今でも脳裏に鮮明に焼き付いて離れない、『映像』。
  真夜中のロンドン。街の明かりと、月の光、そして微かに瞬く星達の下。
  鳴り響く音楽。
  夜の静けさとはまるで違う、ある種の滑稽ささえ持った明るくて華やかな『ワルツ』。

  道行く人々がその音楽に振り返る。
  甘いひとときを過ごしていたカップルや、仕事帰りの人々、そしてこれからどこに向かうかも知れない人でさえ巻き込んで。

  持ち寄る楽器はもちろんのこと、それを演奏する人々でさえ統一感の一切ない有様。

  そのくせ、どうしてこんなにも人の心を動かすものが作れるのかと不思議に思ったのを、今でも覚えている。

 「『音楽』ってのは、一種の魔法なんやで? 珠洲はん。」

  そう言って記憶のなかのリョウが楽しげに笑んでいた。
  やはりその手にも愛用のヴァイオリンが握られている。そしてその手からも、『魔法』は響き渡っていた。

  幾筋もの旋律が束となり、ひとつだけなら小さなものが大きなうねりとなり、魔法となり、人々の心を打つ。

 「あんたにはあんまり見せたことなかったからな…だから、見せてみたかったんや、この『音楽』を。」

  大業に腕を広げると、途端にまわりから何を思ってか歓声が上がった。
  その声に笑顔で答えて、リョウが珠洲のほうを見つめている。

  瞳は柔らかで、優しくて……なのに、どうしようもないほどの不安を与えるような、不可解な色を持っている。

  月の下の演奏会は終わらない。
  踊り出すものさえいるその中で、リョウはただ静かに珠洲を見つめていた。

  たまらず、口を開いて彼の名を珠洲が呼ぶと、リョウは少しだけ目を細めた。
  それは『嬉しい』ときと、そして『困った』ときにする彼の特徴。

 「あいしてる。」

  そうしてその言葉を口にする。
  愛おしむように、大切なもののように、壊れやすいガラス細工の宝物でも目の前にしているかのような優しさで持って、珠洲に『言葉』を紡ぐ。

  そんな言葉が、心に届いても不安というものにしかならないことを、彼は知っているのだろうか?

 「あいしてる……今までも、これからも。」

  常ならば照れて滅多に口にしないくせに。
  いつもなら笑って誤魔化そうとするくせに。

  どうして今は、そんなにも優しく、真摯に口にすることが出来るのだろう。

  そう、それはまるで。

 「ずっと。」

  それはまるで、これが最後だ、と言い含めるようなものだった。








  
  眠れる女王−目覚めるもの、眠りにつくのも、すべてはその意志次第。−









  その部屋に足を一歩踏み入れたとき、あまりの『異質』さに目眩を起こしそうになってしまった。

  この部屋は暗い。空気が重い。そして何より、生きている気配さえもしていない。
  四角い箱のような部屋の片隅。

  そこに居る『彼』を目で捉えても、頭のなかはそこに『彼』がいることを知覚できないほどに。

 「……リョウ?」

  珠洲が名前を呼んでも返事はない。
  いつもならその名を呼ばれると顔を上げ、振り返り、視線を流し、珠洲のほうへと笑いかける。
  それが『彼』だった。

  だが、今はどうだろう?

  三つ編みに結んでいたはずの銀髪はバサバサで、所々が赤黒い色がこびりついてしまって、手入れもしていないのか顔に流れかかってしまっている。
  長い両手両足は力無く投げ出され、ぴくりとも動かない。
  壁を背にしてもたれ掛かり、座り込んでしまっていた。
  
  そして何より、彼の『左手』があらわになっている。

  革手袋はなく、腕全体を隠していた包帯でさえ、なくなってしまっていた。
  銀と赤の混合物体。
  一言で現すなら彼の左手は『そういうもの』だ。

 「リョウ。」

  隠すのは、誰であろうとこの手を見て『良い気分』はしないだろうから、という彼の配慮のようなもの。
  そして過去を隠したいというあらわれ。
  
  それは約束であり、願いであり、羞恥でもあり、贖罪でもあったからだ。

  だから隠す。
  一般の常識を、彼はおかしなところで理解している。
  
  そして何より、それを隠すのは、

 「……あたくしの声が、聞こえないの?」

  黒髪に紫の瞳を持つ、彼のたった一人の『約束』の相手の少女のためだけだ。
  そう、それはまるで『永劫』の約束のようなもの。

  彼の少女が大切な人を見つけ、その約束を反故したにも関わらず、それでもリョウは『大切』に『大切』に、彼女のためだけに責を負い続けている。

  醜い腕を隠すのは、彼女がそれを見て悲しませないようにするため。
  ふとした拍子でも見てしまったときに、彼女が涙を流さずにすむように。
  そう、『これ』はお前のせいなんかではない、と忘れさせるため。

  ただそれだけのため。

  他の誰のためでもない、『彼女』のために。

  それがひどく、苛立ちを感じさせたのを嘘には出来ない。

 「あの子の声は聞こえるのに、あたくしの声は聞こえないの?」

  いつかルビーが言っていた。
  あの二人の間には目に見えない、他人には決して踏み込むことのできない『絆』があるのだと。

  その絆が二人を縛り、そうしてそれを、他人には触れさせようとしない。
  必要なものだということは聞かされていた。
  そうしなければならないほど、彼女が弱っていたこと、絶望していたこと、そんなことを断片的にではあるものの、聞かされていたから。

  だが頭で理解できても、心が追いつくわけではない。

  どちらか片方が死ねば、残りの片方も死を選ぶだなんて、そんなの。
  まるで『つがい』の鳥。片方がなくなってしまえば飛ぶことさえできないという、片翼。


  それでも、





 「……起きなさい。だったら、あんたは、その約束を守らなきゃいけないんでしょう?」





  それでも。
  たとえどんな感情がうずまいていたとしても、守らなければいけないものがある。

  珠洲の、稟とした声が暗闇に響く。
  氷のように冷たく凍えながら、その実、炎よりも強い力を持つもの。
  冷えているからその思いは変わることはなく、熱いからこそ、伝わる。

  そう、彼は、守る。
  
  守りたいものを、その全身全霊をかけて守ろうとする。
  たとえそれが……優華であっても、ルビーであっても、楓たちであってもきっとその姿勢は変わらない。
  珠洲であっても、彼の『大切』なものであれば、彼は彼自身のすべてをかけて、守る。

  折れてしまったら、それはもう『彼』ではない。
  守れなかったと知った瞬間、もう守れはしないのだと悟った瞬間。

  彼は彼自身でなくなるのだろう、と珠洲は感じていた。

  誰かが彼を子どものようだ、と言った。
  子どものようによく笑うし、よく怒るし、泣くことだってあった。明け透けで、嘘が下手で、言いたいことはズバッと言ってしまう(それでも、本当に言いたくないことは上手に、嫌になるくらいに上手く隠してしまうのだけど)。

  だからこそ、
  彼の、彼の大切なものがひとつでも欠けてしまったら、彼は泣くだろう。
  自分の無力さを罵り、憎悪し、憤怒し、そして、自分を決して許しはしない。

  苛烈な炎。
  
  火は、まわりのものを暖かくしてくれるし、闇を照らしもする。
  だが逆に、すべてを焼き尽くす。
   
  自分でさえも。

 「あんたが約束を違えるところなんて、想像もできないし、したくもないわ。
  だって、あんたは。」

  そうして、一歩、近づく。
  だがまだ彼は動かない。伏せられた銀の睫毛の一本でさえも、動き出さない。

 「あの子たちも、そしてあたくしの願いも、『守って』くれるんでしょう?」

  あの約束。
  必ず、何があっても珠洲の元へ帰るという、約束。
  六月に式を挙げたときからも変わらない、約束のひとつ。

 「だから、こんなところで寝てていいはずがない。このままじゃあんた、本当に守れないのよ!」

  珠洲の声(ほとんど叫ぶように)が空間に響く。
  それは確かにリョウのもとにも届いているはずなのだ。

  鼓膜を振動させ、聴覚にまで伝わっているはず。
  
  だが、まだ、彼は。

  珠洲の脳裏に『あのとき』のルビーの姿が映る。
  ようやく、ようやく自分たちに助けを求めた、姿。ほとんど泣くように顔を歪ませて、『たすけてください』と、頭を下げたときのこと。

  彼女はおそらく、追い込まれている。
  張りつめた一本の糸のようにピン、と張ったままの、いつ切れてしまうのかもわからないような状態。
  だからこそ彼女は、『置いて』きたのだ。

  朔良や舞鼓、それにサラスに楓を側に置いてきたのは、彼女をそこに縫い止めておくため。
  なにがあっても、彼らを守るために『立って』いられるように。

  それに優華だって、リョウにもしものことがあれば、きっと『約束』を遂行する。
  あの子もそういう子だ。
  
  たったひとつの約束を違えるのを良しとせず、ネスティがいたとしても、きっと。

  きっと。

 「あんたの家族なんでしょ、あの子たち。幸せにしたいんでしょう? 幸せになってほしいんでしょ?
  そのあんたが、あの子たちを不幸にしてしまったら……あんたいったい、どうするのよ!」

  もう一歩、近づく。
  すでにリョウの足下まで珠洲は近づいていた。顔が見えない。

  うつむいたままの顔が、珠洲を見ていない。

 「……………でも、あんたは…あたくしのところに戻って、くるんでしょう!」

  さらに、一歩。

 「戻ってこないつもりだろうと、あたくしにあんたの場所がわからないとでも思ってたの!?
  あんたはあたくしのなんだから、勝手に……勝手に、いなくなろうだなんてっ!」

  


 「………盛大な、告白…聞いてる気分やな…」




  そのとき、だった。
  今まで珠洲の声しか響かなかった空間に、ぽつりと低い声が、した。

  珠洲が思わず続けようとしていた言葉を止めると、ゆっくりとリョウの体が……指の、一本、さらに一本が、動き出す。
  腕を動かし、緩やかに頭を振って、顔を上げる。

  立っている珠洲を見上げた顔に、青い、光。
  
  真っ青な夏空の、瞳。
  珠洲の瞳を見つめて、ふと笑う口元。 
  血で汚れているにもかかわらず、その顔はどこまでも優しい。

 「そないに怒鳴らんでも……僕は、僕のやけど…どうしようもない、ろくでなしやし、あっちこっちふらふらするし、おまけに……ひとでなし、やけど。」

  うまくしゃべれないのか、とぎれとぎれで、時折息を吸い込みながら、言葉を続ける。
  珠洲が驚いて目を丸くしている様子を、愛おしげに、眺めながら、

 「あいつらも、幸せになってほしいけど……僕が、僕『で』、しあわせにしたいんは…今のところ、珠洲だけなんやから。」

  やさしく、諭すように、自分の胸の内を言うものだから。

  珠洲の咽がひゅぅ、と空気を吸い込む。
  苦々しげに表情を歪ませ…どちらかというと、怒って良いのか、怒鳴りつけていいのか、わからないといった(まあ、どちらにしても怒るのだが)表情で、力の抜けたようにその場に座り込む。

 「…あんた、いつのまに…」
 「ん、寝てた。」

  きっぱりと言い切るリョウに、珠洲の額に青筋が浮かぶ。
  だがリョウはそれを気づかないふりで、軽く笑いながら続ける。

 「ついさっき目が覚めたんやけど…体力温存のためにそのままでおろうかなーって。」
 「あたくしが来た時点で起きなさい!!」

  珠洲の言うことも尤もである。
  その言葉にリョウが困ったように笑う。せやかて、と言って、

 「夢かと、思うたんや。」

  リョウがゆっくりと体をあげる。上半身を持ち上げ、腕を伸ばす。

 「こないなとこに珠洲が、来るわけないって…思ってたんや。
  そうでなくても、あのとき…ほんまはな。」

  あのロンドンの夜。
  あそこで本当は、珠洲と別れるつもりで、いたのだ。

  無事で帰って来れるとは毛頭思ってもいなかったし、そんな生やさしい相手でないことだって、リョウ自身もわかっていた。
  血なまぐさいそこ。
  少なくとも『そういうこと』を知らない珠洲を巻き込むわけにもいかないと、思っていた。

 「そうやって、あたくしを蚊帳の外にするつもり?」

  珠洲がそう断じる。
  リョウが驚いたように目を丸くするのを見て、珠洲は深い溜息をついた。
  その表情が、とてつもなく怒気を孕んでいる。

 「リョウ。あんたにとって、あたくしはその程度なの?」
 「……珠洲。」

  頼りにさえしてくれないのか、と言う。
  確かにどのくらい自分に何かが出来るのかは、わからない。
  足手まといにしかならないことだってあるだろう。

  それでも、

 「あたくしを守りたいから置いていくのなら、止めて頂戴。あんたがあたくしの知らないところで、こんな風になるなんて、あたくしは許せないし、怒るわ。」

  それでも、

  リョウの手が珠洲の頬に触れる。
  そっと、まるで『あの日』と同じように、大切なものに触れるように、

  その温かさで、生きているという証を、確かめるように。

 「あんたがあたくしを守るつもりなら。」

  とんでもないエゴが、口をついて出る。
  だが珠洲はそれを止めようとしない。真っ直ぐにリョウを見つめて、向き合う。

 「あんたの側で、守って。」

  リョウが驚いたまま珠洲の顔を見つめている。
  青い瞳が面白いように、飽きることのないように目の前の珠洲の顔を見つめて……それから、ひそやかに、表情を緩めた。

  動きの鈍い、壊された左腕……珠洲に、触れることを躊躇っていた腕が、ことさらゆっくりと持ち上がっていく。
  
  そうして、珠洲のもう片方の頬に触れ、撫でる。
  体温を感じることのないものだった。どこか冷たいものだと、珠洲も感じた。
  けれど、その腕で、リョウは珠洲に『触れた』。

 「………無事や、すまへんで?」

  右手がさらりと珠洲の髪を梳く。

 「僕は『最強』やない。確かにまあ、並の人間よりは戦えるやろうけど…それでも、このざまや。いつまで守れるかどうかも、わからん。届かなくて傷つけてしまうかもしれへん……」
 「それでも、あんたはあたくしを守るでしょう?」

  折れようとしても、叩き壊されても、何度でも、何度でも。
  
  珠洲を守るために、何度だって、蘇る。
  そういうことをやってのけるのが、リョウという、者なのだから。

 「少しくらいなら平気よ。それに、あたくしもタダで守られてるわけじゃない。あんたの役に立つわ。あたくしを誰だと思ってるの。」

  珠洲の最後の言葉に、リョウがおかしそうに声を立てて笑う。
  そして。

 「ああ、せやったな。」

  ゆっくりとリョウが珠洲に顔を寄せると、そっと唇を重ねる。
  それは数瞬、合わさっただけ。
  
 「……あんたは、珠洲、だったな。」

  唇を離し、確かめるように、言う。
  だがそれだけで繋がったのか、珠洲もまた笑ってみせた。

 「そうよ。あんたの妻。あんたの………『家族』よ。」

  それだけですべてが氷解していくようだ、と。
  リョウはそんなことを思いながら珠洲から手を離し、床に手をついて立ち上がる。

  時は、来た。

  一度は負けたが、今度は負けはしない。『二度』は、決して負けはしない。

  大切な者を守るために、大切な約束を違えぬために。
  帰る場所へ、たどり着くために。

 「…行くか。」
 「ええ。あの子たちもお待ちかねよ。」

  珠洲もまた立ち上がり、リョウの隣へと歩み寄る。
  二人が顔を見合わせて互いを見つめると、リョウは深く目を伏せ、それから顔上げて真っ直ぐに『先』を見据えた。

  振り向かずとも、横には珠洲がいる。
  確かめずとも、彼女はそこにいるのだろう。

  だからリョウも進む。
  
 

  優華はん、あんたも見つけたか?
  そうして心の中で、自分との約束を『未だ』に守り続けている、少女のことを思い出す。
  
  彼女は約束を違えていない。
  そう、と見えるだけで、本質は何も変わっていない。自分が死ねば、彼女も自らの命を差し出すのだろう。
  それでも、本当に、約束を『破棄』するときは来た。

  あんたの隣で笑ってくれて、あんたの隣に立ってくれて、
  あんたが、それだけで幸せになる、そんな人が、

  一度は離れようとした。
  その事実は変わらないし、そのときはそれが最良の策だと思っていた。
  傷つけたくなかったから、離れた。

  だが、今は側にいる。そして、もう、きっと離れることはできない。

  側に、いてくれる人を見つけたら。
  そのときこそが、この約束の終わり。


  しあわせに、なってほしい。
  それはただひとり置いてきた、ルビーだって同じことだ。

  しあわせに、しあわせに。
  
  

 「…そういえば、あんた寝てたのになんで起きたの? あたくしが側に行っても、いつもなら寝たままなのに。」
 「ん? なに言うてんねん、珠洲。」
  
  自分の大切に思う人たちが、しあわせになってくれたら、と。

 「惚れてる人が近くにおるのに、わからん阿呆がどこにおんねん。」

  そう、切に願う。

 「……………い、いつもと逆じゃないの!」
 「だってほら、いつもとパターンが違うし?」
  
  胸が切なくなるほど、痛くなるほど、強く願う。
  自分では、もう、きっと幸せにできるのは、

 「愛してるで、珠洲。もう、今すぐキスして抱きしめて、どっかに閉じこめたいくらいや。」

  幸せにできるのは、この人しかいないから。

 「こんなところで何言い出すのよ、このお馬鹿!!!」 
 「うん。馬鹿やで。」
  
  ただこれだけは変わらない。
  守る、ということだけは、いつまでだってかわらないから。

  いつでも、どこででも、喩え何があっても、この力が必要なときは、駆けつける。

  守って、みせる。

 「あんたにだけや。」

  守り抜いてやる。
  たとえ何が相手でも、守り抜いてみせる。

 「あんただけやで。珠洲。」

  

 「…………知ってるわよ、そんなこと。」



  『約束』する。




  さあ、行こうか。
  約束を、守るために。





 〜緑の制約 に、つづく〜