。
  闇よりも深く、けれどその色を保てる深海のブルーの瞳。
  深雪を思わせる白銀の髪でさえも、その凶悪さを引き立てるものでしかない。

  瞳からにじみ出る狂喜。
  
  そう、狂喜なのだ。狂気ではなく、狂うように喜んでいる。
  
 「……なぁ、黒緑んー……本気でヤってもいいんだろぉ?」

  『にたぁり』と笑んだまま、視線を変えることなく後方にいる瑪瑙に問いかける。
  先ほど受けた傷を片手で抑えたまま(内出血と銃痕だ。痛まないわけがない)、瑪瑙が静かに伏せていた顔を上げる。

  ふ、と息を吐き、そして表情を変えることなく、口を開く。

 「好きにしろ。」

  ただ、その一言だった。

  『妹』が殺されるかもしれない状況でありながら、瑪瑙が口にしたのはその一言だけであった。
  瞬間的にルビーの後方で事の成り行きを見守っていたリョウが(声は聞こえないのだろうが、唇の動きでその言わんとすることを知ったのだろう)ギリギリと歯を噛みしめる。
  優華もまた嫌悪に満ちた表情を浮かべて瑪瑙を見る。

  いっそ、視線で人を殺せるならこれほどの威力はないほどの強さで、見た。

  だが瑪瑙は動かない。
  リョウも、優華もまた、同じであった。





  先の一言で、『はじまった』からだ。





  爆発的な脚力を持って、ターコイズが『飛んだ』。
  文字通り地面を蹴り上げ、宙を飛んで一気にルビーとの間合いを詰めたのだ。

  ルビーもまたそれを瞬時に判断し、刀を逆刃に変えて上段の構えを取る。

  耳障りな金属音が一度、合わさる。
  そしてマンイーターの刃を受け止めたルビーが次の瞬間、顔に苦いものを浮かばせる。
  ……その一度の激突だけでわかったのだ。自分と、目の前の男の途方もない『力』の差を。

  力というのは、そのままの意味だ。
  腕力とか、そういう他の要素を一切欠いた、力加減のこと。
  少なくとも身長は50センチは違う。筋力も大人と子どもほどの差があるだろう。
  それでなくてもリーチの差だけでも、ルビーにとっては不利な状況になる。

  だが、

 (……それでも、兄君ほどじゃない。)

  それと同時に頭は冷めて、正確に、自分の状況を判断していく。
  ターコイズの力は、力だけなら、リョウに劣っている。目の前の男の一撃も威力があるものの、リョウの一撃ほどのものではない。

  しかしスピードが違う。
  
  リョウも、そして瑪瑙も早い。早いが、ターコイズの場合は『異常』なまでの速さだった。
  迷いがない。
  人を傷つけることも、命を奪い取ることにも、何の躊躇もない絶対的な一撃必殺。
  
  そのものずばり、一撃でもって相手の息の根を止めるための動きなのだから、タチが悪い。

  ターコイズの追撃が始まったのはその時だ。
  ルビーもまた思考するのを閉じて、その攻撃を受ける。

  上から数度、あるいは下段。
  突きを繰り出してきた動きを体を回転させるようにして避けると、ルビーもまた剣を振るう。
  八相からの打ち下ろしであった。肩口から斜めに体を縦断するはずの、斬撃。

  それをターコイズは歪曲刀で受けた。
  斬撃が途中で受け止められたことに舌打ちをひとつすると、ルビーがバックステップで持ってターコイズから距離を取った。
  ターコイズもまた、それがわかっていたようで同じように彼女から距離を取る。
  
  しかしターコイズが離れた瞬間、彼がにぃ、と残虐な笑みを浮かべたことに気づき、ルビーは『本能』で持って振り返る。

  その先に、先ほど切り伏せたはずの『生きていない者』たちが数体起きあがり、リョウたちのほうへ突進して行こうとしている。
  リョウがそれに気づき銃を上げて応戦しようとする。

  (無駄弾を使わせるわけにはいかない…!!)

  瞬間、リョウの持っているオートマチックと回転式拳銃の弾丸の数を思い出したルビーは、ターコイズから目を離すのを良しとはしなかったものの、先のことを考え、日本刀を消し、新たに八本の小刀を両手の指の間に作り出す。
  リョウの銃の腕を考え、そしてこの戦いを乗り越えたあとのことを考えても、それは絶対に必要なものであったから。
  両手で構え、『敵』に向かって、風に乗せて一気に放った。

  ちょうど、ルビーのその動作に気づいたリョウがトリガーから指を離すのとほぼ同時のこと。

  ルビーの放った小刀は、正確無比を持って『敵』の後頭部に、心臓部に、あるいは首に突き刺さる。

  まさに必殺のもので持って、瞬きもできない間に同時に行動できなくしてしまうと、ルビーは急いでターコイズのほうへと『振り返る』。
  目を離していたのはほんの数瞬だった。

  しかしその間にターコイズは数メートル…いや、軽く十メートルは離れた距離を埋めて、ルビーに今正に襲いかからんとしていたのだ。

  マンイーターが絶対の力を持って振り下ろされる。
  それを紅玉の瞳で確認し…、彼女はそれを避けることでやり過ごそうとする。

  だが間に合わなかったのだろう、出遅れた右腕が剣圧によって引き裂かれ、真っ赤な血を滴らせた。

  ルビーもただやられるだけではなかった。
  避けた反動で持って反転し、地を蹴って腕を振り上げる。
  反動と遠心力、さらに本来持ったスピードで持ってひじ鉄を相手の顔面横に、叩き込んだ。

  ターコイズの体がその衝撃に耐えきれず、吹き飛ばされ、ルビーが地面に着地する。
  
  その痩躯が地面につくかつかないかのすれすれのところで、ターコイズは片腕で地面をついて、立ち上がった。
  両足をしっかりと地面につけ、体を揺り動かすようにして真っ直ぐに立つ。

  そしてルビーの姿を見た瞬間、楽しげに、見る者の背筋を氷らせるほど禍々しく、笑んでいた。

 「いってぇなぁ……だが、さすがだなぁ。オリガロットの血はよぉ?」

  たいしてダメージは負っていなかった。
  ルビーもそれを予想していたとは言え、そのあまりの耐久力に舌を巻く。

  さっきのひじ鉄だって、並の人間が受けたのなら昏倒するような威力だったのだ。

  それを受けても倒れもせず、なおかつ意識もしっかり保っているなどと……
  (……冗談、じゃないわ…)
  心の中で思わずそう毒づいて、ルビーは改めて両手に刀を作り出す。

  柄を握り、そしてちらりと、優華たちのほうを見た。

  先ほどの『伏兵』はおそらく、ターコイズの意志によるものだろう。
  自分を追い込むために。そう。
  この戦いを、楽しむためだけに、ターコイズはリョウ達を攻撃しようとしたのだ。
  ルビーにだってそのくらいのことはわかった。だが理解できない。
  そんなこと、理解したくもなかったのだが。

  しかしこのまま戦いを続けていてはいつまたターコイズが同じ手段を使ってくるのかわからず、そしてルビーもまた次を抑えきれるかどうかわからなかった。

  このまま近くで戦いを続けていれば、いずれ
  そう思い当たり、ルビーが反転して駆け出す。
  まったく見当はずれのほうへと走り出したルビーに、ターコイズもその意図を感じ取ったのだろう、

 「……はっはぁ! そうだよなぁ…やっぱ殺合いは、ふたりっきりでやるもんだよなぁ!!」

  凶暴に笑んだまま、その後を追う。
  風のように速く疾走するルビーのあとを(魔法を使ってもいないのに、あの脚力)同じように追いかけるターコイズ。

  森のなかへと消えてしまった二人を、残された面々はただ呆然と見送るしかできなかった。

  まさに一瞬のこと。
  思考すら追いつかない斬撃と、戦闘と、殺戮。
  なによりも少女の、『逃走』。

  その心境を誰よりもはやく理解したのは、同じく戦いのなかに身を置いて久しいリョウと瑪瑙だった。
  皮肉なことに、先ほど雌雄を決した二人が、ほぼ同時に彼女の意志を感じ取り、そして理解した。

  自分たちを巻き込まないように離れたこと。
  
  ただそのためにたった一人で、立ち向かおうとしていること。

  リョウが思わず後を追おうとして銃を腰に差し、走りだそうとしたところで。

 


 「いっておいで、朔良。」



  唐突に、声が響いてそれによってリョウの動作は止められた。
  見ると楓が、朔良のほうを見つめている。

  戦いに入る直前まで、手を握っていた、彼。
  ルビーと言葉を交わしたのも、彼だった。

 「…かえで、さん…」

  驚いたように(おそらく先ほどの戦いの流れを理解するのが遅れているのだろう。あんな、ありえない闘争)声を上げる朔良に、やはり楓は「いっておいで」とただ一言を続けるだけだ。

 「いっておいで。リョウさんは行けない。ここで『敵』をどうにかしておかないといけないからね。」

  先に手を打たれて、リョウがくぐもった声を上げる。
  もちろん不満の声だったら楓はそんなことをあっさりと無視して、話を続けた。

 「多分、ここで適任なのは君だよ。道しるべでも、同志でもない。戦友たる、君が。
  ……守っておいで。君のできるかぎりで、君の決意をかけて。」

  その言葉は突き放すような強さを持っていた。
  けれど、まるで道に迷うものの先を示すように優しささえ、持っていた。

  優華が頷いて朔良を見る。
  珠洲がひらりと手を振っていた。
  ネスは頑張れ、と言いたげに拳を作ってみせ。
  サラスが深く頭を下げた。
  舞鼓が仕方なさそうに笑っている。

 「心配すんなや。」

  そうしてリョウが心底不服そうな顔をしながら、だが絶対な決意を持って朔良を見る。
  その表情はどこか頼っていいものだと思わせるような力強さが秘められていた。

 「楓ちゃんたちには、指一本触れさせたりせぇへん。僕に、任せとけ。」

  言葉が、告げられて。

  朔良が困惑したままの顔だったものが、ゆっくりと生来のものに戻っていき、やがていつもの冷静さで持って整えられて、頷く。

 「いって、きます。」

  朔良は笑って手を挙げ、それから地面を蹴り走り出す。
  その背中に迷いは毛頭無く、決意だけが備わっている。

  それを見送りながら、そっと楓が目を伏せた。

  だからその表情を誰も見ることができなかったし、誰も知ることができなかった。
  ただ、吹く風だけが知っている。

 

 「………どんな結果になっても、後悔しないように。」



  その複雑すぎる表情を、誰にも見せることなく、誰も聞くこともなく、風にかき消されていく。
  無論それは、走り出してしまった朔良にも届かなかった。

  たとえ届いたとしても、彼の歩みは止まらなかっただろうが、それでも、届かなかった。







  やがて森の中でも開けた場所……小高い丘に連なる平原を見つけて、ルビーは足を滑らせるようにして地面に足をつけ、停止させる。
  砂煙が足下に舞い、ルビーは剣を構えた。

  その次の瞬間。

  刃は数度、鳴った。
  ターコイズはすでにルビーとの距離を詰め、剣戟の嵐を浴びせかけている。
  ルビーが回転をかけながらターコイズの剣を避け、横向けに斬る。

  だがターコイズもそれを剣で止めると、もう片方のマンイーターでルビーの首筋を狙って切りつけた。

  さらにそれをルビーは小太刀のほうで受けると、両者はしばし停止する。
  赤い紅玉の瞳が煌めく。それは日の光。炎にも似た、すべてを温める力。
  青い深海の瞳が閃く。それは深き闇の光。凍り付くこと許さない、すべてを停滞させる力。

  その二つの光は強く、だからこそ決して相容れることの許されないものだ。

  二つは両者の『存在』を許さない。
  望む、望まないに関わらず、あまりにも互いが違いすぎているから。
  二人は数巡のあとには完全に離れた。
  そして互いを『消す』ために舞い、斬り、滅せようと力をぶつからせる。

  ルビーがグッと身を屈める。
  剣を構え、空気を尖らせて『気』を己の体内に取り込むかのようにして深く息を吸った。
  その間にもターコイズの剣戟も、あるいは蹴りや拳の嵐も止むことはないが、それをルビーは受ける。

  それでも体の至るところに防ぎきれなかった傷はついているし、血も流れ出している。

  そんなもの、ルビーにとっては微塵の敗北の材料にもならないが。
  ルビーはさらに剣を持った手を後ろにした。
  その構えに気づいたターコイズが反射的に体を後退させようとしたが、

 「もう遅い。」

  少女の宣言とともに、彼女の剣は唸りをあげるようにしてターコイズに襲いかかった。
  上から下まで一直に切り下げ、さらにそれを横に華麗なまでの動作で薙ぐ。
  
  それは神速のもの。
  ターコイズが攻撃を受けきれずに小さく舌打ちをしたが、攻撃はそこで終わらなかった。

  薙いだ剣を今度は一直線に『突く』。
  まさに突。
  牙のように鋭く、けれど牙よりも速く、ターコイズの体に向かって剣を突いていた。

  それは数秒にも満たない、秒速の世界。
  あるいは音速とも言っても良い。
  人の限界を軽く飛び越えた、『想像を絶する』世界の技だった。

  ターコイズの体が突によって吹き飛ばされるのを見てルビーが優雅な動作で剣を構える。

  銀色に鈍く光る剣が、陽によって照らされていた。

 「これぞ、我が技……『雪月花』。」

  小さく呟き、構えたままルビーはターコイズを見た。
  ターコイズもダメージを受けているかのようだった。今度こそ地面に倒れ込んだが、それでも全身をバネのようにしならせて立ち上がる。

 「はっはぁ! やっぱりお前はすごいやつだぁ! 想像以上だぞ! 楽しいぞ、楽しいぞ!!
  最高だ! 俺は今、猛烈に気分がいい!!」

  凶暴に笑んだまま、ターコイズがマンイーターを構えた。

  両者の間に沈黙と、そして時間が止まったような錯覚さえ起こる停止が、訪れる。

  だがルビーが動く。
  指を動かし、剣を握りこんで構えが解くことのないように。
  ターコイズもまた動いた。
  地面に足をつけたまま移動し、片足を前に出した。



  ルビーとターコイズの力の差はほぼないと言っても良いようにも見えた。
  拮抗しているがために、徹底的な一撃が出ていないのではないかと。

  だが実際は違う。

  ターコイズはまだ『楽しんでいる』。
  自分の力のすべてを出し切るわけではなく、ただルビーとの殺合(ころしあい)を楽しんでいるだけだ。
  そのために技をわざと受けたりもしているのだろう。
  リーチの差を有効に使おうともしないのだろう。

  ルビー自身、その事実を肌で感じている。
  ギリ、と奥歯を噛みしめ、悔しさを隠すことなく浮かべていた。

  状況は、はっきり言って悪すぎる。

  先の正月に行った瑪瑙との勝負は、勝てた。
  しかしあれは運が良かったと言っていい。勝てたことこそ奇跡のようなものだ。

  勝てる、と思っていたとしても、力の差は感じてしまうのが、ほんものの『もののふ』というもの。

  相手の力量を正しい測れるようになるくらいには、ルビーも強くなっていた。
  このまま戦いが続けば確実にルビーが負ける。

  徹底的な一撃が出なければ、そして疲労がルビーの体に襲いかかれば、あっけないほど簡単に。

  

  そうなるわけには、いかない。



  なんとしてでもこの戦いに勝利しなければならない。

 「さぁ、もう一発イくかぁ……お前も、来いよぉ! 俺と、」

  そうしなければ、この『殺人鬼』は自分の首を切り落として、リョウや優華たちを襲いかかりにいくだろう。
  そして何の躊躇もなく、殺すだろう。

 「俺と、殺し愛え!」

  それだけは、是が非でも、止めなくてはならない。
  たとえ「なにがあっても」、止めなければ。

  だって、もう時間が
  この体に仕掛けられた時限爆弾は、確かに時を刻み続けているから。

  もう、時間がない。

  この体が止まる前に、壊れてしまう前に終わらせておかなければいけない。

  

  たとえ、そのために、ひとになれなくなったとしても
  守りたいと、願うひとを守れるのなら、

  私は、喜んでこの身を捧げる。
  この身を、剣とする。

  心を








  風が、止まる。








  啼いていた風が突然止まったことに気づき、走り続けていた朔良は不審そうに顔を上げた。
  あの二人のスピードは異常だ、と思いつつそれでも急いで追いつこうと朔良は走っていた。

  走っていた、彼の頬を掠めていたはずの、風が止まる。

  だがそれでもここで立ち止まるわけにはいかず、朔良は走り続けた。
  やがて森のなかの一角の小高い丘のある平原を見つける。

  そこに先ほどの白銀の姿を見つけて、彼はそこを目指して走る。

  ざわざわとする森の木々をくぐり抜けて、やがてたどり着く。
  そして朔良は、自分の目を疑った。







  ルビーは静かに心のなかで『詠った』。
  朗々と、あるいは一つの恋の歌のごとく甘く、切なく、けれど強く。

  それは唄。
  自分のなかのすべてを封じ込めるための、鍵たる言葉。

  劔に涙なんかいらない。

  ルビーは一歩一歩、足を踏み出しながら心に命じる。
  甘い声は恋ではなく、切ない声は愛ではなく、強さで持って、心をただ沈める。
  心を殺すために。
  涙を消すために。
  魂を縛り付けるために。
  自分という『概念』を、消し去るために。

  劔に言葉なんかいらない。

  思い出も、一つずつ封じ込めていく。
  優しい記憶。彼女という何かを目覚めさせてくれた、とてもあたたかなもの。
  それをすべて、封じ込めてしまうために。

  劔に魂なんかいらない。

  白い、真っ白な世界に埋めてしまう。
  凍り付いてしまうように。箱に入れて、鍵を掛けて、雪の奥深くに埋めて。

  劔に心なんかいらない。

  ひとつずつ。
  「斬ってくれても、かまわぬよ。」
  ひとつずつ、ひとつずつ。
  「お前は、人だ。」
  隠して、くるんで、埋めてしまって。
  「私がウソをつくと思っているのですか?」
  鍵をかけて、その鍵を力一杯、放り投げる。
  「お前、謝りすぎ。」

  劔に思い出なんかいらない。

  「姉さん。」
  「ルビー。」

  劔に、そんなものはいらない。

  そうして出来上がる。
  ひとではなく、ひとというものではなく、『オリガロット』が、完成する。

  ”オリガロット”の『本当』の名を持つモノが。そこで『ルビー』の意識は、消えた。




  朔良の目の前に広がる世界のさきにいたのは、彼女であるはずだった。
  黄金の髪。
  白いワンピース。
  小さなからだ。
  細い腕。

  だが、朔良はどうしても、『それ』をルビーと思うことができない。
  どうしようもない違和感が心のなかを埋め尽くしていた。

  あれは、なんだ。
  『あれ』は誰なんだと、声にはせず心のなかで叫ぶ。

  

  あれは、いったいなんだのだ。



  朔良の心の叫び声に答えるように、ゆっくりと彼女が顔を上げた。
  そこに表情はない。
  そこに意志はない。
  そこに心はない。
  そこに温もりはない。

  そこに、『彼女』がいない。

  


  いたのは、そう。
  煉獄の炎の朱色を持った瞳の、『少女』。

  まさしく劔を持った自動人形。
  まさしく剣を振るう殺人人形。

  完璧なまでの絶対的な『無』の美しさを放つ、人形。



  オリガロットが、そこに佇んでいた。







  〜レクイエム に、つづく〜