其処は、いつもと変わりはなかった。
変化もなく、確変もなく、移り変わるものさえもない、その白い密室はいつもと変わらず其処に存在していた。
存在するだけで妙な圧迫感を与える。
白に、ただただ、何もかも白く塗りつぶされたそれは、押しつぶされそうな感覚さえある。
その中にあって、少女はただ横たわっていた。
黒い髪を床に、頬を下にし、微動だにさずに瞳だけが虚空を見据えていた。
かすかに上下する動作だけが、彼女が生きているという証だった。
『……被験体の様子は?』
唐突に。
脳裏を掠める『声』を耳にしながら、少女は視線だけを動かす。
壁の向こうにいるであろう『敵』の姿を見据え、神経を尖らせる。
感覚が、ある。
あの頃と同じ感覚が、身体の奥底にある。
『衰弱が著しいです。身体データのグラフも、あまり芳しいとは…』
『実験に支障が出るほどではないだろう。』
『しかし、このまま続ければ…』
『サトリ』の、感覚が蘇りつつあった。
とっくの昔に忘れ去ったはずのそれ。あまりにも平和すぎた生活のなかで使うことさえ思いつきもしなかったそれが、感覚を侵していく。
人の<こえ>は嫌いだ。
こんなにも残酷な人の<こえ>を聞くのは、昔から嫌いだった。
『構わない。』
『ですが…』
少女は、ゆっくりと目を伏せる。
思い出すのは、『平和』な場所に残してきた人々のことだ。
ごめんなさい、と。ごめんなさい、と心の中で謝罪し、静かに手を合わせる。
ごめんなさい、私は。
『データさえ取れれば、生きていようが死んでいようが、関係ないだろう。』
私は、もう、帰れそうもない。
『廃人になれば、その分のデータも採取できるだろう。準備に入れ。』
そして、兄さんも、返してあげられそうにない。
さらに心の中で謝る。
これでは、ただの間男ならぬ、間女のようだと思って、哀しくなった。
せめて返してあげられたらいいと思う。
多分、まだ、兄さんは生きているだろうから、今のうちならまだ間に合うだろうから。
だから、あの強いけれど、とても脆い人に、返してあげたいと思う。
頭の片隅に、赤毛の女性の面影が過ぎる。
強いけれど、とても脆い。
鋼の鎧を身に纏った、けれどその実、心は深い深い痛みを受ける。そして、その痛みを表に出さず、出しもせずに、しまいこんでしまうだろうから。
兄さんを、返してあげたいと。
そう願う。そう、思う。
思う、のに。
『実験第3段階だ。直接的なダメージを与えた場合のデータを採取する。』
その力が、ない。
残っていない。一振りの力でさえも、ない。
思い出すのは、残してきた人たちのこと。
涙を流す姉の姿と、泣きじゃくる愛する小さな男の子。
笑顔を思いたいのに思い出すことができないのは、きっとこれから泣かせてしまうことになるからだ。
白い部屋、白い記憶、白い虚像 −扉の閉じる音がする。それは、果てしなき絶望の檻−
森のなかをただひたすらに進んでいった。
列車から降りて早二時間。市街地を抜け、林道を突き抜け、さらに山道と言わず獣道を進んでいく。
森は深い。
ここが英国であることを思い浮かばせる樹木は存在しているものの、その数は圧倒的だった。森林公園のなかに迷い込んだのか、あるいは原生林のなかを突き進んでいるような気さえする。
「……………前方、200。」
その先頭に立って地図を片手に一同を案内していたルビーが、顔を上げて呟く。
視線の先には切りだった崖と、そこに生える草しか見えないが。
「…あそこにも<いる>の?」
ルビーのすぐ後ろを歩いていた珠洲がそう問いかければ、別に考えもせずにルビーが頷く。
「こんな山の中に<施設>があるのかどうか疑問だったのだけど…警備の数が多いわね。」
珠洲が考え込むように思考を巡らせながら言葉を落とす。
「まあ『隠したい』なら仕方ないんじゃない? 知られたくないものを知られないようにするには、それなりに手間が必要だしね。」
同じく後方からやって来ていた楓が場違いなほどの明るい声で珠洲の言葉に応えた。
珠洲が一瞬眉を寄せるが、ルビーは納得したように頷く。
知られたくない。だから隠す。
知られないように、隠して、守って。
そうして近づいたものは『排除』するのだ。物理的な、方法を持って。
「…他に何か見えるか?」
前方に視線を向けていたルビーの背後から、さらに声がかかった。
視線を巡らせば、長身のせいで胸しか見えない。
さらに視線を上に動かして、ようやく顔が見えた。
「見える…と、いうか…感じる、の。」
「…どんな風に?」
「気配。あと、空気…とか……」
問いかけてきたのは朔良だった。
今までは後方からついてきている舞鼓やサラス、それにネスティたちと一緒にいたはずなのだがと思い、顔をそちらへと向けると少し離れた場所からついてきている三人の姿が見える。
山道がさすがに堪えたのだろう。
肩で息をする舞鼓を支えるようにしてサラスがいて、その少し前をネスティが気遣わしげに歩いている。
少し休んだほうがいいのかもしれない。
自分はともかくとして、何故か山道に慣れている(聞けば幼い頃からそういう旅をしていたのだそうだ)楓らと違って、舞鼓やネスティはさすがに疲れが見え始めている。
珠洲も変わった様子はないが、疲れをあまり見せようとしないところがあるから、先んじておいたほうがいいだろう。
ルビーはそこまで思って、そっと自分の胸に手を置いた。
胸の奥の鼓動が感じられる。
大丈夫。まだ。
まだ、大丈夫。生きている。動ける。
痛みはまだ遠い。だから、大丈夫。
「……お前は、大丈夫なのか?」
ふと、朔良の口からこぼれた言葉に、ルビーはしばらく逡巡してから振り向いた。
思っていたものと、同じ言葉だったからかもしれない。
大丈夫、ということば。
「……………え、と…。」
「いや。お前も歩き通しで……それに『空気』を読むのにも神経は使うだろう?」
だから、声をかけたのだと、彼は言う。
なんていうタイミングだろう。
それでも、悟られるわけにはいかない。
唇を持ち上げ、目の光を和らげて、無理矢理笑ってみせた。
だいじょうぶ、と。
心の奥で何度も何度も重ねる。塗り固めていく。
こぼれ落ちないように。
うそを、重ねていく。
「うん……私は、『大丈夫』。」
悟られないように、ルビーは嘘を重ねた言葉で答えた。
それが朔良には自分の言葉に答えたものとして受け取ったのだろう。そうか、と言った。
そして休むように告げると、後方の舞鼓たちのほうへと近づいていく。
後ろ姿をただ見送った。足は止まってしまって、後を追う事が出来ない。
(まるで、暗示のようだ)
遠ざかっていく姿を追うことができない。
……嘘を。
うそをつくことに、抵抗がないかと言えばそんなことはない。
重ねていくことの痛みがある。
塗り固めたところで、気を抜けばこぼれおちてしまう。
ことばを、
その時、無言でこちらを見つめる視線に気付いてルビーは顔を上げた。
視線の主は何も言わない楓だった。
込められた視線の意味を解くことはできない。
隣にいる珠洲と何事か話ながらも、視線がこちらを見ている。
ルビーの『本当』を知る数少ない人。
何も言わないで、と約束をした。だから楓は何も言わない。
酷いことをしているな、と思って目を伏せる。
ごめんね、と。
重ねる。
言葉には出来ない。してしまったら、気付かれてしまうから。
それは聡い珠洲かもしれない。あるいは、舞鼓が気付くかもしれない。
言葉の意味を。
何かに気付いてしまって、問い詰められたらうまく答える自信はない。
だから、言わない。
それをすべて閉じこめてしまっても、取り返したいものがある。
「………ユカ。」
全部を呑み込んで、ようやくこぼれ落ちたのは名前だった。
祈るように目を閉じて、瞼の裏で彼らを思う。
「あにくん。」
すべてに欺いてでも、守りたいものがある。
取り返したいものが、あるから。
欺き、嘘をつき、裏切り、それでも尚、取り返さなければならないもの。
「いま、いくよ。」
すべてを、取り戻す。
そのために失うものがあったとしても、守りきることこそが本望なのだから、構わない。
かまうものか。
(うそつき、だね)
「………これが。」
同じ頃。
暗い部屋の中、数多くの監視カメラの映像が断続的に流される画面を見つめながら、男は口を開く。
壁中を埋め尽くすかのように配置され、映しだれる映像の数々。
革張りの椅子に座りながら、視線は動くことなく固定されている。
「これが、お前の守りたかったものか。」
見つめる先には二つの映像がある。
血だまりの中で倒れ込んだまま動かない男の姿。
白い部屋で、たった今、所員の手によって打ち棄てられるようにして放り投げられる少女の姿。
二つを見つめる視線には、重い力がある。
それは怒りにも似たもの。黒い、暗い、光だ。
黒い瞳だが、光に透かせば淡く緑色に輝くのが見える。
東洋人の風貌をしているが、瞳の光は撥ね付けるかのような強さが漲っている。
瞳と同じ黒い髪は、怜悧な刃物を思わせる。
実際、まるで抜き身の日本刀を思わせる気配を身に纏っている。
触れればたちどころに両断されてしまう、そんな危ういもの。
「こんな奴らのせいで、お前の身に何が起こっているのか……お前は、わかっているのだろう。」
吐き捨てるかのような口調で思い出すのは、彼の『妹』のことだ。
自分とはまったく似ていない……いや、当たり前だった。そもそも男と彼女に血のつながりはない。
どこの誰かが産んだのかも知れぬ身の自分を思い、男は愉快そうに笑う。
侮蔑と嘲笑を含んだ唇が、歪んだ形で持ち上がった。
思い出すのは、雪の降るコンクリートの上。
対峙した。
自分と彼女の間には距離があって、さらに『彼ら』が間に割って入っていた。
何も知らないのはお前達のほうじゃないか。
ただの部外者が、ただの偽善者が、自分たちの心を満たすためだけにあいつを庇って、守ってやったつもりで。
そうしてあいつを絡め取って、追い詰めていく。
「お前があいつらを守るたびに、お前の身が千切れていく。」
輝きを、失っていく。
思い出すのは、紅玉の輝き。
名前そのままの紅色の瞳。宝石の輝きを持った色。
黄金の髪が風に揺れ、なびく。
光の束のようなそれ。
それがみんな、失われてしまう。
何も知らないあいつらのせいで。
そんなこと、
そんなことを、許せるはずなどない。
「……思い知らせなければ。」
お前達には何も出来ないのだと、それは罰であり、正統な『執行』なのだ、と。
「早く、早く。お前が……千切れる前に。」
脳裏を過ぎるのは、小さな頃の妹の姿。
昔の、あの懐かしい故郷の、家。
雪のなかで、それでもなお色をなくすことのなかった、あの風景。
同時に、
力強い瞳が、見えた。
(あれは惜別。
あれは飛び立つ意志を固めた瞳。誰にも汚されるもののない、純粋な決意。
その先に何が待っていたとしても、
覆されることのない、願いの)
その時。
高らかに警告のブザーが室内に鳴り響いた。
同時に、壁中の画面が一斉に書き換わる。
男が顔を上げて、それを見据えた。画面の中には数名の男女の姿。
今まさに、入り口に入ろうとしている姿。
その映像は、『侵入者』を示すものだ。
そしてその映像のなかに、あの懐かしい色を見つけて、男は歯噛みした。
ぎりりと音を立てて奥歯を噛みしめ、顔に苦渋の色が浮かぶ。
「………どうして…!」
思い出すのは、懐かしい風景。
(取り返したいのは、何だった?)
「なぜ、お前は……わからないんだ!!」
叫ぶように画面を拳で叩きつける。
その先にいるのは、やはり変わることも、間違えることのない彼女の姿で。
お前は、
壊れることが望みなのか、と
思った。
(同時に、そんなことを許せるはずもないと、)
だけど、彼は知らない。
届かないのは、言葉にしないからだと。
言葉にしなければ、抱きしめなければ、暖かさを教えなければ伝われないものもあるというのに。
それに気付いていない。
故に、届かない。
森の木々の間に巧妙に隠された鋼鉄製の扉がある。
岩を抉ったようなそれ(カムフラージュだろう)に、近代的な鈍色のオート化されたと一目瞭然の扉があるのはひどく不釣り合いなような感じさえ受ける。
その扉の前には数人の人間。
当然のことながら武装化している。手には長銃。型式番号はルビーにもわからなかった。
体にはおそらく防弾チョッキでも仕込んでいるはずだ。妙な体の線の膨らみでわかる。
「……あそこが入り口ってわけね。」
その『入り口』と思しき扉から数えて距離、25メートル。
ぎりぎり見える位置で、なおかつ見つかる可能性の少ないラインの上にある巨木と生い茂った茂みの間に身を隠したまま、珠洲はぽつりと呟く。
同じく、身を屈ませた面々が側にいる。
楓が目を閉じ、『魔法』で探りを入れながら唸った。
眉間に皺を寄せる叔父に気付いたのか、朔良が声をかける。
「どうしたんです、楓さん。」
「んー……なんていうかさ……ここに来る前にも思ったし、みんな気付いてるんだろうけど……」
「…結界、であるな。」
楓の言葉に付け加えるようにしてサラスがそう言った。
結界。
そう、魔法による『場』の力だ。
何の属性の結界かはわからない。様々な力が入り交じった『それ』は、探りを入れようにも面倒な作業を必要とすることは目に見えていたからだ。
「うん。多分、対人用の魔法結界かなー……魔法を使いにくくしてあるね。」
探りを入れていた楓がそう言って、魔法を閉じる。
「構成なんかを難しくしてある。魔法の『成立』自体を妨害するみたいな感じかな。」
「……面倒ね。」
「面倒だけど、対人とか魔法に対するものなら効果はあると思うよー。」
「魔法を使うのを制限するだけで、こちらの動きはかなり狭められるであるからな。」
うん、と唸る面々を後目に、ルビーは前方を見据えたまま微動だにしなかった。
そんな彼女の様子を心配そうに舞鼓が見つめる。
無理をしなければ良いのだけど、と心のうちで思った。
その舞鼓の心配を知ってか知らずか、ルビーの視線は動くことはない。
何かを値踏みするかのように動かし、かすかに指先を動かす。
「…………で。」
薄く動く唇のまま、ルビーが後方へ視線だけ巡らせた。
声の主は、珠洲であり、彼女は今の状況を厄介だと言わんばかりに表情を歪めている。
「魔法も使えないわけじゃないけどそう易々と使えない。しかも相手は武器つき……」
どうしましょうか、と表情が問うている。
朔良が難しそうに眉を寄せ、楽天的なネスティでさえ発言を控えていた。
他の面々についても似たような状況だが、楓に至っては発言自体をしない…という感じだ。
「どうやって侵入するか…か。」
「優華さんたちがどこにいるのかもわかりませんし、目立つ行動は出来ませんわね。」
顔を見合わせている舞鼓たちを一度見やり、ルビーは頭の奥で計算を始めた。
有効な策。
有効な攻撃方法。
「………場所は、まだ…わからない。でも、探せる、場所は……知ってる、わ。」
ルビーの発言に驚く一同に向かって、彼女は持っていた紙を投げた。
ひらひらと風に煽られて落ちてくるそれを手に取れば、書かれていたのは大まかな『見取り図』だった。
そこの一室に赤い×印が描かれている。
「そこが……この、『研究所』の……監視室、だって…グリフさん、が…言っていた、の。」
だからそこから内部を探せばいい、と。
そういうことなのだろう。
納得した様子の珠洲の顔を見ることなく、ルビーは掌に『魔力』を込めた。
途端、何かが『介入』する不快感を感じる。
邪魔をするかのような、そんな感覚。
うまく魔力が練り込めない。構成が、組み上がるのを邪魔される。
しかしそれさえも物ともせずに、精神をとぎすませる。
跳ね返し、はね除けて………魔力を、走らせる。
その次の瞬間、ルビーの手には一振りの日本刀が握られていた。
鈍色の光を放つ刀身。
ちゃきり、と魔法とは思えない音が、鳴り響く。
「……ちょっと、ルビーさん、何を…!!」
彼女の手に現れた『それ』に驚いたのか、珠洲が咎めるように言葉を出す。
だが、
「…………早く、行かなきゃ。」
ルビーを、止めることはできなかった。
瞬間、風が鳴く。
足が抉るように地面を蹴り、とても構えもせずに出来るとは思えないようなトップスピードで持って、ルビーは走り出した。
「ルビー!?」
「ルビーどの、何をなさるのである!!」
仲間たちの咎める声も既に後方。
25メートルという物理的な距離を一気に縮めて、木々の間をすり抜け、茂みを抜けて、金色の光が走る。
突然の『侵入者』に、警戒していたとは言え身構えもしていなかった警備の人間は反応が送れた。
時間にしてほんの数秒。
威嚇も、トリガーに手をかける暇さえも与えることもなく、ルビーの日本刀『山南敬助』が数度、閃いた。
それだけで入り口を固めていた人間全員が、地面に倒れ込んでいく。
いや、実際には吹き飛ばされ、地面に叩きつけられ、あるいは扉に体をぶつける者もいる。
うめき声が上がるが、その声を聞いてもルビーの視線は揺らぐことはない。
最後に、ちゃきり、と音を立てて剣を振る。
双振りの日本刀は、下げられると同時にその場にいた人間の全員を、一撃のもとに伏していた。
まさに電光石火の早業である。
当のルビーは涼しい顔をしているが、素人である舞鼓たちにとってはルビーが何をしたのか正確な把握さえ出来ないような、そんな神業なのだ。
しかしこれでは騒ぎが起こる。
いくら早業で、連絡を取らせる間もなく黙らせたとは言え、正面突破はやりすぎだ。
珠洲が頭を抱え、サラスが溜息をつく。
楓はおかしそうに唇を持ち上げるだけだ。
そんな様子を見ながら、ルビーが顔を上げた。
「……どうせ、中に入れば…騒ぎに、なるわ…」
だから、
「いつ、起こしても……変わりは、ない。はやく、行かなきゃ。」
そう結論づけるルビーに、すでに何を言う気力もなくなって、しょうがないわね! と珠洲がその場から立ち上がった。
他の面々についても同じような反応で、そのまま扉のほうへと集まっていく。
戦闘、そして侵入はこうして始まる。
『戦争開始四日目』……自体は、ようやく役者たちを舞台へと上げる。
踊るように、詠うように、舞うように。
……ベルが鳴り響く。それは、すべての『始まりの終わり』の告げる開幕の音。
〜戦闘開始、につづく。〜