鳴り響く警告音と、回る赤いランプ。
  けたたましい音に毒々しいまでの赤に囲まれながら、朔良は目の前で固く閉ざされた鋼鉄製の扉を叩いた。

  鈍い音だけがその場に響くが、開く様子はない。

 『この扉はロックされています。速やかにここより待避を勧告します。』

  合成音声の無機質な言葉が朔良の耳朶を掠めた。
  しかしそれさえ朔良には届かない。
  もう一度拳を振り下ろす。
 
 『速やかに待避を。』

  さらにもう一度叩いた。
  響く音はただ無機質で、開閉する様子さえもない。

  閉じられたそれは、まるでもう開くことのないアマテラスの岩戸のようだ。

 『待避を。』

  尚も繰り返す声に苛立ったように、今までで一番強い力で拳を振り下ろす。
  それでも、扉は開くことはない。

 「…たかだか、十数センチだ。」

  拳を扉に押し当てたまま、朔良が重い口を開く。
  抑揚のないその声は、自分の感情を抑え込んだもの。

 「たかだか、人の作ったものなんだ…!」

  朔良が顔を上げる。
  眼前にそびえ立つそれは、彼女と自分を隔てるものでしかない。

  まるで埋めることのできない、開くことのできないもの。

 「俺たちは…………俺とお前は……こんなもので、分かたれるのか。」

  黒い瞳が扉をとらえた。
  ここにはもういない彼女に向かって、朔良は静かに、しかし感情を押し殺したまま語りかける。




  覚えているのは、最後のことば。
  腕のなかのかすかなあたたかさと、笑った顔。




 「俺は」

  笑おうとしたのだろう。笑おうと、していたはずだ。
  ルビーの浮かべていた表情は、確かに笑顔だった。けれど、それは笑顔とは捉えることのできないようなものだ。

  あんな、泣きそうな顔で。
  あんな、今にも涙のこぼれ落ちそうな顔で。

  笑おうとしたところで、届く意味はない。

 「俺は、逃げない。」

  お前の意図した通りに、お前の望むようにはしてやらない。
  そう存外に言って、朔良は静かに手を下ろす。

  手に血がついていた。強く叩きすぎたのだろうが、朔良はそれを気にすることもなく、ゆっくりと目を閉じた。

  さよなら、なんて。

  この世の終わりのような目をして赤い瞳を濁らせてまで口にする言葉なら、口にするな、と。
  あんな言葉を口にして、そうして総てを終わらせようなどと、虫が良すぎるじゃないか。

  朔良がゆっくりと口を開く。
  唇が空白の形を作って、けれど確かに『彼女』の名をのせた。
  



 「俺は、」




  お前の、思い通りになったりしない。
  お前の願いがあるように、お前の望みがあるように。俺にも願いがあって、俺にも望みがあるから。








  廃棄〜遠い、遠いその果てに。私はあなたの夢を見る〜








  真っ白な壁面の廊下。
  方々から聞こえてくる怒鳴り声を耳にしながら、ネスティは走っていた。

 「……そこを、右です。」

  そのネスティに腕を引かれ、優華もまた走っている。しかし彼女は両目を閉じていた。
  魔法を使うために『集中』しているからでもあるのだが、走りにくいことは確かでネスティに手を引かれて位置を確認している。

  結界内のためか魔法の構成はしにくいものだったが、一度『発動』さえしてしまえば使い続けることに問題はない。

 「…こっちか!」
 「そう……あ、気をつけてくださいね、ネスたん。『そこから10歩進んだ先に罠がありますから』。」

  視覚以外の感覚を鋭敏にしているのだろう。
  瞬時に何かを読み取り、感じ取って先導するネスティに適格な指示を出している。

  ネスティは言われた通り、『そこ』を確認するために立ち止まり、天井近くを見上げた。
  
 「…監視カメラがある。」
 「ああ、なら大丈夫ですね。」

  監視システムなら優華が救出される以前に壊されているから。
  何の問題もないと判断してネスティはまた走り出す。

  走り続けながら、ネスティは繋いだ手の主へと視線を流す。

  黄色人種特有の肌の色。少し細い指先……傷だらけの、手。
  悔しそうにネスティが表情を歪める。

 「ごめんな。」

  唐突に言葉をのせられて優華は微かに表情を動かした。もう少しで集中がとぎれてしまいそうにもなったが、それを慌ててつなぎ止める。

 「ルビーさんも言ってたんだけどさ…もっと、早く来てやれなくって、ごめん。」

  三日。
  ここに向かう途中の電車のなかでもルビーは悔しそうにしていた。
  心底、後悔していた。

  三日も、どうして気付いてやれなかったのだと、言っていた。

  見捨てられたと思い、疑い、嘆き、真実を探そうともしなかった。部屋に閉じこもって、何も動こうとしなかった。
  
  それはネスティにも、珠洲にも、何かを突きつけるような言動だった。
  本人にその気はないだろうが、突きつけられた。

  だって、最後に会ったのは自分たちだったのだ。

  『さよなら』を、言いに来たのは、自分たちだけだったのに。

 「…何をおっしゃいますか。」

  黙ってネスティの言葉を聞いていた優華がそこで口を開く。
  相変わらず走り続けているので、ネスティは完全に振り返ることはできなかった。

 「そもそも、助けに来てくれるなんて…欠片も、思ってなかったんですから。」

  その手がかりはルビーにしか残して来なかった。
  そして、その手かがりでさえ見つけてくれるかどうか怪しいものであった。

  はじめから援軍など期待もしていなかったし、欲しいとも思わなかった。

  これは自分たち二人の問題だから、と向かっていったのだ。
  その様がこれだとしたら、これは完全にリョウと、そして優華自身の責任でしかない。

 「…ちょっとも?」
 「ええ、少しも。」
 「……怒るぞ。」
 「すみません。でもほんとに…それくらい覚悟しないと、いけなかったんです。そんな、危険な相手であったわけですし。」

  実際、返り討ちにあい、監禁されていたわけなのだから。
  片付けると覚悟して出て行ったわりに、これではあまりにかっこわるすぎると優華は苦笑を浮かべる。

 「だから、正直に言うとですね。今、すごく嬉しいんです。」

  繋いだ手を握りしめて、優華はそう切り出した。
  声は柔らかく、緊迫した状況であるにもかかわらず微笑んでさえいるようだった。

  ネスティはまだ振り替えれない。

 「この手が、まだ私の手を、取ってくれていますから。」

  あたたかな人の体温。
  やわらかく伝わってくる感触。
  確かにそこにあるという、証。

  嬉しくて、たまらない。

 「…俺はさ、何度だってユカさんと手ぇ繋ぐ。」
 
  ネスティもまた握った手に力を込める。
  二度と離れることがないように。

  その手が、もう二度と自分から離れていくことのないように。いつか、自分からすり抜けていった、優しい手のように離れていかないように。

 「何度だって、手を繋ぎに行く。俺、行くよ。」

  離れていくのならば、追いかければいいだけなのだ。
  追いかけていって、追いついてそうして投げ出されている手を取ればいいのだから。

  それだけで、繋がる。

 「……ありがとう。」

  すべての思いを込めて優華はそう一言、口にした。

  この手が今のすべて。
  








 
  冷えた指先が、寒かった。
  先ほどまで確かに繋がっていたはずの指先は、けれど今はもう空気に触れて冷たくなってしまっている。

  熱を、忘れてしまいそう。

 「………忘れて。」

  ああ、そうだ。
  今は忘れなければいけない。思い出したところで、それは心に悲しいことばかり連れてくるだけだ。

  歩き出し、そして片手に持った<斉藤 一>を翻す。
  それだけで、『ボタボタ』と塊が宙を舞い、落下する途中で消えていく。
  今は、思い出しても意味がない。

  眼前に続く回廊には、数多くの敵が潜んでいる。

  それを見据えて、ゆっくりとルビーは小首を傾げるようにして頭を斜めにする。
  浮かぶ表情はなく、ただ紅玉に輝く瞳だけが光に写る。

 「ここから先へは、行かせない。」

  誰であろうと、たとえ何者であったとしても、『彼ら』を傷つける存在であるのなら誰一人として行かせたりしない。

  体の奥が微かに痛みを発した。
  それは『終結』へのカウントダウン。終わりへ向かう、鐘の音。

  もう長くは持たないことを、ルビーは知っていた。
  正しく、理解していた。
  
  ルビーという一振りの刃は、もういつ自壊してもおかしくない状態なのだということを。

  それでも、守るための刃はここにある。
  大切な人たちを守るための力が、まだこの体のなかに残っている。

  命が磨り減ろうと、、
  魂が朽ち果てようと、
  時が終わりを告げる鐘を鳴らしていても、

  止まることのないものが、ここにはある。

  たったひとつの約束が、この胸にある。

  


  …………でも。
  その約束を守るために、すべてを裏切ることになることを、ルビーは覚悟している。

  他の総ての約束も、願いも、思いも、何もかもを裏切ってしまわなければ成立することのない、状態。




 「…ただの一匹だって、許さない。」

  冷えた指先が酷く痛い。
  寂しさが胸に押し寄せてくるようで、ルビーはそっと息を吐いた。

  言葉は、届かない。

 「届かなくたって、いい。」

  ぽつりとこぼれた言葉は、今までの『拒絶』の言葉とは違うものだった。
  年よりもひどく幼い、悲しげな声が彼女の耳に響く。

  言い聞かせるようにして、誰に聞かせるまでもなく、ただルビーは呟く。

 「あなた、たちを…守ることさえ、出来たら…それだけで、嬉しい。」

  言葉は届かなくなってしまっても構わない。
  すべてが終わった、そのあとでどんなに罵られてたって、構うものか。

  守れなくなってしまった、そのほうがよっぽど恐ろしい。

  だから、今はもういい。
  もう、構わない。

 「行くわ。」

  たとえこの道が血にまみれた道でしかなく、あとはもう奈落へ進むしかなくなっていたとしても変わらない。
  
  血にまみれて倒れるのなら、それで守れるのなら、もういい。

 「…殺合い(しあい)を、はじめましょう。」

  瞼を持ち上げ、手にした大刀を振り上げて、ルビーは一気に廊下を蹴った。
  その瞳に迷いはない。

  けれど、光もない。

  紅の闇だけが、ぽっかりと口を開けてそこにある。
  それを、彼女は気がついていない。







  風は、変わらず、吹いていた。

 「…………ああ。」

  声に出して喉を奮わせて、楓はそっと溜息をつく。

 「そんな、自分が悲しくなるようなこと言わないほうがいいのに。」

  ただ一人先に戸外への脱出に成功した楓は残りの仲間を待ちながら、けれど未だ『残ろう』としている彼女に向かって言葉を紡ぐ。
  『約束』は、未だその小さな効力を保ったままだ。

  誰にも知られることのない、約束。

  あの日、あの木の下で交わした、小さな約束を楓は守っている。
  契約は確かに存在しているから、誰にも『言わない』。

 「…君の覚悟も、わかる。」

  そうしなければいけなかった経緯については断片的なことしか知らないにしても、それはあまりにも刹那のもの。
  
 「僕も、君との約束があるから動けない。動いちゃ、いけない。」

  でもね、と言って楓は静かに微笑んだ。
  どこか柔らかな、いつもとは違う表情。

 「君のためには動けない。僕は動いちゃいけない……でも、契約さえあれば、僕は動けるんだよ。」

  謎かけのような言葉は、けれど誰も答えることなく風に解けていった。






  涙を止めるためには、どうしたらいい。

 「その涙を拭う指があればいい。」

  思いを覆すには、どうしたらいい。

 「その思いさえ打ち破る、強い何かがあればいい。」

  願いを叶えさせないためには、どうしたらいい。

 「その願いを、新たな願いで書き換えてしまえばいい。」






  解かれた指先はどうしたいい。

 「もう一度繋ぎ直せばいいんだよ。」

  まだ間に合うよ。
  ここではない其処へ向かって、楓は小さく語りかける。

  まだ、間に合う。

  まだ、手遅れなんかじゃない。

 「あとは君次第なんだ。」

  でも、そんなこと言ってあげない。
  これは自分で気付かなければいけないこと。自分で決めなくてはいけないこと。そうしなければ、意味などない。

  願いを、




  強い、願いを。





 <金木犀 に、つづく>