ずっと血が。

 もうずっと、血が溢れ出して体中を汚していた。

 苦しいと言って口から吐き出された塊はもうすっかり染みついてしまって、切り刻まれた四肢の傷口からはジュクジュクとした白い膿さえ出ていて。
 頭は銃弾で撃ち抜かれてしまったかのように半分くらい、そこにはなくて。

 それなのに、ずっとこの白い世界を歩き回っている。

 ああ、でも。
 痛いとは言えなかった。
 どうしても、どうしても。
 痛いとは言い出せなかった。

 だって、ここには私の他に誰もいなかったから。

 誰もいないのに、助けてもくれないのに、どうして「痛い」と言うことができるのだろう。
 助けてとは言えない。痛いとも言うことはできない。
 ここから連れ出してとさえ、言えない。

 胸にぽっかりと空いた穴からも血がにじみ出しているのに、それをどうすることもできないまま、もうずっとこの世界を歩んでいる。

 そうやって生きていくのだ、と思っていた。
 もうずっと、そう思っていた。

 世界は凍り付いたまま、血を流していることだけが『生きている』という証だったから。


 




 君を連れて行く。〜世界は君が思っているよりも、ずっと残酷で優しい。〜







 「……っ!!」

  息を飲む音が聞こえた。

  それでも手元の剣戟だけは止めることなく、いっそ見とれてしまうほど完璧な動作で相手を切り伏せていった。
  斬られた相手も耳に残る不快な絶叫を上げながら、その姿を瞬時に消してしまう。

  『生きている』人間ではなく、『作られた』ものでしかないのにこの悲鳴をもう何十回も一人で聞いていたのだろうかと思うと余計に腹立たしくなって、朔良はグイッとルビーの腕を掴んだ。

 (……細い。)
  
  掴んだ腕は、力を込めれば簡単に折れてしまいそうなほどに細い。

  こんな腕で振り解かれたのかと思うと、今度は自分の情けなさに場所をわきまえずに溜息をつきそうになってしまう。
  それをしなかったのは、ルビーが驚いたようにこちらを見つめていたのと、すでに『敵』がいないのかどうか確認するためのもので。

 「行くぞ。」

  確認など取らない。

  相手の意思表示など知るものかと言わんばかりに朔良はそう言い切り、力任せにルビーを引っ張っていった。
  部屋を大股で横切り、開け放たれた扉をくぐり抜けて、その先へ向かう。

 「…だめ!」
  
  そこでようやく我に返ったのだろう。
  ルビーが掴まれた腕を振り解こうと必死になって藻掻いた。

  けれど、掴むよりも振り解くほうが数倍の力を要すると言われている。
  そして何より、朔良の手は予想外にルビーの力で持ってでさえも、外すことができなかった。

  朔良はルビーの言葉や行動に反応を示さない。
  ただ、部屋の先を目指す。
  すなわち、二人が『別れた』あの場所に。

  出口に。

 「だめ、お願い、朔良。はなして!!」
 
  歩きながら(歩幅が違うから小走りの状態になっている)今度は握られている朔良の指をどけようと手をかける。

 「お願い。わかって…!! ここで止めなくちゃいけないの! 私だけがそれを出来るから、しなくちゃいけないの!」
 
  けれど指が離れない。

  痛いくらいに握られて、指の一本でさえ外すことができない。

  何より、自分の手が微かに震えていることにルビーは気がついた。
  まるで何かを恐れているかのように(何を恐れると)。

 「イヤなの。誰にも傷ついてほしくないの…だから、お願い!」

  (何に、恐れているのだと)

 「朔良!!」

  懇願するように、叫ぶ。

  その瞬間、朔良の足が唐突に止まる。それに気づき、慌ててルビーも足を止めた。

  反動ですぐ斜め後ろに立つことになりその長身を見上げることになる。
  顔を見ることができない。

 「……なら。」

  その声は。
  常ならば聞くことの出来ないもの。けっして、普段の彼の口からは聞けない『音』。
  何かを決めているときにしか、使わないものだ。

  振り返った朔良の顔は今まで見たこともないようなものであった。

 「なら、俺の腕を切り落とせ。」

  (いったい、何を恐れて)

  その声は、その表情は、冷静な彼のものであるのに、ルビーは立ちすくむような感覚を覚えた。
  ゾッとするような、もの。

 「…俺の腕を切り落として、放り出せばいい。
  それから、行け。お前の望むように、お前が望むままに。」

  淡々と朔良は告げる。

  それはルビーにとってどんな衝撃を与えるものなのかわかっての言葉なのかは知れない。
  けれど、ルビーはガタガタと震えていた。
  顔面を蒼白にさせ、唇からは血の気が失せて、目は瞬きを忘れたかのように見開かせて、ガタガタと体全体を震わせていた。

 「それが出来ないのなら、いっそ。」

  その続きの言葉は紡がれることはなかった。
  けれどその『続き』をルビーは察知してしまう。戦友であるがゆえに。

  (恐れているのは、『彼』だ)

  そうして目の前の人物に『恐怖』した。
  いっそ、このまま悲鳴をあげて、握られている腕を切り落として、あの戦いのなかに逃げ出す事が出来るのならと思った。
 

  こわい。
  こわい。
  こわい。
  こわい。
  怖い。怖い。怖い。怖い。怖い!!

 
  お前はいったい何なのだと、叫びだしたくてたまらなかった。

  (自分が今、恐れているのは目の前の彼なのだ)
  (この世界を打ち砕こうとする、彼なのだ)
  (どうしてこんなにも残酷に、彼自身を盾にするのだろう)
  (そんなこと、決して出来るわけがない。そんなこと、自分自身が許すはずがないのに)
  (傷つけてしまうことこそ、一番恐れていることなのに)
 
  それでも。

 「……できない…」

  逃げ出すことも、叫ぶことも、切り落とすことも、できない。
  自分の『最後にできること』でさえ遂行することも、できない。

 「『どっち』も、できるわけが…ない。」

  それでも。
  これが最後に戦友として朔良にしてあげられることなのだと思うのに、ルビーはもうそれさえもできない、と。

 「…ひどい、よ…朔良。」

  ああ、こんな惨いことを。
  最後の願いでさえ聞き届けてくれないのか、と。

 「……どっちがひどいと思う。」
 
  ぽつりと朔良が言葉をもらす。

  先ほどとは違う声色。いつもの、彼の聞き慣れた声。
  ルビーが顔をゆっくりとあげると、そこにあったのはいつもの、彼の顔。

 「お前のしたことと、どっちがひどいと思う。」

  恐怖を感じることなどない、いつもの。
  もう二度と、側にいて見ることが出来ないと覚悟さえしていた朔良の顔、だった。

 「……後悔したか。」
 「…した、よ。」
 「……俺は、お前を連れて行く。」
 「…朔良。」

  一度はルビー自身が無理矢理振り解いた手をゆっくりと握られて、そのあたたかさに泣いてしまいそうになる。
  もう二度と触れることさえ許されないのだと、思っていた。

  彼には、未来があって。
  自分には、それがないのだと思っていたから。

 「勝て。」

  それでもあたたかさは今、確かにルビーの手の中にある。
  存在して体に染みいって、頭がくらくらとするくらいに優しい毒のように。

 「全てのことに、お前が立ち向かうものすべてに。そして、手に入れろ。」

  そう、これは毒だ。
 
 「その手の中に、すべてを望め。」

  先の見えた『未来』を歪めさせる、甘美な夢のような。
  なんて優しく、惨い。


 「言ったはずだ。お前のこの手は、もっと多くを望める手だと。」


  信じたくなってしまうような、ものを。

 「……だから、朔良は…」

  ルビーはようやくそれだけを口にして、大きく息を吸った。
  肺は空気を吸い込んで膨らみ、ぼやけた視界と思考回路をまたたくまに元に戻していった。

 「朔良は…すごい、んだね…」

  そうやって、元通りに。
  恐怖も、焦りも、そんなものをすべて追い落として、ようやく『戦友』というものに戻っていく。

 「…俺はすごくなんてない。」
 「ううん…やっぱり、朔良は…すごい、と思う…よ?」

  握られた掌に小さく力を込める。

  離れてしまわないように、今度はふりほどくことのないように願いを込めて手を握る。
  その感触に気づいたのだろう。朔良がそっと、表情を緩めた。

 「…行こう。」
 「……うん。」
  
  ゆっくりと、ゆっくりと頷いて、そして二人は揃って走り出した。
  別れた(一方的にだ)部屋の扉は無惨にも壊されていて、その先へと迷うことなく進んでいく。
  出口へと。




  それが、たとえ自分自身の『願い』を不意にすることだとわかっていても、ルビーにはどうしてもこの手を二度も振り解くことができなかった。
  したくなかった。もう二度と感じることのできないものだと思っていたからだ。

  望め、と言われた。
  多くを望め、とすべてを手に入れろと。
  (奪えとは言わなかった)

  ああ、でももう、体のなかの時限爆弾はタイマーを動かしてしまっている。
  もうすぐこの体は戦うことも守ることでさえも出来なくなるのだと、わかっているのに。

  それでも、今だけ。
  せめてもう少しだけでいいから。
  本当に、もう少しだけでいいんです。
  彼の望む、そして自分の望む『戦友』でいさせてください、と。

  ルビーはそう思って、走りながらそっと目を閉じた。

  だけど絶望はそこにはない。あるのは、望むという思いだけ。

  そして最後に、小さく心の中で謝った。
  これが彼につく最後の欺きになることを覚悟して、ゆっくりと唇だけを動かす。

  ごめんなさい、と。

  最後まで本当のことを告げることができない。
  どうしてあんなことをしたのか、本当の理由を話すことができない。
  この体が、もうすぐ壊れてしまうことを、『真実』を伝えることが今でも言えなくて、ごめんない、と。

  それでもまだ、欺こうとしてごめんなさい、と。

  罰が下るのなら、下ればいい。
  今、この手を離すことで罰が下らなくなるのだとしても、自分にはもうこの手を振り解くことなどできないのだから。

  選択は、決まった。
  










 どうして気がつかなかったのだろう。

 世界は確かに真っ白だった。
 凍てついていたし、寒くて凍えてしまいそうだったのだけど。

 それでも『光』があった。
 もう随分前からあったのに、どうして気がつかなかったんだろう。
 白い世界には、白だけではない『もの』がすでにそこにあって、ずっと側にいてくれた。

 そうしてやがて気がつく。

 真っ白な世界に、漆黒が現れたことに。
 世界は、動き出していた。確かに、ゆっくりと動き出していたのだ。 







 〜反撃開始 に、つづく〜