その白い便せんに書かれた文字は、こんな言葉から始まっていた。

 『親愛なる−』

  昼下がりの電車に揺られながら、向かい合わせの長椅子に腰掛けた面々にルビーが差し出したのは優華からの手紙だった。
  特徴的な文字の書き方が、それが彼女のものであることを証明している。

 『我が親愛なる ルビー・クヌギ・オリガロットさま。』

  それを代表して珠洲が受け取り、そっと広げて小さな声で読み進めていく。
  乗客は疎らで、特に人がいないところを選んで座ったのだが、他の者には聞かれないためにだ。

  ルビーは便せんを渡したあと、俯いてしまって顔を上げない。

 『これを姉さんが読んでいるということは、そこに私と、兄さんがいないということでしょう。』

  表情がわからなかったが、強く握る手が彼女の心境をよく表しているかのようで、隣にいた舞鼓が何も言わずにその手に自分の手を乗せた。

 『そしてこの手紙も、姉さんが読んでくれるかどうかはわからないものだけど、ただ私自身の心の整理も一緒に、この手紙に残します。』

  ルビーを挟んで逆隣にいたサラスも、ゆっくりと肩を叩く。
  二人の心遣いに気づいて、ルビーがそっと顔を上げた。

  珠洲の声が小さな空間に広がっていく。

 『拙い内容です。きっと、わかりにくい内容になってしまいます。そのことを、先に謝っておきますね。
  それから、姉さんを一人残していってしまうことも。』

  そして、手紙は確信へと触れていく。

 『姉さん。多分、私はもう、姉さんには会えないと思います。』

  








  招待状−どうか幸せに。それだけが望みです。−










  それはもしここに彼女自身がいても、同じような内容をきっと静かに伝えていたであろう内容だった。
  そこに彼女自身がいるかのような錯覚さえ受けてしまう。

 『これから話すことは、姉さんにもずいぶんと前に話したことの続き。』

  淡々と、ただ淡々と言葉は綴られていく。

  そこに書かれていたことは、断片的であるとはいえ珠洲たちに衝撃を与えるには十分な内容であった。
  過去に実際に起こったこと。
  それは、まるで世間話でもするかのような、そんな書き方だった。

 『私が、その施設に入れられてから……』

  まるで思い出すかのように、断片的に語られる真実。

  ネスティの顔色がなくなった。
  舞鼓たちは言葉を失った。
  ルビーは、顔を上げたまま微動だにしない。

  ただ、少しだけ目を細めて沈痛に唇を歪ませている。
  それだけが彼女の心情を推し量ることのできるものだった。

  手紙に書かれていたのは、
  『監禁』、『拉致』、『人体実験』と評した拷問のような日々。
  そこで出会った人。

  祈りと、
  願いと、
  思いと、
  絶望と、
  涙と、
  痛みが、

  ただ淡々と書かれていた。

  『私ね、夏のお日様って苦手なんですよ。』

  ネスティの脳裏に夏の日の彼女の姿が過ぎった。
  困ったように笑いながらそう言っていた。
  昼が駄目なら夜に出かけようと言い出したネスティに、優華が諫めたときのこと。

  なんてことを言ったのだろう。
  
  なんてことを言ってしまったのだろう。それでも、優華は笑っていた。
  笑って見ていた。いつものように、困った顔で小首を傾げて微笑んでいた。

  その裏に隠されていたものが、こんなにも重い。

 『兄さんとの出会い…』

  淡々と、手紙はやがて『それ』の佳境へと入る。
  そこでリョウが左腕を失ったことも、書かれていた。

  珠洲がその時、一瞬だけ言葉を詰まらせた。詰まらせ、ゆっくりとルビーのほうを見る。

  ルビーは、知っていた。
  珠洲には、まだ言っていなかった。

  実物はとうに見せている。しかし、なぜその腕になったのか、その理由を話していなかった。

  話せば、必然的にこの話題に触れてしまうからだ。
  なんてこと。

  そしてその手紙は、それから始まった、『今』の状態を教えてくれた。

 『今、あの男が動き出しています。』

  優華を拉致した張本人。
  禁じられた人体実験を施した男。一度は、リョウが倒したはずの相手のことだ。

 『加藤は、私と兄さんを、狙っています。
  だから、ことが始まる前に『話し合い』に行ってきます。』

  話し合い。
  言葉通りの意味であるはずがない。だからこそ、もう会えないと、そう記しているのだ。

 『姉さんを連れていかなかったのは、今回の件で姉さんは直接の関係者ではなかったからです。』

  それはまるで、今の絆でさえ否定しているように思えて、舞鼓は乗せた手に力を込めた。
  大丈夫、今、自分が思ったようなことを、優華たちは考えてなんていません、と。

  そう、否定ではない。

  これは、愛していたからだ。
  だからこそ巻き込まなかったのだろう。この、金色の髪の少女だけは、巻き込みたくなかったのだろう。

 『きっと、仲間はずれにしたって、怒っているんでしょうね。』

  当たり前だ。そんなの、当たり前だろう。
  そして、大まかには間違っている。怒ってなんていない。

  悲しい、と思っているのだ。

 『でも、怒ってもいいから……泣いていても、いいから。
  姉さんを、今回の件から遠ざけようと、兄さんと二人で決めました。』



  それは、とても悲しいことだ。



 『決めたの…でも、どうしても、言いたいことがあったし、今回のことで姉さんには事実を話しておく権利があると思うから、これを残します。』

  思いが、すれ違ってしまっている。
  きっとルビーは一緒に連れて行って欲しいと願う。優華とリョウ、二人を守ることこそがルビーの本懐であり、願いであり、三人で家族になってからの誓いでもあったのだから。

  でも傷つくことを、優華とリョウは許さない。
  傷つく場に行かせることは目に見えている。そして、ルビーが二人を守るためなら刃で持って相手を倒し、傷つくこともわかっていた。

  わかっていたから、あえて置いていったのだろう。
  
  それがルビーには悲しくて仕方がないというのに。

 『負けるつもりはありません。
  でも、そんな生やさしい相手ではないことは事実で、私のすべてをかけないと勝つことのできない相手だから。

  姉さん。』

  そんなの酷い。
  二人を損なうことがわかっていて、それで目をつぶれと言うのか。

 『姉さん、あいしてるわ。』

  そんな言葉を残して、いってしまうのか。
  その言葉は、こんなことを伝えるために使われるものではなかったはず。




 「……『どうか、幸せに。珠洲先生と、ネスティ、それにみんなと家族によろしく。 我が親愛なるルビー・クヌギ・オリガロットさまへ、貴方の不出来な妹、柊優華より。』……まったく、」

  読み終え、便せんをたたみながら珠洲は静かに息を吐いた。
  場は沈黙に包まれていて、誰も一言も発しようとしない。

  意外な形で知らされた二人の『過去』。

  事実を知った今だからこそわかる。
  ようやく、理解することができる。

 「…ひどい娘(こ)ね。こんな手紙一つで、納得なんて出来るわけないでしょう。」

  二人の間にあった『絆』。
  絆でもあった、呪縛でもあった、そのどちらでもなく、そのどちらでもある奇妙な形のつながり。

 「でも、場所が書いてないわ……それに、『加藤』って。」
 「加藤 御厨。精神、医学…の研究者だって、ユカが…言ってた…」

  研究者と言えば聞こえはいいが、裏ではかなりのことをやっていたのは明白だった。
 
 「それに、優華さんのことで学会を追放されたんでしょう? 今どこにいるのか…」
 「わかり、ます……探して、もらったから…」

  名前と経歴さえわかればどうにでもなります、と途切れ途切れに言って、ルビーは静かにポケットから折りたたまれたメモ用紙を取り出した。
  それを開き、目を通すとそこには国内でも山奥の、人里離れた場所の住所が書かれている。

  訝しげにそれを見、舞鼓が振り向く。

 「これは。」
 「…今、加藤がいる…ところ……とある、企業の…研究所、だって……言ってた、わ…」
 「誰が?」
 「…グリフ、さん…」

  その名前を聞き、珠洲が深く納得して頷いた。
  
  グリフはリョウの『親友』で、とある財閥の御曹司であり、『表』のほうにもそれなりに通じていると、以前リョウが言っていた。
  だからこそたまに『人捜し』をお願いしているのだ、とも。

 「グリフさん……結婚式に来ていらした、あの青い髪の?」
 「そうよ。確かにグリフなら短期間で調べられるわね…リョウが自慢していたもの、そこらの探偵よりよっぽどいいって。」

  こんなことなら先に頼めばよかったかしら、と珠洲が静かに呟く。
  それを見て朔良が苦笑をこぼし、ネスティがすごいな、と言う。

 「…でも、」

  と、そこで長く沈黙を続けていたサラスが口を開いた。
  一人考え込んでいたのだが顔を上げ、全員を見回す。ルビーたちもそれに気づいてサラスのほうへと顔を向けた。

 「おかしくはないか?」

  その一言にルビーが眉根を寄せる。他のみんなだってそうだった。
  誰もがその言葉の意味を理解できずにいる。

 「なぜ、これほど急に二人が動いたのであるか?」

  言われ、その事実にハッとなる。
  珠洲は静かに唇に指を当てて考える。

 「…確かに、もし何かちょっかいを出されるとしても、もっと『準備』くらいしていくはずよ。リョウも『勝算』を増やすための策くらい作っていくだろうし、優華さんだって何か準備していくわ。」

  二人ともそのあたりにかけても頭の回転が速い。
  『戦い』に出向くのなら、それ相応の下準備をしていくはずだ。

  仮になにか『手を出されて』いたとしても、それにしても展開が速すぎる気がする。

  二人がいつ、今回のことを決めたのかはわからない。
  しかし、性急すぎる気がしてならない。

 「……リョウどのは強い。あれで修羅場も多くかいくぐってきていると聞いているのである。」
 「何かちょっかいを出されても返り討ちにしているでしょうね。」
 「…優華さんに手を出したとか?」
 「優華どのはそれはそれなりに『返礼』していそうなのである…」

  全員が考え込む。
  頭を抱えるようにして考え込んでしまった面々を見ながら、ルビーは静かに思った。
  
  そうだ。
  あの二人がそう簡単に、早急に事を運ぶとしたら『そうせざるを得ない』状況下であったから。
  何も準備することができず、素早く事態を収拾することが必要だったのだ。

  時間がなかった。
  そう考えれば、今回のこの突然の失踪にも説明がつく。
  ならなぜ?

  どうして、時間がなかったのだろう。

 「…少し、思ったんだが…」

  ぽつりと朔良が呟く。
  彼もまた考え込むような仕草のまま、自分のなかで導き出された『推測』を静かに口にした。

 「もし、その『標的』が優華さんとカイーナ教諭自身でなかったとしたら、どうだろう?」

  朔良の推測に全員はハッと気づく。
  苦い表情のまま、朔良は自分の考えを口にしていく。

 「もし、もしもだ。珠洲さんや、ネスティ…それに、ルビーに危害が加えられるとしたら?
  二人がそれを知ったとしたら…」
 




 「せいかーい! さっすが朔良、あったまいいねー。」




  場違いなほど明るい声が朔良の言葉を遮るようにして車内に響いた。
  驚いて一同が顔を上げると、いつのまにか椅子のすぐ横に誰かが立っている。

  そしてそれが誰なのか、などここにいる面々には声だけですぐにわかった。

 「…楓…あんた、いつからそこにいたの。」

  疲れたような、あきれ果てたような、そんなどっちともつかない気持ちを表して深いため息をつく珠洲に、楓は明るく笑っている。

 「ついさっきからだよ。でもけっこうここにいたのにだーれも気づかないんだもん、僕さびしかったよー?」
 「寂しかったよ、じゃないわよ! こっちはまじめに話を…!!」
 「ちょっと待ってください。」

  いつものように軽い感じで話す楓に腹を立てた珠洲が言い返そうとしたとき、朔良がそれを止めた。

 「楓さん…今、正解、っていいましたよね?」
 「うん。そう、朔良ので正解。」

  朔良の疑問にあっさりと答え、こくりと頷く楓にルビーが驚いて顔を上げた。
  見上げ、目で疑問を伝える。

  その言葉の真意を言ってほしい、と。

  それを見た楓がやはり表情を緩めたまま、片手で持っていた封筒を彼女のほうへと差し出した。
  何も言わず、ただ差し出し中身を確かめるようにと催促しているようだ。

  ルビーはゆっくりとした動きで封筒を受け取り、自分のほうへと引き寄せる。

  普通の茶色い封筒だった。
  ただ何か入っているのか妙に重いし、厚さもある。

  蓋を開けて中身を取り出す。それは写真だった。

 「それはね、リョウさんの教員寮の部屋にあったんだよ。」

  不法侵入をやらかしたのかと問おうとした。
  しかしそれはならず、衝撃がルビーの思考を奪い去っていた。

  カタカタと写真を持つ手が震えている。
  そこに写されていたのは、ルビーだった。
  次をめくると、珠洲だった。その次をめくればネスティだった。次々とめくるたびに、リョウと優華に関係する人物の写真が次々とそこに映し出されている。

  おまけにそれは隠し撮りだ。
  そして誰にも気づかれていない様子で、日常の一コマが写されている。

 「……なんて、こと…」

  それは『警告』だ。
  いつでもそこに映し出されている人物に危害を加えられるという宣言でもあった。

  なんて卑怯な真似を。

 「封筒を見てごらん。」

  楓に言われたとおり封筒に目を落とせば、そこに名前が書かれていた。
  『ミクリヤ カトウ』と、はっきりとその名が刻まれている。

  そしてそれが、この手紙こそ罠だということを示している。

  これを見たリョウと優華がどういう行動を取るのか読んでのことだろう。
  ここまで示されているのだ。その意図に気づかないわけがない。

  ここに来い、と。
  再び見(まみ)えよう、と。
  さもなければここに写された人々がどうなってもいいのか、と。

 「…卑怯な!!」
 
  毒づき怒りに顔を歪ませてサラスが拳を握りしめる。
  舞鼓とネスティが同意して頷いている。
 
  珠洲はやはり何度目かになるため息をついたが、そして彼ら二人の行動の真意を知り、「馬鹿ね」、と呟いた。

 「馬鹿ね……ほんとに、真っ正直なんだから…!!」

  



  そして、ルビーは、

 「………」

  言葉を失い、ただ呆然と写真を見ていた。
  そこに映し出されていたのは、リョウと優華と一緒にいる自分の姿だった。

  そして皮肉にも、その写真にはこう書かれていた。





  『このなかの誰かが消えてもいいのかな?』





  だとしたら自分のせいではないか。
  どうして気づかなかった。この『悪意』に真っ先に気づくべきなのは自分だったはずだ。

  剣として二人を守るのがルビーの役目。

  人でありながら、それでも剣として力を振るうべきが自分の願いだ。
  
  守れず、しかもこれでは自分が人質に取られてしまったようなものだ。

  悔しかった。
  情けなかった。
  
  何より、腹立たしい。
  怒りに身を震わせながら、写真のなかにいる自分へと毒を吐く。

  そんなところで笑っているから。
  平穏に、平和に、そして油断なんてしているから。

  大切な人が、失われてしまうではないか。

 
 「………取り戻す。」


  ぽつりとルビーの唇からもれたのは、決意の言葉だ。
  鋼の意志で固められた、刃のような鋭いものだ。

 「絶対に、取り戻して、みせる。」

  守ると決めた。
  失ってたまるかと思った。

  だからさせない、許さない。









  たとえ、この体が砕け散ろうとも、
   二人を取り戻すことこそ、私の願いなのだから。









 −白い部屋、白い記憶、白い虚像 に、つづく−