それから、随分と長い間泣いてしまっていたと思う。
  涙はこぼれて、嗚咽は止まらなくて、いつまでも泣いてしまいたくなって。

  子どものように、泣いてしまうだなんて、なんて失態。

  でも、それでも背中を撫でる手も抱きしめる両腕も、解けることはなかった。
  それが嬉しくて、また堪らず泣いてしまったのだけど、でも嬉しかった。

  ようやく、繋がったような気がした。

  かみ合っていなかった『何かが』、かちり、と音をたててはめ込まれたような気がして、ようやく埋められたようなそんな感じが。

  涙が止まったとき、顔を上げれば「ひどい顔だな」と笑われた。
  いつのまにか少しだけ体は離されていて、朔良に顔をのぞき込まれていて、泣いて腫れてしまったそれを見られ、ルビーはかすかにむくれた。

  それでも優しい笑みに救われる。

  暖かな手も、確かに側にあって、嬉しいと思える。
  繋いだ手をそのままにして、二人してその場に座っていた。

  ぼう、と
  雪の景色を眺め、白い景色のなか、言葉もなくそこにいる。
  抱きしめられたまま、朔良に背を預けてルビーは彼の人の腕のなかにいた。

  抱き込まれた体は寒さなど感じなかった。

  ただ、しあわせだと、思った。










  蒼穹の空 〜あの空へ帰ろう。あの場所へ戻ろう。君が君で在る限り、其処は君を裏切ったりしない。〜









 『回線安定。空間軸、歪み誤差ともに0.1パーセント以下。』
 『予測許容範囲内です。』
 「了解。もうちょっとだけ頑張ってくれよ、みんな。」

  はい、と複数の声が同時に答え、それきり返事はなかった。
  それを見上げるようにして聞きながら、タナトスはモニター越しに部屋の中央にいる『彼ら』を見る。

  足下には複雑に組まれた魔法陣。
  光……いや、実際には光というよりも魔法が放つ発光現象なのかもしれないが…が、溢れ出し、色鮮やかなものを放っている。
  手を合わせたまま、微動だにしない。
  
  目を閉じ(片方はヘッドギアのせいでわからないが)集中している様子がつぶさに見て取れた。

  それだけ確認し、白衣の右ポケットに手を入れ、中から銀時計を取り出す。
  懐中時計の蓋を開け、時間を見てタナトスは小さく舌打ちをする。

 「……少し遅れてるな……ナビゲーターの様子は?」
 『身体的なものですか? それとも、精神的な?』
 「両方だよ。」

  それからまた沈黙が降りる。
  確認作業に入っているのだろうが、それもたった数秒の沈黙だった。

 『身体的ダメージのほうはありません。ただ、精神汚染フラグが……』
 「………あまり、芳しくないんだね。わかった。」

  そこでタナトスはふぅ、と小さく息を吐いて自分の髪をかき上げる。
  その下には、いつも浮かべるべき笑みはなく、ただ思いを巡らせる真剣な表情が現れている。

  それだけ見れば、彼がリョウよりも年上だという事実を実感できるのかもしれない。
  少なくとも、リョウや珠洲よりもよほど落ち着いた『大人』という雰囲気を見せている。
  自分の感情を抑えるべき場所を心得ている、顔だ。

  (……ダイバーはナビゲーターに『守られて』いると言ってもいい。精神汚染が彼のところまで『届いて』いないのが良い証拠だ。)

  思案し、そしてモニターのなかの彼女を見る。
  よく見れば遠目からでも、汗を流しているのが見て取れた。

  (汚染の波をすべて遮断したか…『助言者』も、おそらく彼女の意志を察して現れたのかな……まったく、無茶をする。)

  彼は、<世界>に起きたすべてのことを読み取っていた。
  画面にデタラメに走る記号……無数に、そして無作為に流れていると思われるそれは、<世界>のなかの様子を如実に現している。
  ただ、これを読み取れと言われて簡単に読み取れる人物は、『これ』を作り出した彼を除いても一握りの人間だけだろう。

  自嘲的に……いや、どこか嘲笑するかのように、けれど仕方なさそうな苦笑を浮かべて、タナトスは口を開く。

 「君の一族は揃いも揃って無茶ばかりしたがる家系らしいね……珠洲たちの苦労が忍ばれるよ。」

  すでに部屋の外に放り出した(邪魔だったから)リョウへと向けて皮肉めいた言葉をのせた。
  聞いていたら『お前の相手のほうが苦労するは!!』と言って怒るであろうが、彼はここにはいない。

 「…だから放っておけないんだろうけど。僕も損な性分だな。」

  言葉とは裏腹に、タナトスは笑う。
  今度は楽しげな笑みを浮かべていた。

  その時、

  タナトスのいる部屋に、警告音が鳴り響いた。










  



  一方、<白い世界>。

  視界を塞いでいた吹雪は収まり、世界は平穏を取り戻していた。
  光にキラキラと反射し、輝く様は宝石のようだ。

  世界は、今、平穏だった。

  ……思えば、心にはいつでも『嵐』が吹き荒れていた、とぽつりとルビーは思った。
  自分の心の『世界』たる風景を目の前にしながらぼんやりと。

  さら、と流れてきた風に金糸が舞う。
  光は降り注ぎ、雪はそれを反射して光り輝いている。
  
  そういえば、太陽に照らされて月もまた光り輝いているのだとユカから聞いたことがあった、と思い出す。

  そんなことを思いながら、どうしてこんなに穏やかなのだろうか、と。
  風の声を聞き、靡く自分の髪を見ながら、思う。
  前は、もっと、いつもいつも、心は掻き乱れて、嵐が巻き起こっているかのようで。

  でも、今はこんなにも穏やかな気持ちで。

  (……きっと、今でも私の心には、嵐がある…)

  ぽつりと心の声をこぼし、だけど、とそっと目を閉じる。
  目を閉じれば、聞こえてくるのは風の音だけではなくて、優しい、心臓の音。
  生きて、側にあるという、実感。

  (…だけど……それだけじゃなくて、あの日の)

  瞼の裏に思い描くのは、あの日の蒼穹。
  目の眩むような、パーフェクトブルー<完全なる青>。

  (あの日の、空と海も、私のなかにあるんだ。)

  だからこんなに穏やかな気持ちでいられるのだと思い、閉じていた瞼を開けた。
  ごそ、と思わず体を動かすと、上の方から『どうした?』という声が降り注ぐ。

  風がさらさらと揺れる音。
  雪が、細かな粒子となって風に流されていく、音。

  彼がいつか言っていた、溶けるような夕暮れは、見たことがないし、きっと『ここ』にもないのだけれど。
  そして、それが彼の大切なものであるから、見てみたいとも思わないのだけど。
  いつか、この世界が、あの青で埋め尽くされたものも見せてくれるというのなら、見せてあげたいと思う。

  ゆっくりと顔を上げ、首を完全に上にして見れば、朔良もまた下を向いてルビーのほうを見ていた。

  いつもの、優しい顔だ。

 「……なんでも、ない…よ。」
 「そうか。何か変わったことがあれば言えよ?」
 「うん。今は、平気。」

  見れば彼の人の黒髪も、さら、と風に揺れている。
  漆黒とは言わない、赤茶色がかった瞳。

  それを見上げながら、ルビーもまた優しく笑う。
  あの学院に行けたことで一番変わったのは表情だと、思う。あの、幸福な光に満ちあふれた箱庭で手に入れることのできたもの。
  
 「……ただ、ね。」
 「ああ。」
 「…あの、蒼穹が…見たい、なって…思っただけ。」

  もう一度。
  だけどもう構わないとも思う。あの日の、あの空は、あの『瞬間』でしか目に映るものではなく、今行ったところで『同じ』ものなど映るはずもないと思うから。

  世界に、不変などありはしない。
  いつまでも変わらずにいるものなど、存在しない。
  破滅と再生。
  増加と減少。
  そんな、相反するものを抱えて、世界は移ろいでいく。

  人も同じだ。
  昨日までの『自分』が、今日の『自分』と同じとは限らない。

 「………ここも、あの日のものと同じくらい…いや、比べようもないんだけどな……凄いと思う。」

  寒いのが難点だけどな、と顔をくしゃ、とさせて言いながら苦笑をもらす。

 「境目がわからない…境界はなくて、どこまでも続く白い、色……俺が、場違いなように思うくらいだ。」
 「……永久の、白。」
 「とこしえか…そうかもしれないな。」

  そしてしばらく口を閉じた。
  声も、言葉もなく互いが見つめ合って、それからやはり笑みをこぼしていた。

 「お前の見せてくれるものは、いつも、俺の予想を上回る。」

  風が、

  攫うように吹き、朔良の額にかかった前髪を流す。
  優しい色をたたえた瞳。色。目。口、口元、鼻や、鼻筋。
  どれもこれもルビーがいつも『大好き』だった、と口にしていた、彼を形作るパーツだった。

  風が、吹く。

  格好いいと、いつも言っていた。
  それは本心だったし、世辞なんか一言だって口にしたことはない。
  彼のすべてに、焦がれていた。

  (だけど、私は。)

  そのとき、唐突にルビーは気づいた。
  自分は彼のいったい何を、見ていたというのだろうか、と。

  潔いほどの、綺麗なもの。
  格好いいなどと、そんなことを平気で口にしていた自分が愚かだったと思う。
  
  今、自覚した。

  たった今、思い知った。
  今まで、そんなことを考える余裕なんてなかった。心はいつでも嵐で、それを抑えるのに精一杯で気づくことができなかった。

  こんなに綺麗な人を、私は他に知らない。

  きれい、なんてそんな陳腐な言葉でしか表すことのできない自分の表現力にさえ嫌気がさしてしまいそう。
  でも、そう、彼は。

  (なんて、綺麗なんだろう)

  決意を胸に秘めた強さ。城壁たる彼の覚悟。心根、今までの経験すべてが、今の彼を形作っているというのなら、私は、なんて馬鹿な真似をしたのだろうかと、ルビーは今更ながらに思った。

  とても、
  とても、とても、
  きれいな、ひとだ。

  そう思って顔中が熱くなるのを感じて、ルビーは顔を伏せた。
  膝を立て、そこに顔を埋めるようにして預ける。

  ああ、今、自分はきっとひどい顔をしている、と感じた。

  どうして平気でいられたんだろう。
  
 「……ルビー?」

  どうして、平気な顔をして朔良の側にいられたのだろう。
  平気な顔で、『戦友』になるなどと、口に出来たのだろう。

 「ルビー、どうした?」

  どうしていいのかわからない。
  思考回路は追いつかなくて、感情が自分でもどうにもできない。
  心が、壊れて、しまいそう。

  ……別の意味で、そうだ。痛みで壊れてしまうのではない。そんなもので、今更、壊れたりしない。

  恥ずかしさで、心臓が止まりそうになる。
  どうしよう。
  顔を上げなくては、どうにかして言葉を。だって今、自分の名前を呼んでいるのは、彼でしかなくって、なんだか心配そうに呼ばれている。

  だから返事をしなくちゃ、返事を。
  
  何でも、いいから。

 「…………耳まで真っ赤。」

  ぼそりと、耳元で言われて驚きと疑問で、ルビーはゆるゆると顔を上げようやく、後ろを振り返る。
  朔良は、おかしそうに笑っていた。

 「どうした? 今更、恥ずかしがるようなものでもないだろう。」

  その瞬間。
  何もかも見透かされたような一言に(いや、きっと他意などないのだろうし、いつもいつも好んで抱きついていたのは自分のほうだったし)何やら頭のなかで長々と言い訳をしながらも、恥ずかしいやら悔しいやらで、ルビーはキッと朔良を睨んだ。

  ただし、いつもの威力(少なくとも常人を動けなくさせるような眼力など)はないのは自分でもわかっていた。
  でも、それでも、悔しくてたまらない。
  
 「わ……笑わなくても、いいでしょ…っ!」
 「いや、ごめん。」

  そう言いながらも咽の奥で笑い声を上げ続けている様子に、ルビーが今度は怒りと開き直りで、ぼふっと朔良の胸に顔を埋めるようにして抱きついた。
  腕を背中にまわしてぎゅぅ、と力を込める。
  
 「拗ねるな。」
 「拗ねてない、もん。」
 「その言いぶりからして拗ねてるな。」

  悪かった、と言いながらも楽しそうな声音は消えない。
  
  心は、
  穏やかになって、堰き止めるものがなにもなくなって、
  感情が、溢れ出してくるようで、

  鍵は、開けられているから。

  鍵は、もう、必要ないから。

 「………さくらのおたんこなす。」
 「……お前な。つっかえずに言えた最初の一言がそれだと、流石に俺も悲しいものがあるんだぞ。」

  世界はもう、解き放たれている。











 「これは……侵入者!?」

  警告音のパターンを認識し、タナトスは急いで部屋のなかにあった画面へと走る。
  側に置かれていたキーボードに何事かを打ち込むと、一瞬で乱雑に組まれた記号が入れ替わり、状況が文章となって映し出される。

 「………侵入者はすでに……A地点を突破。対応に出た何名かが負傷……侵入発覚から現在までの移動…………っ!!」

  そして的確に状況を掴んだタナトスの顔に驚きのものが浮かぶ。
  普段の彼ならば滅多に見せないものだ。

  それほど、現在の『状況』は切迫している。

 「移動が早すぎる……それに、このルート…最初から、目的は決まって……?」

  続いて画面にこの建物の全体図を映し出す、ルートを当てはめ、それから先のほうへと指を撫でる。

  侵入者の『向かう先』の構図を見て、タナトスは目を見開いた。

 「まさか、狙いはルビーか!!」

  ルートは真っ直ぐ、そしてタナトスが調べている今でさえ動き続けている。
  その先に、ルビーが『眠っている』部屋が、あった。

  急いでタナトスはスピーカーの電源を入れ、大声を張り上げる。

 「患者の確保を優先させろ! 狙いはおそらく……昏睡状態の、ルビーだ!!」

  無機質な警告音は、未だ鳴り響いていた。











  さくさく、と雪を踏みしめて進んでいく。
  風は頬を撫でる程度のものではあったが、雪は相変わらず世界を覆い尽くすようにしてそこに存在していた。

  あれから、いつものように仲直りをして(まあ口喧嘩もあまりしたことはなかったのだが)、二人はどちらともなく立ち上がり、手を繋いで歩き出した。
  
 「……確か、こっちだったと思うんだが…」
 「ユカ、ほんとに、いるの?」
 「そうだと思う。なんとなく……だけどな。」

  ダイバーとナビゲーターは『繋がって』いるはずだから、なんとなくでも目指すところは決まっている。
  目覚めるべき、ところ。

  扉を。

  外へと戻るための、扉。
  そこに優華が待っているはずで、彼女も帰ってくるときはそこを目指せと言っていた。

 「繋がっているから、なんとなくわかるとは言っていたが…どうも、自信がない。」

  それでも、帰らなければいけない。
  約束をしたから。必ず連れて戻ってくると、『約束』を交わしたから。

  そしてそれが、交換条件でもある。

 「……お前を、治すと。」

  ぽつぽつと、朔良が呟くようにして言葉を紡ぐ。
  それをルビーも耳にして、不思議そうに顔を上げて、彼の人を振り仰ぐ。

 「お前を治すかわりに、俺がお前を連れて帰ってくれ、って言われたんだ。」

  交換条件。
  それを聞いたルビーの体にかすかな緊張が走る。
  少しだけ悲しそうな顔をしていた。だが、それを見ないふりで、朔良はただ前を見る。

 「言われなくても、お前に会うつもりだったけどな。」

  無理矢理に離されてしまった手。
  繋いでいた手を、『嘘』で離してしまった自分。
  後悔しないためにも、もう二度と離れることがないように。今度こそ、たとえ遠く離れようとも『繋がって』いるために。

 「……そう。」
 「ああ、そうだ。」
 「…ありがとう。」
 「ああ。」

  目を閉じたまま、耳を塞いだままでいれば確かにもう二度と痛みはないのかもしれない。
  でも、一緒にいたかった。
  だた、それだけだった。

  だから感謝している(それでも、ひどいことをしたし、言ってしまったのだけど)。今、ここにいられることを、感謝する。

 「…朔良。」

  もう一度、名前を呼んで。
  振り返って、笑う姿が見たかった。笑顔が大好きだった。貴方が誇ってくれるものになりたかった。

  だから、もう。

 「…大好きよ。」

  だからもう、二度とこの腕を振り払うようなマネはしない。
  傷つき倒れ、目覚めなくなるような無様な醜態をさらしたりはしない。

  あえて、あのときの別れの言葉を。
  
  だけどこれは、誓いと約束と……そして、今の気持ちの、

 「朔良のかっこいいところがすき。」
  
  気持ちの、ほんの一欠片を。

 「あなたが……すごくきれいで、すき。」

  言葉に乗せる。
  伝わってほしいと思う。だから言葉を紡ぐ。

 「あなたのほこれる、ものになりたい。」

  そう、戦友でよかったと言ってくれる者になりたい。胸を張って、誇ってくれるような、そんなものになりたい。

 「やさしくしてほしい。あまえたい。すかれたい。」

  ただのほんの戯れ言だと受け取ってくれても構わない。
  だって、これは誓いだから。

 「やさしくなりたい。あまやかしたい。きれいに、なりたい。」

  手を差し伸べて思う。
  
 「つよくなりたい。あなたのこころのいたみがなくなるくらい。あなたをきずつけるすべてを、とめれるくらいに。」

  誓いではなくて、これはただの欲望や羨望や、願望にも似たものなのだけど。
  それでも、迷いはないから。

 「…だいじなひとたちのえがおを、まもれるくらいに。」

  総てじゃなくて。
  だって私は、『人間』だからすべてを守り通せるなんて、そんな浅はかなことを口にはできない。
  でも、せめて大切な人たちだけは、それだけでも守れるように。

  その笑顔で、私は救われる。

 「……………」

  そのまま、言葉もなく繋いだ手を離すこともなく、互いを見つめ合っていた。
  驚いたような朔良の表情を見ながら、ルビーはただ彼を見る。

  微笑みもなく、けれど感情がないわけではなく。ただ、彼を見つめる。





  名前を、呼ばれて。




  そこで世界が、砕けた。

 「……っ!!!」
 「なっ!?」

  驚き、まわりを見ると世界が音もなく、だが凄まじいスピードで崩れ去っていくのが見えた。
  バラバラと崩れる音が聞こえてきそうなのに、音はなく、色もなく、<世界>は崩れていく。

  たまらず、朔良はルビーの手を取って駆け出した。
  
 「朔良っ!!」

  名前を呼ばれたが彼は返事はできなかった。
  ただ、走らなければと思った。走って、逃げなければ、と思った。

  この<世界>は彼女のもの。

  世界が崩れ去るということは、彼女が、

  ルビーが。

 「……ぅっそ! 優華さんっ!!」

  走りながら、朔良が天に向かって声を上げる。
  ナビゲーターたる彼女の支援がなければ、ここから抜け出すことができないからだ。

  駆け出し、逃げながら、それでも崩れていく速さのほうが上だった。

 「優華さんっ! 聞こえないのか、優華さん!!」

  早くここから抜け出さなくては。
  早く、一刻も早く、ここから。そうしなれば、彼女が、崩れていくような気がして。

  繋いだ手に力を込める。確かな暖かさがそこにはある。

  これを無くすような無様な真似は、できない。
  それだけはどうしても許せない。

 「優華さんっ!!」

  もう一度叫ぶ。
  そのとき、ルビーの手が朔良を引っ張った。
  反動で思わず立ち止まってしまった朔良だったが、すぐに背後の光景(崩れゆく景色)を見てもう一度駆け出そうと、する。

 「…だいじょうぶ。」

  だが、それをルビーが止めた。
  手を握り、笑顔を向けて、それだけで朔良を止める。

  そこには恐怖の色はない。ただ穏やかな色を浮かべている。

 「だいじょうぶよ、朔良。」

  彼女本来の、眩いまでの彼女の『光』が。

 「私は、もう平気。だって、もう、『つかまる』理由がないもの。」
 「……ルビー。」
 「朔良。約束、覚えてる?」

  約束、と朔良が呟いた。
  そう約束、とルビーが言う。

 「『帰った』ら……私を呼んで? 私は、あなたが呼べば、あなたが…私を『求めた』ら、きっとそこへ行くわ。」

  それは春先にした約束のひとつ。
  世界中のどこにいても、たとえどんな状況であろうとも、風に愛された娘たる彼女は彼のところへ行くという。

  他愛のない、そしてなんて大きな約束。

 「私の名前を、呼んで。口にして。そうすれば、たとえ百万の敵を相手にしたところだって……」

  顔を上げ、力強く煌めく瞳。
  生来の彼女の強さが、そこには確かに存在していた。






 「私は、あなたを助けに行くわ。」






  それは小さな、そしてとてつもなく大きな約束。
  違える気などなく、そして反故にするようなものもなく、彼女は言い切った。

  驚きで目を見開いていた朔良が、やがて困ったように表情を歪ませて、

 「…ずるいな。」

  そして、苦笑を浮かべる。仕方なさそうに、どこか悔しそうなものも混ぜて。

 「お前は、ずるいな。決定権を俺にゆだねるのか。」
 
  それを聞いたルビーは何も言わずに笑って見せた。
  困ったように小首を傾げて浮かべる。本当に、いつもの、彼女のもの。

  朔良がゆっくりと手を離す。
  ルビーもまたゆっくりと絡めていた指を外していった。

  離れる瞬間、朔良がルビーを見る。
  外れる瞬間、ルビーが朔良を見つめた。

 「約束。」
 「ああ、約束だ。」

  そうして二人の手が離れた、とき。
  朔良の意識が突然、白く消されていく。目眩にも似た感覚だった。突如として五感を奪われていくような気分だった。

  それでも、声が

 「私を呼んで。」

  声だけが、耳の奥に残る。

 「大丈夫。」

  目を閉じても視界を埋め尽くすのは白い色。

 「信じて。必ず私は、あなたの声に応えるから。」

  だから  と、彼女の声が聞こえてきたのに、すでに聴覚でさえ奪われていっていた。
  そして彼女の姿だけがに残った。

  その彼女は笑っていた。
  いつもより優しい笑顔で。慈しむような、あたたかな顔で笑っていた。



  そこで意識は途絶えた。














  同時刻。
  とある病室のなかで、男は少女を抱き上げていた。

  少女の細い腕や体に繋げられた針を一本、一本と取り外し、汚らしいものでも扱うかのようにそれらを床に投げ捨てる。

  針の先端が床に当たって、高く小さな金属音を発したが、そんな小さなことに男は気に掛ける様子もなかった。
  抱き上げた少女の顔を見、そして息をしている様子を確認して、小さく息を吐く。
  安心したかのような動作だったが、表情は変わらない。

  月を背に、男は伏せていた顔を上げた。

  光によって暗く、緑色に輝く瞳がここではないどこかを見ていた。

 「…やはり、お前をあそこに置いておくべきではなかった。」

  硬質的な声。感情を押さえ込んだ、低く響く声だ。
  抱き上げた少女の肩の指先に力を込める。

  苛立ちや怒りにも似た仕草。

 「もっと早く、お前を連れて帰ってやればよかった。」

  だが瞳は悲しみを含んでいるかのような、もの。
  力強さはある。生来のものであろうそれは、確かに瞳に存在していた。

  けれど悲しげに揺れる瞳を、少女に向けている。

 「こんなことになるのなら、お前を奪い取ってでも、連れて帰れば良かった。」

  眠る少女にそれが聞こえるはずはない。
  無論、ここにいるのは男以外に誰もいないから、誰も聞くことはない。

 「紅涙……お前を、外に出すべきではなかった。」

  男はそう言ってゆっくりと部屋を横切っていく。
  腕に抱かれた少女は目覚めることはなく、そして男を止める者もいない。





  男の名は、瑪瑙・シラカシ・オリガロット。

  



  瑪瑙は歩みを止めることなく、宵闇に包まれた廊下を歩いていく。
  ただ靴音だけが無人の廊下に響いていっていた。










  さぁ、諸君。
  戦争の、『最終決戦』の幕開けだ。




  『七日目(最終日)(最終決戦、開幕−!!)』





 〜ただ、暁は金色にして、赤き太陽が昇る前のこと に、つづく〜