願いは、届かないことを知っていた。
それはとても遠い願い。それはとても尊い思い。それはとても強い想い。
どれだけ願っても、願っても、祈っても、届かないものがあることを知っていた。
知っていた。
思い知らされていた。
味わっていた。
それでも、願いを止められることが出来ないことを知った。
止められない、願いを。
あなたは、私に連れてきた。
「君と遠い約束の空へ。」「貴方と行く、世界の果てへ。」そこはすべての始まりの場所。 #1
−あなたさえいなければ、私は世界をもっと早くに見限っていたでしょう。でもあなたがいるから、私は世界をこんなにも愛してしまった。−
……覚えているかい?
君は、とても尊い、愛おしい約束をその胸にしまって、だけどその全てを裏切っていこうとしていたこと。
ねぇ、覚えてるかな?
君が、僕としたほんの些細な『約束』のお話を。
その時、君はどういうわけだかあの朔良を酷く怒らせちゃったみたいで、探し回る彼から逃げて僕のところまでやって来た。
涙目で「お願い、かくまって!」と言われた時はびっくりしちゃったけど、理由がわかったらおかしくて笑いが止まらなかった。
…………遠く、彼の声を聞きながら、逃げている理由と怒らせたらしい理由となんとなく聞いてみる。
怒らせたのは、そう、多分ルビーの放った、たった一言。
その一言が悪かったらしい。
と、いうか悪すぎた。
要約すれば、「もし、自分が『剣』でなくなってしまったら、『親友』でいさせてくれなくなるのか?」というものだった。
それは悪い。かなり悪い。
滅多に怒らない朔良が怒るのも無理がないくらいの、言葉の悪さだ。
もう少し言葉を選べばいいのに、どうも口下手なのはこの子の、この子たる所以なのかもしれないのだけど。
「………で、朔良があんなに怒ってたわけだ。 ルビーちゃんぐらいだよ? あんなに朔良を怒らせるなんて。」
僕だって滅多にやったことないのにぃ、と楽しそうに僕は言ってみた。
その目の前で、彼女が疲れた顔でへたりこんでいる。
全速力で逃げてきたのだろう。そして、そんな全速力の彼女を追い詰める朔良の行動力も、凄いものがあると思う。
「だ、だって……私、も…あんなに、怒るなんて……」
「君も言葉選びが悪いんだよ。それじゃあ、いらなくなったら即ポイするみたいな言い方じゃないか。」
しれっと口にすると、ルビーの眉が寄って困ったような顔になっていた。
そんなつもりはなかったのだろう。
なくても相手にそう伝わってしまったら、もう意味などない。
「そ、そうじゃ…なく、て……」
「そりゃ怒るね。朔良、ああ見えて頑固だし。」
そう僕が言ったら、ルビーは何か考えるような仕草を見せた。言いたいことまで顔に書いてある。
いや、見たそのまんま。
そう心の中で思っているのだろう(ついでに言うなれば、僕もそう思う。内緒だけどね)、遠くのほうから聞こえてくる声に耳を傾けた。
……ああ、朔良が怒っている。 怒りながら、探しているのだ(器用な)。
あの声質、声の音量からするとかなり怒っている。
見つけたら容赦はしない、と言ったところだろう。
「あはは。あれじゃあ、説教は長時間に及びそうだよ?」
いじわるのような声をかければ、目の前の少女の顔が途端に青ざめた。
半ば泣きそうになりながら、明後日のほうへと助けを求める。ちなみに、君の妹や兄くんでも助けてあげられないだろうから、さっさと肝に銘じたほうが身のためだよ、とは言わなかった。
「うう! さ、朔良の…お説教……心に、ぐさっと…くる、のに…」
唸るルビーに日頃の行いが悪いせいだね、と僕がチャチャを入れる。
それに半眼で見上げながら楓ちゃんみたいに慣れてないのよ、とルビーが反論する。
それがおかしくて、思わず笑い声を上げたら益々ルビーに睨まれた。
ああ、でも。
「……本当に。」
しばらく膠着状態が続いていたのだけど、そこでフッとルビーが表情を曇らせる。
膝を抱えて、虚空を見つめる。
どこも見ていない。ここではない、どこか遠くの見つめている視線。
「うん?」
「ほんとに、側に…いられない、ときが…くる、の……私、約束…した、けど…背中を、守るって…」
きゅ、と唇を噛む音が聞こえた。
風は、この時だけは止んでしまっていて、彼女の声を余すことなく僕は拾い上げることが出来た。
隠しもせず、風でさえも、彼女を娘とするそれでさえも隠そうとしない。
それは、この『告白』を聞いておいてほしい、というものなのかもしれない。
誰かに、聞いて欲しい。
そんな、声なき声のもの。
「……それは、戦友だから?」
「……うん……だから。」
背中を守りきれなくなったら、私たちはどうなるんだろう。
空白の声が、宙に舞い上がって、消えた。
僕は本当は聞いても、聞かなくても、別にどっちでも良かった。
けれど、彼女は知らないうちに僕に『差し出して』いたのだ。
無意識であったとしても、彼女が差し出したのは対価。
契約に必要な、小さな小さな、『ひみつ』のこと。
「……私ね、もう…体中、ボロボロ、なんだって……」
ぽつぽつとルビーが語り始めた。
か細く紡がれる声は弱くて、少し気を抜けば聞こえなくなってしまいそうなほどだ。
自分に言い聞かせるかのような。そう、それはまるで独り言のようだった。だけど僕は、何も言わない。
だってこれは、彼女の対価だ。
差し出されるそれに、部外者が無粋な批評をつけたところで何の意味もない。
だから、聞いている。耳を傾ける。
「体の、なか……使い、すぎて…どこもかしこも、もう…すり減って…ボロボロで、いつ…壊れても、おかしくない…って、言われた、わ。」
淡々と。
酷く淡々と、そんな事実が告げられていく。だが、ルビーは驚くほど冷静で、それ故に彼女がこの事実を受け入れているのだということを知らされる。
そう、これはまさに『剣』が壊れることを意味している。
剣でなくなる。劔でいることさえ、できなくなる。
いつか、聞いた。ルビーはそれを望んでいたはずだった。
剣ではなくて、人になるということ。(本当は、もうずっと昔から、いいや、その本当の昔から彼女は人でしかないというのにね)
けれど、その望んでいた『終わり』はあまりにも唐突で、そしてあまりにも無慈悲なもの。
「…お医者、さんは…トレーニングも、やめて…日常生活に…戻れば、『期限』は…引き延ばせるって、言ってた…でも、それは…」
そこで彼女が一旦口を閉ざす。
わかっていても辛いものがあるのか、それとも言葉を選んでいるのかもしれない。
「先を引き延ばしてるだけで、止まるものじゃない。」
口を開き、彼女の言葉に付け足すように言えば、ルビーは困ったようにしてこちらを振り仰ぐ。
赤い、夕日の瞳がこちらを見つめている。ひどく朧気な色を称えて。
「………それでも、もし…このままで…いたら、明日、壊れるかも…しれないって…言われた……長く見積もっても……もう、時間が、ない…の。」
終わりのわかる先。
彼女はそれを知っている。自分自身の『先』を、すでに心の奥深くに沈めてしまってさえいるのだ。
どこまで頑張ったって、期限があるのなら。
それなら、意味なんて。
瞬間。
風が鳴いた。
それと同時に、ルビーが顔を上げる。その瞳に、朧気な色とともに綺麗な、透き通った光を見つけて、しまった。
……ああ、違う。違うんだ。意味はないのではない。意味はないものなど、何一つとありはしないのだから。
彼女の掌には、あるのだ。
既に胸に秘めた、決意が。
彼女の胸には決意が既に存在している。だから、その瞳に迷いはない。
「…それでも。」
「君は、行くんだろう?」
当たり前のことを問いかけているようで思わず視線を流してしまう。
それでも、ルビーはそのとおりだ、と少し困った顔をして笑ってこちらへと振り返る。
「……行くわ。壊れても…いい、なんて思わない…けど、できるなら…壊れてほしく…ない、けど。でも、私は知りたい、の…どこまで出来る、のか…『劔』の私は、どこまで行けるのか。」
そう言って微笑んだ顔には既に決意の色がある。
もう折れない意志を持ってしまって、自身で自分の願いを止められなくなってしまっているのだ。
ああ、まるで、死出の花道を軽やかに舞う舞踏のように。もののふが、死地へと出陣する前触れにも似て。
体のなかは、もうボロボロ。
それでも行こうと思う。
だって。
「…だって、もう、決めている…から。」
そう言って彼女はこちらを見上げたまま、そっと手を伸ばす。
小さな掌が僕の頭の上に乗せられて、そのままぽんぽん、と軽く叩かれる。
小さな子供でも慰めているかのようで思わず苦笑が唇の上に浮かんだ。
「ごめん、ね。」
何に対して謝っているんだい?
「ほんとは…ね、誰かに、聞いて……貰いたかった、だけ…なん、だと……思う、の。」
それが僕だったというわけか、と何も言わず、ただ視線に乗せるだけで見つめていれば、目の前の彼女は申し訳なさそうに顔を曇らせる。
慰めのような柔らかい掌が何度も頭を撫でた。
朔良は、
この小さな手に、全てを望んで欲しいのだ、と言っていた。
望むだけの全てを。
彼女が望む、すべての幸福を。
だけど、彼女はもう、それを望んでいない。
少なくとも、自分自身の決意を前に、その享受を拒んでいる。
「………君の時間が、止まってしまう?」
今までの口ぶりだとそうとも聞こえるけど、と僕が聞くとルビーは小さく首を横に振る。
「…止まる…わけじゃ、ないの……」
「じゃあ、今のまま?」
そう問いかければ、彼女はさらに首を横に振る。
哀しげな色を称えた瞳で、どこか遠くを見つめて口を開く。
「……劔で、さえ…いられなく、なるの……死ぬ…わけじゃ、なくて…ただ、もし、体のどこか、が…『壊れたら』……二度と、剣は…持てないって。」
言われたことを思い出しているのだろう。
それは、自分に言い聞かせようとしているような気配さえする。
劔としての『終わり』。
「…終われる……でも……私、は…終わり、たく…ない、の……でも、ね。」
待ち望んでいたはずだった。だって、人に。
それで『人』としてしか、いられなくなるから。
剣になることができなくなり、望むことさえ出来なくなって。
だったら後はもう、人でしかいるしかない。
そう、小さく呟く声が耳を掠める。
風は相変わらず吹かない。彼女な小さな告白さえも遮ることはない。
本当は、聞こえないほうが良かったのかもしれない。
そうすれば、彼女はこの話を『なかった』ことにできるから。胸のうちに仕舞い込んで、痛みを和らげていけるだろうから。
けれど、風はそれを許さない。
だから次々と口からついで出る『事実』が、彼女自身を苦しめ、現状を再認識させて苦しめている。
「…ちょっと…今まで、体を…酷く、扱って…きたから…天罰、かも知れない…わ。」
天罰、だなんて。
「ないよ、そんなもの。」
一息で言い切った。
その言葉に驚いて、彼女が僕を見上げて目を瞬かせる。
「…楓ちゃん?」
「天罰なんて、そんなものこの世にはないんだ。あるのは、現実。」
僕の言葉を聞きながら、彼女はしばらく目を丸くしたまま口を閉じてしまっていたけど、やがてふと、笑った。
口元を緩めて、仕方なさそうな困ったような、苦笑を浮かべて頷く。
「うん……そう、だ、ね…」
その言葉の本当の意味が何かだなんて、僕にはわからない。
でも、天罰なんてない。そんなものない。ないんだよ。
天からのそんな、酷いことなんて押しつけのようなものなんか。
何より、自分に言い聞かせるための口実でしかない『天罰』なんてものはこの世界に存在していいはずがない。
どうして。
どうして、そんなことを。
「…どうして、僕に言ったりしたの?」
「………楓ちゃん。秘密ってね、すごく…重い、のよ…」
しぃ、と唇に指先をあてる。
内緒話をする子供のように、「秘密よ、」と言って笑う。
そう言った彼女の顔は泣きそうなのに笑っていて、笑っているのに泣きそうで。
痛々しいものしか、連れてこない。
「秘密ってね、自分一人…だけ、だと…それだけで、押しつぶされそう…に、なるもの…なの、よ…」
「僕は、うってつけの『ロバの穴』?」
「ふふ…そう、かも…しれない…わ。」
ひどいなぁ、と口からついて出た。
でも声からは全然そうは聞こえなくて、まるで慰めていっているみたいだと思った。
そして、この時、彼女はきっと知らないしわからなかっただろうけど、僕たちの間で『契約』が成立した。
誰にも言わない。内緒。
秘密にするという、とても小さな不文律。
だから僕は誰にもこのことは言えない。
彼女が『そうとわかる』までは、けして口に出せない。
「……ごめんね、楓ちゃん。」
ごめんね、と重ねて彼女が謝罪を口にする。
僕は何も言わなかった。
ただ、頭の上に置かれたままの彼女の掌の温度が今更になって気になっていた。
「ごめんね。」
柔らかな、優しい手。
すべてを望み、すべてをその手に出来るはずの手。
なのに、彼女はそれを知らない。
「ごめんね。」
知らない。だから、止まらない。
破滅的な願いに向かってひたすらに突き進むしか道はない、と思っている。
赤い葉の成った木陰で、午後の陽差しに揺れるそれを眺めながら、目の前の夕暮れの色を溶かし込んだかのような風貌を見つめている。
白い肌の上を滑る金糸は、ようやく流れてきた風に乗ってゆらゆらと揺れていた。
この色彩は、きっと失われることはない。
でも、もしかしたら、このまま僕が何も言わず、彼女も何も言わないで、そして『何かが』起こってしまったら、失われてしまうかもしれない。
きっと、永遠に。
とこしえの、おわりを。
約束は守らなければいけない。
『契約』を反故にも出来ない。
でも、
でもね、ルビー。
君は知らずに契約をしてしまったのだし、君はきっと知らないままなのだろうけど。
契約は、約束とはまた別物なんだよ。
約束を。
とてもやさしい、約束を。
誰かが僕にくれたとしたら、契約はまた約束として別の意味を持つようになる。
そして、きっとそれは、
<#2 に続く>