広場のアスファルトの上。
  数多くの獣たちによって踏み荒らされたそこに、『彼女』は舞い降りた。

  突然の『体現』に、獣たちは呆然とそれを見つめていた。
  無数の光る目に移るその姿は、戦場ではありえない『優雅』さを持っている。
  あるいは典雅さなのか。
  あるいは、恐怖なのか。

  そのどれでもない、複雑なものなのか誰も知らない。

  『彼女』が何も言わず自分の手のひらを見る。
  握ったり開いたりして、『感覚』を確かめるかのような動きだった。
  まるではじめてそれを見るかのように首をほんの少し傾げ、目を細める。

  ふん、と。

  何かに納得でもしたのか、彼女がゆっくりと腕を上げる。
  その腕は淡く発光していて、白い肌がよけいに白く見えた。

  異質なまでの、白さだった。

  やがてその彼女の指先が光りに解けていく。
  そう、解けているのだ。

  細かい『構成』によって編み上げられたそれが、今度は少しずつ解けていく。

  それを確認して満足したのか、彼女は構成を元に戻した。
  真っ白な指先が元に戻り、自分の唇に当てる。

  細く、ふっくらとした唇を撫で、それからふと笑った。

  笑っていた。

  その笑みひとつで、『獣』たちの波が引く。
  笑っただけなのだ。

  ただ、笑っていただけだった。

  しかしその微笑みは、見た者に体してまったく別々の印象を与える。

  悪魔か、
  天使か、
  女神か、
  死神か、

  あるいは、ただの笑みなのか。

  そうして彼女は唇を開いた。
  ……それは、誰もが聞き覚えのない、ものだった。

 「サア、始メマショウ。私ノ………。」

  この世の者とは思えない声だ。
  聞く者の脳髄に冷水をぶちまけるような薄ら寒ささえ与えるような代物だった。

  逆に、聞く者を慈しみ、優しく抱きしめるようなほのかな暖かさを分け与えるようなものでもあった。

  まさしく真逆の意味を持つ。
  そしてその意味の違いこそが、

  彼女にとって、敵か、味方か、という証でもあった。









   Ithaqua<中編>−『我らは彼女。彼女が我ら。しかし我らは我らであり、彼女ではない。』−









  彼女の後ろ姿を見ながら、朔良は呆然としていた。
  何が起きたのか理解できない。
  『彼女』が飛んで、そして魔法の構成を編み上げたことは理解できた。

  しかし、今、目の前にいる後ろ姿は自分の知っているどの『彼女』のものでもなかった。

  背も伸び、手足も伸び、後ろ姿ではあるにしろその雰囲気でさえ変わっていた。
  ただ、金髪だけが変わっていない。
  
  膝まで伸びた淡い金髪に黒いリボンを編み込んである、その髪が彼女が彼女であることを示しているかのようであった。

 「………ルビー。」

  ぽつりと、名前を。
  呟くようにしてはき出されたその言葉はとても小さいものであった。

  ともすれば風にかき消えてしまうかのようなものだった。

  自分がそんな声を出していることに朔良は驚き、そして待つ。

  彼女は、
  ゆっくりと、ひどくゆっくりと振り返った。

 「……っ…」

  朔良が彼女の声を聞き届けるように、彼女もまた朔良の小さな声を聞き取ったのだ。
  振り返ったその顔は、やはり朔良の知る『彼女』のものではなかった。

  思わず、息を呑むほどの、迫力があった。

  普段見る幼さなど欠片もない。
  大きく丸い瞳でさえ、今の『彼女』にはなかった。
  少女が、女になった、証でもあった。

  彼女がゆっくりと唇を動かす。
  だがそれは言葉の羅列にならない。無意味な言葉が(おそらく朔良の知らない言語のものだ)紡ぎ出され、その声に彼女は首を傾げていた。

  何度か確かめるようにして声を出し、それから困ったように首を少しだけ傾けた。

  あ、と。

  朔良が思う。
  その癖こそが彼女が彼女である証でもあった。
  困ったときにほんの少しだけ首を傾けるのが彼女の癖でもあったからだ。

 「……ルビー、なのか。」

  問われ、彼女は驚いたように目を丸くした。
  それから、頬を緩め、唇を持ち上げ、おかしそうに笑う。

  こくりと頷くだけで、彼女が彼女であることを朔良はようやく認識した。

 「…変わったな。」

  ちょっとだけね、と指で示して、彼女が笑いをこらえて口元に指を当てる。

 「……行くのか。」

  そう問われて、彼女はこくりともう一度頷いた。
  そうか、と返せばもう一度。

 「…これを、」

  地面に突き刺されたままなんとなく手元に持っていた『今剣』を持ち、彼女のほうへと差し出す。
  
  あの<白い世界>で姿を消したはずのそれは、ルビーが覚醒すると同時に現れ、朔良を守った。
  それを朔良が手に取ると何の問題もなく持つことができた。

 「これを、連れていってくれ。」

  俺の代わりに、と言いかけてやめた。
  
  代わりにだなんて、そんなの。
  足りる、わけがない。

  この剣一本が、自分に足りるわけがない、と思い直して朔良は言葉を飲み込んだ。

  しばし朔良と彼女は見つめ合う。
  そうして、彼女は歩き出し、朔良へと近づいていく。

  近づき、そして差し出された剣を手に取った。

  柄を握るその手が離れていく瞬間、朔良が彼女の手を取った。
  ………体温が、なかった。

  冷たくもなく、暖かくもない。
  風を、掴んでいるかのような、感覚だった。

 「………」

  言葉が出ない。
  彼女の手を取ったまましばらく二人の視線が絡み合う。
  
 「………あ。」

  何か相応しい言葉がないものか、必死で朔良は探した。
  何かこの場に、今の自分たちに相応しい言葉が何なのか思考を巡らせた。

  だが見つからない。

  自分はどうしてこんなにも口下手なのだろうか、と思う。

  もっと優しい言葉を見つけられたらよかったのに、と朔良は思った。
  楓のように、リョウのように、あるいは珠洲のように。

  優しい、

 「………  ら 」

  言葉が、

 「…さ…、ら。」

  見つからない。

 「…さくら…」

  その時だった。
  彼女の唇から不意に言葉が、もれた。
  無機質な音にはならず、無意味な言語にもならず……それは、彼の名前だった。

  ゆっくりと、明確に彼の名前を呼んだ。

  それは彼がよく知る彼女のもの。
  驚き、唖然とする朔良を頬を撫で、そのままひどく緩慢に近づき、


  頬に口づけを落とした。


  驚きで言葉も出ない(そんなことの連続で、思考回路だって追いつかない)朔良を見て、今度こそおかしそうに彼女は笑った。

  笑い声はなかったが、その表情は『女』であるのに『彼女』本来の幼さも色濃く残している。

 「……いって、きます…」

  明るい笑顔のまま彼女はそう言った。
  朔良から離れ、ゆっくりと踵を返して歩き出す。

  その足取りに迷いはない。

  ようやく平静を取り戻し始めた朔良も、頷き、そして口を開く。
  平静にさえなれば、思考は驚くほど穏やかだった。

 「ああ、またな。」

  帰ってこいとも、いってこいとも言わず。
  ただ、未来へと繋がる言葉をかける。

  また、と。

  それを聞いた彼女が嬉しそうに顔を綻ばせた。
  その位置からはけっして朔良には見えないものであったが、雰囲気はとても柔らかくなる。

  


  進む先には無数の獣。
  しかしその瞳に迷いも恐れも、何一つとして存在していない。

  ただ、その瞳を光らせるのは絶対的な『自信』のもの。

  


  彼女はゆっくりと右足を一歩前に出した。
  地面を踏み抜く覚悟で出されたその一歩は、彼女の右足を黒いピンヒールで固めた。細いつま先、そして右足に絡まる一本の細い銀の鎖。

  彼女はさらに左足を出した。
  何者からも自身を守るためのその一歩は、彼女の左足を黒い皮のブーツで固めた。無骨だが、しかし見る者には優雅ささえ感じさせる構造美。

  彼女は今度は左手を前に出す。
  白魚のような細い指先と汚れを知らない童女のような手の甲に、化け物めいた手甲がはめられる。
  いや、一見すればそれは巨大な爪にも見える。カチャリと合わされる金属音は、それに似合わずとても軽い。

  体には白いワンピースではなく、漆黒のドレスによって固められていた。
  足下までくる裾であったが、それは横が縦一直線に断ち切られており、白い脚線を露わにしている。

  その姿は、優雅そのものだった。
  その姿は、異質そのものだった。

  彼女がふと薄く色づいた唇を綻ばせる。
  それだけで月さえ隠れるような傾国の色香を醸し出させたが、同時に背筋を凍らせるような死の予感を振りまいている。
  
  そして、無数の獣たちを目の前に、彼女は戦いへと出向く。

  やがてゆっくりと歩きながら、彼女は唇を開いた。
  同時に、その背に『四枚』の翼が出現する。

  それは漆黒ではなかった。
  それは、目を奪うような、真白、だった。

  彼女が彼女であるがゆえにありえないその色は、彼女をいっそう異質なもののように見せる。
  そんなもの、彼女が気にするわけもない。

  やがて彼女が口を開く。
  しかしその声は、二重のもの。



 『汝はただの女より生まれた』

 『其れは旧支配者』

 『ただの人間より出でて、ただ人として生きていたもの』

 『風を身にまとい、その姿をけして人に見せず、其処に存在していた』

 『恋に生き、愛に溺れ、そして、失った』

 『吹雪のなかで生まれ、人を襲い、禁断の土地へと連れ去り、殺していった』

 『汝の涙は白銀の鎧となり』

 『祖は無慈悲なもの』

 『汝の言葉は金色に輝く鎖となった』

 『祖は誇り高き獣』

 『髪を落とし、生涯をただ一人に捧げると誓った』

 『旧き制約のなかで生きるものよ』

 『約束に生き、制約に縛られ、そして、悲しみに閉じこめられる』

 『言葉はいらない。名もいらない。すべてが祖を、祖と、定めるであろう』

 『二度と出会えはしないと知っていながら、汝はただ一人のために剣を振るうであろう』

 『風が祖を、定めるであろう。風があるかぎり、風がふくかぎり』

 『愛に狂いしその魂。絶望に染められた瞳』

 『支配者として高潔であり、そして支配者であるがゆえに傲慢で』

 『豪華絢爛にしか生きられぬ、血に塗れた舞踏を踊る女』

 『縛られることもなく、抑えつけられることもなく、風と雪とともに生きる獣』




 『完成』せよ


 

  彼女の右の『翼』が解け、その右横に白い女がふわりと現れる。
  白い着物を身にまとった女だった。

  それが死に装束であることに気づくのはいったい何人いることだろう。着物の合わせ目が普通のものと違うし、どこからどう見ても色がない。
  まったくの白。
  そして女の両手足には金の輪が填められていた。
  それは、従属の証でもあった。

  女はふと見れば美しかった。しかし、どこか心の底から冷えていくような寒ささえ持った顔だった。

  その両手には巨大な肉切り包丁が握られている。

 「風舞姫。」
  
  さらに左の『翼』が砕ければ、左横に牙を隠した化け物が足音を鳴らす。
  化け物は、この地球上のどの生物ともまったく似ていなかった。

  いや、四足歩行であることと、その口からのぞく牙だけが、なじみのあるものなのかもしれないが。
  しかしその顔には瞳は一つしかない。もう片方もあるものの、潰されているのか巨大な傷に覆われていた。
  毛並みは銀。

  光にすかせば白にさえ見えそうな、銀色。
  低くうなり声を上げながら前方の敵へと視線を走らせた。
 
 「イタクァ。」
 
   彼女が名を呼べば、白い女は嬉しそうに微笑む。
  化け物は歯を剥き出しにしながら、瞳は喜びの感情を表していた。

  やがて双方は立ち止まり、深く深く頭を垂れる。
  彼女に最大の敬意を払って。それは、王の側に付く従者のような姿。あるいは、臣下のような。

 「……はじめまして。」

  彼女はそう言ってまず左横の獣の頭を撫でる。
  獣は、イタクァと呼ばれた者は素直にその手に撫でられ、心地よさそうに目を細めていた。

  白い女は、風舞姫と呼ばれた者は彼女の首に両手をまわし、それからうっとりと唇を寄せた。
  髪に口づけを落とせば、その気配に気づいた彼女が顔を上げる。

 「…ひさしぶり。」

  視線が絡まれば、女はさらに嬉しそうに笑んだ。
  幸せそうに笑んでいて、彼女の一言でさえ心地よいもののような表情だった。

  彼女が、ゆっくりと歩き出す。

  獣が深く頭を垂れた。
  女は手を離し、深く頭を下げる。

  これから『戦場』へと赴くであろう王を見送るために。
  
  彼らの王は、彼らの主は今、歩き出した彼女なのだから。

 「あなたたちに名前をあげる。」

  そうして歩きながら前を見据えながら、彼女は口を開く。
 
 「名は契約。名は制約であり、絆。あなたたちはこれを持って、『力』を得る。」

  イタクァと風舞姫が揃って顔を上げた。

 「明里。」

  その名前を口にした瞬間、風舞姫の持つ金の輪が光り輝いた。
  同時に、死に装束もまた形を変えていく。

  白い着物は死に装束ではなく、花嫁の着るそれに。
  金の輪は、婚礼のために身につける装飾品に。
  そして『明里』は手にしていた肉切り包丁を構える。

 「恒雄。」

  その名前を耳にしたとき、イタクァの毛並みの色が変わった。
  ザァッと音をたてて銀色の毛並みが金と銀の二つの色が混じったものになる。

  そしてその首に、従属の証である首輪が現れた。
  しかしそれを誇りにしているかのように『恒雄』は目を光らせる。
  その目は、暗い漆黒ではなく、主人と同じ赤い色をしていた。

  明里はふわりと宙に浮いて彼女のあとへと続いた。
  恒雄は後方へと踵を返して低く体勢を構える。




  明里と恒雄を従え、彼女がその一歩を踏み出せば、獣たちは揃って後方に退いた。
  たじろぐように身を竦ませ、彼女の姿をジッと見定めている。
  感情の伴わない暗い瞳に魅入られても、女は身じろぎ一つしなかった。

  代わりに、彼女はスッと残っていた『右手』を差し出す。
  そこには何もなかった。そこにあったはずの『今剣』も、なくなっていた。

  しかし、風が
  そう、たった一陣、風が舞う。

  瞬間、彼女の手が差し出された先に巨大な日本刀が姿を現した。
  切っ先を地面に突き立て、刀身を包帯でぐるぐる巻きにしている。

  全長は彼女の身長を越えており、その巨大さは見る者の目を奪った。

  彼女が包帯に無造作に手をかけ、一気に引きちぎる。
  布の裂ける音とともに、闇を切り裂いて現れたのは刀身。
  抜き身のその姿は美しく、冬の冴え冴えとした、けれど凛とした空気を身にしているかのような印象さえ受ける。

  包帯が風に舞い、そして女が刀の柄を握る。

  朱色の皮で巻かれたそれは、まるで彼女自身を待っていた、と言わんばかりに手の中にスッと収まる。
  地面から抜き放ち、横凪して払った。

 「………『紅』と『蒼』の名を持つ、我が剣。」

  前方の敵を見据え、ゆっくりと構えを取った。
  それを見て『獣』たちも戦闘態勢に入るのを見て、彼女はただ笑んでいた。



 「『空』。お前が私の………心の剣!!」



  そして彼女は走り出した。
  背に残った翼を消し、地面を蹴り、一気に間合いを詰める。

  鮮烈な光のようでもあった。
  いや、彼女は彼女でしかなく、そして彼女以外の何者でもない。

  『全力』の、何の制約も、呪いの、縛るものもない、彼女自身のものだ。

  もし、彼女を突き動かしているものがあるとすれば、それは約束、ただひとつ。

  「人になれ」
  「美しい世界を見せる」
  「守る」
  「背中を守る」

  そんな『約束』だけが、彼女を戒めから解放したのだ。








  旧き印に囲まれて、優華は大きなため息をついた。
  体中に絶え間なく襲いかかってくる疲労感はぬぐい去ることはできなかったが、一息をつく。

  魔法を走らせるのも、構成するのも、そして『手懐ける』のも骨が折れる仕事だった。

  ありとあらゆる法則を想定し、あるいは組み上げて『ねじ曲げて』いったのだ。
  疲れないほうがおかしい。

  今、優華が『使用』しているのは彼女本来の魔法レベルではとても扱えるような代物ではない。

  人の、
  その人間が生来持っている『可能性』をすべて体現させる呪文。
  ゲームで言うところの無敵化というわけではない。

  魔法を使うべき『精神』やら心やら、とにかくそういったものを『全盛期』へと移行させるのだ。

  わかりやすく言えばレベル99の魔法使い。
  アンド、マジックポイントが使用量1というおまけつき。

  確かに構成を立ててはいた。

  どういった方法で人の『それ』を騙くらかしてその状態へ持って行こうかと考えたことだってあった。
  しかし今、自分が使ってみるなどと考えたこともなかった。

  自分が未熟であることぐらいわかっていたし、それを組み上げるのには経験不足な上に知識も足りなかった。

  だからほんの冗談でタナトスに話したのだ。
  その冗談を本気にされ、しかも準備までしてもらってはたまったものではない。
  まさか『ラプラス』にそれを仕込んでいるとは思わなかった。

 「…まったく…ほんっとに、無茶苦茶ですよ。」

  毒づきながら、それでも優華は魔法続行のために指先を小さく動かす。

  『ゲーデ』によって『ラプラス』と繋がり、さらにその『ラプラス』を手懐けるのは何度しても骨が折れる作業だ。
  手伝いに奔走してくれているサラスがいなければ、今頃ぶっ倒れていたかもしれない。

  (もしかしたら、数式的な計算において天才的なサラスを連れて行くようにし向けたのもタナトスの差し金かもしれないが)

 「…どうしたのであるか? 優華どの。」

  その時だった。
  ため息をついている優華に気づいたのだろう。気遣っている口ぶりのサラスが彼女に話しかける。

  電子記号を読み取るための器具に阻まれ、顔を見ることはできなかったが、優華は慌てて手を振った。

 「あ、ごめん、ちょっとぼーっとしてた。」
 「お疲れ……なのは当たり前であるな。代われればどんなに良いかと思うのだが…」

  少し面目なさそうなサラスの声色に、優華が今度こそ慌てた。
  こんな面倒な機械に繋げようと思うほど、優華だって非人道ではない。

 「サラたんが来てくれたおかげで、機械語とかずいぶん楽に翻訳できますから助かりますよ。それにこういう変態的なお仕事は、おねーちゃんにまかせておきなさい。」

  おねーちゃん、って。
  拙者と優華どのは年は同じだったと思うのであるが、と思いつつも、優華の心遣いにサラスは苦笑をこぼす。

 「いや、気を遣わせてすまない。ならば拙者、出来ることをこなしていくのである。」
 「はい、頼りにしてますよ。」

  そう言って、優華はまた画面のほうへと集中する。
  唇を静かに動かし、構成を組み上げれば彼女のまわりに現れている旧き印はさらに光を放った。

  ラプラスを騙して、くらませて、そしてようやく作り上げた『言霊』だ。

  二重の時の三女神たちによる協奏曲。
  それを『こんなところ』で止めるわけにはいかない。

  楽団を目の前にした指揮者のごとく、優華が両手を震った。

  協奏曲はまだ、終わらない。
  役者たちがまだ、舞い踊り、唄っているかぎり。

  







  其れは終わりの始まりのような剣戟の宴であった。

  それは舞のように、舞い踊るかのように、ステップを踏むように、激しく動いていた。
  彼女が右手を繰り出せば剣がひらめき、空間を分断した。

  彼女が左手を振り下ろせば、その爪で『獣』の巨体ごと、地面が割れた。

  宙を舞い、振り下ろされた蹴撃が巨体の頭を粉砕する。
  宴に舞う踊り子か、あるいは舞姫のように彼女は戦った。

  その遙か右。
  獣たちが密集している中を金と銀の獣が走った。
  二つの色の毛並みは、たった一つの命のものであったが、光の残像で二つそこにいるかのような錯覚を与えていく。

  恒雄が爪を繰り出せば敵を引き裂いた。
  牙によって体を引きちぎり、無造作に宙へと投げ捨てる。

  鋭い咆哮が上がった。
  恒雄が上げた一筋の咆哮は『獣』たちの動きを止めた。
  それは本能的な恐れのためであったが、その一瞬が終わりだった。

  動き出した瞬間。
  命は刈り取られ、消えていってしまったのだから。

  そして空中。
  空から襲いかかる『獣』へと向かって白い光が疾駆していった。

  それはまるで一筋の流れ星。
  闇へと残る白い閃光は、しかし黒い敵を次々と屠っていった。

  双の肉切り包丁が宙を走り、『獣』を切り裂いていく。
  分断し、両断し、そして再生さえ許さないスピードで次々と消えていていた。





  それは夢を見ているかのような光景でもあった。

  突如として始まったそれに、誰もが視線を奪われる。

  朔良は、ただ、それを見逃すまいと宙を見つめている。
  呆然ともしておらず、唖然ともしていない。

  冷静な意志で、それを見つめている。

  …だが、ひとつの思いも、あった。

  (…俺はまた、ここで見ているだけなのか。)

  見送った。
  また、と未来へと繋がる言葉をかけた。
  約束だって信じている。

  それでも、脳裏を掠めるのは血に塗れた彼女の姿。

  (また、何もできず、何もせず、ただ守られるだけなのか。)

  だが、あの中で何ができる。
  目の前で繰り広げられているのは、あの草原の一戦とはまた別格の『戦い』ではないか。

  いったい、何が。

  足手まといにしか、ならないかもしれないのに。

  (それでも、)

  開いていた手を握り、力を込める。
  詰めていた息を吐いて、一度だけ目を閉じた。

  脳裏に掠める光景が消えない。

  腕の中に抱いた光景だけが、胸をしめつけていく。

  (それでも、)

  知らず、足が動いた。
  目を開け、地面を蹴って、ただ先へと向かう。

  (それでも、このまま何もしないよりは、ずっとマシだ!)

  剣はない。
  今剣は、彼女へと手渡してしまって手元には何も残ってない。

  (剣など、俺には使えない。)

  盾もない。
  攻撃から身を守る術は、ない。

  (そんなもの、走るのには邪魔なだけだ。)

  走る。
  ただ、走った。
  彼女が向かう先へと、その先へと向かうために。

  一瞬、前にもこんなことがあったなと思い当たり、朔良は苦く笑みをこぼした。

  それは、彼女が『殺人鬼』と一対一で戦うために離脱したのを追いかけたときにも似て、
  それは、彼女が自分を置いていこうとしたときにも似て、

 「そんなのは、こっちからお断りだ。」

  今度は言葉に出来た。
  言葉にすれば胸に響いた。

  全身に力が溢れていくかのような感覚だった。





  やがて走る朔良の目の前に、恒雄の姿が見えてくる。
  圧倒的な力で敵を引き裂き、屠っていく姿はまさに『旧支配者』の名に、『天神』に相応しい姿であった。

  その恒雄が朔良の気配に気づき、顔を上げる。

  獰猛な色を称えたその赤い瞳に見つめられ一瞬、背筋に冷たいものが走る。
  それでも一歩も退くことなく、朔良は口を開く。

 「あいつのところへ、案内してくれ。」

  魔法の集大成である『恒雄』ならわかるはずだ、という憶測からの言葉だった。
  恒雄は不機嫌そうにうなり声を上げた。

  今にも朔良の喉元に飛びつき、牙を突き立ててやろうかと言わんばかりの殺気を放っている。

  邪魔をするな、と。
  邪魔だてするなら容赦はしない、と言いたいのであろう。

 「案内してくれるだけでいい。自分の身は、自分で守る。」

  その言葉に恒雄は口を開いた。
  表情は人間じみていて、まるで馬鹿にしたような顔であった。

  いや、実際馬鹿にしているのであろう。

  お前ごときが何を言うのか、と。
  戦う術さえない者が何を言っても意味などない、と。
  
  それでも朔良は引かなかった。
  目をそらすことなく、恒雄の赤黒い瞳を見つめている。
  その視線に迷いはなく、折れることのない意志を示しているかのようだ。

  恒雄が笑うのをやめ、そして朔良の瞳を見つめる。

  背筋に走る緊張感が増す。
  まるで喰い殺そうとされているかのようだ、と思い朔良は自分の考えに笑ってしまった。

  されているかのよう、ではない。
  喰い殺す気で見つめているのだと。

  荒れ狂う魂を目の前にして、ふと、朔良は感じた。

  ………まるで初めてあった頃のルビーを見ているかのようだった。

  どこも似ていない。
  そして殺気など、朔良に向けたことは一度としてない。

  だが、そう見えた。

  磨り減った魂が、そこにあるかのように。

  やがて根負けしたのは恒雄のほうであった。
  殺気を消し、かすかに息を吐いて朔良の方へと歩み寄っていく。
  
  近づいてくる巨体にしばし思考を巡らしながらも、朔良はなんとなく手を伸ばしていた。
  
 「………」

  何も言わず、ただ恒雄の返答を待つ。

  それはいつも朔良が『彼女』にしていることだ。
  頭を撫でる前に撫でてもいいか、と聞く意味もこめての行為だった。

  そして恒雄は唇を歪ませながらも、ふい、と頭を差し出す。

  それが合図だった。
  朔良は巨体の頭に手を乗せ、ゆっくりと撫でた。

 「……すまない。邪魔をしているのはわかっているんだ。」

  でも、どうしても行かなくてはいけない。
  そう言外に乗せるとやはり恒雄は何も言わなかった。

  ただ朔良から体を離し、少しだけ巨体を屈ませた。




  乗れ、という意味なのだろう。

 「ありがとう。」

  そう言い、もう一度巨体の頭に手を伸ばして撫でると、その背中に飛び乗った。




  咆哮が、高く、高く、響いた。





 −後編に、つづくー