目の前に広がる世界は、どこまでも続くかのような深淵だった。
  いや、もしかしたら『終わって』いるのかもしれない。
  
  何も感じられない。
  空気も、風も、大気も、生命の息吹や躍動、かすかな物音でさえ遮蔽されてしまったかのような。
  そう、たとえるなら、暗黒が、朔良の眼前には広がっている。

  意識を失い、再び目覚めた彼の行く手に現れたのは、そんな光景だった。

  身じろぎ一つせず、ただ真っ直ぐに前を見据えている。
  声はない。手を触れあっていたであろう優華の姿でさえも、そこにはなかった。
  ただ、炎だけが、朔良のまわりを照らしている。

  だが炎の他には何もない。
  暗黒は何もかも呑み込むかのようだったし、足下には何もなく、首を巡らせてもどこにも、何もない。

  何も言わず、朔良は一歩、足を踏み出す。
  足は確かに『何か』を踏んだ。
  道でもそこにあるのか、と考えたが思考するだけ無駄だろうと、彼は考えることを否定する。

  目的はひとつで、それをやり遂げるためには一刻も早く動かなければいけなかったから。

  ただ歩く。
  光すら届かぬ深淵のなかにあってでさえも、彼の足が止まることはない。
  ただ、そう、ただ。

  迷いすらなく、

  やがてその先にふと、人影が見えた。
  見覚えのある後ろ姿が炎によって照らされている。

  黄金の髪。足まであるそれが、座り込んだ『彼女』が誰であるかを教えているかのようで。

  ルビー、と朔良の唇が動いた。
  だが声にならない。唇は確かに動いている。声帯だって、確かに震えている。
  音にならない。言葉にならない。声に、ならない。

  何度も名前を呼ぶが、それらは空虚な形のないものになるだけで、朔良は名前を呼ぶのをやめると、彼女の元に駆け寄っていく。

  やがて近づく気配に気がついたのか、ゆっくりと彼女が振り返る。
  黄金の髪。白磁の肌。いつも髪に巻き付けてある黒いリボン。
  だが、彼女の名を現す、その赤い瞳に、

  光がない。

  宝石のようなその赤い瞳は曇り、まるでどす黒い血を固めたような紅い色。
  空虚なその瞳そのままの表情には力がない。いつも浮かべていたであろう、笑顔も、涙も、何も、なにひとつとして存在していなかった。

  思わず、朔良が立ち止まる。
  名前を呼ぼうと唇がわななくが、それはやはり音にならない。

 「……どうして。」

  だがそれよりも先に彼女が、唇を動かした。
  渇き、ひび割れ、そして病人のような色をした小さな唇を動かし、『声』を紡ぎ出す。

  しかし、その声の響きは、

 「どうして、私を助けてくれなかったの?」

  深い、絶望を模したような、暗い響きだった。
  体を凍り付かせるような冷たい声。
  ありとあらゆる深い絶望と、苦痛と、怨嗟と、そして怒り。

 「あなたのせいよ。」

  目の眩むような、隠しもしないその赤い怒りの念に焼き尽くされてしまうような。

 「あなたのせいよ! どうして私ばっかりこんな目にあうの? 私の背中を守ってくれるんじゃなかったの!? 私のこの手に、すべてを望めと言ったんじゃなかったの!!
  なのに、どうして私は傷つくの? どうして私の手には何もないの?
  ねぇ、どうして? 私から何もかも奪っていったくせに、あなたは何も与えてはくれないの?」

  朔良の顔に深い動揺が浮かぶ。
  思わず後ずさりしかけた朔良の目の前で、彼女の体から突然、血が噴き出した。

  四肢という四肢、ありとあらゆる五体から真っ赤な血が溢れ出し、流れ落ちる。

  彼女が絶叫する。
  魂を引き裂かれんばかりの、絶叫。
  聞くだけで魂を犯されそうになる、深い、深い、叫び声。

  朔良がたまらず手を伸ばした。
  手を伸ばして彼女の腕を取ったとて、どうなるかは知れない。
  ただ、あまりにも、見ていられなかった。

  彼の手が彼女の腕を掴む。

  だが、その瞬間、彼女の白い『左腕』が、彼女の体から落ちた。

 「あ………あぁぁぁぁあぁぁぁぁぁ!!!!!」

  それはどれほどの痛みをもたらしたのか、彼女の絶叫が深くなる。
  血が、間歇泉のように彼女の残った左腕から溢れ出す。

 「いたいいたいいたいいたいいたいいたいぃぃぃ!!!」

  それはもう、正常な意識のものが聞いていられるような、そんな生やさしい声ではなかった。

  ドバドバと血を流しながら、彼女が顔を上げる。

 「……ない、……なん、か…」

  そこにあったのは、目の眩むような、殺意。
  身を焼き尽くされるような、煉獄の炎にも似た色を放つ、瞳。
  
 「あなたなんか、いらない。」

  ぎらりと、光るのは彼女の右手に遺された刀。
  『山南敬助』と、彼女がその名を呼んでいた、刀が鈍い色を放ってそこに在った。

 「私を、傷つけるだけの、あなたなんか、いらない。」

  断絶をつきつける、無情で無慈悲な、その声。

  刀が閃き、正確に朔良の命を奪おうと振りかざされる。
  それを、朔良はただ呆然と見ていた。

  




  うたが、きこえる。
  やさしい、遠い昔に聞いたような、懐かしいうたが。







 『          迷わないで。』

  その時、はじめて、彼女のものでも、彼のものでもない声が、響き渡った。
  『光』のように。一筋の、煌めく光のように。









  Dominion 〜孤独な世界に独り立つ、その姿。血を吐くように憎しみの言葉をぶつける、その姿〜








  気がつくと、目の前の血まみれの彼女の姿はなく。
  闇に広がる世界もなく、ただ、そうただ。

  目の眩むような、白い世界が、広がっていた。

  身を切るような冷たい風が、あたりを支配している。空気もまた、張りつめるどころか『停滞』しきっている。
  すべてが、凍り付いた世界。

  生きるものはなく、死んでいるものもなく。
  すべてに区別なく、凍り付き、その時間を留めているような錯覚さえ起こさせてしまう。

  彼が、朔良が今、其処に立っている世界は、まさに『白い世界』。

  他の何ものも侵入を許さない、絶対的な何かがそこに横たわり続けている。
  
 「………ここ、が…」

  言葉を紡ぐために吸い込んだ空気で、肺の奥が急速に痛んだ。
  少し空気を吸い込んだだけでも、体の芯から凍り付くような、世界。

 「…ここが、お前の世界なのか…」

  他の侵入を許さない場所。
  つまりここが、彼女の『居場所』。魂のよりどころ。そして、心の奥深く。

  こんな、凍り付くような、世界で。

  すべては白く染まっている。
  絶え間なく吹きすさぶ風は白い雪を舞い上げ……そう、彼の足下に広がるのは、凍り付いた世界に相応しい雪、そのもの……、まるで白い闇のように彼の視界を塞ぐ。

  こんな、何もない世界で。

  いや、あるにはある。
  だがここは、他のものが何もない。
  あるのは体の奥底、心まで凍てつくしかない世界だけ。

  空を見上げても、あるのはただ白い色だけだ。
  ここには、空さえ、ない。
  
  空の青さも、夕焼けの赤も、夜の黒でさえ、存在していないかのようだ。

  足を動かせば足跡が残る。
  だがそれさえ舞い上がる雪にかき消されていってしまう。

  この世界で自分が、ひとりぼっちなのだと、錯覚してしまいそうになる。

 「……探しに、行く。」

  ぽつりと、肺の奥が痛むにもかかわらず彼は決意を口にする。
  足を動かし、雪を踏みしめて朔良はただ先を進む。

  確信はない。
  ただ、先ほどのように『にせもの』に騙されることなどない。
  そう、あの黒い世界で、朔良の前に現れたのは、『にせもの』でしかない。

  彼女が、朔良に刃を向けることはけっしてない。
  刃を向けるくらいなら、傷つけるくらいなら、その刃を己に向けているだろう。
  自分の喉元に刃を押し当て、力を込めて、そのまま、






 「……本物かもしれないよ?」






  唐突に、本当に唐突に朔良のすぐ隣から『声』が聞こえた。
  朔良が驚いて振り返ると、本当にすぐ横を一人の男性が歩いていた。

  背は高くて、流れる金髪は金の穂のよう。
  笑う顔は優しく、声もそれとよく合うように柔和なものだった。
  何より、その赤い瞳。

  朔良が、誰より知っている彼女とよく似た、紅玉の瞳。

 「あなたに刃を向けない、という保証はどこにもない。だって、それはあなたの今まで積み重ねてきた経験にそって、言っているだけなんだろう?」

  ざくざくと、進み続ける足を止めることなく、ただ歩いていく。
  足跡はいつの間にか二つになっていた。だが、相変わらず風は止まない。

  誰かはわからなかったし、顔も姿も一度だって見たことはない。
  
  だが、朔良は何故か目の前の青年が『懐かしい』と、思った。

 「あいつは相手が誰であろうと自分の刃を振りかざすことを良しとはしません。
  ルビーは、それを一番恐れていました。恐れていたことを、どうしてここで出来るんですか?」

  逆に疑問で返すと青年が感心したように声をもらし、何度も頷いてみせる。

 「なるほど、確かに。あなたは思ったよりも冷静なんだね。」
 「……あいつを、連れ戻すために『自分を見失うな』と、忠告されていますから。」

  雪が舞っている。
  音もなく、ただ静かに。風はいつの間にか弱まってきていた。
  顔を上げても、どこまでも広がる白い世界に変わりはないし、自分がどこまで歩いてきているのかもわからない。

 「…そう。あれは幻影だ。あなたの心を惑わすため、絶望の闇に染めて、愛するために。」
 
  雪のなか、朔良の横を歩く青年は易々とそんなことを口にした。
  訝しそうに眉根を寄せて、朔良が青年を見る。

 「愛する?」
 「そう、同じものだから愛する。同じものにしてしまって、手に入れる。闇とはそういうものでもある。」
 「………寂しいからですか?」
  
  その言葉に青年は緩く首を振ってみせる。
  そして困ったように口元を緩めて、朔良の方を見た。

 「でもそれは、ただ他者を奪うだけ。与えられ続けるというだけ。」

  そうして青年もまた空を見上げた。
  吐く息が白く、空気にとけ込んでいく。白い、空。だが、そこは白だけではない。

  光が、ある。

 「…会いたいかい?」

  誰に、とは言わなかった。
  ただあまりにも当然のことを聞かれてような気がして、朔良は深く考えるまでもなく、数瞬もしないうちに頷いていた。

 「あいつを、こんなところに置いておくわけにはいきません。」

  すべてが凍り付く世界で、たったひとりで。
  たった、ひとりで。

 「会いたいです。それが、俺の望みでもありますから。」

  ざぁっと、白い花が、舞う。
  風に煽られて、白い六花は踊るように舞い続ける。

  凍り付く世界で、それはとても美しいものに思えた。

 「傷つけるかもしれないよ?」
 「俺は、何を犠牲にしても、あいつを取り戻します。それがあいつ自身でも俺はそれを恐れたりしません。」
 「自分が、傷つくかもしれないよ?」
 「そんなもの、承知の上です。」
 
  朔良もまた、雪の舞う天を仰いだ。
  足はいつの間にか止まってしまっていて、雪に体が沈む。
  
  そうだね、と青年が答えた。
  
 「……あなたは、強いね。」
 「いいえ……俺はきっと、意固地なだけです。」

  買いかぶらないでください、と朔良が言う。
  青年がおかしそうに声をたてて笑っていた。その仕草でさえ、懐かしいもののように思えて仕方ない。

 「迷わないで。」

  ぽつりと青年が口を開く。
  その声は、闇を切り裂き、自分をここに連れてきた声にとてもよく似ている気がした。

 「あなたなら出来るかもしれない。この世界の、この雪を、止められるかもしれない。」

  そうして、ゆっくりと青年は朔良のほうに何かを差し出した。
  朔良が振り仰ぐ顔を戻すと、青年は剣を手にしている。
  
  黒い鞘に収まった小太刀。
  柄を縛る皮は漆黒に塗り込められ、その先に青い紐と玉がついていた。

 「……これは?」
 「あなたにあげるよ。」

  疑問に簡潔に答え、その実、朔良の言葉には応えず、ただ青年は剣を差し出している。

 「…ここは心の世界。広いように見えて、彼女のところまで行くにはとてつもなく入り組んでいるし、捻れていてね。それを切り裂くために、これが必要になる。
  惑わされず、臆せず、怖がりもしなければ…『これ』はきっと、あなたを彼女のところに連れていってくれるよ。」

  そうして青年と朔良は互いを見つめる。
  紅色に輝く瞳も、柔和に微笑むその顔も、金色に光り輝く髪も、何もかもが朔良にとって懐かしいもののように思えてしかたない。
  青年は白いコートに身を包み、ただ、黒い剣を朔良のほうに差し出している。

  ……朔良は、それを、手に取った。

  青年の顔に、にわかに歓喜の色が浮かんだ。
  とても嬉しそうに、そして愛おしそうに微笑んでみせる。

 「それは『剣』であり『鍵』。閉じられた扉を見つけ出し、閉ざされた先へと導いてくれる。迷いさえしなければだけどね。」

  すぅ、と手を指し示す。

  その先に何があるのかは言わない。だが朔良は青年の指し示すほうへと振り向いていた。
  雪が舞い、風が吹く。
  
  その遙か先、風に乗って、うたが。

  




  ふいに朔良は思い出す。
  今はまるで遠い記憶のような、あの学院で過ごした日々。
  彼女が時折歌っていた、故郷のうた。






  目を見開き、耳を澄ます朔良に、青年は言葉を続ける。

 「連れ出してやってほしい。そして、この世界の雪を、できるなら止めて欲しい。」

  朔良が足を踏み出す。
  ざくりと雪を踏みしめ、一歩一歩、先へと進む。

  青年はそれをただ見送っていた。すでに青年に歩く必要はないからだ。

  先へと進むのは、歩き続けるのは、そう。

 「できるなら、あの子を、笑わせてやってくれないか?」

  辛いことが和らぐように、悲しみが涙になって頬を伝うことがないように、そして、
  そうして、ただ穏やかに笑って、しあわせでいられるように。

  風に紛れて、青年の声が掠れて消えていく。
  そういえば名前さえ聞かなかったと、朔良は唐突に思い出す。懐かしさで、忘れていたのだ。
  だが振り返ることなく、進む。

  そしていつの間にか走り出していた。
  吐く息が自分から遠ざかり、景色は変わらないものの先へと進んでいくような気さえする。

  うたが、聞こえる。

  風に乗る歌声は確かに聞こえる。それを聞き、そこへと向かうために朔良はただ走っていった。

  純白の結晶が、白い雪の花が空から舞い落ち続ける。
  手の中の小太刀が、静かに鳴動を始める。
  
  どこへ行くかもわからない。
  だが走る。ただ彼女のもとへ向かうために。
  ここ数日で走ってばかりで、そしてお前を追いかけてばかりだと、朔良が微かに苦笑する。

  脳裏に浮かぶ、後ろ姿。
  名前を呼べば振り返る、その表情。
  笑っていたときもあった。驚いて目を丸くしているときも。そして、

  自分の名を呼ぶ、ときも。

  やがて剣は鳴動を激しくする。景色が寸断され、正しき道が朔良の眼前に広がっていく。

  迷うことがない限り剣は答える。
  臆することがない限り剣は力を貸す。
  怖がることがない限り剣は力を奮う。

  求め続ける限り、剣は折れることなく、道を切り開いていくのだ。

  やがて景色に色が加わる。
  それは、漆黒。
  純白とはあまりにも対照的なその色が、景色の端に現れ始めた。

  それは世界を分かち、闇色にも似たそれが世界を犯しているかのようだ。

  歌声が、耳に。

  近づいていくとともに、小太刀が朔良の手から徐々に消えていく。
  まるでその役目を終えた、とでも言わんばかりに。

  力を貸し、その役目を全うしながら、小太刀は教える。

  この先に、彼女がいる、と。
  ふと、その漆黒の側に、見えた。

  光にも似た金髪。小さな背中。出会うと誓った、彼女の姿。

  朔良が走る足をさらに速めた。息は上がっているし、肺は急速に痛んだが、そんなもの関係のないもののように。
  彼女に近づいていくと、小太刀はもう消えかかっていた。

  だが、最後に、もう一度だけ世界を切り裂く。

  硝子をたたき割るような音が響き渡り、彼女と、彼を隔てていた『それ』が崩れ去っていった。
  
  音に驚き、彼女が振り返る。
  朔良の手の中の小太刀が消える。
  
  そして二人は、『再び』出会った。











 「………彼女はとてもよく似ていてね。」

  青年が雪のなかで、そっと溜息をこぼす。
  遠くに走っていった漆黒の背中を見送りながら、愛おしそうに、笑う。

 「掛け値なしに意地っ張りで、頑固で、不器用で、……人から愛してもらいたいのに、愛し方がわからなくって困惑して、戸惑うところも。」

  遠い世界に誰かを見ているような目。
  その紅の、紅蓮そのものの瞳は、『彼女』に受け継がれたもののひとつ。

  青年が誰の面影を脳裏に浮かべているかはわからない。
  こことは違う、遠い世界で今も『生きて』いる、誰かを思って、言葉を。

 「……そして、どうしようもないくらいに、寂しがり屋なところも。」

  そうして、青年が白い世界に消えていく。
  世界はただ、沈黙したまま、相変わらずそこに在ったのだけど。
 
 「…寂しがり屋なくせに、扉を閉じようとしている。ありとあらゆる鍵をかけて、守ったって、さみしいだけなのにね。」

  ゆっくりと青年が息を吐いて、やはり笑った顔のまま天を仰ぐ。
  遠く、世界という名の閉ざされた『扉』が開け放たれていく音を耳にし、安心したように、目を閉じた。

  消え去る直前、青年は願いを込めて言葉を紡ぐ。

 「家族の、しあわせを願うくらい、かまわないだろう?」
  
  その言葉は、願いにも祈りにも似ていた。

 








  ルビーはただ、ぼんやりとそこに座り込んでいた。
  白い世界の端、漆黒の『底』が住まうそこで、ただ座っていた。

  端に腰掛けていたためか、足を投げ出し、何の意志もなく意味もなく、宙でふらふらと揺らしている。

  光と白い雪しかない、凍り付いた世界。
  そこに存在する異質な『黒』は、まるで自分の心に穿たれた穴のようだとルビーは他人事のように思った。

  ……もう、すべてがどうでもよかった。

  扉はすべて閉じた。
  この世界が溢れ出さないように、誰にも触れさせないように、誰にも知られることがないように。
  終わりが、わかっていたから。

  終わりの時は、来てしまったから。

  だからもう、どうでもいい。
  剣をふるうべき、もののふたる彼女の魂に、気力はない。
  闘志すら、消え去っていた。

  疲れ切っていた。
  考えることさえ放棄して、ただ時が過ぎるのを待っていた。
  
  …ひとり、だったから。

  たったひとりで、何ができる?
  寂しさは胸を焦がし、人恋しさは心を切り裂き、思い出は魂をズタズタにしていった。
  やさしい、思い出さえあれば生きていけると思っていた。

  だが、思い出は、ただ過去の産物でしかない。
  くるおしいほどの情景。胸を打つ、風景。

  最後に彼女に残された思い出でさえ、彼女自身を切り裂いていく。

  望んで、願って、手にしたというのに。
  だが、ひとりという恐怖を、『また』味わうには、彼女はあまりにも救われすぎていた。

  傷口は、いつかは治るものだ。
  どんなにひどいものでも、傷口を縫い合わせ、神経を繋ぎ、肉を再生させてさえいけば、元に戻る。
  だが、痛みは残る。

  痛い、という記憶が刻み込まれる。
  そして恐怖するのだ。同じ痛みを味わうことなど、誰も望みはしないものだから。

 「…もう、いい…」

  自分の体が、がらんどうのように言葉を響かせるのを感じた。
  血はもう、流れ落ちることはない。
  彼女の体に、あたたかな血でさえ、もうなくなっていたからだ。

  生命力が抜け落ちた体は紙のように白く、雪のなかに埋もれてしまうようだ、と。

 「……もう、つかれた…」

  ならこの雪に埋もれてしまえばいい、と思う。
  白い世界で、この白しか、凍てついた世界でしか存在を許されないのなら、他と同じように自分の体も凍り付いて、雪に埋もれて消えてしまえばいい、と思う。

  楽になりたい。

  遠い昔に捨てたはずの思いが、体を、心を、魂を支配していく。

  すべてを忘れて、すべてを閉じこめて、楽になれたら、

  漆黒の底が、優しく手招きをしているようだった。
  こっちへ落ちてこい、と。こっちへおいでと、優しく、優しく、腕を広げて、待っている。
  そこに飛び込んだら、楽になれるだろうか。

  何も考えず、何も感じず、ただ、ただ。





  だけど、どうしても、その一歩が踏み出せなかった。
  倒れることができず、落ちていくことさえできず、ルビーはただぼんやりと座っているしかできない。

  立つことはできなかった。その気力が、もうすでにないから。
  それでも、どうしても、どうしても、できない。
  終わらせることができない。

  ……胸がひどく痛んだ。
  
  その痛みににでさえ、涙をこぼすことはない。
  だからただ、待っていた。時が過ぎ去り、この痛みがなくなって、いつか力尽きて座ることさえもできず、重力にしたがって落ちていくことを。

  唇が無意識にうたを紡ぐ。

  昔聞いた、うた。
  よく祖母がうたっていた。母もうたっていた。それをルビーは、幾度となく耳にしていた。
  何も考えず、ただ唇にのせる。声を、紡ぐ。

  そのうたの意味を、ルビーは知らない。








  そのとき、世界が、静かに軋みを上げた。
  ルビーの瞳が、ふと動く。
  軋みは激しくなり、その、この世界にはあり得ない音を耳にしながら、ルビーの意識は覚醒へと向かっていく。

  無気力だった体中の神経が動き、五体のありとあらゆる感覚が蘇っていくかのように。
  ちょうど、閉ざしていったはずの何かが、開け放たれて在るべき主の元へと戻るかのようだ。

  そして、世界が、壊され、

  すべてが『蘇った』、その瞬間、ルビーは振り返る。
  視線の先に、この世界ではありえない姿を見つけて、困惑で胸がいっぱいになった。

  同時に、くるおしいほど、たとえようもないほどの、激しい感情が自分の心に湧き上がるのを感じて、戸惑う。

 「………朔良。」

  ありえない、その名を思わず呟いたとき、『彼』は笑んで見せた。
  いつものように、いいや。
  
  いつもとは比べものにならないほど、深い笑みをたたえている。

 「見つけた。」

  白い息を吐き出し、笑んだまま、彼はゆっくりと足を進める。

 「やっと、会えたな。」

  ルビー、と、何度も呼ばれていたはずの彼の声が、とてつもなく懐かしく思えて、ルビーは首を緩く振っていた。
  信じられない、と。
  一度は、閉ざしたはずだった。
  捨て去ったはずの希望や、夢や、願いが、胸に色鮮やかに蘇る。

  たとえようもない激しい、歓喜。

  言葉にもできない思いが心いっぱいに広がっていく。



  来て、くれた。

  この世界に、このすべてを凍てつくす世界に、彼は来てくれた。
  そして、見つけてくれた。

  あれほど願って、焦がれて、祈り続けていた『それ』が、叶った。

  誰も見つけてくれないと思っていた。
  誰もここには来てくれないと思っていた。
  誰も、誰も。

  だが、彼は、見つけてくれた。

  会えた、と口にしてくれた。
  願いが、祈りが、確かに届いたのだと、知った。


  
  だが、それと同時に、

 「………どうして来たの。」

  心に、わけのわからいどす黒い感情をも蘇ってくるのを、ルビーは確かに感じた。
  そして感じる『それ』に支配され、唇が勝手に動く。

 「どうして、来てしまったの。」

  歓喜とともに、心の端からドロドロとした何かが、溢れ出す。
  一度は過ぎ去っていたはずの苦痛や、悲しみや、虚しさが、溢れてとどまることをしらないようだ。

 「私を、引きずり戻すの? あそこに? 私に、痛みしか与えてくれない、ところに。」

  夢も希望も、すべて、あたたかいと感じる感情のすべてが、冷たく凍えていくのを感じる。

  そう、白い世界は、ここにもある。
  ルビー自身のなかに、白い世界は、あるのだから。

 「俺はお前を連れ戻すために来た。」

  朔良が淀みなく答える。
  その瞳に一片の迷いもないことを見て感じ、ルビーは何か、わけのわからない何かに突き動かされるように、言い放つ。

 「終わらせてもくれないの!? 私は、もう戦ったでしょう? あなたの背中を守ったでしょう? みんなを守ったでしょう?
  これ以上、何と戦えと、いうの? 私に何を奪わせるつもりなのよ!!」

  ああ、そうだ。

  これは、憎悪なのだと感じ、その感情にルビーは戸惑った。
  どうしてそんなものを彼にぶつけているのだ、と、心の奥で思う。

  胸に鋭い痛みが走る。その痛みが、ルビーの心を真っ赤に、染め上げていく。

 「まだ、私に戦えっていうの? 奪い続けろっていうの?
  奪ったって、戦って、手に入れたって、私のなかには何にも残らないのに!」

  やめて、と心が叫ぶ。
  真っ赤に染め上げられていく心の中で、もう一人の自分が必死に叫んでいた。
  やめてやめて、そんなこと言わないで。
  自分で選んだ道のはず。自分で望んで、自分で願って、進んできたはず。

  だから、やめて、もう言わないで、

 「だって、もう誰も一緒にいてくれないのに!!」

 




  誰にも言わなかったことがある。
  あのとき、道しるべたる二人が、『一緒』にいてしあわせになる人を見つけたとき。

  誰にも言わなかったけど、言えるわけなんてなかったけど。

  本当は、とっても、寂しかった。

  二人が幸せになってくれるのが嬉しい。
  幸せになってほしい、とずっとそう思っていたから。

  でもね、でも、本当は、

 「見ていたでしょう?」

  でも、ほんとは、

 「無様だったでしょう? 笑えるでしょう? もう、私、戦えないのよ。」

  二人が離れていくのが、寂しくて寂しくて、たまらかなった。

  それでも笑って二人を見送れたのは、側にいてくれた人たちのおかげだった。
  ともだちで、
  同志で、
  仲間で、
  そして、戦友で、
  
  そんな人たちがいてくれたから、寂しさは薄らいだ。

 「だからもう、あなたにとって、利用価値も、戦友の意味も、ないの。」

  だけど、
  だけど、だからこそ。

  剣をふるうことができない今、それが心を苦しめる。

 「なんにも、ないの。」

  世界が、音を立てて崩れていくような錯覚。
  戦えなくなるのだと、聞かされたそのとき、世界は確かに色を無くして。

  自分の吐いた血を見て、終わりが来たのだと、悟ってしまったとき。

  また、ひとりになるのだと、考えてしまったとき。
  世界は、やさしい色をなくして、総てが消え去っていくのだと、思った。

  思ってしまった。

  願いは、途方もないもので。祈りは届かなくて、儚く消えていってしまうから。









 「お前は、何にも、わかってない。」

  その時、聞こえてきた声に、ルビーの意識は引き戻された。
  顔を上げると、見上げる先で朔良が立っている。

  だが、その顔は笑っていない。
  先ほどの深い笑みはどこにもない。あるのは、浮かんでいるのは、そう。

 「お前は、俺の言ったことを、何にもわかっていないんだな。」

  身の竦むような、激しい怒りだ。

  ルビーの体が一瞬ですくみ上がる。
  震えそうになるのを必死で抑えつける、視線を外すことが出来ない。

 「俺は、言ったはずだ。信じろ、と。俺を信じろと。」

  どうして信じようとしない? と続けて問われ、ルビーはそれに答えることができなかった。

  違う、信じていた。そう言い返そうとした、だけど。
  言葉が出ない。

 「怖いからだろう?」

  そして逆に確信をつかれて、息を飲んだ。
  信じることが怖かった。だから信じようとしなかったのだ、と断言され、困惑するように首を横に振る。

 「ち、ちが……っ!」
 「傷つくのが嫌なんだろう? 裏切られて、涙を流すのが嫌なんだろう?
  つまりお前は、」
 「違う!!」
 「お前は、俺たちのことを、俺のことを、少しも、信じていなかったんだな。」

  違う! とルビーが叫ぶ。
  声の限り、これ以上ないくらいに痛々しく叫ぶ。

  否定しながら、それでも心の底はキリキリと激しく痛みで締め上げられる。

 「……信じるに、足りなかったんだな、俺は。」
 「違う違う違う!!」

  頭が激しく混乱した。言葉がまとまらず、声は絡まるばかりで、そのもどかしさに心が悔しさでいっぱいになる。

  信じることは、辛かった。
  信じて裏切られるのが、怖かった。
  信じて、傷つくのが、どうしても怖くてたまらなかった。

  何度も、何度も、
  際限なく奪われていった、あのとき。
  自分の何かをもぎ取られていった、あの幼い日々が、自分の心の奥に冷たい何かを、もたらしていた。

  信じてどうなる?
  
 「俺の言葉も、優華さんやカイーナ教諭、それに他のみんなの言葉も存在でさえも。」

  やめて、とルビーは自分の耳を塞ごうと両手を持ち上げる。
  だが朔良の言葉はそれよりも速く、そして重い。

 「お前の心には、響いていなかったのか?」

  壊れてしまったら、もう、



  信じて、それが裏切られたとき、私はきっと壊れて動けなくなってしまうから。







  叫び声をあげ、ルビーは呆然と朔良を見上げながら、膝からその場に崩れ落ちた。

  ………こわされた、と。

  ただ呆然とルビーは、それを感じ取っていた。
  瞳は涙で滂沱することなく、表情はなにも浮かびさえもしなかったのだけど。

  こわされてしまった、と思うのに。

  それでも、どうしてだろう。
  疑問が、ふと、心に浮かぶ。

  どうして、私はまだ、動いているんだろう、とルビーは自問する。

  ……私は、いったい、何を壊されたのだ?

 「………お前は、一度、思い知ればいい。」

  ざくりと、唐突に朔良がルビーの前から移動する。
  雪を踏みしめ、深く足跡を残しながら、ゆっくりと、歩く。

 「俺の感じた痛みを。俺だけじゃなく、お前に関わっている人たちの痛みを、思い知ると良い。」

  ルビーが朔良の歩く先を視線で確かめ……そして、驚きで目を見開く。

  朔良の目指す先にあるのは、深い漆黒の谷。
  そこに向かって迷いもなく歩き、臆することなく進み続けて、その足は止まることさえない。

 「さくらっ……だめ!」
 「お前のしようとしたこと、お前が望んでいること、お前が俺たちに押しつけようとしたもの。」

  やがて渓谷の端に立ち、朔良はゆっくりと振り返る。
  そこに浮かぶのは、懐かしい、いつもの笑顔だった。

  だがそれゆえにこれ以上ないほど、残酷なものだ。






 「思い知れ。」






  ルビーが彼を止めようと立ち上がり、手を伸ばす。
  名を叫び、なんとか彼を引き留めようと足掻き、指先を限界まで伸ばした。

  それは、無情にも、数センチの差で彼の手を掴むことさえ出来ず、ただ冷たい空気を掴むだけになってしまったのだけど。

  落ちるその瞬間、目のあった朔良は驚くほど穏やかで静かな目をしていた。
  朔良の体は、ゆっくりと深淵に倒れ、重力にしたがって彼女の目の前で落下していく。

 「さくらぁっっっ!!!!」

  取り乱し、叫ぶルビーが見るのは、ありえない速度で落ちていく彼の姿だった。
  ……迷いは、なかった。

  ルビーもまた、地面を蹴り、底へ向かって落ちていく。

  重力に引かれただ純粋に落下していく。その先に『闇』たるものが待ちかまえていることを感じながら、それでも恐怖はない。

  恐怖するのは、そう、彼を失うということだった。
  闇など、彼を失うことに比べたら、どうということもない。眼中にさえない。

  ただ、落ちていく彼を助けることしか頭にはなかった。






 (………これでわかっただろう?)

  落下していくにしたがって耳にする凄まじい風音を聞きながら、朔良はそれでも気持ちは静かなまま、闇を眺めていた。

  ふと見ると、切羽詰まった表情で彼女が『やって来る』のがわかる。
  朔良は、穏やかに、穏やかに、ただ静かに笑む。

  それは仕方なさそうに浮かべる苦笑にも似たもの。

 (お前は剣なんかじゃない。『もの』、ならそんなに慌てたり、必死になったりもしないだろうに。)

  切羽詰まった表情で彼女が追いかけてくるのがわかった。
  
  その表情を見るまでもなく(そして、この距離では判別できるわけもない)、必死で、彼女が自分を捕まえようと腕を伸ばしているはずだ。

 (お前はな、ルビー。冷酷に人を斬れないし、冷徹に人を見捨てることだってできない。
  怖いのは、人間なら仕方ないことなんだ。)

  深淵が、腕を広げて自分を呑み込もうと待っているのも感じた。
  落ちてこい、と嘲笑うような、感覚。

  だが、それさえも朔良にとって関係のないこと。

 (難しいことをごちゃごちゃと……ようするに、お前はただの人間で、ただの女の子で、)

 「……そしてどうしようもないほど、優しくて、愛されたがっている……ただ、臆病なだけだ。」

  口にすればこれほどおかしいことはない。
  思わず声をたてて笑いながら、重力に身を任せる。 

  だが、ルビーが必死に腕を伸ばしているのが見てとれて、朔良もまたゆっくりと腕を伸ばす。

  絶望的なほど距離の開いた先、それでも彼は笑っている。

 




  信じているからだ。
  彼女が、自分を、助けると。理由なき、絶対的な自信と確信と信頼を持って。





  そして闇が腕を広げる。
  光は遙か彼方、切り取られた空の先に、かすかに見えるのみ。

  雪は未だ、降り続けていた。





 〜この腕を 、に続く。〜