(君の体は、もう後ほんの少ししか保たないだろうね。)

  陽の光が反射する寝台。
  真っ白な診察室のなかで、静かな男の声が反響する。

 (長年かけて蓄積されてきた傷が、もうどうしようもないほど悪化してるんだ。)

  何の迷いもなくそう言い放つ声は、いっそ残酷なほどだ。
  死刑宣告をする裁判官のような、そんな響きさえ感じられる。

  実際、目の前に座っている金色の髪の少女の顔に視線を向けたまま、逸らそうともしない。

 (このまま静かに過ごせば数年。
  それでも、もし無茶をしたり、体にこれ以上衝撃や損害を与えるような真似をすれば、わかるだろう?)

  ルビーは男の『宣告』をぼんやりと聞いていた。
  それでも、男の言葉に取り乱したりしないところを見ると、その言葉をどこかで感じ取っていたのかもしてない。
  予感を、していたのかもしれない。

  だからこそ、だろう。

 (限界ギリギリの『戦闘』を行えば、君の体は簡単に自壊する。)

  男も言葉を途切れさせることもない。
  その表情に変わりもなく、整った顔には微塵の感情も浮かばせる様子はなかった。

 (今も、クスリを使ってどうにか痛みを抑えつけている状態だ。クスリで紛らわせたところで、壊れたままのものをいつまでも放置することは出来ない。
  逆に、クスリのせいで『限界』を知らない。それを超した瞬間に待っているのは、自滅だろうね。)

  そこで男は始めて言葉を切った。
  唇を真一文字に閉じ、ジッとルビーを見つめている。

  ルビーもまた、男から視線を外すことはしなかった。
  おぼろげながらも、その瞳が男から外されることはない。
  
  さぁ、と。

  窓の外に風が吹いた。
  木々を揺らし、窓の外の影を歪めて、室内の色もまた少しだけ変化する。

  そこで、男の表情が、変わった。
  いつもの、いや彼本来の『色』を出して、外面の良さで固めた仮面をはぎ捨てる。
  浮かんだ表情は、凛とした冷たさすら感じられる。

 (………医者としての立場なら、今すぐにでも手術を勧める。)

  声もそれと同じく、怜悧な響きを帯びている。
  感情を極限まで抑えつけたものの声。

  それが記憶に残る、あの兄に似てルビーは微かに苦笑をもらした。

 (……成功率、あんまり……高く、ないんで、しょ?)

  苦笑をもらしながらようやく口を開いたルビーが言った。
  男の表情に、一瞬苦いものが過ぎる。
  それはすぐにかき消えてしまったが、ルビーがそれを見逃すはずもない。

  また、男も一瞬でも表情に出し、そしてそれをルビーが見つけたのに気付いたのだろう。
  自分に失態に気付き、だが心の奥底の深い葛藤を押し殺している。
  やがて男は重い口を開く。

 (普通の医者なら20%。)

  黒い瞳が、光を受けてかすかに瞬いている。

 (俺でも、今のところ40%が限度だろうな。)

  沈黙が降りた。
  男はけして嘘を言わなかった。大丈夫だ、とも言わなかった。
  そんな上っ面のものがルビーに通じるはずがない、と悟っていたからだ。

  大丈夫などと、軽々しく口には出来ない。
  
  そんなもの、今は何の役にも立たないのだから。役に立たない言葉なら、言わないほうがいい。
  言ったところで、相手を激しく傷つけるだけ。

 (………失敗、したら…)
 (失敗したところで死にはしない。その慢性的な痛みも取れるはずだ……だが、身体機能は著しく低下する。
  お前は、もう二度と剣を持つことが出来なくなるだろうな。)

  ごく当たり前のことのように男は言い切った。
  ルビーの瞳が微かに揺れる。

  紅色の瞳が、男を見上げて光を、

 (……じゃあ、)

  哀しいまでの、光を、放っている。

 (いい……このまま、で…構わない、わ。)

  ルビーは笑っている。

 (……放っておけば、どうなるかはわかっているな。)

  男の表情は動かない。
  ルビーもまた、悲嘆にくれる様子もなく、ただ淡々とそれに答えるだけだ。

 (いい、の……)
 (……お前が、そうなればあいつらが悲しむぞ。)
 (それでも、いい。)

  唇が持ち上がる。
  それは儚いまでの色をたたえているのに、誰にも浸食することができないまでの強さを持っているようにも見える。

  刹那の、強さ。

 (私が、ほんとに……怖い、のは…………大切な、人を…守れなく、なったとき…)

  風が鳴いている。
  まるで、自分たちが愛する『子供』の哀しい決意を嘆いているかのように。

 (守れずに、失う…なんて、……きっと、耐えられない…わ。)
 
  止めてほしい、と。
  鳴いている。

 (だから、いい…の。)

  それでもその声は届かない。
  風に愛されたはずの『子供』は、その声を聞くことはない。

 (…………それに、私が…剣で、なくなったら……)

  きっと、と少女の唇が動く。
  そのあとに続いた言葉を、男は忘れることができなくなった。




 (きっと…もう、誰も…私の……側、には…いて、くれ……なくなる、から。)




  笑顔とともに紡がれたその言葉は、胸を切り裂くような切なさに溢れている。
  
  なんて残酷な言葉なのだろう。
  なんて、酷い言葉。

  誰か知っているのだろうか、と男は思った。
  この少女の胸のうちに巣くう黒いそれを、誰かは気付いているのだろうか、と。

  黒い、暗い、影。
  重く、激しい、それ。

  そして、なんて

  なんて、純粋な決意。
  目も眩みそうなほどの、壮絶な思い。

  


  男は、そう、と目を伏せた。
  ルビーの表情を窺い知ることができなくなったが、もう見る必要もない。

  自分では救えないことがわかっているからだ。
  何を言っても、目の前の少女には届かないことを、知っているから。









  茨の上に裸足で立って、歩き続けて血が流れて、
  そうして最後には全身の血が流れ出して、動けなくなってしまう。

  それがわかっているのに、歩みを止めることができない。

  茨を、
  茨を、

  血に塗れた茨が残る。

  それを見た誰かの心に深い傷をつけることを、わかっているのだろうか。















 <commence hostilities!> −「ひそかな秘密と、大いなる裏切りを。」−















  ずん、と音が鳴る。
  白い床を蹴り、ワンピースの裾をなびかせてルビーは宙を疾駆していった。

 「技二の三。」

  日本刀が踊るようにして空気を薙ぐ。
  鈍いきらめきが残像のようにして残るが、剣先を正確に追うことには誰にもできない。

 「『風月』。」

  残るのは、物体を切り裂く鈍い音と、倒れ伏し、あるいは消え去る者だけだ。
  倒れ伏すのは研究員、あるいは警備兵。
  消え去るのは、おそらく『魔法』で作られ、生み出されたものなのだろう。

  生きているものには当て身をくらわせて昏倒させていく。
  あるいは腕の一本でもへし折るようにして、その激痛で戦意を喪失させていった。

  生きていないものに対しては容赦がなかった。
  『魔力』を断ち切り、あるいは物理的に動けなくして切り裂いていく。
  
 「型式…………『斬陽』!!」

  それだけでもう、後に残るのは死屍累々の物言わぬものだけだ。
  実際には殺していない。
  元々が『斬れる』ことのない刃である<山南敬助>を用いているせいもあるのだが、それにしても昏倒させるだけのダメージを与えるだけで『それ以上』のものは与えない。
  そんな芸当が出来る。

  それが、ルビーの『強さ』の証明であるかのようだ。

  ギリギリのラインでの芸当が出来る。
  それこそが『強さ』というもの。

  ルビーがバサリ、と髪を怠業にかき上げた。
  金色の束が宙を踊り、髪について余分な埃や汗を落としていく。

  大きく息をついたところで、激しく頭上のアラームが鳴り響き始めた。
  赤いランプがあたりを染めていく。
  それと同時に、廊下の向こうから靴の音が聞こえてくる。

  走っている音、それと同時にかすかな大声も。

  ルビーの瞳が静かに細められた。それと同時に、<山南敬助>が空を切る。
  構える、それと同時に金属の高い音が細かく、響いた。

  まさに彼女の独壇場だった。

  警告を聞きつけて集まってくる人間、魔法、それらを寄せ付けもせずに切り払っていく。
  戦場に咲く一輪の徒花。
  白と黄金、そして紅色の瞳を輝かせて舞うように、踊るように、剣を振るう。

 「………邪魔だから下がって、と言ったわけがよくわかるわ。」

  そのさらに後方。
  ルビーが切り開いていく道を進みながら、苦々しげに珠洲が言う。

 「二刀流による攻撃範囲の拡大。
  スピードによる各個撃破、それを上回る舞踏のような剣戟…始めて見るであるが、凄まじささえ感じるのである。」

  すでに『研究所』に入ってから十分。
  警告音も侵入と同時に鳴り響いている。

  そこに入る前、ルビーは追随しようとする一同に向かって言った。

  なるべく後方から来て欲しい、と。
  それはルビー一人が戦うという意味だったため、勿論、朔良や舞鼓たちが渋った。
  一人で傷つくつもりなのか、と憤った。

  しかしそれさえも冷静にルビーは淡々と返す。

  『そのほうが、いい。』

  と。
  それは『前』から来る敵……廊下は勿論、横や後ろからの攻撃にも気をつけなければならないのだが、目的地を目差すのであれば『先』へ進まなくてはならない。

  進むのなら、進行方向の敵を一掃していったほうが早い。

  進むスピードさえ下げなければ、その分、他の方向からの攻撃も少なくなる。
  だからこそ、ルビーは後方から来て欲しい、と言ったのだ。

  前方の敵をいち早く撃破するのには、このメンバーのなかで最も『近接戦闘能力』の高い自分が行くべきなのだ、と。
  そして、その能力ゆえに側に誰かがいては集中できなくなる。
  刀は、手元から切っ先までのすべてが、攻撃範囲であるから。

 「でもルビーさんすっげぇ! なんかもう、映画見てるみたいだしっ!!」

  メンバーの中でも邪気のない声でネスティが賛美の声を上げる。
  それを聞いた面々が密かな苦笑を浮かべる。

  勿論、ルビーは前方しか見ていないため、時折来る別方向からの攻撃は自分たちで対処するしかなかったのだが、それも少ない。
  
  珠洲がルビーの力を借りようとしていたわけがわかる、と朔良はふと思った。
  そう思い、朔良が走りながら何気なく視線を横へと向けた。

  そこには、黒い髪を揺らした舞鼓がいる。

 「……どうした?」

  だが舞鼓の瞳は、不安な色を称えていた。
  表情にもそれが現れており、暗いものを含んでいる。

  朔良に問いかけられて舞鼓は顔を上げた。

 「……いえ、あの…」

  口ごもる舞鼓に朔良は言葉で問いかけることはなく、ジッと視線だけで待った。
  それが舞鼓に少しだけ言葉を探す時間を与えたのだろう。舞鼓がふ、と息を吐いた。

 「………少し、不安で…」
 「不安?」
 
  今度は問いかける言葉に、舞鼓は自分のなかの気持ちをどう伝えればいいのかと迷っているようだった。

  しかし、意を決して顔を上げる。
  その視線の先には、剣を振るい続けるルビーの姿がある。

 「確かにあの子は強い……強くて、私など、足手まといにしかならないくらいですわ。」

  眩しいものを見るかのように目が細められる。
  同時に、辛そうに唇が歪められた。

  漠然とした不安に、胸を締め付けられる。

 「でも、いつかあの子が…ルビーが、倒れてしまいそうで…」

  怖いのです、と小さく呟く。
  
  それは本当に漠然とした不安でしかない。
  だが、胸を押しつぶすかのようなそれは、止むことがない。
  
 「……とても、怖い。」

  その言葉に、朔良は同意するわけでもなく、ふっと前方を見据える。
  
  後ろ姿がある。
  振り返りもしない、その姿。

  その背中を守る、と約束したのはもういつのことだったか。
  約束は、ほんの前だったはずだ。
  それでも朔良には、いつのことだった、と思うくらい前のことのように感じられる。

  あの日の蒼穹が頭を過ぎる。
  そして、涙も。

  あの戦友は、
  助けてほしい、と頭を下げた、彼女は。

 「………だって、あの子は。」






  優華やリョウたちを助けてくれ、と言った。
  だけど、自分を助けてくれとは、言わなかった。

  




  だから、
  とても怖い。










 「…………!! 珠洲せんせ!!」

  敵を切り伏せながら進み続けていたルビーが何かに気付いたのか、後方へ向けて叫ぶ。
  その声を聞いた珠洲もまた、彼女の言いたいことを瞬時に『理解』した。

  手元にあった地図を見、確認した。続いて走りながら魔力を走らせる。

 「………………いけるわ!」

  その手の内で、魔法が『組み上がった』。
  結界による『障害』をはね除けて、確かに完成したそれを見て、ルビーが手の内の<山南敬助>を消す。

  続いて走りながら出てきた敵に向かって鋭い蹴りを見舞った。

  宙をかけ、壁を蹴って敵を翻弄しながら、それでも手の魔力を『消す』ことだけはしない。

 「…ルビーさん!」

  合図だ。
  それを察知し、今度はルビーが正しく『理解』する。

  手の魔力は形となって、彼女の掌のうちに体現した。
  巨大な刃を持つ<斉藤 一>となって、唸りを上げてちょうど横にあった『壁』を斬りつける。
  ガリガリ、と金属どおしがこすり合うような鈍い音がたった。

  切れない。
  切るだけの威力はない。
  だが、傷はついた。そこから珠洲が魔法を放つ。

  <土>はその成分の中に<金属>も含んでいる。
  すなわち、鉱石のことだ。
  そこから生み出される<金属>に、珠洲も少なからず干渉が出来る。
  彼女の得意分野とされる鉱石と似た、けれど実行したことのない『魔法』。

  しかしそれは、叶った。

  鈍い音をたてて壁が崩れ落ちる。
  同時に、その先に空間が空いていた。
  
 「………『ここ』…!!」

  そしてそここそが最初の目的地。
  
  <制御室>である。

  地図にはここまでの最短距離が示されていた。
  そう、本当の意味での『最短距離』。
  壁をぶちぬくことで、幾分かのタイム短縮を図ったのである。

  最初に珠洲がその中に入り、続いて他のメンバーもその中へと入っていた。
  最後にルビーと楓が入り、そのまま『穴』のほうへとつく。

  制御室のなかは、おあつらえ向きに誰もいなかった。

 「……多分、我々の捕獲に向かったのであろうな。」

  『敵』は今回の侵入者が何を狙っているのかわかっている。
  そう、捕らえられているはずの『彼ら』である。

  その警護と、そして自分たちへの迎撃として向かったのだろう。

  しかし今回の『最初』の目的地はそこではない。
  最初から、この制御室に向かうことこそが、ルートとして定められていたのである。

 「…まずは施設内のシステムダウン。」

  そう言いながらサラスが一歩前に出て、メインコンソールと思しきキーボードへと指を伸ばした。
  硬質的なキー音が室内に響き渡り、画面の一つが『監視映像』から『作業画面』へと切り替わる。

  動きやすくするにはまず、敵の『中枢』を叩くべきである。

  ルビーは地図を貰い受けるさいに、あの蒼い髪の青年からアドバイスされた。
  逸る気持ちもわかる。
  一刻も早く助け出したいという思いもあるだろう。

  それはわかる。

  わかるがしかし、それでは逆に救出を阻んでしまうことにもなりかねない。
  敵の『中』にいるリョウたちを助けるには、力任せでは行き詰まってしまう。

  叩くのならば『中枢』を。
  そこがオートメン化されているのなら尚更、システムの掌握、あるいはダウンさせるのが得策なのだ。
  それだけで機械に『頼っている』奴らは混乱に落とし込まれる。
  
  常に危険にさらされているのなら、その対処も出来よう。
  しかし機械に任せっきりであるのなら、『こうしていれば大丈夫』だという油断がある。

  その油断をつくのだ。

  だからルビーたちはここに来るまでの最短ルートを走った。
  
 「……………どうです?」

  キーボードに指先を叩きつけるかのように動かしていくサラスに、横から舞鼓が問いかける。
  サラスの視線は画面に向いたままだったが、口を開いた。

 「…パスワードは事前にグリフ殿とやらが調べておいてくれたのである。
  そこまで入るのは容易ではないだろうが、やり遂げてみせるのである。」

  だから心配するな、と言葉ではなく行動でサラスは示した。
  休むことなく指先が動き続けて、止まることがない。
  次々に映し出される事象に対処していくサラスを見つめて、舞鼓は、ほ、と息をついた。

  大丈夫。

  きっと、大丈夫だ。
  そう思い、胸の上に手を当てる。

 「………………その前に、優華殿とリョウ殿の位置を確認しなければ……」

  カタカタと音を立てながら何事かを入力すると、やはり慣れない装置であったせいもあってか数分間の時間を要した。
  (その間に敵は幸運にも来なかった。
   情報が混乱しているのかもしれない。随分と短時間でここに入り込んだから。)

  やがて数ある情報のなかから、サラスは何かを見つける。

  指先が一瞬止まる。
  
 「……これであるか?」

  その声は疑問系だった。
  しかしめぼしいものだろうと思い、サラスはかちり、とエンターキーを押す。








  大丈夫だ、なんて。








  瞬間。
  数ある映像のなかで、数台の『画面』が『それ』を映し出した。







  夜。
  そう、夜だ。
  暗い画面のなか、ライトに照らされて見覚えのある少女が叫ぶ。

 『兄さん!!!!』

  それは、ルビーが、いやここにいる誰もが探し続けている、声。
  ルビーが反射的に廊下から顔を背ける。

  視線の先には、紫色の瞳の懐かしい彼女の姿があった。

 「ゆか。」

  それは、探し続けていた姿だった。

  一瞬ルビーの表情に安堵の色が浮かびかける。
  だが、

 『やめて!』

  次の瞬間、それは脆くも崩れ去った。
  叫び声。
  そう、叫び声にも似た、うめき声が聞こえてくる。

  見るともう一つの画面の先で、たった今倒れ伏した銀髪の青年の姿が映し出される。

  それを見た珠洲の表情が変わった。
  唇がわずかに戦慄くが、名を呼ぶことはない。

  それが映像だから、呼びかけることを躊躇ったのだ。

  画面のなかにいる青年は、リョウはすでに傷だらけだった。
  顔から血を流し、体中のいたるところに裂傷や、斬りつけられたと思しき傷を曝している。

  それでもその瞳から闘志が消えることはない。

  揺らめくサーチライトの下、青い瞳が瞬いている。
  見据える相手は、二人。
  
  白銀の髪の男と、東洋風の男だった。

 『……て、めぇ…!!』

  東洋風の男の顔を見て、ルビーが微かな悲鳴を上げた。
  抑えつけようとして唇を手で押さえつけるが、視線だけは固まったまま動かなかった。

  ガタガタと震えだした体に、楓がそっと手を伸ばす。

  指先が触れれば、びくりと反応を示してルビーが楓のほうを見返した。

  ………画面の中にいるのは、よく知った顔。
  忘れもしない、姿。

 『……無様だな。』
 
  瑪瑙、だ。

  ルビーの兄たる彼が何故そこにいるのかはわからない。
  その理由を、ルビーが推し量ることが出来ない。

  だが、敵対していることだけはわかった。

  瞳で、わかる。
  瑪瑙がリョウに向けるそれが、敵意と殺意に満ちあふれたものであったから。

 『ユカはんを……離せ!!』
 『はっはー、離せって言われて離すバカがいるわけねぇだろぉ?』

  リョウの怒気に膨らんだ声さえも笑い飛ばすかのように、瑪瑙の横にいる男が言う。
  見たこともない男だった。

  しかし、画面であるにも関わらず、その場にいたほとんどの者の背筋にゾッとした何かを浮かばせるような気配を身に纏っている。

  そう、まるで。

 『弱いっ! 弱いなぁ、お前よぉ。俺は強いって聞いたから楽しみにしてたのになぁ……そんなにこの女のことが気になるのなら、』

  まるで、死だ。
  食いつぶされるかのような、怒濤の死の気配。

 『殺しちまうぜぇ?』

  ぎらりと刃が光る。
  優華が一瞬悲鳴を上げそうに喉を鳴らした。
  だがその悲鳴を気力だけで抑えつける。悲鳴を上げればリョウがどう動くのかがわかっていたからだ。

  冷静な判断が出来なくなってしまう。
  そう思い、悲鳴を呑み込んだ。

  だが、反応はリョウのほうが如実だった。
  瞳が怒りに染まり、気配が一気に怒気へとふくれあがっていく。

 『兄さん、やめて! 逃げて!!』

  悲鳴を抑えつけた優華もリョウの変化に気付いた。
  どうにか止めようと藻掻く。
  しかし、その藻掻きは叶わなかった。動けない。

  いや、動くことができないのだ。

  彼女のこめかみに、拳銃が突きつけられる。
  同時に、画面の奥、優華のすぐ後ろに壮年の男が立っているのが見えた。

  顔中が傷だらけの男。
  傷跡が見にくく残った、それ。
  優華の腕を持ち、拘束しているのだ。

 『動かないほうが懸命だよ、カイーナくん。』

  表情は硬質的で、威圧的だ。
  気むずかしそうなその内面が如実に表れているといってもいい。

  その言葉を聞いたリョウが苦々しげに顔を向ける。

 『……離せ。』

  激しい感情を込めて一言だった。
  いっそ、焼き殺されそうなほどの殺意を秘めたもの。

  だが男はそんなもの何処吹く風で笑って受け流している。
  そして改めて優華のこめかみに銃口を押しつける。ごり、と嫌な音が聞こえてきそうなほどだ。

 『私としても手荒な真似はしたくはない。
  ……柊くんは貴重な『サンプル』だからね。出来るだけ丁重に迎え入れる必要があるんだ。』
 『やかましい!! さっさとその汚い手ぇどけんと、ただやすませへんで!!』

  瞬間、『結界』に抑え込まれているはずのリョウの魔力が空気に走る。
  バリバリと嫌な音をたてて両手に無理矢理に集まろうとしている。

  男がその様子を見て、ほう、と感嘆の声を上げる。
  瑪瑙と、白銀の髪の男の反応はない。

  ……やがて男は、『カトウ ミクリヤ』は悠然と笑みを浮かべた。

 『ならば仕方ない。』

  撃鉄が、引かれる。
  指先にかけたそれに力が込められた。

 『…柊くんには、『大変』な目にあってもらわないといけなくなるな。』

  その言葉にリョウの動きが止まる。
  優華もカトウの言わんとすることがわかったのだろう。目を見開いて、叫んだ。

 『ダメ! 兄さん、逃げて!!』

  人質、なのだ。
  リョウが動けば優華を殺すのだという、脅し。

  だが、リョウが動けば確実に銃口は火を噴くだろう。
  狙いは優華だとしても、意に介しなければ『かわり』を見つけてくれだけばいいこと。
  優華はそれでも叫ぶ。

 『逃げて……お願い、行って!!』

  悲痛なまでの声だった。
  同時に、その顔に悔しさと怒りが入り交じって浮かんでいる。

 『……カイーナくん。君が逃げ出せば、』

  足手まといにしかならない自分への憤りでもある。
  
 『柊くんは、どうなるかな?』

  それは言葉のない静かな、静かな宣告だった。
  そしてリョウがその言葉に逆らうことができないことを知ってのもの。

  リョウの相貌が歯がゆそうに歪む。

  だが、やがて。

  やがて、構えていた両手が下がり、魔力がひそやかに解けていく。
  風に乗って消え、すべてがかき消えて、消されて。

  優華の声が聞こえる。
  それは悲鳴だ。
  お願い、と懇願する、だけどそれは届くことのない、悲痛な願いの声。







  その時、成り行きを見守っていた瑪瑙と白銀の男が、同時に動いた。

  鈍色の切っ先が唸りを上げて無防備だったリョウに迫る。
  リョウは顔を上げ、目がそれを捕らえる。
  避けることが出来たはずだ。
  いつもの彼なら、そのくらいの芸当が出来た。

  だが、リョウの視線は、その切っ先には向けられていなかった。

  その先にいたのは、今にも泣き出しそうな顔でこちらに向かって逃げてくれ、と叫んでいる優華の姿だけ。







  血しぶきが、舞う。
  絶叫が上がり、血をまき散らしながらリョウの体が地面へと倒れ込んでいくのが映し出される。

  






  それはいつ撮られたものなのかはわからない。
  だが、全員の視線がそれに釘付けになった。

  泣きながら優華が何度もリョウの名前を叫んでいる。
  リョウは動かない。
  地面に倒れたまま、ぴくりともしなかった。

  すべては、映像の先で巻き起こっているもの。

 「………な…」

  コンソールを操作していたサラスの手でさえ止まってしまっていた。
  誰も何も声を発する事が出来ない。

  事態は、

  事態は、ここまで、深刻さを極めていたのか、と。
  
  ルビーが心のうちで思う。
  そうだ。
  あの二人が何の連絡もなく、ただそのままにいるわけがないのだ。

  出来ない理由が、あったのだ。

  心のどこかで思っていた。
  心のどこかが、信じ切っていた。盲信してしまっていた。

  あの二人ならきっと大丈夫だ、と。

  そんなわけないのに。
  事態は、こんなにも、悪い。

  ルビーがふらりと、画面のほうへと近づいていく。
  泣き続ける優華の姿を見るためなのか、倒れ伏したまま動かないリョウを見るためなのかはわからない。

  だが、歩みは止まらない。
  ふらふらとした足取りのまま、コンソールに手を置いた。
  かちり、と。

  音をたてて、何かが押される。

  その瞬間、映し出されたものは、違う映像だった。
  そして、

 「―――――――っっっっ!!!!」

  舞鼓が耐えきれずに悲鳴を上げる。
  反射的に朔良が彼女の目を塞いだが、遅かった。
  ネスティもまた、視線を硬直させてガタガタと震えるしかできない。そんな彼を珠洲が背後から抱きしめ、腕のうちに隠すことでそれ以上を見せることを止めた。
  震えるネスティの背を撫でながら、それでも珠洲は画面から目を離すことを良しとしなかった。

  


  ルビーは、打ちのめされた。
  どうして三日も動こうとしなかったのだ、と激しく後悔した。自分の愚かさを呪った。

  目の前が黒く、黒く塗りつぶされていく。
  同時に、頭の奥が真っ赤に染まっていくのも、感じた。

  三日。
  その期間、自分の大切な人がどんな目にあわされていたのかを、この時になって始めて知った。
  思い知られた。




  映し出されたのは、断片的な映像だった。
  数台のカメラから映し出された、どれも違う映像。

  違う日。違う時間に映された、もの。

  その中で、優華が手術室の台の上で縛り付けられていた。

  メスが振られ、切り裂かれる。
  注射器が何の迷いもなく、彼女の腕に、腹に、顔に、突き刺さる。
  
  悲鳴はなかった。
  猿ぐつわをかまされた優華は、空虚な空気の塊を押し出すしか出来なかったのだ。

  『S・A・M・P・L・E 13。』

  言葉と共に白衣に身を包んだカトウが、優華の剥き出しになった肌の上に油性のマジックペンで言葉を書き込んでいく。

  そこに人間の尊厳など、微塵としてなかった。

  電極を繋がれ、電気を直接流される。
  あるいはわけのわからないクスリを投与され、激しく嘔吐している。
  
  何度も、何度も、何度も。
  手段を変え、方法を代え、器具をかえて。
  ありとあらゆる『実験』が優華に施される映像が事務的に『映像』として映し出されて、消えて、また再生される。







  楓の顔が歪んだ。
  なんてことを、と呟く。
  サラスは思わず視線を外してしまった。同時に、惨いことを、と空白の声が紡ぐ。

  ルビーは、その場から動く事が出来なかった。

  視線が硬直し、瞬きすら出来ない状況になっている。
  その視線が、ある一点を見つける。
  おそらく、『実験』が終わった直後なのだろう。

  まるで物のように白い部屋に放り投げられる優華の姿が、そこにはあった。

  全身を切り刻まれ、かき回され。
  それでも傷口だけは全部塞がれている。魔法によって、綺麗になくなっているのだ。
  (実験に、支障がないように。何度でも、何度でも、その行為を行えるように)
  だが、痛みがなくなるわけではない。
  
  消え去ることのない、心も体も、魂をも踏みにじられる行為を受け続けているのだ。
  うつろな目は、既に光を失いかけている。

  それでも、最後の、本当に一欠片の光だけが瞳に残っているのが見えた。

 『                    』

  声が、

  声が、かすかに聞こえた。

  画面の中、倒れ伏したまま優華の唇が動いている。
  その声を聞こうとしてルビーは画面に向かって身を乗り出した。

  震える指先が画面へとのばされ、そこに映し出されている優華の輪郭を静かに撫でる。

 『           な、さ』

  唇が、動いている。

  その時、ルビーの耳には聞き取れた。
  小さな、小さな声。
  映像越しで、ひどく不鮮明ではあったのだけど、聞き逃すことはなかった。

 『かえ、して…あげ、られ……なく、て……ごめ、ん…』

  それは、誰へ向けての言葉だったのかルビーはわかった。わかってしまった。

  珠洲への言葉だ。
  そして、ネスティへのものでもある。
  返してあげられない、とはリョウのことであり、優華自身のことであるのだ。

  理性を失うような状況で、それでも口にするのはそのことで。

  ルビーの顔が歪む。

 『………かえ、れない…』

  つぅ、と優華の瞳から涙があふれ出す。
  それは片方だけで、もう片方の瞳はすでに白く濁ってしまっていて。
  (ルビーはわかった。過去に潰されたあの片目にさえも、あいつらは手を加えているのだということを。)








  ぐちゃり、と。

  音をたててコンソールが叩き潰された。
  その音にハッとなってサラスが振り向く。
  
  ルビーの手の下。
  握り拳によって無惨にもたたき壊されたキーボードが、最後の悲鳴を上げていた。

 「………許さない。」

  その瞬間。
  少女の顔から一切の感情が抜け落ちる。
  その瞬間を間近でサラスは見た。いや、見てしまった。

  他の誰の位置からもその変化は見て取れない。ただ、近くにいたサラスだけが見ていたのだ。

 「許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない。」

  呪詛そのもので吹き出される言葉。
  狂気など生易しい。
  憎悪などまだ足りない。
  怒りなど、足下にさえ及ばない。

  激しいまでの感情を込めて、唇から言葉が紡ぎ出されていく。

 「私の、全存在をかけてでも、許さない。」

  いっそ、死神に殺されるほうがどれほど安らかであろう。
  間近で見てしまったサラスの背筋に、冷たい何かが押しつけられる。

  思わず、がたり、と音を立ててその場から一歩、退いてしまっていた。

  紅色の瞳が、見据える。

 「許さない。」

  それはこの世界のどの言葉よりもおぞましいほどの重さを孕んでいた。












  ダメですよ、


  それでも、ルビーの脳裏を過ぎったのが、おぞましい感情だけではなく。


  ダメですってば、ねーさん。


  いつか見た、笑う『妹』の姿も同時に、過ぎった。
  優しく笑いながら、手を伸ばしてくる。頭を撫でて、笑いかけて、抱きしめてくれる。

  その、胸が苦しくなるような、切ない感情を何故か思い出していた。


  そんな強い言葉を使っちゃったら、心(ここ)が苦しくなっちゃうんですよ?
  そーやで、ルビーはん。


  暗い感情が、


  許さない、なんて言っちゃったら、ダメですよ。
  許さないのは、相手のことやのうて……お前のことに、なってしまうやろ?


  すぅ、と、掻き消されている。
  優しい何かに包まれて、ここにはいないはずなのに『救われ』て、『守られて』いる。

  だから、
  笑いかける二人の姿が思い出にある。
  それは、道しるべたちの記憶。

  ルビーを暗い暗い闇のなかから救い出してくれた、暖かな陽の光に似たもの。

   







  闇に囚われていた頃があった。
  それを救い出してくれた人がいた。

  とても優しい人たち。

  ルビーが今、守りたいと願う人たち。

 「……………行かなきゃ。」

  呟き、瞳に、気配に、『何かが』戻る。
  暗い何かをかき消して、自分の胸のうちに巣くうそれを追い出して、尚光るもののように。

  紅色の瞳に光が宿る。

  それは灼熱の色ではなく、宝石のように煌めく、いつもの彼女のものだ。
  あの時から、与えられたものだ。

 「待ってて…すぐ、」

  今すぐに、そこから

 「助けて…みせる、から。」

  胸のうちにあるのは、決意だ。
  
  落ち着きを取り戻したルビーを見て、サラスが詰めていた息をほう、と吐き出した。
  肺の奥がぴりぴりとして痛みを上げていた。
  
  いつの間にか呼吸をすることさえ忘れていたらしい。それほどの迫力が、ルビーにはあった。

  息さえも出来ぬほどの威圧感のなかで、サラスはようやく自分がすべきことを思い出す。

 「……大丈夫であるよ。」

  ぽつりと呟きながら、サラスはコンソールへと向き直った。
  だからサラスはその時振り返ったルビーがどんな顔をして自分を見ているのか、知ることが出来なかった。

 「もう、大丈夫である。我々がここに来た以上、非道なことなどさせないのである。」

  カタカタとキーボートを叩く音がして、画面がすべて切り替わる。
  それはサラスなりの『優しさ』であったのだろう。
  
  横にいるルビーは動かない。
  だが、ふと、微笑む気配がした。

 「……ありがと、サラス。」

  なんの、とサラスは答えた。
  友人としてならばまだ少なすぎるくらいだ。自分のすることは、あまりにも少ない。

  だから、気にしなくてもいいという思いを込めて呟いた。






  ようやく落ち着きを取り戻した一同の様子を見ながら、サラスの瞳が小さく細められる。

 「……見つけたのである。」

  呟きと同時にキーボードを押すと、数台のモニタを使ってこの施設内の『図面』が映し出される。
  全員がそのモニタに視線をやり、ルビーがサラスのすぐ横へと歩み寄った。

 「……ユカたち、は。」
 「ああ……少し待つのである。」

  かちり、と音をたててボタンが押されると、入り口よ思しき場所が赤く点滅を始めた。

 「ここが、入り口。次にここが……今、我々がいる制御室なのである。」

  次に説明と同時に青い点が映し出される。
  ひときわ大きく仕切られた一室。
  そこが、今いる場所。

 「…そして、優華殿と、リョウ教諭であるが。」

  キーボードを操作すると、赤い点が二つ、モニタに映し出された。
 
  その画面に珠洲が動き、ネスティも同じように見入った。
  
 「……場所は、ここの………下あたり、かしら。」
 「そこが教諭のいる場所である。」
 「じゃ、こっちがひーらぎさんなんだな?」

  ひたり、と指先がその場所を抑える。
  珠洲がこくりと頷いて、ルビーさん、と横にいる彼女の名を呼んだ。

  ルビーが顔を上げると、真摯な顔で珠洲が口を開く。

 「あなたはここに残ってちょうだい。」

  その言葉にルビーが驚いたように目を見開いた。
  なにを、と言いかけるよりも早く、珠洲がネスティのほうを見る。

 「二人を助け出すにしても大人数で歩き回っちゃ見つかりやすいわ。」
 「……で、でも!」
 「ここがこの施設内の『システム』を掌握している場所だとしたら……ここを使われたら、動きにくくもなるのだしね。
  だから、ここに居て、この場所を守ってちょうだい。」

  そしてもうひとつ、と言って珠洲は手元に持っていた地図に胸にさしてあったペンで赤く丸印を書き込む。
  それをネスティへとスッと差し出した。

  ネスティが訝しげに差し出された地図を見つめている。

 「……だから、あたくしと、ネスティくんで二人をここに連れてくる。」

  珠洲の提案に一同が驚きに言葉も出なくなった。
  唖然とした様子のなかで、楓だけが楽しげに『さっすが珠洲さん』と言って笑っている。

 「本来ならネスティくんにもここに残れ、と言いたいところなのだけど。」

  ネスティがその言葉にぴくりと体を動かした。
  何かを言いたげに顔を上げれば、珠洲が笑っている。

 「………自分のものくらい、自分の手で取り返したいでしょうから。」

  だから、行けと。
  珠洲はそう言っているのだ。
  地図で描かれた場所は、よく見れば優華のいる場所を示したものであった。

  ネスティがそれを見てぽかん、と口を開け……それから、みるみる瞳に活気を取り戻していく。

 「…おう!」

  決意とうれしさを込めて、ネスティが笑う。
  差し出された珠洲の手から地図を受け取ると、それを胸のうちにしまいこんだ。

 「行く! んでもって、ゆかさんを絶対、取り返す!!」
 「その意気よ。頼りにしてるわ。」

  その様子に珠洲が笑みをもらした。
  それだけでもう反論は許さない、と言いたげに珠洲が、かつりと音を立てて歩き出す。

  ルビーはまだ何か言いたげな顔をしていた。
  だが、それを許さない。

  許すわけには、いかない。

 「サラスくん。」
 「……は、はい!」
 「頼むわ。多分、二人のいる場所までのシステムは生きてるだろうから……どうにか、いじくってちょうだい。
  ルビーさんも……ここにいる子たちを、守ってあげて。」

  無理な、そして酷い注文をしている、と思いながらも、珠洲の歩みは止まらなかった。
  
  言葉はまだ冷静だ。
  だが、頭の中はそうではない。

  血まみれの、

  ぎりり、と音を立てて唇を噛みしめる。
  頭のなかで悪態をつきながら、それでも珠洲は何も毒を吐くこともなかった。

  そんな珠洲の様子を見て、楓はただ「まかせといて」と言った。

  その言葉が、この場に残る面々を『守る』という意味だということを感じ取り、珠洲は何も言わずに頷く。
  ネスティがそれに続こうとして、その前に立ちすくむルビーのほうを見た。

 「……だいじょーぶだって。」

  にか、と歯を見せて笑ってみせる。

 「ゆかさんも、りょうせんせいもさ。」

  ルビーが顔を上げれば、ネスティがグッと親指をつきたてていた。

 「取り戻してくるから!!」

  それは、いつか優華が大好きだと言っていた、太陽のような光り輝く笑顔で。




  ルビーはしばし何も言わなかったが、やがて唇の端を持ち上げる。
  やんわりと、困ったように微笑んでいた。

 「……頼んだ、わ。」

  静かに、承諾する。
  自分の『役割』を思い、ネスティと、それから珠洲に託した。

  二人を助け出すという役割を。

  暗い、暗い、縁から救い出すという、重要なものを託す。

 「まっかせとけ!!」

  言い切り、そしてネスティもまた走り出した。
  その後ろ姿を見やり、ルビーは苦笑を浮かべている。








  託すものがある。
  託していく、ものがある。

  それは一抹の寂しささえ感じるようなものであるのだけど、それは必要なこと。

  だって、







  だって、彼らは、託すべき人たちは『二人』に選ばれた人なのだから。








  お願いします、と心のうちで祈る。
  祈りは、届く。

  きっと。








 <眠れる女王に、続く>