空気がうねりを上げて襲いかかってくる。

  『獣』が咆哮し、大気が鳴動するのを耳にしながらルビーは向かってくる爪をヒラリと避けた。
  その反動のまま相手の腕を支点にして飛び上がり、体を捻って顔面に蹴りをたたき込む。

  のめり込む足裏とくぐもった声。
  
  蹴りを入れた反動で今度は地面に優雅に着地してみせる。
  その間に『獣』の姿は消えていた。

  続いて何度目かになるかわからない新たな『獣』の攻撃がやってくる。
  どす黒い口腔の中、趣味の悪い橙色の光が漏れている。灼熱の炎の吐息を今まさに吐きださんとするのを見て、ルビーが素早く言霊を口に乗せる。

 「『そは<名伏しがたきもの>。夜の星の間に封じられたもの。今一度、その姿を我の前に示せ』……ハスター!!」

  その口腔に向かって意識を集中させ、放つ。
  刹那、発生した『魔法』が『獣』の体を地面に縫いつけ、口を塞ぐ。
  見えない手で押さえ込まれているかのように、地面に這い蹲り、藻掻いている。

  ガラス玉の目でルビーを見つめ、吠え、起きあがろうとするがそれを彼女は許さない。

  上空から落ちてきた幾筋もの光が、その首を両断したからだ。
  悲鳴すら上がらなかった。
  
  まさに一瞬。
  光は剣。しかしその剣もスッと消えてしまう。

 「………っぁ!!」

  詰めていた息を大きく吐き出した。
  その拍子に体が大きく傾く。足が蹈鞴を踏み、そのまま地面に倒れ込んでしまいそうな足取りだった。

  それをすぐ後ろにいた朔良が支える。
  
  上を向き、ルビーが礼を言って、なんとか体勢を立て直す。
  眼光は依然鋭く前方を見据えていた。

 「……いったい、何体倒せばいいの…?」

  それは悔し紛れの毒のようにも聞こえたし、呆れ果てたもののようにも聞こえた。

  ルビーが見る前方には、未だ減る気配のない群れの姿がある。
  次々と襲いかかってくるそれは、未だ完全ではないルビーにとって驚異でしかない。

  他の面々だってそうだった。
  魔法を放ち、武器を使い、何体倒しても次々と湧いて出てくる『それ』。
  体力の疲弊がそろそろ表に出てきてもおかしくない頃合いであった。

 「…絶対、絶命…困った、わね。」
 「…口で言うほど困っているように見えないが?」

  後ろから襲いかかってきた『獣』の頭を蹴り上げながら朔良が背中合わせのルビーにそう言った。
  苦く笑みを漏らしながら、ルビーは首を傾げるようにして答える。

 「そう…? これでも、まだ体…も、本調子じゃ、ないし…」
 「…なんとかなるさ。」
 「…ん?」
 「絶体絶命のピンチなんて、もう何度もなっているんだ。今度だってどうにかなる。」

  朔良にはあまり言わない根拠のない前向きな台詞だった。
  それでもなんだかとても頼もしく思えてルビーが、そうね、と肯定の言葉を言って身構えた。

  すぐ目の前で群れがやってくる。

  あまりにも醜悪で、シュールなその光景は、けれど敗北という絶望を与えるようなものはない。

 「行くわ!」
 「ああ!」

  短く言い、背中合わせの二人は一斉に走り出す。
  そのすぐ後、剣激の音と魔法の炸裂音が空気を震わせた。










  Ithaqua(前編)−「恋する乙女の底力。見せてさしあげます!!」−










  同時刻。
  爆発音を遠くに聞きながら建物のなかで、カタカタと機械的なキーボードを打つ音が響いていた。

  無機質に、けれど迷いのないキータッチで何かを打ち込んでいく。

  鈍く光り輝くディスプレイを眺めながら優華は静かに息を吐いた。
  その息が、白く宙に浮かぶ。

 「……この建物…いえ、敷地全体を取り囲むようにして出来ているフィールド…なるほど、そういうこと。」

  そこは敷地内すべての通信回路を集めた場所であった。
  外部からの出入りはもちろん厳禁であり、入り口にも侵入者が入ってこれないようなロックがかけられていた。

 「しかし今時、あれほど複雑な数字ロックをかける輩もいたのであるな。」
 「ま、どっちにしても法則さえわかればこっちのもんでしたけどね。」

  不法侵入である。
  まごうことなき不法侵入であった。

  だが今のところ外の騒ぎで警報装置はほとんど意味を持たず(どこもかしこも異常発生しているからだ)、ロックさえ解除してしまえば容易に中に入ることができた。

  苦笑いを浮かべながらも優華は手元の指を止めることはない。
  打ち込まれていく文字の羅列には、迷いなどはなかった。
  
 「法則さえと言うが……規則性のまったくないマジックロッジの上に、正しいICカードをささなければ何度でも正しいパスワードが変わるというロックなど。」
 「それを突破できちゃう私とサラたんってすごいのかもねー。」

  明るく笑い飛ばしているが、それを笑い飛ばしていいものかわからずサラスが深いため息をつく。

  彼と彼女がどうしてここに来ているかと言えば、『相手』の出方を見極めるためだ。
  現在この敷地内で発生している事象。
  現象などのすべてのものを判断するために、戦いの騒ぎに乗じて建物内に戻り、『侵入者以外立ち入り厳禁』と書かれた扉を抜け、さらに奥まで入り込んでここにやって来た。

  敷地内の通信、電子回路の全てを結集させている『頭脳』とも言えるここに。

  その『頭脳』の内部に進入し、『手懐けて』いるのが優華だ。

 「要領は……『ダイブ』でだいたい把握しちゃいましたし、数式に強いサラたんがいてくれるおかげで楽勝ですよ。」
 「……しかし犯罪行為ではあるまいか?」
 「このさい法治外措置ってことで大目に見てもらいましょう。」

  それが果たして叶うかどうか。
  大きな、大きなため息をつくサラスを後目に優華はキーボードを打ち続ける。

  画面に走る文字を追いかけながら、欲しい情報を引き出していった。

 「でもさすがタナトスさん。このこ、魔法知覚も出来るみたいですよ。素敵v」
 
  素敵ではないであろうに、と思いながらもサラスもまた画面に走る文字を眺めた。
  やがて画面に図形が映し出される。
  
  いや、図形というよりこの敷地内の見取り図のようなものであった。

  それを見た優華が唇を上げ、

 「ビンゴ!!」

  と、声を上げて喜ぶ。
  探していた情報がようやく見つかったのだ。

  サラスも上体を上げて画面をのぞき込む。

 「えっと…今発生している戦闘状況…」

  言いつつ優華が何事かを打ち込んでいく。
  すると画面の見取り図のなかに赤い点、青い点、そして緑の点が映し出されている。

  赤い点が敵。
  青い点が現在交戦中の味方。
  緑の点が移動中、あるいは敵のいない状態の者だ。

  赤い点が圧倒的な割合をしめている。
  どこもかしこも真っ赤になっていて、青い点を次々と飲み込んでいっていた。

 「………タナトスさんの同業さんも戦っているんですね…でも、対抗手段が悪すぎです。」

  苦く顔を歪ませて言い放つ。
  消えていく青い点がそうなのだろう。
  孤立していることもあってか、次々と飲み込まれていってしまっている。

 「…それより、今この敷地内で発生している魔法…」

  苦い思いを飲み込み、この劣勢を打破する方法を探すために優華の指先が絶え間なく動く。
  規則正しく指先が動かされ、やがて新たな情報が画面に映し出された。

  そこには発生している『属性』。
  そしてその魔法の種類の『予測』が書かれている。

  冷えた指先でサラスがそれをひとつひとつ撫でる。

 「…風…火……緑…」
 「地……違う、これじゃない…もっと、条件を絞り込まなきゃ…」

  さらにディスプレイに文字が映し出されていく。
  するとそれに答えて新たな情報が導き出された。

  それこそ、優華とサラスが探し求めていたものだった。

 「…………素晴らしい!」

  この状況を打破できるものであった。
  優華は思わず歓喜の声を上げる。横にいるサラスも笑みをこぼした。

  情報条件は、「現在魔法使用中の者。全ての味方(認識照合のできない者)以外。戦闘参加者をのぞく。』。
  そして、『発生から現在にかけて、その魔法の使用を持続している者』。

 「断続的に魔法を使うのなら、それは戦闘に参加している謂わば『戦闘要員』。」
 「そして永続的に魔法を使うのなら、それは…」

  言い、サラスと優華がお互いの顔を見る。
  ニッと唇を上げてみせた。

 「『結界』を使用中のもの。そして、敵の増殖の根源!」
 「だが、どうするである? こちらから魔法の使用を停止させるには時間がかかるのである。」
 「そこをここの『管理者』さんが考えてないとでもお思いですか?」

  言い切り、またキーボードを叩き始めた優華を見てサラスの顔色が変わる。

 「…まさか、ここのシステムまで乗っ取るつもりであるか!?」

  逮捕され、いや裁判にかけられてしまうでのある! と叫ぶサラスだが、その叫びを聞き入れられるとは思えなかった。

  むしろ火に油、いや火にジェット燃料なんぞぶち込むような真似をしたのと同じだ。
  そうサラスが気づくが、しかし時すでに遅し。

  彼女。
  いや、『火』は邪悪に、けれど勝ち気に笑いながら言い放った。

 「恋する乙女は快適無敵なんですよ!」
 「全然関係ないのである!!」

  さらに叫ぶサラスだったが、皮肉にも彼の叫びが終わると同時にキーボードのエンターキーが押されてしまう。
  それは、この施設内の全警備システムが彼女の手中に入ったことを意味していた。



  まさに彼女の手のひらの上で踊らされるわけで。
  恋する乙女というのは、時に何をしでかすかわかったもんではない。

  特に、その乙女の大事な者を奪おうとする者には、容赦なんぞあったもんではないのである。



  そして情け容赦のない措置が取られたであろう、次の瞬間。

  リョウは不意に自分の体が軽くなったことに気づいた。
  いや、軽くなったというより体に巻き付いていた妙な『違和感』が消えたような感じがしたのだ。

  それは魔法を使っていた珠洲も同じことであった。
  先ほどより魔法発生のスピードが上がっている。
  すんなりと、そう『すんなり』と魔法が放たれていくのだ。

  ルビーもまた気づく。
  気づいたことに訝しげに眉根を寄せる。

 「…敵の数が……減ってる?」

  先ほどまで斬っても、倒しても減っていく様子のなかった『獣』たちの数が少しずつではあるが減り始めている。

  少しずつ、少しずつ。
  だが明らかに『獣』たちは消えていく。そしてそこから増える様子がない。

  そのことに気づいたのはルビーだけではなかった。
  今新たにビーカーを投げたタナトスがゆっくりと顔を上げる。

  前方のビーカーの『闇』に飲み込まれる『獣』を後目に、フッと口角を持ち上げる。

 「さすが僕の愛弟子。うまくやったみたいだね。」
 『だぁれが愛弟子ですか!!』

  と、そこで敷地内に設置されたスピーカーから優華の声が流される。
  戦っていた全員が顔を上げ、また『敵』のほうも驚きでスピーカーのほうを見つめている。

 『敷地内の全システムは掌握完了です。ついでに、敵方さんの結界担当の方々にも『丁重』に退場願ってきましたよ。』

  丁重、というところをわざわざ強調するということは、世間一般でいう『丁重』とはまったく違う『丁重』さで持って退場させられたという意味であろう。
  何をしたのかはわからないが、相当『丁重』なもてなしを受けたはずである。

  死んだりはしないだろうが、心の中でリョウは静かに手を合わせた。かわいそうに。

 「んー。でも君にこんな短時間で掌握されるなんて、ここのシステムも大したことないな。」
 『こっちには優秀すぎる助手と、ついでに誰かさんが教えてくれたコードもありましたからね。』

  毒の応酬であった。
  しかしタナトスはそれでも楽しそうに笑っている。

 「…まあいっか。よくやってくれた、ありがとう。」
 
  ありがとう!?
  あのタナトスが礼を言っているのか!? と驚き、リョウが言葉を失って後ずさりし、スピーカー越しの優華も絶句していた。

  普段、どういう見られ方をしているのかが如実にわかる光景である。

  さて、ところで今は、

 「そんなことしてる場合じゃないでしょ!!」

  明らかに正しい見解の珠洲がそんな面々の漫才を止める。
  その声でリョウと優華が我に返り、タナトスが了解の意志表示で手をヒラヒラと振ってみせる。

  顔を上げ、スピーカー越しの優華に言う。
 
 「で、今そっちのシステムは君の手中にあるわけだね。」
 『ええまあ。可愛いもんですよ、素直で。』

  素直。素直。機械というか、回路に向かって可愛いだの素直だの言うほうも言うほうである。

  しかしその返答に満足したようにタナトスが頷き、続けた。

 「じゃあ、使ってほしい魔法があるんだけど、いいかな。」
 
  その言葉に優華がスピーカー越しでも片方の眉を器用に上げて『続き』を促している様子が見てとれるようであった。
  
 「それはね……」




  戦いは依然続いている。
  しかしそれを器用に退けながらタナトスは『魔法』の詳細を事細かに優華に伝えていった。

  その『魔法』は、優華を絶句させるには十分なものであった。




 『……マジですか?』
 「本気だよ。」
 『今の私の魔法レベルで使えるような代物じゃありませんよ!』

  タナトスが言ったものは優華を驚かせ、恐慌状態に陥らせるには十分なものであった。

 「出来るって。システムは『全部』使えるんだろ?」
 『そりゃまあ、そうですけど…!!』
 「なら出来るよ。確かに君一人じゃとうてい無理だ。でも君には……そこには僕の作った『ラプラス』がある。」

  その言葉の意味を正しく理解できないほど、優華が頭が悪いわけではなかった。
  それでもタナトスの言ったことは賭に近い。

  しかも、圧倒的に分の悪い賭だった。

 「分の悪い賭は嫌いかい?」
 『賭け事は全般的に嫌いです。』

  きっぱりと即答した。考えもしなかった。
  そんな言葉にタナトスはやはり笑っているだけで、その答えを良しとはしない。

  させようともしない。

  必要なことを今しないでどうする。
  
 「『それ』が言うことを聞くのは、今の段階では君だけだ。君にしか出来ない。」

  それでもしないというのか、と言外に言われている。
  こちらの心の痛いところをついてくる言葉だった。

  スピーカー越しで優華が言いよどみ……やがて大きく舌打ちをする。

  女の子ではしてはいけない礼儀の悪い行為でも、せずにはいられなかった。
  
 『…ちっくしょう、恨みます。タナトスさん。』
 「その恨み、生涯をかけて受け取ってあげるよ。」

  嘘なのか冗談なのか本気なのか、よくわからないものであったが、それで優華も覚悟を決めた。

  
 
  
  光る画面を見据えながら優華は大きく息を吸う。
  冷却された空気を肺にため込めば、たちまち意識が透き通っていく。

  澄み渡り、心が落ち着きを取り戻し、神経が研ぎ澄まされていった。

 「………私は普通なんですよ。まったく、タナトスさんも買いかぶりすぎです。」

  彼女を『普通』というのなら、世の中の『一般』の人まで普通ではなくなってしまう。
  そんなことを思いながら、けれどサラスは思った。

  普通だからこそ、普遍なものを持つからこそ、譲れないそれのために何かを成すのだ。

  たとえば、そう。

 「恋する乙女を邪魔する輩は、馬に蹴られて死ぬようなものなのである。」

  かなり間違った言葉であったが概ねあっていたし、今の優華にはぴったりのものであった。

  キーボードに指先を乗せ、『片腕』に端末の繋げられたガントレットのような機械をつけて、優華は言霊を紡ぐ。

 「……………『ゲーデ』……!!」

  それは、彼女をあるシステムとリンクさせるための魔法の開始を意味にしていた。
  機械が激しく鳴動する。

  冷えた空気が彼女を包み込み、回路のひとつひとつが解放されていった。




  それは唐突に始まった。
  ただ一人、タナトスだけが知っていた。

 『それは時の流れであり、生命の鎖であり、すべての生命の約束された先。』

  朗々と歌うのはまるで軍歌のような重苦しさをはらんでいた。
  しかしそれとは逆に希うような祈りの歌にも似ていた。

 『刻み込まれた先が示すもの。可能性の先、希望へと進む意志の果て。』

  ルビーが顔を上げて見る。
  その声は彼女が一番よく知る『彼女』のものであったからだ。

  リョウが驚きで目を見開く。
  顔がサッと青ざめ、タナトスのほうへと振り返った。

 「タナトス! お前、なんてことさせとんや!」
  
  非難の意味を含んだ言葉である。
  だがタナトスは微動だにせず、ただ紡がれる言葉に耳を傾けていた。

 『我はその約束された先を今ここに見せよう。我がすべてをかけて………時の歯車の先にいる女神よ。我が言葉を聞き届け賜え。』

  その言葉の、その魔法の正しい意味を理解しているのはタナトスと、リョウと…そして、唄う彼女だけ。

 『時の女神よ、糸持つ三女神よ………二つの伝説よ、重なりあい、その力を示せ!』

  魔法が、完成した。

 『過去を紡ぐウルド、現在を示すベルダンディ、未来を巻くスクルド……未来を断ち切るアトロポス、現在を計るラケシス、過去を作るクロト!!』

  

  
  結界が敷地すべてをくまなく覆っていく。
  魔法は走り、その効力を発生させ、その場にいた『特定』のものに向かっていった。

  舞鼓が自分の手のひらを見る。
  驚き、そして幾度も手の甲と交互に自分の手をマジマジと見つめていた。

 「…これは…」

  楓はふぅん、と唇に指をあてて考えていた。
  自分の体のなかで起こっていることに気づき、そして楽しげに笑ってみせる。
 
 「さすがタナトス。無茶苦茶ばっかりするんだから。」

  それを実行しちゃう優華ちゃんも、優華ちゃんだけどね、と言って楓は『スイッチ』を入れる準備に入った。
  


  
  それは結界。
  対象者は『味方』のみ。
  効力は……

 「対象者の『魔法』熟練度……まあ、つまり全盛期にしてまうっていう阿呆みたいな魔法や。」

  自身もまたその効力を受けながらリョウは果てしないため息をつく。

 「そう。たとえその相手が『未熟』であっても、たとえば僕たちみたいに『歴戦』の経験を積んだのと同じ状態にするんだよ。ついでに連発可能。精神の疲弊は一切なし。」
 「まさにスーパーモードなわけや…でもなぁ!!」

  言って、リョウは思いきりタナトスの横っ面を殴り飛ばした。
  手加減無用の拳骨である。

  軽くパンチングマシーンなら最高記録を優に叩き出すリョウのパンチを受けたタナトスの体が大きく揺らぐ。

  揺らぐがそれでも倒れることなく体勢を元に戻した。
  頬は青黒くなり、唇からも血が滴る。

  それを見てもリョウは怒りの表情を浮かばずにはいられなかった。

 「優華はんに無理さすな。下手すりゃこんな無茶苦茶な魔法、精神が駄目になってまうやんか! このボケ!」
 
  確かにそうだ。
  こんな大がかりな魔法を使えば、まだまだ未熟な彼女はどうなるかぐらい予想はつく。

 「そこは『ラプラス』とリンクさせてどうにか…ってそれでも怒るでしょ、リョウ。」
 「あったりまえじゃ!」

  ラプラスとは複合呪文であり、何人かの魔法をリンクさせることのできるものだ。
  原理は色々とあり、魔法の意味もそれなりに複雑な要素があるのだが。今は『複数』の魔法が使えるということが重要なのだ。

  複数いればそのぶん一人に関しての負担が減る。

 「いっぺん死ね。十回死んどけ。百回死んでまえ!! 今度こんなことさせたら、お前の脳髄引っ張りだして目の前で叩きにしたる!!」

  それでも怒りは収まらない。
  しかしその様子を見てもタナトスは、リョウらしいとしか思わなかった。

  本当にリョウらしい怒り方であったし、怒るのもまあ当然のことであろう。

 「…この状況を完全に打破するのに必要だったんだよ。」
 「そんでも、僕が嫌なんや!」

  わがままだね、と返すと、どっちかじゃ、と怒りの反論がかえってくる。
  堂々巡りであったし、これ以上していても意味のないことは明白だった。

 「………………ごめん。」

  だからタナトスは謝った。
  様々な要素を考慮しても、ここは謝るべきなのは自分なのだし、怒らせたままではリョウの精神状態も悪くなる。

  リョウはまだ黙っている。
  タナトスのほうを見ず、向かってくる『敵』のほうへと視線を固定させたままだ。

 「優華さんにも言ったよ、君の恨みは一生持つって。リョウ、君のその怒りも一生持っていこうか?」

  そう言うとリョウが盛大なため息をついた。
  呆れ果てたような、疲れ切ったような、そんな意味合いの含まれたものだ。

 「……優華はんに説教でもされとけ。僕がその光景を笑ってみといたるわい。」

  そしてリョウは敵に向かって走り出した。
  その後ろ姿を見ながらタナトスはふぅ、と小さく息を吐く。

  どことなく楽しげな笑みを浮かべていた。

 「ほんとに、君の一族は自分のこと以外で怒ってばかりだね。」

  何かするのも、何かで感情を爆発させるのも、そうだ。
  そんな場面に出くわしてばかりのような気がしてならなかった。

  なんて愚かな一族なのだろう。

  なんて悲しい一族なのだろう。

  そしてなんて、羨ましい。

 「それは、君たちがそうしてもいいと思えるような人に出会えているからこそのことだから。」

  たくさんの大切な人たちに囲まれて、君たちは生きていくのだろう。
  これまでも、これからもずっと。

  大切な、人のために。





  遠く、背中合わせで戦っていたルビーと朔良もまた、自分の体に起こった『魔法』に気づいていた。

  体の奥底でわき上がってくる何か。
  せき止められていたものが、一気に体を満たしていく。

  驚き、思わず立ち止まる朔良の眼前に迫った牙をルビーが魔法で防ぐ。

  二人のまわりを包み込む風の壁だ。
  『獣』たちがたじろぐのを壁越しに見つめながら、ルビーがぽつりと呟いた。

 「……ユカだ…そっか、あれ、出来たん、だ…」
 「あれ? とは…」

  疑問を口にする朔良だったが、ルビーはそれに答えるつもりがないのか口を閉じたまま前方を見据える。

  瞳は赤いルビーの色。
  宝石をそのまま溶かし込んだかのような赤い、赤い光。

 「………ちょっと、頑張る。」

  やがてそう言い、朔良が訝しげに見ているのを感じながらも、振り向かずゆっくりと足を出す。

 「…ユカ…が、頑張ってる……それに、今なら…できる、から…」

  ごく自然な立ち振る舞いだったが、その足の一歩はひとつの舞の動作。
  ぴん、と貼られた糸の先。見えないそれに引き寄せられるようにして、また一歩、ルビーは動く。

 「…ルビー?」

  朔良が問いかける。

 「…大丈夫…今なら、できるものがあるから…ちょっと、行ってくるだけ…すぐに、戻る。」
 「どこへ?」
 「片づけて…くる。ここにいる『敵』、全部。」

  静かな宣言だった。
  そしてその言葉を皮切りに、ルビーが走り出した。

  その途端、魔法が消えて風の壁が霧散し、獣たちがルビーに向かって殺到してくる。
  ルビーは電光石火の動きでそれをはね除け、退けて、一気に数体をなぎ倒し、その顔を蹴って宙へと舞い上がった。

  月のない暗闇。

  けれどその金の髪は、闇に鮮やかに踊る光の束にも見えた。

 「私は迷わない。」

  闇に呑まれかけた。
  闇に沈もうとしていた。光を恐れた。

  光の先にある『先』に絶望したことだってあった。

 「私には、守るべきものがあるから。」

  でも今、光がある。
  闇を切り裂く一筋の光。
  それは闇は深ければ深いほど、なお燦然と輝くものとなる。

 「何度だって、立ち上がってあげる。」

  希望に、恐れることなど何もない。

  大切な人を守るために、大切な人たちと生きていくために。

 「絶対に、負けない!」

  絶望も嘆きも悲しみも怒りも、すべてを踏み越えて微笑んでみせる。
  それは誰にも曲げることもできない、絶対の笑みだ。





  私は剣を願いし者

  私は人を願う者

  私は生きる。花としてではなく、人として剣として

  与えられた一振りの剣を手にとって、華やかに激しく舞い踊る

  それしか許されぬ人生ならば、私はそれでも構わない

  私は

  私は恋に生き、愛に溺れ、散りゆくしかないただの女
  そしてその女としてのサガに生きる者

  宿命に抗い、運命に立ち向かう、一人の女

  完成せよ
  遂行せよ
  完遂せよ

  我が思いは 夜の闇を引き裂く朝の光









  光があたりを包み込んだ。
  夜の闇。月の光さえない漆黒のなかで。そしてその闇のなかだからこそ燦然と輝くかのように。

  闇を恐れず。
  絶望を乗り越えて。
  再び巡る日の光のように。

  金色のそれを携えて、彼女は静かに地面に降り立った。

  金色の光は、彼女の髪だ。
  淡い色だが、他の何にも染まることのない束が闇に踊る。
  
  白磁の肌は傷一つなく、滑らかに艶めかしく存在している。
  手足は細く、しかし引きしまった筋肉を内包し伸びていた。

  背は高く、足の爪先から頭のてっぺんにかけて非の打ち所のない優雅さを持つ。

  豊かな両の乳房が白い布地を押し上げ、細い腰の括れは色香さえ漂わせる。
  優美な曲線を描きながら、しかし全身を包み込むオーラはまるで『武人』のそれだ。

  一本の刀。

  一振りの秀麗な日本刀の輝き。

  彼女が閉じていた瞼を上げた。
  そこにあるのは紅蓮の瞳。
  命のない宝石の色ではなく、まるで赤い夕日を溶かしこんだかのような生命力に溢れた光彩。

  優雅に彼女は微笑む。
  その微笑みは、美しいがそれと同時に絶対的な意志の強さも持っていた。

  細い唇が持ち上がっている。
  色づく唇は、艶めかしく光を放ってた。

 



  希望の光をその身に宿し、彼女は微笑む。



  
  
 −<中編>に つづく−