「だから、もし彼女の『ひみつ』を知るつもりなら……それ相応の覚悟が、必要なんだよ。」
彼の不可視の翼を持つ青年はそう言った。
目の前にいる『城壁』たる少年に、いや、すでに少年という枠から抜け出そうとしている者に、言った。
「覚悟、ですか?」
「そう。だって彼女は覚悟してしまった。決めてしまった。
だから、それを覆すには、それと同じ……いや、それ以上の決意が必要になるんだ。」
白い部屋での会話。
彼らの他には誰もおらず、けれど不可視の翼を持つ青年には『出口』の先に待ち人がいることを知っている。
感じるからだ。
封じ込められたとはいえ、わずかに流れてくる『風』は誰にも止めることはできないし、流れ込んでさえすればその先がどうなっているのか、知ることはたやすい。
だけどそれを青年は口にしない。
口にしたところで、目の前の『城壁』が動かないことをわかっているから。
けれど、青年は『彼女』の願いを止めようとしている。
いや、望んでいるのは『城壁』たる目の前の彼なのか。
謎かけのような言葉をかける。
それだけが彼に与えられた役目だからだ。
「それでも君は、行くのかな?」
金木犀−『………僕は、君を…このままにしたくないのかもしれない。』−
不可視たる翼を持つ青年と、城壁たる彼が会話する数刻前。
見えない翼で風を受けながら青年は『出口』にいた。
「………これであとは、珠洲さんとネスくん…」
そう呟きながらあたりを見回すと、彼の他にも舞鼓、サラスの二人がいることがわかる。
彼の言葉を聞いて、サラスがうむ、と頷く。
「あの二人なら心配ないであろう。二人とも、無事に『思い人』を救出してくるはずである。」
「ええ、でも…」
そんなサラスの横で舞鼓は不安そうに眉根を寄せた。
表情を暗くしたまま、自分の頬に手を触れる。不安の現れのように。
「先生方ならまだしも、ネスティさんと優華さんは、」
「それこそ心配いらないよ。
恋する乙女は無敵だそうだよ? 人の恋路を邪魔するヤツは、馬に蹴られて死んじゃえってさ。」
誰が言っていたんです、と舞鼓が渋い顔をした。
言わなくてもわかるじゃない、と彼がからかうように言う。
指先で宙をかきながら、楽しそうに笑った。
「ここは恋する乙女に任せておけばいい…それよりも、気になるのは…」
だが、そう言って彼は自らが出てきた『出口』のほうへと振り返る。
その表情は、振り返ってしまったことによってサラスたちには知ることはできなかったのだけど。
それを見た二人も揃ってそちらのほうへと振り向く。
…出口からはまだ、以前として誰も出てくる気配がない。
「ルビー殿は、大丈夫であろうか。」
「ええ、随分と気負ってるようでしたけど…朔良さんが側にいるはずですから、無理はしないでしょう。」
続く、多分、という言葉を打ち消して舞鼓がそっと溜息をついた。
「本当に、無茶ばかりして。」
言葉の響きは、まるで子どもを心配する母親のようなもの。
実際、それを聞いた楓がクスクスと笑っているし、サラスも困ったように笑っている。
舞鼓の言葉に、否定はしていなかった。笑いの、肯定。
「舞鼓ちゃんの言葉だけど、朔良が側にいるから大丈夫だよ。」
誰かが側にいれば、それを全力で守ろうとするだろう。
それが自分の『大切』な人であれば尚更のこと。
何が大丈夫なのかは、深い意味などない。ただ『大丈夫』だから、と口にする。
そのなんとも、頼りなさ。けれど信じられる強い、何か。
「……心配、なさっていないんですね。」
彼のそんな姿と言葉を目の前にしながら、舞鼓がぽつりと口にする。
彼は……楓は、舞鼓の言葉に視線を流してから一瞬の間を起き、やがて唇の端を緩めた。
「心配? 今更だよ。」
いっそ晴れやかなほど言い切って、楓は笑った。
今日の日の青空……そう、世界は、『戦争』など無関係に空の青さを保っている。
清廉なまでの深き、空の色。
他には何色にも染まることのない、けれど時とともにその色を変えてしまう空色。
「僕の城壁だった男が側にいるんだ。だから、心配なんて必要ない。」
愚かな問いを聞いたように答えてから、楓はそっと目を閉じた。
建物のなかでは感じることが難しかった『風』が、その頬を掠めていく。
「……そう、であるな…朔良殿が側にいるのだから、ルビー殿も平気なのであろう。」
楓のそんな答えを聞いてか、しばらく呆然としていたサラスが呟く。
その呟きを聞いて、舞鼓もようやくこくりと頷いた。
「そうですわね…信じましょうか、あの子と、彼を。」
そして舞鼓もまた、未だ帰ってこない二人の友人の姿を遠くに見るように視線を上げた。
「…同志と言いながら…私は何も出来ていない。」
けれど、その小さな呟きは悲しげに、いや悔しそうなものさえ含んで風に流れていく。
サラスが舞鼓のほうへ振り仰ぎ、楓は目を閉じたまま動かない。
「あのこがようやく、『たすけて』という言葉を口にしてくれたのに…私は、ただ足手まといだっただけですわ。」
「そのようなこと…」
言いかけ、サラスが言葉に詰まったのを見て舞鼓がフッと笑みをこぼした。
「でも、こんな泣き言を言っていても仕方ありません。私に出来ないことならば、私が出来ることをすればいいのですから。」
そう言い切って舞鼓が笑った顔のまま、空を見上げた。
透き通るような青空。
「あのこが心配しないよう、自分の身くらい自分で守って…そして、待っているんです。
……帰る場所として。あのこの、灯火にはなれないですけど、それでも……せめて止まり木くらいには、なれますわ。」
「…そうである。」
そうして、サラスと舞鼓がお互いの顔を見て、しっかりと頷きあった。
何かを確かめ、そして認識するかのように。
「心配していても始まらぬ。信じていることもまた、必要であるのだな。」
そんな二人の言葉を聞いてか、楓が目を閉じたまま漸く唇の端を緩めた。
微笑ましい何かを聞いているように、そして何か優しく見守る者のようにだ。
その時、風が、啼いた。
「………そうも、言ってられない、かな。」
風の音を聞いてふと、楓はそんなことを口にした。
閉じていた目を開けて、息を吐く。
後ろの二人は楓の呟きは聞こえていないようであったし、彼の顔に瞬間的に浮かんだ表情にも気づいていない。
何かあった、それを思わせる苦い表情。
「本当はルビーちゃんの『願い』もあるし、手出しはしないほうがいいんだろうけど。」
でもね、と続けて苦い顔を打ち消して笑みを浮かべる。
「放っておいたら珠洲さんにも怒られるし、リョウさんには逆さ吊りにされるだろうし、優華ちゃんには正座で説教されそうだしね。」
それぞれ、本当にやりそうな場面を想像して他人事のように楓は笑っていた。
先ほどの表情など嘘のような、楽しげな笑み。
それほど他人のことに一生懸命になる様がおかしいのか、
『なぁにやってたのよ! この間抜け!!』
ダンッ! とヒールを鳴らして地面をけりつける、珠洲。
『いらんことばっかするくせに、どーしてこういうときだけ何もせぇへんねんっ! このどあほー!!』
子どものように激しく怒る、リョウ。
『うわぁーん! 楓ちゃんのばかーーー!! そんな貴方には四時間説教の刑ですっ!!』
きっと、ルビーの『悪口』のルーツは彼女からきているのだろう、幼稚で難解な悪口を口にする、優華。
ねぇ、君は気づいてる?
「君の『願い』を聞いてしまったら、たくさんの人が悲しむってこと。」
楓は遠く、漆黒の翼を持つ黄金の髪の少女のことを思う。
あの日、木の下で聞いてしまった『言葉』。
真実を知る人は未だに、ほとんどいないだろう。
いればきっと、止めていたはずだから。
「さて、行こうか。」
風を呼ぶ。
ザァッと今まで凪ぐような風だったものが、突然、突風のような強さを持って吹き始めた。
舞鼓とサラスが驚いて楓のほうへと振り返る。
だがその気配さえ気づかぬふりをして、楓は手をゆっくりと挙げた。
「『魔法』は封じられていても『穴』はある。特に風は一瞬後でも同じ姿ではないからね。」
そうして、彼の人の姿は、忽然と消えた。
同時刻、『建物』のなかにいる朔良は。
両目を閉じ、閉じられた扉を背にして座っていた。
正座ではない。足を崩して、片膝をたてて座っている。まるで、何かを待つかのように。
遠くに聞こえる音……爆発音にも似た、『誰かが』暴れ回っている、音…に、耳を傾けて、けれど心だけは静かにして、精神を研ぎ澄ます。
彼は待っていた。
ただひたすらに、待っていた。
余計なことは出来ない。してはいけない。
必要なのは、『今』この事態を動かす何かを確実に得る、ということだけ。
その時、朔良の頬を風がサァッと掠めていった。
風さえない建物の中だというのに、だ。
だが朔良は体だけは微動だにせず、ゆっくりとその両目を開けていく。
緩慢とも思える動きで両目を開き、そうしてようやく顔を上げる。
その先に誰がいるのかを、知っているような仕草。
「……楓さん。」
その先にいた彼は、楓は名を呼ばれていつものように笑みを浮かべて無言の答えを返す。
何もかも見透かしたような、笑み。
この世界に敵など、いいや、はじめから敵など自分の知ったことではないと言いたげな不遜な微笑。
朔良が唯1人でいること、その側にいるはずの黄金の髪の少女がいないこと、なのにどうして彼がここで待っているのかということ。
そんなたくさんの疑問を、普通なら並べ立てるところなのに、楓はそんなことはしなかった。
そんな無粋な真似は、欠片さえもなかった。
「……………覚悟は、あるかい?」
赤い警告ランプが点滅する世界(部屋)のなかで、一番はじめに言ったことがそれだった。
本当に、なんでもお見通しと言わんばかりの、態度。
疑問も、答えも、そして慰めの言葉でさえ(もっとも、朔良もそんなものは望まないだろうが)そっくり吹っ飛ばして、ただ『問いかける』。
「……覚悟、ですか?」
「そう。多分、朔良のしようとしていることは『あのこ』の願いを覆すものだから。
それはあのこの決意にも……そしてひみつにさえ、食い込むものだから。」
いつものような謎かけにも似た言葉。
白いはずの部屋のなかで、赤いランプだけが回り続けている。
部屋全体が、血のように、赤い。
「『ひみつ』を…楓さんは、知っているんですね。」
「うん。」
だが朔良も手慣れたもので、楓の謎かけのような言葉にさえ動揺の色を見せない。
ただ、真実を、その言葉のなかに隠された『真意』を、見つけようとしている。
「知っているよ。でも僕はそれを言わない。それも、教えてあげられないんだ。
だって、この『ひみつ』は僕の口から君が知るべきものではない……あのこの口から、君が直接聞くべきものなんだよ。」
『それも』、と言う。
つまり他にも言えないことが存在しているということだ。
朔良がゆっくりと息を吐いた。
自分でも気づかないうちに、いつのまにか息を詰めていたようだ。肺が空気を欲して、急速に痛む。
「…俺にさえ、言っていないのに…楓さんには、あいつは言ったんですね。」
まるで駄々をこねる子どものような言葉。
いつもなら聞けないそんな言い回しに、楓が不思議そうに数度目を瞬かせ……それから優しく、表情を緩めた。
「うん、だってほら、僕はあのこに愛されちゃってるしねv」
冗談めかして言うくせに、その瞳は怖いくらいに真摯な色を含んでいる。
だって、と小さく口を開いて、続けた。
「僕は朔良の『次』らしいからね……ああ、ちなみに優先順位で言うなら優華さんのほうが遙かに上だそうだよ。」
それは愛されていると本当に言えるものだろうか、と疑問らしきものが浮かぶ。
それを朔良が浮かべていたのかは謎だとしても。
ひみつ、を言えるのは。
それが自分にとって『大きな』ダメージを受けるものではないから。
悪く言えば関係のないものだから。悲しみはするけど、記憶とともに治ってしまうものだから。
「大事だから言えない。大切だから、怖くて告げることもできない。
…微妙な乙女心だよ。わかってあげてよ、戦友なんだからね?」
「……怖い、ですか。」
「そう。知られるのが怖いんだ。
そのことを知って『どうなってしまう』のかが怖いんだ。そのことを知られて『どうなっていく』のかが怖いんだ。
そして、そんなことをグルグルと考えてしまって……とても、言えたものじゃなかったんだろうね。」
『大切』だから怖い。
『大事』だから怖い。
『好き』だから怖い。
『あいしている』から、言えない。
その『ひみつ』が二人を引き裂くものだと思ってしまっているからだ。
『ひみつ』が知られてしまったとき、道が完全にわかたれてしまうのが怖くて、言えないのだ。
「だから、君には…覚悟が必要になる。」
真摯な瞳で、けれど優しい光を持って、告げる。
見守るものが気負わないように、いや、それさえ考えなくても『いつも』のように。
「それでも君は、」
行くんだろう?
(ああ、あの木の下で、あの少女にも確か、同じようなことを聞いたような気がする)
(かすかな、デジャヴ。)
「…………………………………。 …行きます。」
長い沈黙のあと、ことさらゆっくりと時間をかけて、けれど明確な意志を持って朔良は言った。
「あいつの秘密がなんなのか、俺には検討もつきませんし考えようとも思いません。」
瞳に強い光が宿り、朔良が自分の体を持ち上げ、立ち上がる。
立ち上がるときに下げてしまった顔を、もう一度上げて前方を見据える。
迷いは、なかった。
「それでも、あいつは俺を逃がそうとしました。遠ざけるために、『背中を守る』と約束した俺を戦いの場から引きずり下ろすために。」
漆黒の瞳に、迷いなど一片も存在してはいなかった。
その決意は、『願い』を打ち消すほど強い輝きを秘めている。
「だから、行きます。あいつの願いに、俺は引き下がったりしません。」
限りなく強い決意に、その言葉に、楓がかすかに目を細めた。
眩しいものでも見るかのような、その表情。
ああ、
と、小さく口の中で呟く。
そうして目の前の彼の姿を瞳に映しながら、黄金の少女の幻影を思い返す。
悲しい決意をしてしまった、少女。
泣きながら、それでも静かに笑んで、「ないしょよ」と言った少女。
終わりを予感しながら、それでも進むしかないと言った……あのとき。
大切な人を守るために、その『運命』を享受しようとしている。
それがどんなにまわりを傷つけてしまうことになるのか知りながらも、あえて。
「……わかった。」
そっと目を閉じて、それからもう一度開いてから楓が朔良を見る。
その表情は柔らかな、優しい、ものだ。
「君の覚悟に…いや、決意を評して、僕もちょっとだけ手伝うよ…」
下げていた手を挙げ、風を収束させる。
風の束が掌に集まり、鋭い風は刃となり、何ものをも切り裂く形になって……放たれた。
扉の前に立っていた朔良の体を通り抜け(風ゆえに、形はなく、また作られるから)、扉にぶつかる。
音もなく切り裂かれた扉。
けれどそれは鈍い音をたてて静かに、崩れ落ちて、響いた。
広がった『世界』のほうへと指を指して、
「行ってらっしゃい。ここからは君の仕事だよ。」
そう、こともなげに言った。
驚いて扉のほうへと振り向く朔良を見つめたまま、静かに笑む。
「僕が出来るのはここまで…だって、僕じゃあどうしようもできない。彼女を止めることも、導くことだって、出来ないんだ。」
だから、君が行くしかない。
言葉にはせず、思いだけは発した言葉にのせて伝える。
正しくそれが伝わっていることを察して、何の不安もなく、言い切った。
道しるべたる二人は『まだ』たどり着けない。
今、彼女の側に行けるのは、君だけなのだ。
だけど言わない。
それは自分の『役目』ではないことを知っているから。
そして、言わずとも、朔良がそうすることくらい、楓にはわかっていた。
朔良は一度だけ楓のほうへと振り返った。
首だけ巡らせて、そうして軽く頭を下げる。
「ありがとうございます。楓さん。」
そのまま顔を前にし、体でさえも扉に完全に向き直って、彼が走り出した。
振り向きもせず、ただ一心に。
『彼女』のところへ行くために。
後ろ姿を見送りながら、楓が小さく息を吐く。
「……振り返っちゃ、駄目だよ。」
そうして、ぽつりともう届かない言葉を紡ぐ。
『彼女』を探して朔良は今までくぐってきた扉を再び逆走する。
その先に居ることを確信して、そこしか、『敵』を止められる格好の場所がないからだ。
「振り返っちゃいけない。迷ってもいけない。臆してもいけない。怖がってもいけない。
もしどれか一つでも侵してしまえば……『呑み込まれて』しまうから。」
走る。ただ、走る。
見送るその視線にさえ気づかず、言葉にさえ届くはずはなく、朔良はただ走った。
だから、この言葉は無意味なものでしかない。
独り言さえない。とても無意味な、代物。
「握った手を、離しちゃ駄目だよ。繋がる絆を、断ち切ったら…もう、後戻りできない。」
走り続けた朔良の耳が、微かな金属音を捕らえた。
それを耳にしながら、一直線に迷うことなくそこへ向かう。
音は大きくなる。それとともに、『悲鳴』も、『切り裂く音』も、聞こえてきた。
「たとえ、もう一度『繋がった』先に何があるとしても……」
最後の扉をくぐり抜けた、その先に『居た』。
朔良が『迷うことなく』手を伸ばす。
ただし『劔』を持っていないほうの腕のほうへと、戦いの邪魔をしないために。
唇が動いた。決められた『それ』を呼ぶために。
「ルビー!」
『彼女』が、振り返る。
紅の瞳が『彼』を捉えたそれと同時に、彼の手が彼女の腕を掴んだ。
「その先に何が待っているとしても、それは『君』が選んだ結果なのだから。」
その言葉は無意味かつ、とても冷静で真摯なもの。
目を細め、やがて楓もまた踵を返して歩き出した。
魔法は、もう使えない。
あれで精一杯だ。それだけ『封印』と『反作用』の魔法結界は強力だった。
何かが待っている。この先もまだ、『強力』な何かが……待ち受けているのだろう。
それでも。
「…後悔しないように、『覚悟』をするんだ。」
だから君も、『覚悟』をしなさい。
遠い昔の幻影が、彼の側で佇んでいるような、そんな錯覚が生まれた。
−君を連れて行く。 に、つづく−