闇色に支配された世界。
  朝は遠く、そして星達さえも眠りにつく頃。
  
  消えた光点のなか、闇の中でうごめく『何かが』あった。

  それは鳴動していた。
  空気に反応しているのか、あるいは風によって動いているのかわからない。
  だが、普通、あのような場所であんな動きをするものを、人は知らないであろう。

  たとえるなら、そう、出来の悪いアメーバー。
  不定形の物質。
  それが少しずつ、少しずつ、形を持つ。

  指が生えた。
  頭が出た。
  腕が切り離され、足が出た。(本数が揃っていないものばかりだが)
  
  やがて真っ暗な口腔ができあがる。
  続いて潰れた鼻。尖った耳、そして瞳。

  闇色に光る、は虫類のそれにも似たどす黒い瞳が、浮かび上がる。

  それはひとつではなかった。

  いくつもいくつも出来上がる。
  いくつもいくつも、生まれ、そして出来上がった瞬間、吠えた。

  天を切り裂くような耳障りな悲鳴の群れ。

  それがいくつも。
  際限なく出来上がっていくかのようだった。
  まるでこの世の終わりのような風景。そう、たとえるなら、悪魔。

  そう、悪魔の誕生とやらが、ちょうどこんな感じなのかもしれない。
  そうでなくても悪魔ではないにしても、化け物であることに変わりはないのだ。

  魔物たちが生誕の産声を上げるなか、初老の男はその中心で満足げに笑む。

  指揮者のようにゆっくりと両手をあげる。
  それに呼応するかのように魔物たちがゆっくりと声を沈める。

  一瞬の静寂のあと。

  振り下ろされた切っ先と同時に魔物たちは疾走していった。

  その先に見えるのは、バリケードに囲まれた施設。
  夜の闇。
  サーチライトで照らされたその先にいた化け物たちの姿を見つけた『兵士』が何事かを叫んだ。

  瞬間。

  耳障りな音とともに、深紅の塊があたりに散った。




 『最終決戦、開始』










  ただ、暁は金色にして、赤き太陽が昇る前のこと
〜「わたしをよんで。」〜




 



 


  甲高い警告音は今や施設中に鳴り響いていた。
  仮眠を取っていた珠洲たちが何事かと目覚め、それぞれ割り当てられたいた部屋から駆けだしてくる。

  『あの部屋』の外で終わりを待っていたリョウがその音に体を強ばらせ、反射的に身構えた。
  そして何の躊躇もなく部屋の扉を開ける。
  
 「………!! おいっ!!」

  中にいたのは二人。
  荒い息をして座り込んでいる優華と、昏倒して床に倒れ込んでいる朔良を見つけた。
  何事かと慌てて駆け寄って見ると、優華のほうはその物音に気づき顔を上げて微かに「なんでもない」とつぶやいた。
  
  突然『切り離されて』しまって、意識の混濁が酷いのだ。
  なんでもないわけではなかったが、それでも回復できないものでもない。

  優華はそう判断して、小さく唇に言霊をのせる。

  それだけで意識は澄み切り、焦点もきちんとあった。
  その魔法は朔良にもかかっており、彼もまた数瞬もしないうちにぱちりと目を開ける。

  ゆるゆると首を横に振り、何かを探しているかのように視線を彷徨わせる。

 「……あい、つは…」

  途切れ途切れに呟く言葉に、優華は苦い顔をして首を横に振った。
  ここで嘘を教えたとしても意味がないものと判断したからだ。

 「わかりません。本当に突然、『道』が絶たれて…」

  どうなったのかをできる限りの情報のなかで伝えるのは必要なことだ。
  余計な検索は、要らぬ先入観を生んでしまいかねない。

  そして今、それに振り回されるわけにはいかにことを、優華は何となく感じ取っていた。

  何かが、

 「道が絶たれるようなことがあった……そういうことになりますけど…」

  何かが、あったのだ。

  そこまで答えたところで部屋のなかに備え付けられた天井のスピーカーの電源が入る。
  一瞬のノイズのあと、どこかいつもと違う男の声が部屋のなかに響いた。

 『リョウ。リョウ、そこにいるかい?』

  タナトスのものであった。
  それを聞いたリョウが、おう、と返事をする。
  おそらくどこからか高周波のマイクで拾っているはずなので声を張り上げるようなことはしなかった。

 『侵入者だよ。まあ、誰かは言わなくてもわかるだろうけどね。』
 「……あいつらか。」

  そしてタナトスの問いかけにリョウも一瞬で今この施設で起こっているであろう事態についての検討をつけられた。
  大きく舌打ちをして忌々しそうに頭をかく。

 「たっく、なんちゅうしつこさや!!」

  おそらく今、この施設に入っている侵入者とやらは『加藤』の一味なのだろう。
  あの実験施設で徹底的にたたいておくべきだったと、リョウは激しく自分の認識の甘さを呪った。
  (実際問題として、あの場から逃げることで精々だったのだが、時間を置いてから追討でもなんでもしておけばよかったのである)

 『人間なんてそんなものさ……それに、事態はもっとまずいよ。』

  そこでリョウの様子もモニター越しに見ているであろうタナトスが苦々しく呟いた。

  小さな声であったために警告音にかき消されそうになったが、リョウたちがそれを聞き逃すはずもない。

 「なにかあったんですか?」

  誰よりも早く、床から起きあがった朔良が口を開く。
  
  タナトスは大きくため息をつき、そして一呼吸を置いてから続きの言葉を出した。





 『ルビーが、さらわれた。』





  その一言はその場にいた三人を驚愕させるには十分の内容であった。
  リョウがなにぃ、と言って声を張り上げ、優華が悔しそうに唇を歪ませる。朔良もまた呆然としてはいたものの、それでも意識を別のほうに向けるのを良しとはしなかった。

 「……浚った相手は。」
 『さすがに冷静だね、リョウ。』

  激情に捕らわれないのは君の良いところだよ、と軽口(もちろん、緊張をほぐすためのものだろう)にも似た口調で言うと、その真意を知ってかリョウは軽く表情を緩めてみせた。

  しかしそれも一瞬にも似た間だけだ。すぐに表情を引き締める。

  それとほぼ同時に先ほどのリョウの問いにタナトスが返答する。

 『さらったのは……瑪瑙だ。』

  その名前にリョウが忌々しげに舌打ちをこぼした。
  優華もまた、いっそ険しいまでの表情を浮かべたまま何も言わない。

  二人とも心情としては「あのやろう」と言ったところであろう(言葉は悪いが)。

 『進入口はおそらく裏手。警備がもっとも薄くなってから行われた。』

  そう言いながらタナトスが何か操作を施したのか、優華と朔良の側にあったテレビのスイッチが入り、そこにこの施設の見取り図と、時間経過、そして誰がどこにいるかを表した点滅する光が映し出されていた。

  リョウが顔をのぞかせると同時に裏門に赤い点が現れ、次々と点滅する光を打ち消していく。

 『そこからルビーのいた一階の特別病棟まで一直線だった。まるで「そこ」にいたことを初めから知っていたかのような、迷いのなさだったよ。』

  廊下を走り、そしてある病室のなかに入り……そこで『異常事態発生』の信号が鳴り響く。

 『そして昏睡状態だったルビーを浚ったんだ。まだ点滴なんかにも繋がれていたっていうのに。』

  優華がなんてことを、と呆然としながら呟いた。
  本当になんていうことをしているんだ、と。

  ルビーの今の状態がとてつもなく『難しい』、『危うい』状態であるのは明らかであったはず。

  素人目からもそうであるのだから、ルビーの状態、つまり今その体に起きている異変について知っていたはずの瑪瑙ならそれがどんなに危険なことであるのかも察することができたはずだ。

  しかしそれをせず、おそらく何の躊躇もなく繋がれたそこから浚っていったのだろう。

  

  そして、そう思い当たり優華が怒りによって我に返るのと同じく。

  獣のような咆哮が、遠く遠く、聞こえた。



  それはこの世のどの獣とも似ても似つかない耳障り極まりない咆哮だった。
  防音されているはずのドアの向こうからでも微かな振動によってビリビリと鼓膜を揺らす。

  三人が揃って何事かと顔を上げる。
  スピーカー越しにタナトスもまた、息を飲んだ。

 「……事態は。」

  そしてその中でリョウが真っ先に口を開く。
  皮肉げに笑いながら、それでも額から流れ落ちる一筋の緊張の汗を拭うこともできずに、ただ笑んだ。

 「僕らが思っとるより、相当、悪いらしいな。」
 「んなもん、姉さんが浚われたって時点で了解済みです、兄さん。」

  リョウの皮肉に、優華が即座に返した。
  優華もまた、ゆっくりと視線を戻し、リョウと朔良の二人を見る。

  表情はかなり硬い(事態の深刻さを肌で感じているのだろう)。しかし、そこでも血筋は争えないらしく、皮肉めいてどこかリョウと似た表情で笑うと、困ったように小首を傾げる。

 「次から次へと…この一週間で、一生分の危険を使ってるような気がしますよ。」
 「奇遇やな、僕もや。」
 「……俺もです。」

  三人はそこまで言って互いを見、そしてふぅ、と小さく息をついた。
  それだけで意識は柔らかくなった。

  未知の事態への恐れをその会話だけで飲み込み、それからその会話を聞いていたであろうタナトスもスピーカーの先でおかしそうに声をたてて笑った。
  さて、と一息をつき、モニターを見る。

 「それで、今姉さんはどこに?」
 『……中庭。ただし、』

  位置はあっけないほど簡単に割れた。
  しかしモニターのなかの画面が移り変わり、中庭が映し出され赤い点が光ったと思った次の瞬間。
  ありえないほど大量の赤い点がさらに浮かび上がった。

  次から次へと際限などないかのように浮かび上がり、画面はブラックアウトしたのち『デンジャー(危険)』だということを画面全体を使って警告していた。

 『敵の真っ直中だけどね。』
 「マジですか……」

  思わずついて出た言葉は、うすら寒いほどわざとらしく聞こえた。








  漆黒の闇の中。
  瑪瑙は物言わぬ少女の体を抱いてただ虚ろに虚空を見つめていた。

  まわりに蠢く獣たちの咆哮を耳にし、遠く聞こえる悲鳴や怒号、あるいは発砲音でさえも聞こえないものかのように振る舞い、そしてゆっくりと目を閉じた。
  腕のなかに抱く少女はこんなにも軽かったか、などと場違いなことを考える。

  ゆっくりと金の髪の指先だけで梳く。
  兄妹でありながら自分と彼女との色がまったく違うのは、血のつながりがないためだ。
  だから、彼には『資格』がない。

  血というのはそれほどに強く、それほどに重要で……犯しがたいものであるのか、と。

 「………見つけたで、悪党ぉ!!」

  そこで。
  聞こえてきた声に走らせていた思考を閉じ、瑪瑙が瞼を開ける。

  瞳に映ったのは獣たちが蠢く先で銃を構えるリョウの姿。
  鮮やかな手つきで銃を構え、そして手近な獣たちへと発砲する。
  正確無比なその銃撃は、たった一発でも獣たちの『急所』を吹き飛ばすものであった。

  悲鳴を上げながら消えていく獣。
  しかしその音に反応して残りの獣たちもまた動き出した。

  殺到しようと動き出した刹那、リョウの後方から優華と朔良が建物のなかから飛び出してきた。

 「……『契約の名の下、執行者たる柊優華が命じる』!! 絶望なさい! クラネス!」

  そして優華が高々と叫び、魔法が執行される。
  あたりにいた獣たちが震え、そして咆哮をあげながら消え去っていく。
  (その形状を保てなくなったのだろう)

  朔良もまた優華のほうへとやって来た獣の追随を交わすように手を引き、グイッと位置を変えさせる。
  ありがとう、と声には出さず唇だけ動かすと朔良も気にするな、と言ったように手をかざす。

  さらに建物のなかにいたのであろう。
  楓と珠洲が揃って開いた窓から地面へと着地する。顔を上げ、そして手近な敵を見つけると、珠洲が何も言わずただ手を巡らせる。それだけで土は動き敵の数体を包み込んで……また、元の形に戻った。
  中にいたものたちを消してしまったのだ。
  楓は状況を見つめて片方の眉だけを器用に動かす。

  続いて遅れて入り口のほうから出てきたサラス、舞鼓、そしてネスティを見つけて楓は珠洲の片手を取って『飛んだ』。

  文字通り宙をかけて三人のもとへと舞い降りたのだ。
  何も言わずにそれをやった楓に珠洲は何事かを言っているが、本人はどこふく風で子供達の無事を聞いている。

  そうしてゆっくりと、全員が、瑪瑙を見た。

  数多くの瞳に見つめられながらそれでも焦りもせずに瑪瑙は目を伏せる。

  これが

  心の奥で思いを描きながら、目覚めぬ少女へと向けて言葉を。

  (これが、お前がこんなになってまで守りたい者達なのか。)

  ざぁ、と風が吹いて金の髪が踊る。
  それを視界の端に移しながら瑪瑙は抱いた手をゆっくりと動かした。

  近くにいた獣がそれに反応して少女の体を受け取る。
  遠く、リョウたちが動くようなそぶりを見せたが、ここで動けばどうなるかくらいは予想がついているのだろう。それ以上は動こうとしない。
  振り向き、腰に差していた刀を鞘から抜きはなった。

  鈍い色できらめくそれは、闇のなかにあってでさえなお刀身の光を失わない。

 「俺は認めない。」

  そしてぽつりと、声を。
  だが身のすくむような怒りの音をこめて、瑪瑙が言う。

 「お前をこんなにした奴らを、俺は断じて認めない。」

  怒りと憎悪と、そして敵意。
  すさまじい殺気に当てられ、ネスティと舞鼓が小さく悲鳴を上げた。
  それをサラスが支え、大丈夫かと声をかける。

  だがこの殺気を当てられていつまでも耐えられるほど、ここに常人でないものはいない。

 「なぜ、お前たちは止めなかった。」

  質問はしかし、答えたとしても伝わらない響きを持っていた。
  そして、傲慢そのもののようにも聞こえた。

  傲慢。そう、そんなの自分勝手な問いではないか。

 「俺は止めた。」

  だが、瑪瑙の言葉は、その怒りさえ読み取っているかのようであった。

 「あそこから引き離そうとしたのは、そのためだ。
  あいつはそれを拒み、結局………それが決定打だったようだな。お前達が『これ』を、ここまで追いつめた。」

  だから断じるのだと。
  そう言いたいのかと思い、優華は心底悔しげに下唇を噛みしめる。

  言いたいことはわかる。
  そうだ、もしかしたら瑪瑙の言いたいことは正論なのかもしれない。
  何も知らなかったなんて、ただの言い訳だ。

  気づくチャンスだって十分あったはずなのに、それを気づこうとしなかった。それが自分たちの落ち度。

  後悔だってある。

 「それでも。」

  苦い思いだってしている。

 「それでも、あなたに姉さんを渡すわけにはいかない。」

  何度思ったところで、彼女を傷つけていたことに変わりはないのだから。

 「返してもらうわ。」

  でも。
  やり直すことはできる。

  それに自分は怒っているのだ。
  どうして言ってくれなかったのかと。
  こんなにも傷つけて、同じような(それでも比べものにならないくらい小さな)痛みを与えて、それで良いというのか。

  言いたいことが山ほどある。
  伝えたいことだってたくさん、数え切れないくらいある。

  やり直すために、今度こそ、本当の『きょうだい』になるために。
  それはまわりにいるみんなだって代わりはない。

 「なぜ返すなのだ。元々これは、俺のものだ。」
 
  傲慢極まりない態度であった。
  思わず歯噛みする優華の横で、今まで口を閉ざしていた朔良が一歩前に出る。

 「………簡単なことだ。あなたでは、あいつにふさわしくない。」

  凛とした声。
  透き通った、迷いのない瞳。射抜くような、挑むようなその瞳を見て瑪瑙が苛立ったように眉間の皺を深くする。

 「あなたのものでもない。」

  だが朔良はその眼孔を受けても一歩も怯まない。
  引き下がらない。
  それが彼の決して折れることのない意志のようで。

 「あなたでは、幸せにはできないから。」

  それはいつかの殺人鬼にも向けて思ったもの。
  今それを口にし、まるで言霊のようにして瑪瑙に向かってぶつけていた。

  瑪瑙の苛立ちが酷くなる。
  持った刀を翻し、挑むように切っ先を向けても、離れた位置にいる朔良は微動だにしない。
  視線も外されない。

 「お前は幸せにできるのか。」

  そして疑問をぶつけた。

  朔良は一瞬目を見開き驚いたような顔をして……それから、シニカルに笑う。
  およそ年齢にふさわしくない大人びた笑みを浮かべていた。

 「少なくとも、ここにいる誰もが貴方よりはマシに。」

  嘲りではなかった。
  ただ純粋な宣言であった。

  しかしそれは、瑪瑙の気を高ぶらせるのには十分なくらいのもの。

 「そうか。」
 「ええ。」
 「なら、示せ。」

  ざり、と地面をこする。
  リョウが構えに入り、朔良の横にいた優華が目を閉じて詠唱準備に入る。
  珠洲がその気配を察して子供達を安全な位置まで誘導していた横で、楓は今まさに始まろうとする舞踏を見つめる。

 「俺から、奪い取れ。」

  そう言った瞬間。
  獣たちの動きが一斉に止まる。これから始まる『宴』を察しているのか、身動きひとつせず待っている。
  合図を。
  宴の始まる、その瞬間を。

  それを見つめるもうひとつの陰があった。
  建物の屋上からそれを見つめる初老の男は、訝しげに表情をゆがめるがそれでも視線を外さない。

  だが何かを感じ取ったのだろう。施設全体に放っていた『獣』たちを中庭へと集結させるために、ゆっくりと手を振る。
  意味を持ったその動作は、すぐさま獣たちへと伝わり、静かな闇のなか無数の足音だけが響く。

  そして最後にもうひとつ。
  青年はそのすべての様子を見ながら、ゆっくりと闇のなかから姿を現していく。

  ねぇ、瑪瑙くん。それは違うんじゃないかなぁ?

 「奪い取るんじゃなくて、取り戻すだよ。瑪瑙くん?」

  突如降ってきた言葉はタナトスのものであった。
  彼もまた両手にフラスコと試験管を持って、その場に佇んでいる。

  そしてその言葉が、合図となった。






  リョウが地面を蹴り、両手に持った銃を放つ。
  解き放たれた銃弾はやはり、獣たちを一撃で仕留めながら、それでも数は減らなかった。

  目の前の敵がなかなか減る様子がない(いや、増えてさえいる))のに気づきリョウは銃をホルダー(……代わりの革ベルト)につっこみ、短く目の前で『印』を切る。

  それは、言霊を減らすために用いた方法。

 「『荒れ狂う嫉妬深き炎の女神ゴガ』……焼き尽くせ、この場のすべてを!!」

  その瞬間、その場にいた十数体の獣たちの体が一斉に炎に包まれた。
  激しく燃え上がるそれに空さえ焦がすような色を持ちながら、リョウは次のものへと躍りかかっていく。

  タナトスはそれとは正反対の場所で、手にしていたフラスコを軽く地面へと放り投げた。
  軌跡を描いて放られたそれは、がしゃん、と地面にぶつかって割れるとその瞬間に真っ黒な『口腔』をその場に広げていた。

  まとめてそのなかへと落ちていく様子を見ながら、ふぅん、とタナトスは一人ごちた。

 「実は久しぶりに使うから使い勝手については心配してたんだけど…ちょっと威力が落ちたかな。」

  残念だな、と他人事のように呟く。
  しかしこれで威力が落ちたというのなら、元々はどれほどの威力だったのかと問いただしたくなってしまう。
  何しろ、半径五メートルをまとめて飲み込んでいるのだ。
  
  認識能力としておかしいのではないかと思いながらも口には出さずに、優華が言霊を作る。

  そのとき、彼女は無防備となった。
  それを狙ってリョウとタナトスの包囲網をかいくぐって獣たちが優華へと走る。

  真っ黒な口腔を開けて優華を飲み込もうとするが、それは彼女には届かなかった。

  その口のなかにうずくまった子供くらいはあるんじゃないかという石が、突然放り込まれたからである。
  いや、放り込まれたというより魔法で動かされたというほうが正しいのかもしれない。

  優華はそれを見て声を上げかけるが、今は魔法を完成させるほうが先だと判断し、言霊を唇にのせた。

 「『緑よ緑。我は緑の者にしてお前達の友。友たる我らに守りの盾を』……完遂せよ、緑の守り。」

  言霊が終わると、優華のまわりはもちろんのこと、佇んだままの楓や珠洲たちのまわりにも緑のツタが張り巡らされ、一種のバリケードのようなものが出来上がる。
  さすがに動き回っているリョウやタナトスのまわりにはできなかったが、それでも防御するにはこのくらいで十分であろう、そんな壁が出来上がり、優華はホッと息をつく。

  そして視線を流すとその先でネスティが親指をたてているのが見えた。

  『やったね』の合図なのだろう。
  そうすれば先ほどの大石もネスティが作ったものであることは予想がつく。

  優華が何も言わずに微笑み、それから同じように親指をたてて見せた。



  中庭は、すでに戦場さながらであった。
  圧倒的なまでの『兵力差』は、個人の能力そのものでカバーしているがそれにしても数が多すぎる。

  魔法が放たれ、武器が走り、守りの壁が出来上がる。


  それでも楓は動かなかった。
  制約が。


  そう、制約がいま、動きだそうとしていたから。

 「それが約束だから。」

  だから待つ。
  それは放棄ではなく、ただ知っているからである。

 


  そのとき。
  朔良の体は無造作に吹き飛ばされ、彼は地面を数度転がって、止まった。

  鈍い痛みが全身に走り、擦れて痣や傷になった箇所がにじんだ痛みをもたらす。

  その目の前で瑪瑙は剣を振るい(それでも逆刃にしているのは、武器を持たない上に素人を相手にしているからであろう)、顔を上げる。

 「どうした。その程度か、お前の決意とやらは。」

  力の差は誰が見ても明らかであった。
  剣術にかけてはルビーも首の皮一枚で勝てたという相手。
  そして破れたとはいえ、リョウと互角に渡り合った技量。
  
  対して、物理的な戦いにおいて朔良のできることはあまりにも少なく、そして力もない。

  良くも悪くも平和な空間で生きている者に、そんな力など必要ないせいもある。

  それでも朔良は地面に手をつき、力を込めて起きあがる。
  満身創痍の体はどこもかしこも痛みを発していた。
  しかし、そんなもの関係ないかのように片膝を立て、ともすれば崩れ落ちそうになる体を支えていた。

 「……かはっ…」

  そこで小さく咳き込むと、鮮やかな色の鮮血が数滴、口の中から溢れ落ちた。
  臓器をやられたわけではなく、喉の奥にも痛みはない。
  おそらく口の中を切ったのだろう。鉄さびの味は吐き気をもよおすようなものであったが、それさえ朔良は飲み込んだ。

  立ち上がる。

  今はそれがもっとも重要なものであったから。
  立ち向かう。そして、突破し、行かなければならない。

  彼女のところへ。


  やくそくを


  瑪瑙が立ち上がる朔良の姿を見て苛立たしげに舌打ちをする。
  常ならばこのくらいの感情を自分で制御できるはずなのだが、今はそれができない。

  傷つきながら、それでも立ち上がる姿。

  目覚めない『彼女』に似ているような気がした。
  あのときの、そう、故郷での戦いのときも彼女は傷つきながら何度でも立ち上がった。

  守るために。
  
  約束を、夢を、そして何かを守るために何度でも立ち向かってくる。
  その姿がひどく似ていて、苛立った。
  感情をうまくコントロールすることができない。

  ならば、と瑪瑙はゆっくりと剣を握り直す。

  ならば、そのたびに打ち砕くまでのこと。
  守るものも、夢も、希望とやらも。そして、約束でさえも。
  
  すべてを打ち砕けばいいだけの話だ。

  あの時は破れた。しかし今度は破れることも、負けることもない。
  力の差は歴然で、向かってくるものは自分にとってあまりにも非力なものであったから。


  やくそくを、まもる


  風はまだ動かない。
  それを肌で感じながら、朔良はゆっくりと足を踏み出す。
  痛みが走る。おそらく捻るか何かしてしまったのだろうが、折れてはいないはずだから、まだ動ける。

  一歩、近づく。

  その光景を見ながらそれでも楓は動かなかった。
  傷つくその姿を見ても微動だにしない。

 「………願うだけじゃ、駄目なんだ。」

  そして語りかけるようにして風に言葉をのせた。
  誰に届くのかわからない言葉だった。

 「約束は」

  お互いが守ってはじめて、意味のあるものだから

  そう言い含めてそれも風にのせて運ぶ。
  必要なことだから。




  だからよんで




  圧倒的な威圧感を目の前にしながらも、そのとき、場違いにも思ったのは遠い日の記憶だった。
  夜の闇のなか、泣いているような顔をして、それでも笑っている彼女の姿。

  どういう顔をしていいのかわからない。そんな感じの表情。

  約束も誓いも決意も、制約もすべては、守られてこそ意味を成す。
  守られなければそれらは意味をなくし、ただの空虚な言葉の羅列にしかならないのだから。

  戦友になると言ったあのときの、懐かしい表情。

  泣いていたときもあった。ひどく弱っていたときもあった。
  
 「……ルビー。」

  ぽつりと、彼女の名前を呼ぶ。
  それは約束した、ひとつのこと。

  それでも彼女は答えない。離れた先で獣に抱きかかえられたままの少女は、投げ出した手足でさえも動かさずただ目を閉じている。

  意味のないもののように聞こえる呼びかけだった。

  でも、約束を。
  彼女と彼は、もうずっと前から、約束をしているから。

  (私を呼んで。)

  白い世界で最後に見た彼女の姿と、学院にいたときの彼女の姿がダブる。
  ダブっていても、彼を見つめていることに代わりはない。

  だけど、違う。

  (あなたが私を呼んでくれたら、たとえそこが百万の敵を相手にしたところであっても)

  ああ、そうだった。

  学院にいたときの彼女は、どこか寂しげに、切なげに自分を見ていた。
  ああなることを予感して、覚悟しての言葉だったのだろう。

  (あなたが地球の裏側にいたって、私はあなたを助けに行くわ。)

  だが、白い世界の彼女は違った。
  いっそ、晴れやかなまでの笑みを浮かべている。

  彼が自分を呼んでくれる、と。そしてそのために力を振るうと、決意した顔。

 「ルビー。」

  もう一歩、足を踏み出す。
  
  (信じて。)

  一度は裏切られた言葉だった。
  それでも、もう二度と手を振り払われることはない。

  信じるから。

 「何度呼んでも無駄だ。あいつは、目覚めないし応えない。」

  瑪瑙が構えていた剣の切っ先を朔良に突きつける。とてつもない威圧感が彼の体と精神に強烈なまでの圧迫感を与えていた。空気さえ切り裂くような必殺の型を打つべく、足を前に出す。

  瑪瑙の言葉にも朔良の意志に揺らぎはない。

  揺らぐことのない城壁はまだ、いや、城壁ではなく、彼自身がそこに立っている。
  誰にも止めることのできない。
  もしそれを止めることができるとしたら、

  そして瑪瑙が動き出す。
  解き放たれた弾丸のようなスピードで朔良に向かい、剣を振り上げた。
  
  明確な死の予感。

  死に神を背後に連れているような、その一撃。まともに受ければおそらく死んでしまうであろう。それでさえも、彼は動かなかった。

 


  だから、お前も俺を呼んでくれ。
  答えてくれ。

 「ルビー!」

  風が












  急にあたりが静かになった。
  静寂があたりを包み込み、何の音もしない。

  いや、ただ風の音だけが耳をかすめている。

  ……一瞬、目を閉じてしまって朔良の網膜に移るのは瞼の裏の闇だけであった。

  獣たちの咆哮も、乱戦の音も、すべてテレビのスイッチを切ってしまったかのように何の音もしない。
  ただ、風だけが吹いている。

  (俺は……)

  心に思い浮かべながら朔良はゆっくりと目を開けていく。

  (俺は、死んだのかな)

  そんなことを思った。
  だって目の前に金色が見える。

  実った秋の麦の穂の畑のような金の色。さらさらと流れる、その形。

  懐かしいと思った。同時に、その背に漆黒の翼も見えて、そう言えば堕天使は黒い翼だったな、などとそんなどうでも良いことをぼんやりと考えた。
  堕天使には魂を刈り取るものも多いという。
  なら、そこにいる少女も、自分の魂を刈り取りにきたというのか。

  その証拠に、珠洲たちが呆然とこちらを見ている。
  そんな彼女たちの目の前には巨大な刀が地面に突き刺さり、獣を一突きにしていた。

  優華とネスティも同じような表情だった。そして、双振りの日本刀が今まさに襲いかからんとしていた獣を牽制するかのように地面に交錯して突き刺さっている。
  そして自分の目の前には小太刀。

  あの白い世界で名前さえ知らない青年から託されたもの。

 「……馬鹿な。」

  目を見開き、動揺しているのか思わず後ろに下がった瑪瑙の姿もあった。
  彼が後ろに下がると同時に、目の前の少女は掲げていたであろう日本刀をおろす。

  それは、赤い皮を柄に巻いた日本刀。

  『紅』だ。

  そこまで思い当たり、朔良は自分が死んでいないことにようやく思い当たった。
  風が吹いている。
  風が夜と朝の空気を運び、あたり一面に漂っている。

  少女が着ているのは病院用の手術着ではなく、目に鮮やかな白いワンピースだった。
  場違いなまでに真っ白なワンピースは、しかしその身を包む純白の鎧。

  足には何もつけていない。裸足で大地をしっかりと踏みしめている。
  装飾品ひとつ身につけていないようであったが、ただその髪をまとめるために使われている黒いリボンだけが、存在していた。

  遠くタナトスが不敵に笑っているのが見えた。
  リョウが満面の笑みでニィ、と笑っているのもわかった。
  舞鼓が涙をこらえた表情でこちらを見ていて、サラスも驚きで目を瞬かせている。

  そして楓がうれしそうに笑っていた。

  いっそ晴れやかなまでの清々とした微笑み。
  眩しいものでも見ているかのように目を細めている。

 「約束は、」

  誰にともなく呟く。
  それは宣言のようにも思えた。

 「守られたよ。」

  そう、それは『世界』でさえ覆せない、堂々たるだけど小さくて真っ直ぐな、言葉。




 「………奇跡か。」

  瑪瑙が呆然としながらそんなことを口走った。
  それに対して朔良が反論しようと口を開くが、それよりも早く目の前の少女の声が響く。

 「いいえ、奇跡なんていう大層なものじゃないわ。」

  懐かしい声だった。
  もう何年も聞いていないような、そんな錯覚にさえ陥るようなもの。

  だが、それは確かに鼓膜を振るわせて、そこに彼女がいることを示している。

 「あなたが約束を守ってくれたからよ。」

  紅をその手に握り、風が吹く音を耳にしながら少女は笑みを浮かべる。

 「私は何度もあなたとの約束を破ろうとした。騙したことだってあった。嘘をついてばかりだった。」

  澄んだ声音は柔らかく鼓膜をくすぐる。
  少女は、間違いなくそこにいた。

 「でも、あなたは私との約束を守ってくれた。」

  ゆっくりと振り返る。
  赤い、彼女の名前そのものの瞳が、朔良のそれと重なった。

 「誓いも、願いも、祈りも、制約も、決意も……そして約束も、全部、守られてこそ意味がある。」

  朔良がその姿にゆっくりと笑みを浮かべて、見た。
  少女もまた笑みを返して彼を見ている。

 「だから私は此処にいるの。あなたとの約束を、守るために。」

  それは世界に向けて放った言葉のようだった。
  力強くて、誰にも侵すことの許されない聖なるもののような。

  だけどそれは、子供の児戯にも似た簡素で小さな約束。

  そうだ。小さな子供がする、他愛のないもの。

  だが、裏を返せばそれは、真っ直ぐな光の柱のような強さを持っている。
  何の束縛もなく、何の制限もなく、ただ、

  ただ、それだけのこと。



  少女がゆっくりと朔良に向かって手を差し出す。

 「行こう。」

  朔良が満足げにうなずき、その手に自分の手を伸ばす。
  指先が触れあい、手のひらが合わさり、もう一度しっかりと互いの手を掴む。

 「行こう、朔良。」

  今度こそ、一緒に

  言葉にのせなくても伝わった。
  それは遠い日の約束、そのものであったから。

 「ああ。行こう。」

  だから朔良も答えた。

 「一緒に、行くぞ………ルビー。」
 「うん。」

  いつもと同じように。いつもと変わりなく、だがしかし閉ざされていた何かを解き放ち、穿たれた穴を埋めて、二人は立ち上がった。



  ただ、それだけのことであった。

  ただ、繋がれた手だけが、約束は守られたのだと告げていた。






 −Ithaqua に、つづく−