重力の法則で持って、闇の底へと落下し続けながらルビーは唇を動かし、『力ある言葉』を紡ぐ。
彼女の魔法発動の法則は、従兄妹たちと同じく『言霊』によって発動するものだ。
力のある言葉を吐き、言葉を組み上げ編み上げて、それに秘められた力を発動させる。
ひとつでは意味のないものでも、合わさればそれは、意味を持つ。
そして名を、告げる。名は、この世で一番短い『呪(まじない)』だからだ。
名をもって、完了とする。発動の合図とし、魔法は生み出されるのだ。
ルビーや優華、それにリョウは神話や伝説に記された者たちの名前を使い、発動条件としている。
そのほうがイメージしやすいからというのも理由のひとつだった。
ルビーもまた、『嵐』の申し子パズス、忠実なる番犬エセルドレータ、と言ったふうに魔法に名をつけ、発動させる。
彼女の使う、飛空呪文は『サリエル』。
静かに、だが絶対的な速さで持って、魔法を組み上げようと言葉をのせる。
だが、その言葉が、かき消えていく。
「……っ!?」
わけがわからず、ルビーがもう一度最初から『力ある言葉』を紡ごうとするが、それは無惨にも四散していってしまう。
力が、集まらない。
背に出現するはずの漆黒の翼はなく、風の声も遠い。
……みんな、ルビーが『捨てて』しまったから。
「おねがい……ちからを、かしてぇ……っ!」
どうにかして自分のなかの力をかき集めるがうまくいかない。
そうこうしている間にも、自分よりも速く落下し続けている朔良が、闇へと落ちていく。
その先に待っているだろう漆黒に、落とさせるわけにはいかない。
「おねがい…おねがい、ちからを……!!」
強く願う。一度は捨ててしまった心をかき集めて、つなぎ合わせて、必死で、願う。
ここで彼を失うわけにはいかない。それだけは、許せない。
どうしても、どうしても。
それでも心の暗い部分が、ルビーに語りかける。
このまま彼を落としてしまえばいい、と。
闇に飲まれてしまえば、もう自分を傷つけたりしない。
傷つくのが嫌なら、傷つく刃を持つ彼を落としてしまえばいい。
そうして、手に入れれば、
「そんな、ことっ!」
そんな自分の暗い心が憎々しくてたまらない。
吐き気をもよおしそうなほどの自分に対しての憤りに、体の奥に力が漲る。
暗い場所から『彼女』が語りかける。
落としてしまえば、ずっと一緒にいられるかもしれない。
隣にいることを、許してくれるかもしれない。
それが望みだったのではないの?
「そんなこと、そんなこと!」
それでもルビーは自分の空虚な心をかなぐり捨てて、ただ彼を追う。
闇が、まるで両腕を広げて待っているかのように、ぽっかりとその口を開けて待っている。
手招きをして、迎え入れようと、
「……『お前』になんか、朔良は、あげない!」
そうだ、今まさにこの瞬間、願うことはただひとつ。
強い願いは力を生み出す。
一点の曇りなき想いは、力でもって応える。
願うことはただひとつ、
ささやかで、幼くて、自分勝手で、傲慢で、陳腐な、けれど純粋で穢れのない、強く狂おしい、願い。
紅玉が、魂が、紅蓮の輝きで持って光り輝くように蘇っていく。
一度は失われた『力』が、凄まじいスピードで再構築され、自分のなかで溢れ出す。
「助けるわ!」
一片の迷いもない言葉だった。
その瞬間。おびただしい量の光の粒子…いや、漆黒の輝きが体から放出され、背に集まり、翼の形を作り出す。
見るものの目を奪うほどの、純粋なる黒。
ルビーは風の声を聞く。
風はそれに応え、吹き、そして踊る。
それを捕まえて、ルビーは『飛んだ』。
腕を伸ばし、指先に力を込めて、ただ彼に追いつくために。
彼が自分に向かって腕を伸ばしたのがわかった。それを掴むために、限界を超えて疾空する。
純粋な願い、それは、
「誰にも……たとえ、あなた自身であろうとも!」
剥き出しの願望で持って、ルビーが叫ぶ。
目の眩むような欲望でもあった。
「あなたを、誰にも、奪わせたりなんかしないっ………朔良ぁ!」
ただいとおしいその名を呼び、飛ぶ。
空を翔て、重力の法則も、風の抵抗もすべてを無視して、彼女は飛ぶ。
闇が、その腕を広げて彼を包み込もうとしているのが見えた。
それは、自分の心の闇。
だけど、それさえ彼女は『許さない』。
誰であろうと、誰であっても、たとえそれが彼自身であり、自分自身であっても。
一片の慈悲もなく、許さない。
ルビーの掌がいっぱいに伸ばされる。
闇がその腕を交差させ、すべてを包み込もうと、する。
背中を、守る。
戦友としての一番最初の約束が、彼女を突き動かしていた。
その腕を 〜苛烈なる想い。そして願いは口にされ、彼女は歓喜の涙をこぼす〜
闇が、その腕で包み込もうとした、その瞬間。
その闇を切り裂き、光よりも苛烈で純粋な『黒』が朔良の体を包み込んだ。
大きな『羽音』とともに、ルビーが朔良の腕を取り、そのまま急速反転でその場から脱出する。
闇はそれさえも包み込もうとした。
貪欲に、呑み込もうと腕を広げた。
しかし、それを『許す』はずもない、彼女は。
闇さえ追いつけない速度で落ちていた谷を一気に上り、そして光へと導く。
闇から光へ、加速は止むことがない。
そうしてようやく、谷の底から飛び出したとき、目に映ったのは雪の世界。
白い、世界のすべて。一面の、白。
視界を覆い尽くす、すべてを等しく凍り付かせる、世界。
……だけどね、知らない?
雪は、
ゆっくりと、ゆっくりと。
先ほどの上昇とはうってかわって、羽が風に舞い降りるかのようにゆっくりと、ルビーは朔良を抱いたまま地面へと降りていく。
足先が、触れて。
さくり、と雪を踏みしめ、二人は地面(ただし雪の上)へと降り立った。
その途端、ルビーの背中にあった漆黒の翼は音もなく解け、空中に四散していく。
……沈黙が、包む。
ルビーは俯いたままだった。
ただ、息がしづらいのか(急激な落下と、構成の編み上げで)肩を大きく上下させていた。
朔良は、何も言わない。
言葉もなく、ただ雪の音と、呼吸する音だけが響く。
「…………さく、」
そうしてようやく、ルビーが顔を上げ名前を口にしとうとした。
だが、それは最後まで言葉にならなかった。
パン、
と、頬を叩かれ、痛みと驚きで、ルビーは言葉を失ってしまった。
叩かれた頬へと呆然としたまま手を持ち上げ、そして、その相手を見上げた。
この場にいるのは自分と、そして彼しかいない。
「……馬鹿なことを…っ!」
そして、その彼は『叩いた』手をそのままに、苦々しく表情を歪ませていた。
「…あっ……」
その事実にようやく思い当たったのか、ルビーの双眸が見開かれる。
ゆるゆると首を横に振り、それから、ようやく涙が一筋こぼれ落ちた。
悲しかったわけではなかった。
悲しいわけではない。ただ、驚きで、どうしていいのかわからず、思考回路が追いつかず涙をこぼしたに過ぎない。
責めているわけでもなかった。
ただ、その涙を見た朔良の顔がさらに大きく歪んだのが、ルビーにはわかった。
それからゆっくりと抱きしめられる。
包み込むように、先ほどの頬の痛みを労るかのようにゆっくりと腕のなかに包み込まれ、その暖かさにルビーはまた泣いていた。
ボロボロと涙がこぼれる。
「…ひどい、よ……こんなの、あめと、むち…」
「どこで覚えた、そんな言葉。」
腕さえ拘束されてしまって、その背に腕を回すことができない。
涙がわけもなく流れ落ちて、止まらない。
悲しいわけではない、と言いたかった。
だけど、言葉にならない。嗚咽に消えてしまって、うまく言葉にできないもどかしさに、ルビーは悔しくなって、今度はその悔しさで涙がこぼれた。
もう、どうしてこんなに泣けてくるのかわからない。
涙は止まらない。
横隔膜は痛むし、咽の奥だって痺れるように痛んだ。
指先がうまく動かせない。抱きしめられた体が痛い。
「俺は、怒ってるんだ。」
そして声が。
絞り出すような声が耳元でして、ルビーは嗚咽を上げながらも耳をすます。
「どうして、信じない。どうして、俺に任せようとしない。
そうやって、何でもかんでも抱え込んで……立ち向かって、お前は俺を置いていくのか。」
違う。置いていくのは、あなたのほう。
そう言いたかった。でも言えない。
もどかしくて堪らない。せめて、言葉が、伝えられたら。
「俺は、そんなに頼りないか?」
違う。あなたを傷つけたくなかったから。
それはただの自己満足で、ただの、エゴでしかなくって。
「お前が、倒れた、とき。
俺がどんな思いをしたのか、わかるか? どんな気持ちで、どんな思いで、どんな……どんなものに襲われたか、お前にはわかるか?」
だって、どうしようもない。
壊れていくのを止められない。守るためには、それしか方法がなかった。
「だって……」
「だってもへちまもない!」
ぴしゃりと言い放ち、朔良は今度はルビーの体を引き離す。
顔を近づけ、視線と視線がぶつかりあうようにして、瞳をのぞき込んだ。
「お前は、何にも、わかっていない!」
だって、
だって、だって、
「…だって、しょうがないじゃない!」
そのとき、ようやく嗚咽を止めたルビーが声を上げた。
表情は崩れたままで(朔良と始めて出会った頃は、崩れようもなかったもの)、心のどこかで糸が切れてしまって、ぷつりと何かが壊れしまう。
ボロボロと涙をこぼしたまま、それでも表情は憤りにも似た何かを浮かばせて、叫んだ。
(…まるで、駄々をこねる子どものよう)
「だって、兄くんと、ユカを助けて……それに、みんなを、守りたかったの! みんなだけじゃない、あなたを、守りたかった! 守らなきゃ、いけなかったの!
私は、もう…長く、なくって……壊れる、しかなくって…その前だけは、あなたとの約束を…破りたく、なかったのよっ…!」
背中を守るという、戦友としての一つの約束。
それだけでも守りたかった。
他のものは、もう、守れそうもなかったから。
「戦わなきゃ、駄目だった……どこが、壊れても、傷ついたって…守りたかったの! 失いたくなかったの! 傷ついてほしくなかったの!!
ほんとは……ほんとは、『巻き込んで』、しまったことだって…!!」
助けてと、口にしながら。それでも心のどこかで、悔やんでいた。
巻き込んでしまってよかったのか、と。
巻き込むことで、彼らを傷つけることは明白だったから。
それは自分の、望むべきものではなかった。
取り乱し、泣き崩れるルビーを見て、朔良はかすかに溜息をついた。
「……どうして。」
どうして、そんなに、何でもかんでも背負い込もうとする?
全部を一人で背負い込んだって、苦しいだけなのに。
守ろうとして、崩れ去るのが望みなのか。
そうやって、犠牲となることを選ぶことを、自分が望んでいるとでも思っているのだろうか。
「もし、お前が一人でここに来ていたのなら…俺は、お前を一人で来させたことを悔やむ。」
一人だけが傷つく場所にいるだなんて、そんな理不尽なことを許せるわけがない。
そんなの、後味が悪すぎるし、理不尽すぎて納得だってできない。
「…私は、劔だから………守って、折れるのなら……それで。」
「そんなもの、間違いだ。」
言い切り、きっぱりと間違いだと断定して、口にする。
ルビーが顔を上げたまま、朔良を見つめる(その頬は、未だにうっすらと赤くなってしまっている)。
「そんなもの、誰も救われない。」
誰かが犠牲になって、掴む何かなんて救われるべき要素が何もない。
救いなどという欺瞞に満ちた言葉で、もう誰も騙されない。
少なくとも、彼は、もう騙されはしない。
「俺はお前は人間だと、何度も言ったはずだ。俺だけじゃない。みんなが、お前に言ったはずだ。」
手を、離すことはない。
繋がれた指先を、もう『騙されて』解くことはない。
「………お前は、人間だ。」
ただの女の子で、ただの人間で。
「劔という、存在で生きるのなら、俺はそれが折れることを許したりしない。」
「……………さくら。」
泣いて、笑って、怒って、
言葉を交わしたり、動いたり、立ち止まったり、する。
「でも……私は、もう…戦友、じゃ、いられない…」
「それは俺が頼りないからか?」
その問いにルビーは首を横に振った。
「…だって、もう…守れない…」
「………物理的に守るだけが、戦友じゃないだろう。」
「だって……力、が、ないと…」
そのときだった。
朔良は、唐突に、『違和感』に気づく。
どことなく感じていた。『いつも』だったのかもしれない、『唐突』だったのかもしれない。
だが、それは確かに、彼女と自分自身の間に流れているような気が、して。
違和感が。
「……ルビー…?」
「守る、力が……負けない、力が…」
かすかな、けれど絶対的な違和感が朔良に襲いかかる。
何かが違う。
何かがかみ合っていない。
そう、まるで歯車の間に小さな砂を入れてしまったかのような、かすかな軋みのような。
何かが、
違う。
「……ルビー…お前は、」
そう、違う。
そして、その『違和感』があるかぎり、彼女とはけっして相容れない。
彼女との意識の相違。
持ち合わせた言葉の意味。
今までの、こと。
考えろ。
考えろ。
気付け、言葉にしろ。
気づいて、言葉にして、伝えなければ。
彼女を、連れて行けない。
最後の扉は、『此処』にある。
「……お前は、」
「お前は、『守る』ということは、『力』で守るということなのか?」
「……そうしないと、私に、存在する理由なんて、ないでしょ?」
ああ。
なんていう、こと。
彼女は、朔良の『違和感』にこともなげに答えた。
それが当たり前だと言わんばかりに。
『力』でもって、守るということ。物理的に、何かの攻撃から守るという、こと。
それは確かに、目に見えて、守ったということがわかる。
そして、とてもわかりやすい。
だが、それではまるで。
それでは、『守る』代わりでなければ、側にいることができないと、いうことではないか。
そう、力を奮うかわりに側にいることを許されているかのような。
等価交換、にも似た。
違う。
彼女は、そうだったのだ。
守るということは、『力』でもって守るということでしかなく。
その劔を振るい、体を傷つけ、相手をも切り崩すことでしか、守るということにならないということ。
そして、朔良とした約束が、彼女の『違和感』を、決定づけてしまった。
『戦友となって、その背中を守る』
それができなければ、側にいられなくなると思ったのだろう。
『力』がなくなれば、それは反故されるしかないのだろうと。
ああ、なんて。
なんて、ことを。
「…違う…」
「…朔良?」
「違う、んだ。」
分かり合えるわけがない。
かみ合うはずもない。
最初から、朔良とルビーの間には、微妙な『ずれ』があったのだ。
認識としての差。
「…だって…強く、ないと…必要と、されない、でしょ?」
「…ルビー…」
「私は、力が、ないと。」
そしてそれはとても些細な、そして巨大な『歪み』。
大きすぎて、それでいてとても小さくで、誰も気づくことができなかったのだ。誰一人として、彼女の『認識』を気づくことも、正すこともできなかった。
「…違う。違う、だろう…?」
朔良はたまらず顔を近づけ、ゆっくりとルビーの顔をのぞき込んだ。
息がかかりそうなほど近づき、疑問を浮かばせた紅の瞳を見る。
何の、疑いもない瞳だった。
「……俺が、言いたかったのは、そうじゃない。」
そんなことじゃなくて。
何度も口のなかで反芻する。どうして、そんな。
なんていう些細な『ずれ』。小さすぎて誰も気づかず……おそらく、優華やリョウでさえ気がつかなかったであろう、もの。
伝わらなくて当然だ。
彼女と、朔良自身とでは、話のベクトルでさえ違っていたのだから。
「…そんなわけ、ない。」
だから。
だからこそ、正しく、伝えなければいけない。
そんな、『力』こそがすべてだなんて、そんな悲しいこと。
「何度も言っただろう。俺たちは………俺は、お前が笑っていてくれるだけで、いいと。」
『力』だけで、たったそれだけで側に置いているわけではないのに。
そんなこと、あるはずないのに。
「…でも、約束が。」
「それがお前を縛り付けているのなら、俺はそれを破棄するぞ。」
「……!」
どうしてもっと早くに気がつかなかったんだろう。
……気がつかなくて、当然だったのかもしれないのだけど。
ベクトルが違った。
言葉の意味でさえ、伝わらなかった。
きっと、彼女と朔良は『分かり合えない』何かによって矛盾を抱えているのだろう。
それでも、
それでも、その『ずれ』に、朔良は気づいた。
「『物理的』に守るだけじゃない。そんなもの、ただの肉の傷みだけだ。
………言っただろう? お前のまわりにいる人はみんな、お前を傷つくことを良しとしない。お前が強さを望むのなら、それもいい。だけどな……そんな、悲しいことを言うな。」
「……だって、私は…すべてを、守らなくちゃいけないって…」
ああ、そうだな。
心のなかで同意しながら、それでもその実、彼女の言葉を否定しながら、言葉にする。
「守るのなら、俺にも守らせろ。」
「……朔良は、守ってくれてるよ。」
「違う。お前は、守ると言わせているのに、俺には手出しさえさせない。」
「そんなこと、ないよ。」
「その通りだろう。もし、お前が守るということが『お前の言うとおり』なら、俺はそれを実行する。お前を守るために、武器を取る。そして……傷つこう。」
ずれは正さなくてはいけない。
少なくとも、自分の思いは『正しく』伝えなければいけない。
届かない言葉は意味がなく、伝えられない言葉に価値などない。
「……嫌だよ。」
「…お前がしていることは、そういうなんだ。守るだけ守って、傷つく姿を目の前で見せつける……それがどんなに残酷なことか、わかるか?」
見つめる視線が離れない。
ルビーはジッと朔良の顔を見つめて…涙は、いつのまにか止まっていた……悲しげに、目を伏せる。
「……痛い。」
「そうだ、痛い。ここ、が」
胸を手で抑えて、朔良はゆっくりとルビーの体を抱きしめる。
伝われ、と。
言葉でも、声でも、あたたかさでも、そんなもの、すべてを持って、伝われ、と。
「痛くて、たまらないだろう。」
「うん。」
「……守るというのなら、ここの痛みも、止めてくれ。」
すべてが、
伝わって、今度こそ、『約束』を交わすことができるように。
血が吹き出し、傷ついた心のままの彼女を、守れるように。
…知らず、言葉のナイフでズタズタのしてしまった、それを癒すことができるように。
答え、を。
「…………お前が、笑っていてくれるのなら、ここの痛みもすぐに治まる。」
「…笑う、だけ?」
「ああ、そうだ。簡単なことだろう?」
そう、それはとても単純で、簡単で。
「何度も、言った。何度も、俺は言った……お前だって、言ったんだ。」
「……笑って、いてくれるだけで……『嬉しい』?」
笑っていてくれるだけで、そこにいて一緒に、幸せそうに嬉しそうに、笑っているだけで。
それだけで、すべては救われる。
「それだって、守るということにはならないのか…?」
「……知らない。」
抱きしめられたまま、ルビーはゆっくりと首を横に振った。
だって、そんなこと、知らなかった。
「…知らない……だって、私は…ずっと、強くなれって……そうしたら、褒めてくれて…それで、強くなったら…」
側にいることを許されるのは、力があるということだから。
(でも、そのせいで傷ついた。奪われ、踏みにじられた。それでも、どうしても、そのことが頭に焼き付いて離れなくて)
「……なら、言えばいい。」
顔を上げて空を見上げながら、朔良の声を聞く。
抱きしめられたまま、覆い被さるように、したまま。
「お前は、どうしたいんだ?」
問うような眼差しはきっと見えない。
けれど、朔良の声音は優しく響いて、それが胸を締め付ける。
口にしてはいけない。
口に出してしまったら、きっと、それが叶わなかったとき、辛くてたまらないから。
「……言え、ない…」
「言わなければ、わからない。俺は、ただの人間だから、お前が言ってくれないとわからない。」
血が、ドクドクと流れて、耳につくようで五月蠅い。
知らず息が上がるような気がして、呼吸する音さえうるさく感じられる。
「各務教諭も、言っていただろう。そして、お前も答えただろう。
………口にしろ。俺に、言え。お前は何を望む? 俺は何をしたらいい?」
駄目だ。
騙されるな。口にするな。
守れなくなったとき、今の抱きしめている腕はきっとなくなってしまう。
きっと、置いていかれてしまう。
今の言葉なんて忘れて、去っていくに違いない。
だって、ずっとそうだったじゃないか。
いつだって、置いて行かれてばかり、だったじゃないか。
「……俺を、信じろ。」
信じるな。
信じることなんて出来るわけがない。信じることなんて、きっと、辛いだけ。
辛くて、痛くて、信じたあと、裏切られるに決まっている。
「信じてくれ。」
出来るわけがない。
心の奥底に埋め込まれた深い痛みがいつまでも残っている。
血を吹き出したままの心は、痛みで悲鳴を上げ続けているのに。
……出来る、はず。
でも、
……でも、信じたい。
信じたい。
信じてみたい。
嘘をついてばかりだった。騙してばかりだった。ずっとずっと、そうしてきてしまった。
裏切られたときの痛みを知っているくせに、裏切り続けていた、自分。
痛い、とわかっているくせに、そのくせ傷つけ続けてきてしまった。
傷つくのが嫌だから?
裏切られる前に裏切れば楽だから?
信じることは、裏切ることより難しくて、痛くてたまらなくて。
許されるはずがない、と。
ずっとそう、思っていた。
信じたい。
これ以上傷つけることがないように。
それより何よりも、抱きしめているこの腕の主を、もうこれ以上悲しませたくないから。
「…………いっしょ、に。」
願いは、ただひとつ。
ずっとそう願っていた。
ずっとそれだけを願っていた。
幸せを祈りながら、光を与えてくれた沢山の人に感謝しながら。
それでも、心の奥底で、隠し続けていた。
「…いっしょに、いたい…」
口にすれば、裏切られたときの痛みに心が死んでしまいそうになるから。
ああ、でも、かまわない。
痛みで心が死んでしまうのなら、それでもいい。
「…守れなく、なっても……側に、いたいの……」
信じろと、この人が言うのなら。
それが私の、望みでもあるから。
信じてみたい。
「…ひとりぼっちは、やだよ……! ひとりは………怖い…」
願いは、口にすれば脆く儚く、崩れ去るのだと、思っていた。
「役立たずに、なっても……守ることさえ、できなくなっても……みんなと、いたい。」
ずっと。
「…朔良……いっしょに、いても、いい…?」
ずっとそれを隠していたのだけど。
ああ、でももう、止まらない。
言ってしまった。
口にしてしまった。もう、後戻りは出来ない。
この願いさえ叶わないと知ったとき、自分はきっと死んでしまう。痛みで、きっと、心を殺してしまう。
願いで、殺されるのなら、それも本望だと思うのだけど。
「……やっと、言ったな。」
その時。
沈黙したままルビーの言葉を聞いていた朔良が、そう呟いた。
笑っているような、声色だった。訝しげにルビーが首を巡らせようとするが、抱きしめられたままでそれが出来ない。
顔が、見たい。
「…いればいいだろう。」
その声は。
胸が痛くなるくらい、切なくなるくらい優しいもので。
「みんながそうだ。お前の側にいる人……優華さんや、カイーナ教諭…志田さんも、サラスも、お前が望めば、一人になんかしやしない。」
何を当たり前のことを、と呟き息を吐く。
それは溜息のような、もの(実際、溜息にも似た呆れから来たものなのだろうけど)。
「お前が望むのなら、俺はお前の側にいる。どこにいても会いに行くし、お前が助けを必要とするのなら、助けに行く。」
ぎゅ、と抱きしめた腕の力が強くなって。
涙が出そうになる。
「本当に、お前は馬鹿だな。そんなことにさえ、気がつかなかったのか。」
耳を塞いで、目を閉じて。
傷つけられるのが怖くて、すべてに目をそむけてしまっていたから。
気づけなかった、のか。
「いてもいいんだよ、お前は……いっしょに、いたいと願うのなら、いっしょにいればいいんだ。」
いつか一人になるとわかっている。
いつか置いて行かれると、まだ心のなかで思っている。
でも、でも。
でも、嬉しい。
嬉しくてたまらない。
「あ……」
言葉を出そうと肺に空気を送り込むと、目から涙がこぼれ落ちた。
ボロボロと、ボロボロと、溢れ出して止まらない。
悲しいわけじゃないのに。
辛いはずもないのに。
ただ、心は、彼の言葉で『幸福』に満たされているのに。
「あ、あ………ぅ、ぁ……」
涙が止まらない。
言葉にならない。声も出ない。嗚咽に消えて、伝えることができない。
「……ご、め…」
自分が泣くことを朔良が嫌がっているのは、ルビーにだってわかっていた。
涙を流すたびに、彼は自分のどこかが傷つけられているような顔をしていたから。
それが嫌で、嫌で嫌で仕方なくて。
ずっと、申し訳なく、思っていて。
「ごめん、なさ……!!」
「泣けばいい。」
悲しくなんて、ないのに。
「人はな、ルビー……嬉しくても、泣くんだよ。」
だから思う存分、泣けばいいと背中を叩かれて。
もう、止まらなかった。
子どものように泣き声を上げて、泣きじゃくっていた。
心のどこかは冷静に自分の様子を見つめているのがわかるのに、それでも涙は止まらなかった。
ただ嬉しくて、たまらない。
願いは、叶えられると、そう言ってくれたから。
心が声を上げている。
それは痛みのものじゃなくて、歓喜の、声。
慟哭のような、けれど痛みをなくしている、声。
信じることは痛みを伴い続ける。
裏切られたときだって、きっと辛くて悲しくて、耐えられない。
でも、もう、どうでもいい。
だって、今はただ、嬉しくて嬉しくて。
切なくなるくらい、幸せで。
心はずっと踏みつけられてきた。ズタズタにされて、傷も塞がらないまま、血を流し続けていた。
痛くてたまらない。
痛くて、その願いを隠し続けてしまっていた。
(心だけで、力もなく守れるだなんて、そんな幻想。)
ああ、でも、もういい。
もう、ただ、信じていたい。
力なんてなくても、守れるのだと。
ただ側にいることだけ、許されるのだと。
だって、今、自分は、守られている。
彼が、守ってくれた。
だから、信じる。
嬉しい
心に穿たれた、最後の穴が塞がる。
そうしてようやく、血は塞がれ、痛みは引いていって。
(それでも、痛みはどうしても残る)
ああ。
もし、幸福で死ねるのなら、
今、死にたいと、思う。
雪が、止まる。
静かに降り続けていた、雪が、止む。
雪は、冬の寒さから、大地を守るためのものでもある。
その冷たさですべてを凍てつかせながら、それでも、守るのだ。
眠りを妨げることがないように。
安らかにいられるように。
守っていた、んだ。
そうして、雪は解けて
〜蒼穹の空 に、つづく〜