「はいな。お久しぶりです、ネスたん。入ってもよろしくて?」
小首を傾げながらニコニコとして聞いてくる彼女に一瞬吃驚しながらも、ネスティは慌てて窓を全開にして彼女が入ってこれるようにする。
すると優華も礼を言いながら部屋の中に身を滑らせた。
窓を閉め、後ろを振り返りながらネスティは不思議そうに口を開く。
「どーしたんだ? まだそっちお休みじゃなかっただろ?」
そうだ。
優華は今までにも何度かネスティの自宅へ(と、いうか部屋へ)と出入りしている。
ただしそれは長期のお休みの間だけだったし、こんな連休でもない休日にやってくることなんてまずなかった。
「んー………ちょっとネスたんに会いたくなって。」
しばし考え込んだ後、そう言って優華は唇に指を当てて言う。
悪戯っぽい表情を浮かべているが、その実、表情はどことなく陰を落としているようにも見えた。
それを感じることの出来るくらい、つきあいは長い。
ネスティが眉間に皺を寄せると、それを見て優華が少しだけ悲しそうな顔をした。
「ひょっとしてお忙しかったんですか? ならまた日を改めて……」
と、言いながら窓のほうへと歩いていこうとする優華を慌てて止めて、ネスティはグイグイと部屋のなかへと彼女を引っ張って戻す。
「あー! 違うからな! 駄目とかじゃなくって…」
「だって、ネスたん、嬉しそうじゃないんだもん。」
そんな子供みたいな言い方にならなくても(優華のいつもの口調は、礼儀正しいものだ)、と思いつつ、ネスティは優華の体を無理矢理椅子に座らせる。
真正面から優華の顔を見て、改めて言う。
「違うからな。」
「……ほんとに?」
「ほんとだぞ。ひーらぎさんが来てくれて、俺、すっごく嬉しい。」
「よかったv」
必死に言いつのるネスティに、優華が拍子抜けするくらい嬉しそうな笑みを浮かべて彼の頭を二、三度となでた。
優しい手つき。
柔らかな体温を伝わらせながら、愛おしそうに優華は微笑む。
彼女が生来持つ瞳の色ではないものだったが、それでも柔らかな光だけは本物だ。
本当に、愛おしそうに、優しく見守っているのがわかる。
「そう言ってくれて嬉しいですよ。」
「ん……えーっと、それから、ひーらぎさん。」
「はい。」
だから、
胸のうちに浮かんだ不安は気づかないふりをしておこうと、ネスティは思った。
「ひさしぶり。それから、いらっしゃい。」
その不安を、もしこのときちゃんと出していたらと、
そう思ったのは、この日からずっと後のことだ。
世界とは、自分を包み込む物だ。
世界とは、自分を取り巻くものだ。
世界とは、
世界とは、
世界とは、その定義を自分で決めるしかないものだ。
「………で。これが僕の世界のひとつや。」
彼はそう言って楽しそうに笑った。
その横で椅子(カフェにある簡素なものだ)に腰掛けて機嫌悪そうに珠洲が、自分の旦那の姿を見ている。
イギリスの夜。
あれほど有名だった霧も今はもうどこへやら。しかし今、街は『音楽』に包み込まれていた。
「……デートっていういから出てきたのよ。」
「デートやん。」
「だったらどうしてこんなにギャラリーがいるのよ! しかも楽しんでるのあんただけだけだしっ!」
ビシッと指先を突きつけられるが、リョウはそれを笑い飛ばすと再びヴァイオリンをかき鳴らす。
清廉な音だ。
今のこの雰囲気に異質で、けれどこの雰囲気だからこそ響き渡るようなそんな澄み切った音色。
それにあわせて打楽器が叩かれる。
音を引き締めテンポをつけて響く。
そう、今はデートのはずだ。
珠洲はリョウに突然「デートしよう」と言われて、ここまで引っ張ってこられた。
天気の良い休日だった。しかし彼の人は日中は自分に膝枕をさせて長いこと熟睡していたのだ。
起こそうとしてもむずがるだけで覚醒しない(子供だ)。
いい加減、怒ろうとしたところで引っ張ってこられ……夜の食事か、あるいはコンサートにでも連れて行ってくれるのかと思ったら。
今、珠洲の目の前では路上コンサート(しかも違法。許可なんか取っていない)が開かれている。
そこに参加している人はみんなリョウの知り合いなのだという。
人なつっこい彼のことだ。細々と路上で楽器を弾いて生計をたてていた『芸術家』たちを引っ張り回してここまでの『楽団』に仕上げたのだろう。それにしては人種がまるきり統一感がなかった。
男もいたし、女もいた。
年の若いものになると珠洲が受け持っている生徒くらいの子もいたし、白髪のおじいさんもいた。
打楽器はもちろんのこと、管楽器や弦楽器を持ち寄り、どこぞの民族楽器まで持ちだしてきている始末だ。
これをまとめ上げてひとつの演奏にするには相当の苦労がいるだろうに、かく言う主犯格のリョウは楽しそうに楽器を弾いている。
その楽しそうなこと。
「……怒る気力が失せるくらいよ。」
「おう。怒っとったら美容に悪いんやでー。」
「誰のせいよっ!」
なんだか楓を相手にしてるみたいだわ、と珠洲が毒づくと、楓ちゃんと一緒にせんといて、とリョウが少しだけ不服そうに返した。
きらびやかな世界だった。
音楽は鳴り響き、通行人をも巻き込んで盛大なものになりつつある。
踊り子が踊り、あるいはタップを踏んでそれにあわせて踊るものもいた。
まるで絵本かおとぎ話の一節のような光景だ。
…ああ、それなのに。
珠洲は、なぜか、泣きたくなった。
リョウの笑顔を見て、なぜか泣きたくなる。
このまま彼が、持って行かれてしまいそうな気がして。
紅茶を一口、口に含みながら優華は窓の外に見える世界を眺めていた。
床に座り込み(絨毯の上だったし、夏の夕暮れはそれほど苦にはならない程度だったので)、横たわるネスティの髪をゆっくりと指先に弄んでいる。
その感触がよほど気持ちいいのか、ネスティは半ばうとうととしている。
だけど、眠ってはいけないような気がして必死に意識を冷めさせようとしていた。
眠ってしまったら、このまま彼女がいなくなってしまうような気がして仕方ない。
とても、とても、不安で。
「……いい夕焼けですねぇ、ネス。」
頭を撫でる手は、この上なく優しいものだ。
時折、額を指先でさすり、目尻を撫でてそれを繰り返す。
細い指先で何度も、まるで確かめるように。
指先に記憶させていくように、忘れてしまわないためのもののようだ。
「もうすぐ夜ですよ…そうしたら、今夜は満月の少し前……でも、とっても綺麗な、月夜になるはずです。」
うん、と返事をしたかった。
けれど睡魔がネスティの体を支配しようとしている。
抗うことの許されないもののようだ。ちょうど、魔法をかけられているかのように。
(ずっとこんな感じだ。どこにも行かず、ただ部屋のなかで二人で)
(まるでこの時間を惜しむかのよう)
(もう、この時間を味わうことができないかのよう。最後の、別れみたいに)
「ネス……ネスティ。」
いつもならそんな風には呼ばない。
(最後に呼んだのはいつだった?)
「ありがとう。」
最後に呼んだのは、あの別れの日。
ネスティが学院を去った、あの日が最後。
「あなたに会えてよかった……ネス。あなたは知らないし、きっとわからないだろうけど……でも、私ね、あなたを好きなってよかった。」
どうして、
どうしてそんなことを今、言うのだろう。
疑問はネスティの胸のうちに浮かぶ。だけど、それを確認しようにも体が動かない。
(魔法が、)
ただ夢うつつのもののように、優華の声だけが響く。
「あなたより年上で、背も高くて、かわいくなくって……おまけに、あなたの考えてるような女の子でもなくて、ごめんね。」
ゆっくりと、手が撫でる。
頭を撫でていた手がやがて止まり…それから、ぽつり、と声が落ちてくる。
「…しあわせに」
紅茶のカップを置いて、彼女はゆっくりと立ち上がった。
横たわるネスティに側にあったタオルケットをかけ、最後に目を閉じる彼の顔へと屈み込む。
近づき、柔らかくほんの数瞬のキスを落として、彼女は立つ。
ネスティの心の不安が広がる。
今、ここで彼女を行かせてはいけないような気がして、行かないで、と言おうとした。
手を伸ばして足を掴んで止めなければと思う。
思うのに、どうすることもできない。
体は重く、意識が急速に闇に飲み込まれていく。
「しあわせになってください。」
微笑む優華の顔が微かに見えた。
その微笑みが悲しそうに泣きそうなものに見えたのに、体が言うことをきかない。
「…ゆか、さ…」
行っちゃ駄目だ。
行っちゃだめだ。
行かないで。
置いていかないで。
置いて、行かないで。
「…さよなら、ネスティ。できることなら、あなたを幸せにしてあげられるのが、私だったらよかったのに。」
消えていくみたいに、行かないで。
だけどその言葉のひとつさえ伝えることができず、ネスティの意識は途絶えた。
伸ばされかけた指先は届くことなく、宙を掴んで落ちる。
「……本当に行かないの?」
「ああ。僕はまだ用事があんねん。」
ロンドンの夜は暮れようとしていた。
もう星も見えない闇夜。橋のたもとで電灯の下、リョウと珠洲は向かい合わせに立っていた。
遠くからはまだ大演奏会の音が響いている。
主犯格たるリョウがいなくなっても気づかれることもなく、あの演奏会はいつまで続くことになるだろう。
(止めに入ったはずの警察関係者さえ巻き込んでの大騒ぎだ。もっとも、止めるはずが一緒に歌い始めたので立場がない)
二人の家(持ち主は珠洲)へと帰ろうとしていたところで、リョウが立ち止まったのだ。
今夜はまだすることがある、と言って。
「今夜じゃないと駄目なの?」
「急ぎの用事やねん。送られんで悪いとは思うんやけど。」
そこのところは心配いらない。魔法でいくらでも撃退できるのだから、と珠洲は言葉に含ませて伝えた。
あまり無理はするな、とリョウは苦笑いで返す。
そう、おかしいところなどひとつもない。
いつもの会話。
いつもの軽口をたたき合う、その心地よさ。
だけど。
「ほな、僕行ってくるわ。あ、こいつも持って帰っといてやって。」
ぽん、と渡されたのはリョウの愛用するバイオリンケース。
先ほどまでかき鳴らされていた楽器は、今は何の反応もなくこのなかに納められている。
……なぜだろう。
鳴らない楽器が、どうしてこんなに不安にさせるのだろう。
「…どこに、置いておけばいいの? 倉庫?」
「家の机の上。倉庫は……ちょっとごたごたしてるから、あんまりおすすめせぇへん。」
楽器だらけの部屋(通称、倉庫)には入るな、と。
確かに以前見せてもらったときには楽器がところ狭しと並べられていて(整理はされていた)、夜に入るには少々どこかでぶつけてしまいそうな気もする。
「わかったわ…じゃ、あたしは行くわね。」
「おう。ほなな。」
踵を返そうとする珠洲に向かってリョウがひらりと手を振った。
手を振り返し、そのまま歩きだそうとする珠洲だったが、一歩を踏み出したところで気づく。
そう、それは違和感だった。
違和感。
考え込まなければ気づけないような、そんな程度のもの。
珠洲が振り返る。リョウはまだ見送っていた。
そのまなざしが、優しいのにどこか寂しげで、そして諦めを含んでいるもののように見えてしまって、珠洲は口を開く。
「ねぇ、リョウ……っ」
不安が、心を染めていく。
「…あんた、帰ってくるの!?」
それは、
リョウが、家で待っていてとか、またとか、そういう言葉はまったく使っていないことへの、不安。
そのとき。
リョウの瞳がハッと揺らいだのを、珠洲は見てしまった。
そしてそれは珠洲の不安が的中しているのだと、確信させるには十分なものだった。
二人はしばし言葉もなく見つめ合う。
距離にしたらほんの数歩あいているだけ。
今、珠洲が走り出しリョウの手を取れば、間に合う。
彼は行かない。
きっと、行くことができなくなる。
珠洲の足が一歩、前に出された。
「……リョウ…!」
唇が名前を紡ぎ、そのまま勢いをつけて走りだそうと、
「珠洲。」
……けれど、それはできなかった。
名前が、
彼が、名前を呼んだから。
悲しそうに、つらそうに、けれど決意を込めて、今口にする言葉を愛おしそうに、呼ぶから。
心の底から、呼んでいるのがわかるから、
それがどれほど大切なものか、わかるほどに。
「…珠洲。」
ごめんな、と。
そう唇には乗せず、リョウは踵を返して歩き出した。
その足取りに迷いはない。今、呼び止めたとしても彼の足は止まることがないだろう。
……ほんの一瞬だった。
彼の決意は、動かなかった。
その後ろ姿をなかば呆然と見送りながら、珠洲はケースを腕に抱く。
冷たいケースの感触が、布越しに伝わってくる。
月はなく、ただ闇だけが広がる。
彼の姿は、やがて闇の中に消えた。
同時刻。
遠く離れた国で、二人の姿は忽然と消えた。
そして次の日。
柊優華の退学届け並びに、リョウ・ミズハ・カイーナ教諭の辞表が提出される。
戦争への、はじまり。
『開幕(戦争、開始)』
−天国への階段、あるいは地獄への罠 へつづく−