すべては、あの雪の日から始まった。
  私たち三人。血のつながりはとても薄くて本当は他人のようなものだったけど、私たちは『家族』になった。

  嬉しかった。
  
  世界には、こんなにも暖かで優しいものがあるのだと教えてくれた。
  言葉を紡げば、返ってくる言葉。
  抱き寄せる優しい腕。
  夜中にベッドに潜り込んでも、スペースを空けてくれること。

  何から何まで、私にはなかったものだったから。

  本当にとても嬉しかったの。
  この日が永遠に続けばいいと願うくらいに。
  切に、切に、願っていた。

  それが叶わないことくらいわかっていたのだけど、それでも二人と一緒にいた時間は目眩のするくらい眩しいものだったから。

  私がすべてを失っても、あの二人は私の側にいてくれる。
  遠く離れていても、心が、側にいる。

  たとえその心に誰がいても、『家族』であることには代わりはないと、そう思うから。

  だから、
  だから、

  助けに行くよ。
  絶対に、助けに行くから。

  あなた二人を損なうこと、それは私の『始まり』をなくすことになってしまうから。

  何よりも、ただ、あななたちを失いたくないの。
  失いたく、ないの。











  天国への階段、あるいは地獄への罠−たすけて、それはいったい誰を助けろということなの?−












  夏の某日。
  その日、ロシュフォード王立魔法学院では、ひとつの噂が立っていた。

  いや、噂というより、それは事実であり、証拠もあってのことだったので真実というべきではあったのだけれど。

  『金の属性教員、リョウ・ミズハ・カイーナが辞職願いを提出。
   同じく、緑の属性生徒、柊 優華が退学願いを提出。
   まったくの同時期に提出されたそれ。すでに二人の姿は学院のどこにもない。』

  その噂は、二人が親類であったことを知る近しいものたちを驚かせた。
  まったく予期していない出来事だったからである。

  優華自身、高等部を卒業するまではここに残る、と言っていたのだし、リョウもルビーと優華が卒業するまでは学院に残るつもりだと言っていたからだ。
  しかし、それは突然のこと。

  何の説明も、そして自体も知らされていない。
  
  口の汚いものになると、二人揃って駆け落ちでもしたのではないかという不名誉なことまで言われていた。
  もっとも、近しいものにはそれがどれだけ信憑性のないものか、というのをわかってはいたのだけど。

  
  知らされていない、というのは、リョウの妻である珠洲も同じことであった。
  
  あの日からすでに三日。
  あの夜から、もう三度の朝を迎えたというのに、夫であるリョウからの知らせはない。

  楽器はリョウの部屋の机の上に置かれたまま、鳴ることはない。

  主をなくした音楽室もそれは寂しいものであった。
  いつもなら鳴り響くはずの音楽。

  珠洲はそこに立っていた。

  思えば、いつも音楽室には『音』があった。
  リョウが趣味で流しているクラシック、ジャズ、ポップス……ゴスペルに、民族音楽。
  様々な音楽がその部屋には溢れていた。

  リョウ自身が弾いていることもあった。CDをただ流していることもあった。

  音楽室の扉をくぐればだいたい、あの銀髪がそこにある。
  振り返り、近しいものであるなら笑って来訪を許す。

  珠洲もたまにではあるが、ここに来ていた。

  そのたびに彼は生徒達に囲まれ、もしくは彼の溺愛する妹たちに囲まれて笑っていた。
  珠洲の来訪に気づき、振り返ると彼は嬉しそうに微笑んだものだ。

  そして唇を開く。

  珠洲、と。

  六月の結婚式から『珠洲はん』ではなく、『珠洲』と呼び捨てするようになったのは周知のことだ。
  リョウが誰かを呼び捨てにすることはない。

  妹であるはずの優華やルビーにだって、ちゃんと『〜はん』、とつけて呼んでいる。

  何より、名前を呼ぶときの柔らかい表情。
  それが大切な名前であることをわからせるような、顔。

  まわりから何やかんやと冷やかされたことだってあった。熱いねぇ、とからかわれたこともあった。

  それでもリョウは呼び方を変えなかった。
  照れくさそうに笑い、からかわれて怒り……そして、しょうがない、とあきらめる。
  呼びたいのだからしょうがない、とアッケラカンと彼はよく口にしたものだ。

  心地よい響きだった。

  でも今、それはここにはない。
  主の消えた部屋。静かな空間で、珠洲は遠く夏の暑さを感じながら立つ。

 「……リョウ。」

  あの夜。
  心のどこかで覚悟した。心のどこかが、こういう事態になることを察していた。

  何の説明もない。
  何の言葉もない別れ。

  ただ、名前を呼ばれただけで、すべては終わってしまった。
  彼は、行ってしまった。
  それが必要なのだと心のどこかで感じ取っていた。

  それでも、どうしても収まらない部分もある。

 「リョウ、あんた…どこに行ったのよ。」

  何の便りもないということ。
  それがどれだけ不安にさせるか、彼は知っているのだろうか?

 「…何があったのかくらい、言っておきなさいよね…」

  ぽつりぽつりと言葉を唇にのせる。
  答えてくれる相手はなく、言葉は虚しく宙へと消えるばかりだ。

  遠く、遠く、聞こえてくるもの。
  そこに、彼が奏でる音楽が、もう何日も珠洲の耳に入ってこない。
  それがひどく、寂しく思えた。








 「………優華さんが、ですか。」

  ほぼ同時刻。
  夏の日差しを遮る木々の下のカフェで、舞鼓は目の前の友人とそんなことを話していた。

  内容は件のこと。

  サラスが頷き、深いため息をつく。

 「緑の属性の友人にも聞いてみたのであるが、他の者にも何も言っていなかったようなのである。」

  その返答に舞鼓は黙り込み、深く思案を巡らせる。
  横では朔良がアイスティーに口をつけ、冷たい氷の音がカラン、と鳴っていた。

 「楓さんもこの前の職員会議でいきなり聞かされたらしい。まだ受理はされていないようだが…」
 「……受理は、されていないのですね?」

  聞き返す舞鼓に、朔良は頷いて答えた。

 「まだ本人から直接聞いたわけではないからと、学院長の判断らしい。
  柊さんは……ルビーが。」

  ルビー、と名前を出したところで、サラスと舞鼓の表情が揃って曇った。
  暗い表情になるのをこらえようとしても、あふれ出るものはこらえられない。

  ここ三日間の、ルビーの様子を見ているものならなおさらである。

 「……舞鼓どの。ルビーどのの様子は…?」
 「…あの子も、ここ二日は伏せったままです。部屋に閉じこもってしまって…出てくるようには、何度も言っているんですけど。」

  何も聞かされていなかったらしい。
  件の二人の家族として、姉として、妹としてあったはずの彼女に、リョウ達は何も言わずに姿を消した。

  それが相当ショックだったようで、ルビーはその話が出された初日に早退し、そのまま寮から出てきていない。

 「部屋に入ったまま…食事は?」
 「それはどうにか。つらいとは思いますけど、優華さんの名前を出して…」

  食べない、と。
  食事はいらない、食欲がない、と言って部屋に入ったままのルビーに食事を運んだ舞鼓は、あえて優華の名前を出した。

  食べなかったら優華さんが帰ったときに困ってしまいますよ、と。
  
  その一言が効いたのか、なんとか軽い食事はとってくれるようになっている。
  しかし、それもいつまでもつかはわからなかった。

 「本当に…どちらへ行ってしまわれたんでしょう…」

  ルビーだけを残して。
  あの二人が彼女を何の理由もなく置き去りになどするはずがないということは、近しい者なら誰でもわかることだ。

  それだけ、あの三人は『家族』そのものだったのだから。

  何の理由もなく……つまり、彼女に何もいわずいなくなってしまったのは、何か理由があってのことだ。

 「…せめて、連絡だけでも取れたらいいのですけど。」
 「メールも何度か送ってはいるのだが、返信はまったく……携帯のほうも繋がらないのである。」

  八方ふさがりだった。
  どうすることもできないのか、と三人が揃って息を吐いた。

  その時だ。

  ぱたぱたという足音が聞こえてきた。
  風と木々の音にまぎれて聞こえてきた音に、何となくサラスが顔を上げる。

  そして、あ、と声を上げて目を丸くした。
  
  それに気づいた舞鼓と朔良も振り返り、そして驚きの声を上げる。
  がたり、と椅子を引いて立ち上がるのとほぼ同時に、足音はカフェのすぐ側までやって来た。

  肩で息を繰り返す姿。
  金髪を風に流し、顔を上げれば懐かしいものがそこにあった。

 「…ネスティさん!!」

  やって来たのはそう、学院から転校したはずのネスティ、その人だった。








  その部屋は、紙とインクの匂いでいっぱいだった。
  ところ狭しと並べられた本棚。
  窓を遮らないようにはしているものの、壁に立てられた本棚は妙な圧迫感を与えてくる。

  蔵書にジャンルはほとんどなく、無節操に集められたとしか思えないタイトルがズラリと並んでいた。

  本棚の前に立ち、呆然とルビーはそれを眺めていた。
  小説、小論文、ミステリー、写真集、文庫本……とにかく、ありとあらゆるジャンルで集められた本が、そこにある。

  そのひとつを手に取り、手のなかでパラパラとめくりながらルビーは思う。

  ……心は、悲しみでいっぱいだった。
  いや、悲しいというより、虚しいといったほうがいいのかもしれない。
  
  二人とも、何も言わずにいなくなってしまった。

  リョウも、優華も、ルビーには何も言わず、突然姿を消してしまったのだ。
  しかもそれを知ったのは学院の噂でだ。

  誰よりも近しいと自信があったルビーにとって、それは自分の何かを崩される切っ掛けでしかない。

  二人にとって、自分はその程度の存在だったのかと思ってしまうくらいに。
  逆にそんなことない、と言い聞かせる自分もいる。

  二人とも、自分を大切にしてくれていた。
  愛してくれていた。
  それがわかるくらいに、優しく包み込んでくれていたのだ。

  誰に何を言われても、その真実は、自分の感じたものは覆るはずもない。

  だけど、悲しい。

  どうして何も言わずにいなくなってしまったのかという疑問がよぎる。
  その疑問の答えが見つからず、ルビーはただぼんやりと本を眺めていた。

  いつも優華は、

 「…あの子は…ここに、座って…本を、読んでた。」

  脳裏に蘇る光景。
  光の降り注ぐ窓際。移動式の座敷ソファに寄りかかって、優華が何か本を読んでいる。

  読書をしている時の彼女の集中力はすさまじいもので、読みふけるのが深くなるとまわりの音が何も聞こえなくなってしまう。

  おかげで気がつけば夜があけている…なんていうこともしばしばだと、いつか言っていた。
  それもルビーが側にいるようになって少なくなってきたらしく、そのことに感謝していると冗談めいて笑っていたことだってあった。

  それでも、名前を呼べば顔を上げてくれた。

  優しく笑ってくれて…
  柔らかく、自分の名前を呼んでくれて…

  そこまで考えて、ルビーはゆるく首を振る。
  今はそんなことを考えても仕方がないと思い、深いため息をついたあと、持っていた本を閉じて本棚に戻す。

  …そのときだった。

  ふと、本棚の上。
  見上げた先に一冊だけ、本が上にのっていることに気づいた。

  見上げなければ、何よりほんの少しだけ本の形が見えていなければ気づかなかったであろうそれに、ルビーはなんとなく気を引かれて手を伸ばす。
  手に取り、タイトルに目を落とすとそこには『新約聖書』の名が書かれていた。

  いつだったか優華が教会のミサに参加したときに(キリスト教に入るつもりはさらさらないが、知り合いが合唱を初披露するようなのでつきあいで見に行ったらしい)受け取ったものだ。
  分厚いものではなく、要所だけを取り出した簡易版で本の厚さも薄い。

  なんとなくそれが気になって、ルビーは聖書のページをめくる。

  ぱらぱらと本をめくる音が部屋のなかに響く。
  聖書は、神の教えを書いたものなのだと。

  神様なんてこれっぽっちも信じていないという優華やリョウ、そしてルビーにとって聖書は縁の遠いものであった。

  ただ、活字中毒の優華がなんとなく手元に置いておいただけなのかもしれない。



  敵が倒れるとき



  だから、それを見つけたのはほんの偶然だった。
  ぱらりとめくられたページ。
  ただ一説だけを抜粋した、ひどく簡素なもの。

  

  敵が倒れるとき、喜んではならない。



  そこには、一説とともに、白い便せんが挟まれていた。
  訝しみ、ルビーがそれを手に取る。

  何も書かれていない白い封筒だったが、中に便せんが入っているのが手触りでわかった。


  
  敵の滅びを楽しんではいけない。



  何気なく封筒を開き、便せんを取り出す。
  がさりと音をたてて開かれた便せんに目を通していたルビーの目が、驚愕に見開かれた。

  そこに書かれていたのは、優華の文字。
  特徴的な、少し斜め上がりのそれは、確かに彼女が書いたものであった。

  ルビーの全身に震えが走る。

  それは恐れではなく、驚きではなく、ただ理性をこえた何かによって引き起こされたものであった。

 「……ユカ!!」

  名前を呼んだ。しかしそれに答えてくれるものはなく、ただ闇に飲まれていくばかり。







  そのとき、楓は風を全身に受けながら屋上の端に立っていた。

  ザァザァと流れる風に身を任せながら、静かに目を閉じている。
  何も考えていないのかもしれない。
  何か考えがあるのかもしれない。
  しかし彼はそれに応えることもなく、ただ風のながれに身を任せていた。

 「………契約が…」

  ぽつりと、声を発して楓は目を開ける。

 「契約が、果たされようとしてる…」

  謎を秘めた言葉。
  誰が聞いても、その真意を推し量ることのできないようなもの。

 「…行かなくっちゃ、ね。」

  それは予言のようにも、戯れ言のようにも聞こえた。
  判断するのは、その言葉を聞くものの心によってだ。

  






  彼女の身を包んでいる白いワンピースが揺れていた。
  歩くたびにひら、と裾が舞う。
  普段の彼女なら着ようとしない(足下が隠れないからだ)ものだったが、金の髪をいつものように黒いリボンをのせて、彼女はただ歩く。

  学院の道を抜け、木々の下を通り抜けていく。

  音は遠い。
  ただ静かな靴音だけが響いている。

  風さえも遠い。何も聞こえなくなってしまいそうで、ルビーは静かに目を伏せる。

  けれど、足を止めることなく一定のテンポで道を歩いていった。
  その足取りに迷いはない。表情にも、凛とした空気を漂わせて、進んでいく。

  どこかへ出かけに行くのかと、誰もが思う出で立ちだ。
  しかし、彼女をよく知る者なら、彼女の服装にまず違和感を持つ。

  白いのだ。

  ルビーは、白い色の服を着ることを嫌っている。
  珠洲からもらった白いケープは黒いファーがついているのもあって特別お気に入りだが、ただの真っ白なものなら、それを身につけることを拒む。
  だから、『真っ白』なワンピースなど彼女が着るはずはないのだ。

  白は特別な色。

  白は、彼女がもっとも嫌う色。

  そして白は、

  決意だ。

 「…………っ…」

  ふと前方の校門を見たルビーの眉根が寄せられる。
  同時に、やはりと言ったような諦めの表情も浮かんで、彼女は息をついた。

  顔を上げた先にいたのは、珠洲だ。
  それに舞鼓やサラス、朔良。見ればネスティまでいる。
  なんて取り合わせなのだろうと思いながらも、ルビーは足を止めることはなかった。

  かつ、と石畳を歩く音だけが響く。

  そしてそのまま軽く会釈し、校門から先に出ようとした。

 「…何処へ行くの。」

  しかし、やはり止められる。
  そこでようやく足を止めて、ルビーは横を振り仰いだ。
  そこにいつもの表情はない。多少なりと緩められていたはずの、柔らかな雰囲気でさえもない。

 「少し、外出…して、くる。」
 「当てはあるの?」

  これからどこへ向かおうか知っているような口ぶりだ。
  いや、実際知っているか、予測はついているのだろう。

 「……私一人で行きます。」

  だから、先手を打ってルビーがそう口にした。
  その言葉の真意がつかめず、吃驚した表情をしている舞鼓たちをよそに、珠洲は軽く片眉を上げるだけに止まった。

 「貴方一人でどうするの………あたくしも、連れていってちょうだい。」
 「お断りします。」

  きっぱりと、そしてそれ以上の反論は許さないと言ったような口ぶりだった。
  普段の彼女のしゃべり方とは比べものにならないほどの、強い口調。はっきりとした言い回し。

  それは同時に、珠洲の推測が的中していることを示している。

 「あの二人が帰って来ない。でも、ルビーさん、あなたは二人がどこにいるのか掴んでる…それで、あたくしたちに見過ごせというの?」

  いつのまにか『たち』になっているな、と思いながらルビーが自重めいて笑う。
  緩く首を横に振り、今度こそ、きっぱりと言い放つ。

 「戦えないのなら、連れていっても無駄だからです。」

  その言葉に珠洲の顔に険呑な色が浮かんだ。
  後方でことの成り行きを見守っていた舞鼓たちもそうだ。

  舞鼓たちもつい先ほど、某国からはるばるやって来たネスティに出会い、そして優華が彼に会いに行ったことを知って珠洲に話しに行ったのだ。そこで珠洲と校門で待ち合わせをして、話し合わせをしている間に、やって来た。

  ルビーが、その出で立ちでやって来た。

  それを見た珠洲が言ったのだ。
  彼女は、何かを掴んだのだと。
  そしてそれを一人で片づけるつもりなのだと、言った。

 「…あたくしが戦力外だとでも?」
 「なら重ねて返します。珠洲先生、あなたに人を傷つけることが出来ますか?」

  暗い決意だった。
  そして予期しない言葉であった。
  珠洲が一瞬目を見開いたのを見て、ルビーは静かに目を伏せる。

 「人を傷つけ、斬りつけ、退けさせて……血が、流れます。だから、それができないのなら、連れていっても邪魔なだけ。」
 「あなたは、それが出来るの?」
 「出来ます。」

  即答だ。
  何の迷いもない、一瞬の躊躇さえない言葉。

  その瞳はガラス玉のように無機質で、何の感情もない。
  感情を必要としない、答えだからだ。

 「それが必要なら、いくらだって出来ます。」

  強い決意だ。
  目もくらむような激しい思いだ。

  珠洲がわずかに息をのんだ。ルビーの表情が、あまりにも神々しく、同時に禍々しく見えたから。

  


  リョウ、優華さん
  あんたたち、この子にこんな顔させて、いいの?




  同時にわずかに怒りがこみ上げてきた。
  どうしてこんなことを口に出させる。守る、と言ったのではなかったのか。
  家族ではなかったのか。

  家族なら。
  大切なら、こんな表情させていいはずがない。

  こんなことを言わせていいはずがない。

 


  そしてあたくしは、
  あたくしたちは、
  この子に、こんなことを言わせてしまって、いいの?




 「……確かに、あたくしたちには…いえ、あたくしにはそれが出来ないかもしれない。」
 「各務教諭…!!」
 「珠洲先生っ!」

  珠洲の口から出た言葉に教え子たちが一斉に反応する。
  ああ、わかっている。
  認めてはいけない。

  ただ、認めてはいけないのは、戦えないということではなく。
  ここに、置いていかれてしまうということだ。

 「でもね、ルビーさん。あなた、自分の顔見て、それが言える?」

  一人で行かせてはいけない。
  ここで、この子一人行かせてしまったら、絶対に駄目だ。

 「…あなた今、すごく、ひどい顔してるわよ?」

  優しく、出来るだけ諭すようにして言う。
  それがある種、卑怯な物言いになると自覚していても、今はそれが必要なのだ。

  この子を一人で行かせないために必要なものだ。

  だからそれを使う。
  使えるくらい、自分は『大人』という種類の人間なのだから。

 「…………」
 「…ルビー、言いなさい。」
 「…え…」
 
  そんな顔をしているのはどうして?
  そんなことを言ってしまうのはどうして?

  何を隠しているの。
  何から自分を守ろうとしているの。
  何を、覆い隠そうとしているの。

 「あなたが言いたいことはそんなことじゃないでしょう?」

  言いなさい。
  言ってしまいなさい。

 「邪魔はしない。あたくしも教員として多少なりの魔法は使えるし、ここにいるのも『魔法使いの卵』よ。少なくとも、一般人より役には立つわ。」
 「……だから、戦うのは、そんなことじゃ。」
 「成り立たないというのね。でも、あなたひとりで行かせて、もしあなたが倒れたら誰が二人を助けるの?」

  口ごもり、言い返す言葉が見つからないのか、焦った表情で次の言葉を必死に思案している。
  
  もう少し。
  
  隠している何かを、解き放つのは今しかない。

 「………それ、は。」
 「わかっているはずでしょ? 貴方の言う、戦いがあなたで終わったら意味がないの。
  だから、あなたはわかってるはずよ……どうしたいのか、どうしないといけないのか。」
 「……言えません。」

  小さな、けれど強い意志を込めた拒絶の言葉だった。
  しかしそれで引くような珠洲ではない。

 「言いなさい。」
 「言えません…言ったら、いけない、んです…」
 「どうして言えないの?」
 「………巻き込みたく、ないんです……お願いです、珠洲せんせ…みんな、ここで、待って…!!」

  そんなこと、

  ふん、と鼻で笑って珠洲は高らかに言い放つ。

 「もう、とっくの昔に巻き込まれちゃってるのよ。」

  ああ、そんなこと。
  そんな簡単に言いはなっていいものか、と舞鼓とサラスが揃って渋い顔をする。
  ネスティは力強くこくこくと頷いて同意していた。
  朔良も……息を吐いて、ゆっくりと頷いてみせる。

  それを見て呆然と立ちすくむルビーを横目に、珠洲は笑ってみせる。

  気にしなくていいというような、力強いもので、

 「だから、言っちゃいなさいな。」

  とても優しい、ものだ。








  ルビーの唇がかすかに戦慄いた。
  瞳が潤み、何か決壊してしまったかのように目に涙を溜めている。

  ここまで必死に我慢していたのだろう。

  (どんなに、心細かったことだろう)

  我慢して、耐えて、歯を食いしばって、それでも自分一人でどうにかしようと立ち向かおうとしていたのだ。
  その姿で、伝わってくる。

  先ほどの言動から推察も出来た。
  
  二人は今、とてつもない危険にさらされているのだということを。

 「…たす  けて…」

  ルビーが、助けを求めるくらい、
  彼女が、必死になってその言葉を飲み込もうとするくらい、危険な場にいるにだということを。

 「たすけ、て…ください…!!」

  ワンピースの裾を指先が白くなるくらい握りしめて、力を込めて言うほど。

  葛藤と、そして、

 「お願い……ふたりを、たすけてっ!!」

  二人を失ってしまうことへの、恐怖を感じさせるくらいの。




 「あにくんとゆかを……たすけてあげてっ!」




  ルビーがそう言い、勢いよく頭を下げた。
  それはもう、懇願だった。

  心からの願いと、救いを求める声だった。




 


  夏の日。
  二人がいなくなって、三日。

  ようやく、事態は動き出す。






 −招待状 に、つづく−