敵【てき】

  
1 戦い・競争・試合の相手。「大国を―に回して戦う」「―の意表をつく」「―をつくりやすい言動」←→ 味方。

2 害を与えるもの。あるものにとってよくないもの。「民衆の―」「社会の―」「ぜいたくは―だ」

3 比較の対象になる相手。「―のほうがもてる」「弁舌にかけては彼の―ではない」

4 遊里で、客と遊女とが互いに相手をさしていう語。相方。おてき。
「―もをかしき奴(やつ)にて」〈浮・一代男・二〉

5 (「的」とも書く。代名詞的に用いて)多少軽蔑して、第三者をさしていう語。やつ。やつら。
「―めもえらい痴呆(へげたれ)めぢゃ」〈滑・浮世風呂・前〉

[用法] 敵(てき)・かたき――自分にとって害をなすもの、滅ぼすべき相手の意では「敵」も「かたき」も相通じて用いられるが、普通は「敵」を使う。「かたき」はやや古風ないい方。
◇「敵」は戦争・競争・試合の相手全般について使う。「敵を負かす」「敵に屈する」「敵が多い」
◇争いなどの相手の意で使う「かたき」は、「恋がたき」「商売がたき」「碁(ご)がたき」のように複合語として用いられることが多い。
◇深い恨みを抱き、滅ぼしたいと思う相手の意では「かたき」を使う。「親のかたきを討つ」「父のかたきを取る」「目のかたきにする」など。
◇類似の語に「あだ」がある。「かたき」と同じように使われ、「あだ(かたき)討ち」などという。ただし「恩をあだで返す」は「かたき」で置き換えられない。



 <以上、大辞泉より抜粋。>











 白銀と黒緑のデュオ〜そう、今回の『敵』は此処に居る。〜











  『前日。(戦争開始まで、あと一日)』

  青年はただ闇の中で立っていた。
  他には何も見あたらない深い深い、深淵の其処。

  そこには何の表情もない。喜怒哀楽といった人の持つ基本的なものは当たり前で、哀れみや恐れといった複雑なものでさえもない。ただ静かに闇の中にその身をゆだねていた。
  彼の持つ黒髪は闇の色に近い。
  
  輪郭が消えているかのようだった。だが、溶けていかないのは彼の持つ緑色に時折煌めく瞳のためだったのかもしれない。

  とあるアジア地方の民族衣装(ズボンにシャツといったものだが、色が統一されている)に身を包み、片手には黒い鞘に収まった日本刀を持っている。
  その日本刀のモチーフは『三日月』と呼ばれる日本刀としては五本の指に入る屈指の名刀だ。
  そしてそれを忠実に、あるいは大胆に『贋作』として作り上げた青年の持つ刀は、『ミトラ』と名を付けられている。

  古代の『契約』を司る神の名。

  契約とは束縛としての一面も持つ。
  結びつき、あるいは繋がり、そして……縛り付けるもの。

  それを手に彼はただ闇を見つめている。

  待っているのかもしれない。
  その『待つ』という行為の相手が、誰かはわからない。
  それを知るのは彼自身でしかなかったし、彼はそれを誰にも言わないであろう。

  胸に秘める。ただ、それだけだ。

  だが、次の瞬間、それは終わりを告げる。
  
  闇の中、唐突に光が差し込んだからだ。
  静かな金属の開閉音とともに、真っ暗な部屋に光が走る。暗闇を蹂躙する、無慈悲なまでの光の速さ。
  拒むことさえ許さない。土足でそれを踏みつけるような行為にも似ている。

  だが暗闇のなかにいた青年は光の強さに瞬きをすることもなく、ゆっくりと『その方』へと視線を流す。

  見ると、『其処』にニヤニヤとした笑みを浮かべた青年が立っていた。
  白銀の髪。
  一瞬、白髪ではないかと見まごうような、見事なまでの白銀。
  
  光に輝くかのようなその色は、だがしかし光を一切受け入れることのない暗い暗い、闇のようなもの。

  瞳は青。しかし濁りきった、光の差すことのない深海の青(ディープブルー)。
  もし見つめられれば一瞬で悪寒が走るであろう。
  わけのわからない寒気に襲われるかもしれない。あるいは、『慣れていない』ものが触れれば神経をそのまま外に抉りだして氷水に浸されたかのような強烈で鮮烈で、そして凄惨な感覚に囚われる。

  その感覚に、いっそ凍死してしまうのではないかという錯覚さえもたらす。
  拒むことを許さない、先ほどの光にも似た何かを与える。

 「よぉ、こんなところで何してんだよぉ、黒緑ん。」

  粘つくような声であった。
  毒蛇というイメージが先行するような、その声。
  
  脳髄を直接舌で嘗め上げられたかのような不快感に襲われる、それ。

  だがそんな男を目の前にしても、部屋のなかにいた青年のほうは何の反応もなく、ただ相手を見返していた。
  たいした精神力だと、褒め称えることもできる。

  しかしそんな彼の様子が面白くないのか、白銀の彼はふん、と鼻を鳴らして部屋のなかへと入っていく。

  カツン、と足音を響かせていく。
  それを見て、『黒縁』と呼ばれた青年がようやく口を開く。
  強く引き結ばれた唇が解け、元来の彼の声が闇と光のなかに響く。

 「お前こそ、何をしにやって来た。『殺人鬼』。」

  強靱な意志によって固められた声だった。
  誰もがその強さを感じることのできる、声。テノールの域であるのに、それよりももっと低い位置の声音でないのかと思われるような力さえ持っているかのような。

  そして『殺人鬼』と呼ばれた青年は楽しげに笑っていた。

  『殺人鬼』、など笑えるようなネーミングではないだろうに、しかし彼は、彼自身でさえその二つ名がぴったりだと思っている。

  自分を現すのならその言葉が一番であるとさえ、考えているのだ。

 「そろそろ来るんだろぉ? リョウとかいうヤツと…もう一人、あいつの言うところの『客人』がよぉ。」

  前者はまだ名前を覚えているだけマシであろう。
  あいつ、と白銀の彼がそれだけ言ったのに対して、青年もまたすぐにそれが誰かを察した。

  他に、この『殺人鬼』に話しかけるような輩など『此処』にはいないからだ。

 「柊優華だ。標的の名前くらい覚えたらどうだ。」
 「俺は弱いヤツには興味ねぇんだよぉ。」

  切り刻んでしまったらそこで終わりだろうと言って、白銀は甲高い声で笑った。
  耳障り極まりない哄笑であったが、青年は顔色ひとつ変えずにそれを聞き流している。

  それを見て面白くなくなったのか唐突に笑うのをやめ、白銀が自分の髪を鬱陶しそうにかきあげる。

 「俺が興味あるのは、リョウってヤツだ。あいつは、強いらしいからなぁ。」

  すぐに死んでしまってはつまらない。
  鳴けばいい。
  叫べばいい。
  存分に抵抗に、嬲られ、なじられ、血を吐き苦しみ藻掻けばいい。

  深海の瞳を心底楽しげに煌めかせ(ただし、闇よりも深いきらめきで)青年は楽しげに言う。

  そして、

 「あとはそう…オリガロットだけだ。」

  そう言って笑うのをやめる。
  だが楽しげであるのには代わりはない。楽しそうに、心底楽しみな様子で白銀はその名を口にする。

 「…あいつが来ると?」
 「来るさぁ。話によると、オリガロットは相当二人に肩入れしてたみたいだしなぁ。」
 
  『囚われた』彼らを救い出しに来るだろう。
  その身一つで、彼らを救い出すために姿を現すであろう。

  人とはそういうもの。

  なんて、愚か。

 「オリガロットの秘蔵っ子。あるいは稀代の天才と詠われた『翡翠』が育て上げた最高傑作。
  『この道』じゃあ、お前もある程度有名だが、オリガロットは数段上をいってんだぜぇ?」

  白銀はそう言って『うっとり』と目を細める。
  楽しみで仕方ないといった風に。まるで恋する童女のように、幼い恋心を抱くかのように『うっとり』としている。

  だが、それは純粋なものではない。

  純粋かもしれない。

 「早く殺し愛てぇ。」

  無垢なものかもしれない。
 
 「切り刻んでぇ、犯して、啼かして。」

  だが、それは悪に染まりきった歪曲極まりない思いであった。

 「斬り落としてやりたいなぁ。」

  そして男は高らかに笑った。
  部屋に響き渡る声で、高らかに、狂いながら笑っていた。

  それを聞きながらも、青年は微動だにしない。
  ゆっくりと視線を流し、光の先へと意識を遠ざける。







  光のなか、遠い昔の『彼女』がこちらを見ているような気がして、彼は密やかに目を細める。







  哄笑は続いている。
  狂ったように(いや、元々狂っているのだ)笑い続ける相手になど微塵も意識を傾けず、彼はただ遠い昔の『記憶』に意識を傾けていた。

  (………お前、は。)

  そしてその虚像に彼は語りかける。
  だが答えは返ってこない。返ってはこないとわかっているからこその問いなのかもしれない。

  (お前は、もう、わかっているんだろう)

  何も答えない。
  そう、何も。何一つとして返ってこないそれ。

  しかし、だから、彼の思いもまた歪んでいく。
  それは真実の姿ではないから、彼の都合のいいように歪んでいびつになってしまう。

  (……俺はお前を、)

  その歪んだ思いに、捕らわれてしまう。
  他に何も考えられなくなって、何も思うことができなくなってしまうのだ。

  (お前を、)








 「取り戻す。」







  その根底にある、たったひとつの思いでさえ、忘れ去ってしまって。




  戦争は、そうして始まるのかもしれないのだけど。




−招待状 に、つづく−