その時。

  ターコイズは眼前に『出現』した彼女を見て、心の底から歓喜の声を上げたい気分になっていた。
  ありとあらゆる激しい感情が彼の心を満たす。

  そう、満たされ、喜びで彼は笑む。
  たとえそれは狂喜の笑みであろうとも、その本質の子どもの純粋無垢な、無邪気な笑顔と何ら変わりはない。
  嬉しいから笑う。
  そう、彼は純粋に、無垢に、無邪気に、『狂い』ながら笑う。

  満たされる、と。

  今度こそ力によって満たされる、とターコイズは笑った。
  彼にとって戦いは己の心を満たす術に過ぎない。

  愛によって人の心が満たされるように、
  喜びによって人の心が騒ぐように、
  優しさによって人の心が温もるように、

  彼は戦いで己の心を満たす。

  殺合はその術でしかない。
  殺し合いこそが、彼を満たす絶対的な快楽。

  それを今、今までにないほどの圧倒さで満たそうとする者が、いる。

 「……やはりお前かぁ!」
  
  その名は、ルビー・クヌギ・オリガロット。

  赤き瞳の少女を、ターコイズはこの時、心の底から『愛おしい』んだ。
  殺したいほど深く、強く、壮絶に凄絶に、愛し尽くす。

 「オリガロットぉ!!」

  ターコイズが、飛ぶ。
  そして『彼女』が、








  レクイエム〜「誰にもわけてなんてあげないの。誰にもあげないの。これは私だけのものよ。」〜








  彼女はゆっくりと口を開いた。
  無表情のまま、何の感情も浮かばせることなく、ただ機械のように言葉を紡ぐ。

 『さぁ 踊り 歌え』

  一歩、足を踏み出し、腕を広げる。
  童女のように、けれどその実何もない人形のように。

 『我は紡ぎ手 我の言葉は幾千の閃き 幾億の涙』

  風が止んだ平原に、その声は鮮明に響く。
  世界が、その声に耳を澄ませているような錯覚にさえ陥るかのようだ。

 『御伽噺の剣の丘 
  斬り落とされた英霊の 無惨に殺された兵士達の
  戦いに敗れた者たちの血と 涙と 折られた剣で作られた丘に 我は立つ』

  唄は力。
  言霊は『呪』。
  舞い踊るようかのように彼女は舞を紡ぐ。

 『幾千の剣 幾千の弓 幾千の槍 幾千の盾 幾千の鎧
  されど我は希う(こいねがう)
  我は剣
  我は剣を振るう劔たるもの』

  丘が一瞬、鳴動する。
  彼女の声に答えるように、彼女の舞に恐れるように。

 『我の為に今一度集え
  我の力に今一度成れ
  我のすべてと 今一度溶け合え』

  唄い、詠い、舞、舞いながら、彼女の足下が光り輝いていく。
  彼女ではなく、そう。
  踊る先。足をつけたところから、光が、溢れている。

 『其の切実たる叫び 其の空虚な願い 其の甘美な絶望
  総てを我が紡ごう』

  唐突に舞が止まる。
  彼女が交差させた腕をゆっくりと掲げ、天に伸ばす。

  天に青さを、憎むように。
  妬むように。
  祈るように。
  願うように。

 『埋葬と復活 現実と理想 絶望と希望』

  そして、

 『幾億の夜と 幾億の朝と すべての命の巡りに誓って』

  それは、発動する。




 『完成せよ……… 『三千世界』』





  少女の唇から最後に言葉が漏れ出た。  
  それは、完成された『言霊』。
  この世界に、自分のなかの魔法を出現させる、発動されし呪文。

  彼女が唇を引き結んだ、その瞬間。

  丘の上に剣が、出現する。
  目前に突き刺さる一振りの刃。だが、それだけではなかった。それだけでは終わらなかった。
  それを合図とするかのように次々と。
  
  本当に次々と『剣』が姿を現し、丘の至る所に突き刺さっていく。

  日本刀もあった。西洋で使われるものもあった。
  フランベルジュ、シミター、クルナタ、クレイモア、ツヴァイハンダー、バスタードソード、クルセイダーズソード、グラディウス……有名なものを上げるだけでも、それだけのものが体現し、ありとあらゆる場所に突き刺さっていた。

  まさに剣の丘。

  その中心に立つ少女の目の前には、彼女の『剣』が、あった。
  主人に対する忠実なる僕のごとく。

  『自分を使え』と言わんばかりに、そこに存在していた。

  少女が……『オリガロット』がゆっくりと手を伸ばす。
  それを見たターコイズもまた、体を落とした。構え、そして待つ。
  息さえも詰まるほどの静寂だった。

  オリガロットが、『斉藤 一』の柄を取った。
  ターコイズが、マンイーターの刃を翻す。

  両者は一斉に動いた。

  『斉藤 一』を突き刺さっているとは思えない動作で地面から抜き放ち、オリガロットが疾駆する。
  刃を翻し、ターコイズの体を両断しようと襲いかかった。

  迷いなど、微塵もない一閃。
  
  ただ相手を『両断』するためだけに、掛け値なしの本来のスピードでオリガロットの剣が唸りを上げた。
  だが、ターコイズもそれを見逃すはずも、そして受けるつもりもなくマンイーターの刃で、それを受け流した。

  巨大な大刀と、マンイーターとの大きさは比ではない。
  『斉藤 一』を日本刀とするなら、マンイーターは包丁ほどの大きさしかないのだ。
  しかし、マンイーターは折れもしなければ刃こぼれひとつしなかった。

  その攻撃を受け流し、受け止め、ターコイズはさらにもう片方の手に持っていた歪曲刀を少女の体に突き刺そうと手を動かす。

  オリガロットはそれに気づいた。
  しかし視線など流さない。顔も動かさず、ターコイズの瞳を見つめたまま、男の攻撃が自分に襲いかかる前に刀を弾いて、その反動を使って後方に逃れる。
  
  ターコイズがさらにもう一撃改めて加えようと動いた。

  彼女は、それを、許さない。

 「……っ!!?」

  オリガロットのほうを見たターコイズの目に飛び込んできたのは弓を引いている彼女の姿だった。
  剣を消し、変わりに弓を持ってターコイズを狙っている。

  舌打ちをして刃を構えるのと、彼女の手から弓の弦が放たれたのは、ほぼ同時。

  襲いかかってきた『風の刃』にも似た矢を刃で弾く。
  それは風の力を使った魔法だ。しかも短時間で練り込まれた、もの。
  よく見てみれば夥しい数の剣の中に、別のものも混じっていた。

  長刀。
  堰月刀。
  槍。
  弓。
  
  とにかく古今東西の、ありとあらゆる武器が、そこに並んで突き刺さっていた。
  そしてそれを迷うことなく手に持ち、彼女の手の中で、それらは本来の力を発揮する。

  弓を『投げ捨てた』オリガロットは次に手近にあった槍の柄を握った。
  
  地を駆け抜けながらターコイズに向かって一気に振りかぶり、横凪に切る。
  それを防御されるのがわかっていたのか、その刃が襲いかかる前に、ルビーは『消した』。

  槍を消し、防御の動作を取っていたターコイズとの間合いを一瞬で詰めたのだ。

  互いの息がかかるほど近くに、居る。
  一瞬の交錯だった。
  そして永遠とも言える、絶対的な距離。

  オリガロットは何の躊躇いもなく、ターコイズの肩にナイフを突き立てた。
  ぐじゅり、と肉を裂き、血を溢れ出させる音が響く。

  ナイフを出現させたそれさえ、ターコイズには知覚できなかった。

  本当に一瞬。
  瞬きも追いつかない、永遠の『瞬間』。そんな途方もない速さで、彼女は構成を編み上げたのだ。

  結界で取り囲まれているはず。
  そう、この場はあの加藤という逝かれた男の命令によって、総ての属性の呪文を封じる反発結界魔法を取り囲んでいるのだ。
  発動させている側には多少の制限はあるものの魔法の行使は可能だ。
  しかし、そうでない側は、魔法の一切を封じ込められてしまう。

  いくら構成を見破り、結界の穴をかいくぐって魔法を使っても普段通りというわけにはいかない。

  だが、オリガロットは違う。
  彼女は、『そんなもの』を平然と乗り越えて魔法を使っているのだ。
  結界の、結界。つまり、結界のなかに『新たに』結界を作り上げていると思えばいいのか(原理は理解できないが)。

  とにかく、少なくともこの丘のすべてを、彼女の魔法が支配しているのだ。

  自由に武器を取り出せる場。
  それを可能な限り自由に使ってみせる技量。
  恐ろしいほどの正確無比の、技とスピード。

  ターコイズなど、足下にさえ及ばない。

 「このぉぉぉ!!!」

  苛立ちにも似た叫び声を上げながらターコイズがオリガロットへ向かって斬撃をくり返す。
  それらもやはり常人なら一撃で急所を貫かれる攻撃だった。

  しかしオリガロットは、それをすべて受け流す。

  新たに手にした剣で攻撃を受け、流し、あるいは相殺し、そして自分の攻撃へと転じる。

  今や完全にオリガロットのペースに飲まれていた。
  ターコイズもまた、息を荒くして彼女に突進する。
  
  ここで彼は失念していた。
  先ほどの肩への攻撃によってかもしれない。あるいは、『彼女』を目の前にしていたからかもしれない。
  
  そのどちらでもない、もっと別の要素があったのかもしれない。
  
  もう遅い。

  ターコイズは失念していた。
  もし熟練した武道家であるのなら、ここで彼女に近づきはしなかっただろう。
  本能で、悟っていたことだろう。

  『迂闊』に動いてはいけない。

  ただ、それだけの基本的なことを。

  それを見たオリガロットは瞬時に動いた。
  剣を持ち替え、変わりに出現した『山南敬助』を構えて、動く。
  突っ込んできたターコイズに向かって、流すように打ち鳴らしていく。

  刃を振り下ろす。
  振り上げる。
  横に切り、下へと貫き、あるいは四肢へと細かく突く。

  ターコイズの体は、一秒ほどの間に鮮血に染まりきっていた。

  痛みで呻きながらもオリガロットから距離を取り、そのまま身構えて振り返る。
  オリガロットは先ほどの場所で立っていた。
  
  その姿はゾッとするほど冷たく、そして一部の隙もない。
  
  瞳には光はない。
  理性の、欠片とて見られない。
  
  ただ『向かってくる』相手を攻撃しているのだ。本能のままに、そう、『自分を攻撃するものを殺そう』とする本能のままに。
  
  自らを傷つけるものを許しもせず、その身に刻まれた『ちから』を使って、行っているのだろう。
  人は思考する生き物で、技はその思考が生み出すものとよく似ている。

  だが、思考するよりも『体』に刻み込まれた、魂に築かれた経験でもって行動することもある。

  その場合は非常に厄介と言ってもいいだろう。

  手加減が、ない。
  人殺しを躊躇う素振りさえもない。

  迷いのない『殺意』の衝動は、凄まじいものだ。
  それをターコイズ自身がよくわかっている。
  彼の『殺意』には迷いがない。殺す気でかかっているのだから当たり前だ。

  しかし、オリガロットにはそんな『気持ち』などという生やさしいものは存在さえしていない。

  まさに本能のままに動いているのだ。
  その身に刻み込まれた技、力、経験……そんなものを惜しげもなく発揮している。
  そして、迷いもない。当たり前だ。本能の前に、そんなものがあるわけがない。

  オリガロットが剣を振り下ろし、ターコイズが防戦一方となってしまう。
  先ほどとはまったく逆の立場になってしまったが、それでもターコイズは今の状況が『楽しい』と感じられるものであることに気づく。

  満たされている。

  心の奥底で求めていた『獲物』。
  心の奥底で欲していた『好敵手』。
  心の奥底で望んできた……本気で、殺し合うことのできる、相手。

  それが今目の前にいるのだ。

  最高の、形で持って。

 「………翡翠ぃ! 素晴らしいぞ! 俺は今、お前を尊敬するっ!!」

  ターコイズが押され気味になっていた体勢を立て直し、オリガロットと剣を交わらせる。
  甲高い金属音のあとに、ギリギリと交錯したままお互いの剣を止めて、見つめ合う。

  そこに、オリガロットの瞳に、理性の色はなかったのだけど。

 「お前はっ!」

  そこで剣を打ち、互いに距離を取ったあとまた、向かい合う。
  数度と言わず、数十回、剣を打ち合いながら、それでもターコイズの狂笑は止まない。

 「お前は! 最高の形でぇ、オリガロットを、作り上げたぁ!!!」

  その言葉の意味はわからない。
  端でただ呆然と戦いを(ほとんど人外の戦いと言っても良い。『普通』の人間が、こんな戦いをするはずがない)見つめていた朔良が、ターコイズの言葉に眉根を寄せる。

  『オリガロット』とは、彼女の名字のはずだ。
  彼女が受け継いだ家の血の証。
  ならばなぜそれを『作り上げた』と、あの男は口にしているのだ。

  そして翡翠とは、ルビーの祖母の名前。

  どうして、あの男が、知っている?

  しかし朔良の疑問に答えるべき人間は、そこには存在しない。
  目の前でまさに死闘を繰り広げている二人とて、朔良のことなど目に入っていないかのようだ。

  オリガロットが再びターコイズに迫る。
  地面を蹴り上げその反動で空を飛んだ。
  
  ターコイズがそれをマンイーターの斬撃で向かい入れる。しかし、オリガロットは空中でありながらそれを総て止めてみせた。

  ひゅぅ、と肺に空気を入れる音が響く。
  ターコイズが思わず、息を飲んだのだ。

  その次の瞬間。

  彼の四肢という四肢がオリガロットの放った斬撃によって切り裂かれ、血を噴き出させる。
  
 「…ぐ。ぅっ……!」
 
  たまらず苦痛の声を上げたターコイズの気が、一瞬でそがれた。
  そしてそのせいで蹈鞴を踏んでしまい、体がバランスを崩す。

  そのつもりはなかったのだろうが、足下がおぼつかずにターコイズの瞳が自分の失策に見開かれて、前方の少女を見る。

  オリガロットは、剣を振り上げていた。

  まさに絶好の機会。
  相手はバランスを崩しまともな防御など出来ない。
  必殺の、一撃を。

  必ず、殺すための一撃を加えるために、オリガロットは剣を振り上げる。
  鈍く光りを受け放つ刀を、ターコイズはまるで美しいものでも見ているかのように、『うっとり』と、見つめていた。

  朔良もまたそれを見た。

  そして、体が震えた。
  このままでいいのか、と。
  このまま、彼女を止めなくていいのか、と。

  体が竦んで動かない。

  ここは『普通』ではあり得ない場所で、ここで戦っている二人もまた『普通』ではなくて。

  それでも、彼女は。

  彼女は、彼女でしかなく。あの男が呼んだ『オリガロット』というものではなく、『ルビー』という、たったひとりの女の子で。
  そして、自分は、戦友で。

 「よせ! ルビー!!」

  たまらず朔良が叫ぶ。
  だがそれは剣を振り上げたオリガロットを止める力はない。

  それでも叫ばずにはいられなかった。

  永遠の一瞬のなかで、朔良は、思った。
  彼女を、人殺しにしては、いけないと。

  もし安易に止めれば彼女の身に危険が起こることだって頭の隅ではわかっていた。
  邪魔をしてはいけないと、それはわかっていた。
  
  わかっていても、どうしても、どうしてもそれだけは譲れない。

 「お前は」

  もしそれを許してしまったら、見過ごしてしまったら、きっと彼女は『泣いて』しまうから。
  その手を汚すことさえ厭わないことを口にしながら、それでも血に濡れた両手を見て、彼女はきっと涙を流すのだろう。

  自分の罪を背負い、そして、泣く。

 「お前は、殺すな!」

  泣かせてばかりだった。

  いつも彼女は泣いていて、自分はそれを理由もなく(わからず)慰めるばかりで。
  城壁は、守るためのものだ。
 
  だったら、悲しみで泣くことを、後悔で泣くことを、懺悔で泣くことを止めることも、守ることのはずだから。

  だから朔良は叫ぶ。
  そしてその叫びが、






  魔法を、解いて、しまった。






  オリガロットの瞳に、唐突に光が戻る。
  その光が、合図だった。

  オリガロットは、『ルビー』に戻る。

  それが、合図。
  魔法が解け(ほどけ)、そしてタイムリミットを告げる音が、体のなかで鳴り響く。
  剣の丘が、ゆっくりと溶けて、砕けていく。

  『自分』を取り戻した瞬間に、どくん、と心臓が一つ鳴ったのを、ルビーは感じた。
  そして全身に鈍い痛みが……身を刺すような痛みが襲いかかってきたことに、気づく。
  その痛みの正体をルビーは知っていた。

  絶望とともに、その正体をルビーは知ってしまった。

  時は、来た。

  魔法は解けて、呪いが、身を蝕んでいくのを感じる。
  壊れて、しまう。

  体はもう、壊れていくことしか出来ず、剣を振るうことが出来ず。
  魔法は溶けて、消えていくしかない。

 


  ほんの一瞬だった。
  ルビーが剣を振り下げるのをやめてしまった、その瞬間。

  彼女の左腕をターコイズは片手で握る。

  その感触に気づいたルビーが視線を上げた。赤い瞳が自分の姿を映したことにターコイズは嬉しそうに、笑んだ。

  そして。



  
  彼女の左腕を、何の迷いもなく、落とした。





  マンイーターはその速度を緩めることなく、彼女の左腕を両断した。
  二の腕の当たりを斬り、そして落とす。

  バッと深紅の血が両断された断面から吹き出し、痛みで、ルビーは絶叫した。

  無惨に断ち切られたそれを見て、ルビーが生理的な涙をこぼす。
  しかしそれもたったの一粒。
  本能で、彼女はこのまま叫び続けるのを良しとはしなかった。

  残った全部の理性を総動員して断ち切られた左腕から離れ(同時にターコイズから距離を取り)、右手に残された剣を振り上げた。

  だが、遅い。
  先ほどとは比べものにならないほど『遅い』。
  あくびが出るようなその速度。

  ターコイズはマンイーターを今度は彼女の腹部に突き刺した。

  間合いなど一瞬で詰め寄られてしまっている。
  ぐじゅり、と。
  肉を両断し、臓器まで傷つけるような勢いで突き立てられた其れに、ルビーは息を吐く。

 「…ぅぁっ!」

  血を吐き出すことはなかった。
  だが突き立てれたまま間合いを取ることも出来ず、一瞬でターコイズの開いた手(左腕は、投げ捨てられていた)で首を握られ、そのまま高々と持ち上げられていた。

  足を地面につけることができず、また動くことさえままならずに、ルビーが苦痛で声を上げる。

  白い首すじに突き立てられた指が、彼女の肌から血をじんわりと滲ませていく。
  それを恍惚と眺めながら、ターコイズは笑んだ。

 「どうしたんだよぅ、オリガロットぉ? 俺を相手に隙を見せるなんざ、ばっかじゃねぇのかぁ?」
 「ぅ、ぅ…」
 「なぁ、さっきの勢いはどうしたんだよぉ?」

  そこでマンイーターがルビーの腹部から無造作に抜き取られた。
  傷口が開き、新たに生まれた激痛に、ルビーが呻く。

  切り落とされた左腕からも血が流れ続けている。このまま失血が続けば死んでしまうかもしれない。

  だが痛みはない。
  痛みはある。
  けれど、痛みはもう、『全身』に広がっていた。

 「なぁ、オリガロットぉ。お前は、俺を、楽しませた。」
 「ぅ、ぁ……」
 「俺を、満たした。」

  ターコイズの指が白い肌に食い込み、咽を締め上げる。
  息が出来ずに小さく藻掻く彼女をそれでも恍惚とした表情で見つめながら、ターコイズは腕を下ろし、ゆっくりと顔を近づける。

 「俺を、もっと満たせ。」

  血と涙で汚れたルビーの顔を見つめ、そして笑う。

 「俺を、満たせ。その体で、その腕で、その…魂で。」

  顔を近づけ、互いの息が触れあいそうなほど近づき、どす黒く濁った青い瞳と、歪んでいても尚輝く赤い瞳が、ぶつかった。

 「俺のモノになれ。」

  そしてターコイズがルビーの唇を奪う。
  触れあうだけの児戯じみたものだった。
  だがそれは、彼女を蹂躙する意味も持つ。

  彼女の尊厳を踏みにじり、ただ自分のためだけに存在しろと、言わんばかりのもの。
  奪い取り、与えることはなく、際限なく奪い取れるだけ奪い取っていくために。

  薄く体温を感じながらルビーは、瞼を閉じた。

  奪い取っていかれるという感覚。遠の昔に味わった恐怖。
  その日々を思い出し、同時に、その奪われていったすべてを取り戻してくれた日々のことさえも、思い出していた。

  脳裏に浮かぶのは、光の満ちあふれた箱庭の光景。

  全神経を集中させ、痛みで叫ぶ体を動かして、命令する。




  がり、と




  耳障りな音と唐突に発した痛みに溜まらずターコイズがルビーの体を投げ捨てた。
  彼女の体が地面を跳ね、転がっていく。

  ごほ、とたまらず息を出した彼女を見ながら、ゆっくりと自分の唇を拭う。
  そこに血がこびりついていた。

  赤いその色を見て、ターコイズの顔に憤怒の感情が浮かび上がる。

 「オリガロットぉ……!!」

  噛みついたのだ。
  唇をふさがれたその数瞬あとに、ルビーはターコイズの唇に小さな歯を立てた。
  
  未だ咳をしながら、それでもルビーは残った片腕を地面に立てる。
  左腕からは血が流れ出し続けている。
  このまま失血死するか、あるいは気絶してしまうのが先かと思いながら、それでも体を起きあがらせていく。

 「お、あい…にく、さま…」

  痛みを訴える体。
  魔法は解けてしまった、変わりに呪いだけが体の至る所を蝕んでいく。

  際限などなく、ただ自分の体が壊れていく音を耳にし、あるいは壊れていく感覚を感じながら、それでもルビーは起きあがる。

 「私は、誰のものにも、ならない…」

  そう、たとえ体を蹂躙されても、
  それは魂を傷つけるものではない。

 「だって、もう、私は。」

  汚されても、痛めつけられても、辱められようとも、心は、変わらない。

 「私の、心は…とっくに、攫われてるん…だから。」

  心だけは、奪われることはない。
  ズタズタに引きされた、真っ赤な血を吹き出す、心。

  ちらりと、ルビーは朔良の姿を見る。
  呆然としたまま動けないでいる彼の姿を確認し、ホッと、息を吐く。
  
  そう、そのまま動かないで。
  そして逃げて。
  もう私には貴方を守る力が残されていない。

  タイムリミットは来てしまって、魔法は解けて、呪いが始まり。
  壊れていくしか、先がない。

  だから、動かないで。

 「私の、心も、」

  逃げて。

 「魂だって、とっくの昔に……攫われた、ままなの、よ。」

  約束を破ることになる。それでも、貴方だけは守らないといけないから。
  
  あなたを守ると、約束した。
  みんなを守ると、誓った。

  だからお願い。
  
 「あなたのものになんか、なれるわけ、ないでしょう?」

  道しるべたる人。
  同志。
  ともだち。
  巻き込んでしまった人たち。
  そして、
  私の戦友。

  お願い、逃げて。

  



  それを聞いたターコイズの表情が大きく歪んでいく。
  ゆがみ、そして怒りをあらわにし……「そうか」、と呟く。

 「そうか…そうか、そうか……ならぁ!!」

  マンイーターを構え、そして怒りのままルビーを睨み付ける。
  その強さ、その殺気にルビーは恐怖を感じるが、それさえまるで遠い出来事のようにも思えて、ぼんやりとそれを眺めていた。

 「俺のものにならないのなら、お前は、要らない!」

  ……遠い昔、そんなことを言われた。
  お前はいらないと言われ、傷つけられた。

  ああ、でも、要ると言ってくれた人がいたから、もう構わない。

 「お前は、無意味だ!」

  居るだけじゃないかと言われ、傷ついた。

  ああ、でも振り返って笑ってくれる人がいたから、もういい。

 「お前は、消えろ!」
  
  傷つけられて、嗤われて、奪われて、

  それでも、傷は癒えて、笑ってくれて、与えてくれて。
  だからもう、いい。

  そんな言葉で傷つけられるほど、たくさんの人たちの与えてくれた言葉で癒された心は弱くはないから。




  詰められる距離。
  一気に間合いを詰め、振り上げられる刃。
  それを眺めながら、ゆっくりとルビーは瞼を閉じる。

  次に目を開けることはないのだろう、と、頭の隅で思う。

  光がなくなり、闇が視界を奪い取っていった。








  瞬間。
  声が、聞こえた。

  同時に体を包み込む柔らかで懐かしい暖かさも、感じた。






  肉が斬り裂かれた音がしたのは、それとほぼ同時。







 〜刃にして劔。その名を、 に、つづく〜