朔良の返答に、タナトスはただ「そう」とだけ呟いて笑みを浮かべるに留まった。
肯定もしなければ否定もしない。そして、明確たる答えも聞いてはいない。
だが、彼はそれで『ひとまず』は満足した様子でゆっくりと指をさし、『目的地』を明確に教えた。
また、走り出し、そして退け、走る。
『そのあと』は、ただ劇的に、ただ目まぐるしく、すべては変わっていった。
サラとタロスによって完全に撃滅させられた相手方を振り切り、森の外で楓が一気に構成していた『魔法』を解き放つ。
向かう先は同行したタナトスによって決められ……とある組織の専門病院内となる。
はじめて楓の『移動』を体験した面々はぐったりとした面持ちで、
「……あんな、めちゃくちゃな構成と、理論と、おまけに…わけのわかんない何かで…飛ばされるなんて…詐欺だわ!!」
代表して優華がそんなことを口走っていた。
(まあ確かにかなり捻くったところもあるのだろうが、それでも複雑かつ難儀な構成によって編み上げられた『それ』は、彼女のような一般人のレベルからすると「めちゃくちゃ」なものに映るのだろう。
そしてそれを、サラスや舞鼓も否定しなかった。
ネスティは面白がり(『すっげー!!』」を連発)、珠洲は手慣れたもの、初体験のリョウとタナトスはいつもと変わらない様子ではあったが)
そこで緊急で全員、とくに怪我を押したまま動き回っていたリョウと優華は早々に処置室に放り込まれた。
他のメンバーもそれぞれ簡単な治療を受け、あたたかい食事を貰う。
……ルビーは、『飛んだ』そうそう、すぐに手術室に運び込まれていった。
「極めて危険な状態だって言っても過言じゃない。」
同じくスタッフにそう指示したタナトスが来ていたコートを脱ぎ捨て、『準備』に取りかかりながら説明する。
「詳しいことは話が長くなるからこの『応急処置』をすませてからになるけど、彼女、多分臓器がやられてる。
胃か肺か……おそらくそのどっちかをそこまでやられて、それで血を吐いたんだ。」
それは、長らくかかるであろうそれをする前に、各々に『わからせる』ためのものでもある。
無用な詮索と、無様な想像を消すための。
そこで常駐していたのであろう、看護士の持ってきた白衣を受け取り、袖を通す。
「その前からずっと痛かっただろうに、まったく、無茶ばかりする家系のようだね。」
おそらくリョウに向かって毒を吐いたのだろう。
簡単な検査(左腕のチェック)を受けながら「うるせぇ」と彼は毒を返す。
面白そうにそれを聞きながらも、タナトスは『話はそこまで』と言わんばかりに踵を返し、歩き出す。
「……大丈夫なんだろうね。『死』の神。」
その後ろ姿に、なぜか楓がそう言い放つ。
全員がなぜ、楓がタナトスをそんなふうに呼ぶのかわからない、と言った感じで振り返り、彼を見る。
だが楓は何も答えず、ただタナトスを見つめていた。
歩き出そうと数歩、足を動かしたところでタナトスが立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
「誰に言っているんだい? プロムフィールド。」
そこでタナトスもまた、楓を『楓』ではない名前で、彼のことを呼ぶ。
その顔は、すべてを平伏させるような、そんなものを孕んだ表情をしていた。
「僕は『死』を司る者。死すらも、僕の前に跪く。」
自信たっぷりに……いいや、確信を込めてそう言い放ち、タナトスは愉快そうに笑う。
そんなことも忘れてしまったのか、と『旧知』の者に言うような、響きで。
「それに僕も、実は彼女が損なわれるのは……少々、惜しいからね。」
短く返し、タナトスは今度こそ歩き出す。
振り返りもせず、答えもせず、ただ足を進める。
遠く、手術室の扉がしまり、赤々と光るランプが灯されて……
それから、すでに二日が過ぎていた。
『六日目(戦争終結、前日)』
奪還〜「必ず取り戻す。」「必ず連れ戻す。」「必ず、元通りにしてみせる。」〜
「ほい。」
とある部屋の前の長椅子に腰掛け(かなりの年代物)ていた朔良の目の前に、そう言われながら珈琲缶が差し出される。
差し出した相手を見上げると、左腕を包帯でグルグル巻きにし、顔面や右手などにもガーゼを貼り付けたリョウが立っていた。
「……カイーナ教諭…」
「ほれ、飲め。差し入れや。」
ずいっと有無を言わさず差し出され、とりあえず朔良がその缶を受け取る。
つい先ほど買ってきたばかりなのだろう。
それは手に心地よい冷たさをもたらす。
そのままリョウは朔良の横に何も言わずに腰掛け、自分もまた持っていた缶…炭酸飲料のプルタブを上げる。
炭酸独特の音がして、それからリョウが缶に口をつける。
一息ついて缶を下ろすと、ちらりと、リョウが朔良のほうを見た。
朔良は渡された缶を持ったまま、リョウのほうを見ている。
「…寝てへんのやろ? あれからずっと。いい加減、寝んと体が持たんで。」
ぎし、と椅子に体を預けながら言う。
その忠告に来たのは確かで、朔良もまたすみません、と謝る。
「でも、寝れないんです。気になって…その。」
「ルビーはんやろ。まあ、手術は無事にすんでくれたみたいやけど、あそこに放り込まれたまま面会謝絶やしなぁ。」
ぼんやりと『あそこ』と称する部屋、集中治療室の扉を眺める。
そこには英語で『面会謝絶』とだけ書かれていた。
「気持ちはわかる。けど、寝ぇへんのは体に毒や。
……こんなこと言っといて、コーヒーなんか差し入れする僕も僕やけどな。」
苦笑を浮かべるリョウに、朔良もようやく表情を緩める。
そして持っていた缶のプルタブをようやく持ち上げ、口を付ける。
コーヒー独特の苦みが、口内に広がっていく。
それを視線で確認すると、リョウはまた部屋のほうを眺める。
そのまま、しばし、沈黙が降りる。
「……………カイーナ教諭。」
そして、先にぽつりと口を開いたのは朔良だった。
名前を呼ばれ、リョウもまた「なん?」と聞き返す。
「…ひとつ、お聞きしたいことがあります。」
ようやくそれだけ言って缶を横に置く。
かつん、と音をたてて缶が置かれると、静寂に響いていくような錯覚さえ起こす。
リョウは何も言わない。
「………知っていたんですか。」
「…ああ。」
だが、朔良の質問の内容は予感していたようで、ただ彼の一言に簡潔に答えてみせた。
「なぜ、止めなかったんですか…あなたなら、それができたはずだ。」
まるで責められているようだ、とリョウは思う。
実際、責められるべきことだろうし、自分も何かするべきだったのだろう。
だが、できない。
リョウは、それが、『できなかった』。
「…できへんよ、僕には。」
「なぜです……っ! あなたはあいつと近しい者だったはずです。あなたなら…いや、もしそれを優華さんに教えていたら!」
彼女なら、全力で止めたはずだ。
ありとあらゆる手段で持って、あるいは自分すら盾にして、止めたはず。
だが優華は知らなかった。
彼女は何一つとして知らされていなかったのだ。ルビーについての、ことを。
『時限爆弾』を抱えていたことを。
だから何も出来なかった。彼女もまたルビーのことを信じていたから。
「……言えると思うか?」
ぼそりと、リョウが呟く。
その声はすべての感情を固く閉ざした声。溢れ出さないように、強固な意志でもって、止めた低い声。
何かに耐えるような、声。
「『剣を捨ててしまえ』……あいつにとって、生きる意味すら奪い去るような言葉を、僕が言えると思うんか…?」
そして手にしていた缶に力を込める。
するとそれはまるで飴細工か何かのように、簡単にぐちゃりと握りつぶされた。
溢れ出した炭酸が音を立てながら流れ落ちる。
まるで、涙のように。
「僕かて、信じとぉなかったんや…っ! だから口にできへんかった、言えれへんかった!!」
ガッ、と音をたてて椅子に拳を振り下ろす。
缶を握ったままだったこともあって、その瞬間、リョウの掌から血がしたたり落ちてきたが、彼はそんなことを気にも留めなかった。
不甲斐ない自分を責めるように、何度も拳を振り下ろす。
何度も、何度も。
それは、怒りにも似た。
「生きててほしい。けど、僕は、ルビーはんに『剣』以外の何かを与えられるほど、万能やない。
優しゅうもないし、頭悪いし………言葉かて、ない。」
守るだけしかできないのだ、とリョウは言う。
それは体で守るだけ。言葉では、そんなものでは、奇跡のようにルビーを救えないことを知っていたから。
奇跡は、一度きり。
あの、雪の日。あの、街で。
使い切ってしまったから。
「出来とったらしとった! 救えるものなら救いたかった!!
けど、僕には……僕には、奪うだけしかできへん! そしてもし、あいつから『剣』を奪ったら…ルビーはんは、あいつは…!!」
きっと、自分を止めてしまうだろう。
そんな予感があった。
ルビーとリョウは確かに似ている。
銃を使うということ。剣を振りかざすということ。力で持って、大切な者たちを守るということ。力で持って、敵を滅していくこと。
だが、けっして相容れない。
リョウには、昔から理解者が近くにあった。
不思議なもので、どんなに荒んでも、荒みそうになってもそこから救い出してくれる者が必ずといっていいほど現れた。
それは、今はすでに亡い師匠であったり、
遠くにいながらそれでも絆を裏切らない親友であったり、
約束を交わした少女であったり、
未来を共にする、愛する人であったり、した。
しかし、ルビーにはそれがない。
彼女は一度、闇の其処まで『堕ちて』しまった。
今は確かに持ち直していた。
けれど、それでもまだ。
側にいることはできても、道しるべになることはできても、きっと救えない。
奪うだけしか、自分にはできないから。
ルビーに対してそれだけしかできないから。
それは、大人のする、諦め。
そんな言い訳。
なんて、卑怯な。
「……すみません……」
ぽつりと、朔良が言う。
それでリョウは我に返った。
「すみません…こんなの、八つ当たりなんです。俺こそ、側にいながら、その場にいながら、何もできなかった。」
何度も口にする謝罪の言葉。
傷ついた魂を持って、紡ぎ出されるそれ。
けれど崩れ去ることのない、決意を秘めたもの。
リョウは微かに笑う。
「いや、あんたがいてくれて良かった………あんたやったから、ルビーはんは踏ん張れたんやろうな。」
それは真実だ。
リョウがあの場にいたら止められたのかもしれない。だが、リョウがもしあの場にいたら、瑪瑙はどうしていた?
リョウと戦った、あいつはきっと残っていた者たちに牙を剥いていたはずだ。
「あんたが守ってくれたから、ルビーはんは『とどまれた』んや。こっち側に。」
楓があの場にいたらどうにかできたのかもしれない。だが、それではルビーは、きっと『こっち側』にはいなかったはず。
「あんたで、良かった。」
ああ、なんてひどいことを。
なんてひどいことを口にしているのだと、リョウは自分自身を嘲る。
彼は後悔しただろうに、悩んだだろうに、痛みを知ってしまっただろうに。
それで良かったなどと、口にしている。
なんて卑怯。
「ありがとう。」
それでも、本当に感謝していたから。
リョウは朔良に向かって頭を下げる。深々と、けれど真摯に、頭を垂れた。
「ありがとう。僕の家族を守ってくれて。」
万感の思いを込めて、
「ほんまに、ありがとう。」
そう、口にする。
「でもね、リョウ。」
そのとき、靴音が廊下に響く。
声とともに静かな廊下に響き、高く、高く、残る。
「最後まで、そうなるとは限らないだろう?」
朔良が振り返ると、やはりそこにはタナトスの姿があった。
何時の間にやって来たのか足音一つ、気配ひとつ、たてはしない。
「……お前…あいっかわらず、趣味悪いなぁ…」
突然の登場には慣れているはずのリョウが、深い溜息をつきながら下げていた頭を上げつつ、タナトスのほうを見る。
「これはただの僕の趣味。」
「せやからお前はいつまでたってもともだち出来へんねん。」
「君との関係は?」
「知人。」
きっぱりと言い切るリョウを見ても、タナトスはいつものように笑っているだけだ。
気にした様子はなく、むしろリョウの反応を面白がっている節さえある。
笑うタナトスを相手にしながらもリョウは引くことなく、もう一度溜息をついて、口を開いた。
「で。何か進展でもあったんか?」
ルビーのことで来たのだろう、と暗に言うと、タナトスは首を横に振る。
「いいや、彼女は眠ったままだよ……しかも、このまま眠り続ける可能性が出てきた。」
どちらかというと悪い知らせであった。
瞬間、苦い表情を浮かべる朔良と、舌打ちをするリョウ。
「どういう意味や?」
それでも踏んできた場数の差でもって冷静さを保っているリョウが、タナトスに聞き返す。
タナトスは、くるりと踵を返すとついておいで、と言って先に行ってしまう。
その様子に自分勝手なやつ、と毒づきながらもリョウが先に立ち、後に続く。
朔良も慌てて二人の後に付いていった。
靴音が三人分。
静かな廊下に響き、しばらく言葉もなく三人は歩いていた。
目的地を知るのはタナトスであり、あとの二人はついてきているだけ。
「よくあるパターンだよ。彼女は目覚めを心で、拒否してる。」
やがてタナトスが振り返りもせずに話を始めた。
顔を上げ、視線を流すリョウと朔良の気配を感じながら、タナトスは続きの言葉を口にする。
「体のほうはどうにか……本当にどうにかだけど、持ち直した。あそこまでひどいのは戦場でだって見たことないよ。」
爆薬で吹っ飛んだ死体以外ならね、と冗談めいて言う彼に、朔良が眉根を寄せて見る。
リョウは短く注意の言葉を出すと、タナトスはやはり気にも留めず、ただ自分の話を続けた。
「長い間放置していたと思われる疲労骨折が両足、背中、両腕、手首にまで及んでいた。
おまけに、ずっと昔…そう、小学生か、中学生くらいのときに何度も骨折した箇所をそのままで放置していたところ…他にもヒビが入っていたりして、『素人』がやったとしか思えないような幼稚な固定処置をしていたのが原因と思われる変形したところもあった。
そんな脆くなった骨が強力が『外』からの力によって砕かれ、中で肉なんかを痛めつけていた。
……他にも色々と弊害を起こしてたけど、聞きたい?」
ずらずらとそんなことを並べ立てられ、リョウがまず舌打ちをする。
朔良はただ、並べ立てられた『現状』を理解しようと必死で、頭を巡らす。
だがそこまで認知できない。
あまりにも、途方もない話だ。そんなものが現実に起こりうるのか、信じがたいものでもあった。
「現実だよ。」
そしてそんな朔良の考えを見越してか、タナトスが言う。
「現実離れしてるだろ? 僕だってそう思った。けど、僕は、自分の目で見たものは、現実だと断定してる。」
そんな状態で、今まで動いていたのかと思う。
それさえもタナトスは予感していた。
「…痛み止め。彼女は毎日のように飲んでたよ。元々、『あんなこと』があって痛覚が人より鈍くなってたらしいけど、ね。」
「…………ずっと、ですか?」
「そ、ずっと。はっきり言って、処置をしようにもどこから手をつけていいのか…リョウはそこまでひどいのを知らなかった。僕と、そしてあの子の『大兄』と翡翠だけが知っていたんだ。
そして彼女も、すべてを知っていた。
治そうと思ったらかなりの大がかりなものになる……下手をすると、彼女は、二度と剣を持てなくなるかもしれなかった。」
だから、手を引いていたというのか。
彼女が望まなかったから何もしなかったのか。
なにも、しなかったと。
「……今を、大切にしたいんだって。壊れるくらいなら、大切な人たちの『今』を守りたい。
やがて自分の変わりに大切な人たちを『しあわせ』にしてくれる誰かが現れるまででいいから、ってね…」
それをして壊れるのは、怖くてたまらない。
だから、壊れてしまってもいいから『今』、あの人達を守りたい。
そのまま放置しておけばどうなるかを知っていたくせに……!!
「治しても…もし『剣』でなくなったら彼女は、自らの命を絶っていた。」
タナトスが唐突に立ち止まる。
ぽつりと言葉をこぼし、ただ後ろ姿でもって前を見据えている。
「何を彼女が恐れているのか、誰にも正確に知ることはできない。だけど『昔』の彼女は己を剣だと思っていた。
剣が、剣でなくなる。存在を否定され、人でも、剣でもないものだと、つきつけられるようなもの。
……そんな状態が、いつまでも続くとどうなるか、想像くらいつくだろう?」
救われなければ、暗闇に身を落とされ続けていれば、ただ何もないのだと思い続けていたら。
どうなるか、くらい。
(真っ暗闇のなかで、人がいつまでも狂わぬままでいられるはずはない。
希望すらないなかで見る絶望はひたすらに心を締め付けていく。切り刻んでいく。
そんなものに、耐えられる?)
そして、それが今まさに起きているのだ、と。
「あいつは人間です。」
唐突に、朔良が口を開く。
タナトスが振り返り、リョウが驚きを持って振り向く。
「あいつは、人間なんです。」
ただそこにあるだけで、人間というものなのだと、なぜわからない。
言っていたはずだろう。
ともだちも、
同志も、
みちしるべたちも、
たくさんの人が、言ったいたはずだろう。
「剣であっても……剣は、たとえ壊されても何度でも、蘇ります。」
叩き折られても、壊れても、錆びてさえいなければ。
その閃きさえ失わなければ、剣は何度でも蘇る。
一度折られてそのままうち捨てられるような剣ではない。
「あいつの何かを否定する輩など、あいつの側にはいません。」
彼女のまわりには、たくさんの優しい何かを持った人たちがいたはずなんだ。
どうして、それを信じない。
どうして、信じようとしない。
誰も、裏切ったりしないのに。
誰も、傷つけたりしないのに。
「そして剣でなくとも、必要とします。」
ただ、しあわせでいてくれたらそれだけでいいのに。
ただ、笑っていてくれたらそれで十分なのに。
気がつくと、リョウが笑っているのがわかった。
タナトスがじっと、朔良自身を見つめているのも、わかった。
まるで何か眩しいものでも見ているかのように、目を細めて眺めている。
「………及第点、ってところかな。」
そうしてぼそりとタナトスが呟き、またさっさと歩き出す。
「僕だって手を拱いていたわけじゃない。なんとか、編み出した……彼女を治す、力。それでもまだ完璧じゃないけど。
…まったく、年寄りに鞭打ってくれるよ、あの子も。」
今度は何も言わせない。このままだと、彼女は確実に損なわれることになる。
剣を握れるようにする。再び、その力をふるえるように。
それでも長い時間がかかってしまったし、まだ『完璧』とは言えない。
でも、希望はある。
まだ、それだけは。
その後ろ姿を今度こそ呆然としながら見つめる朔良の背をリョウが軽く叩いた。
振り返ると、彼は本当に嬉しそうに笑っている。
本当に、本当に、嬉しそうに笑っていた。
「やっぱ、あんたでよかったわ。」
そう言ってリョウもまた歩き出す。
案内されるがまま、ただ足を進める。朔良も仕方なく、少しだけ不満も含めて後に続く。
……君がいてくれて、よかった、と。
そう言えることの、卑怯。
そう言えることの、幸福。
なぁ、ルビー?
早く起きてやれ、そして笑ってやってくれ。
きっと優華は怒るだろうし、舞鼓はお説教の嵐だろうし、自分だって一発くらい平手打ちをしたい。
でも、はやく。
はやく、目覚めてあげてほしい。
少なくとも、自分の後ろに続いている彼のために、目覚めてやってほしい。
現実は痛いかもしれない。
苦しいだけかもしれない。
泣いてしまうくらい、辛いものなのかもしれない。
それでも、信じてほしい。
いつまでも続く暗闇はない。
いつか必ず、光はやって来る。それが今、きっとここにあるから。
すべての人に言いたい。
彼女に出会い、言葉をくれた人々……救いの手を差し伸べてくれた人たちに、言いたかった。
ありがとう、と。
やがて、タナトスは地下のとある一室の前で立ち止まる。
「とりあえず、あの子をたたき起こさなきゃいけないんだ。」
重苦しい分厚い鋼鉄のドアの取っ手を引くと、ゆっくりとそれが開く。
すると途端に身震いをするような冷気がもれはじめ、空気の温度差によってだろう、白い空気が隙間から溢れ出す。
そして完全に開け放つと、そこにはたくさんの機械が置いてあった。
どんな系統のものか理解するのは難しい。
だがたくさんのモニターに加えて、メインとなるサーバー、低くうなりを上げる多くの機械の箱たち。
繋がれたケーブルは床の至る所に伸びていて、まるで一種の蜘蛛の糸のようだった。
モニターには膨大な量の文字が走り続けている。
「……これ、は。」
なんや、と思わず呟くリョウに、タナトスは答えずゆっくりと歩みを進めた。
部屋の中程まで行くと、
『先生。』
スピーカー越しだと思われる女性の声がした。
見ると天井近くに監視カメラのようなものがあり、ついで小型のスピーカーまで取り付けられている。
「準備のほうはどうなっている?」
『現段階まで突入準備88%を完了しています。』
「ちょっと遅いな……あとは安全のチェックだけ?」
『いいえ。チェックと進入路の特定を含めています。』
やっぱり進入路が問題か、と呟きタナトスがモニターのひとつを眺める。
吐く息が白くなり、文字をなぞる指先は冷えて白くなっていた。
「いつか、君には話したよね、リョウ。」
そして『現状』の確認をすませたのだろう、突然、リョウに向かって話を始める。
振り返りながら、ひらっと片手をあげる。
「人は心でも死ねる……とある一説によると、長い間極度のストレス。死にたいと毎日強烈に願うような、本当に切迫したものだと脳が自死してしまったことがあったって。
彼女の状態はそれととてもよく似ていてね。早く起こさないと、いけない。」
それでも心が目覚めを拒絶していた。
だから彼女は目覚めない。
「……まあ、ここから先はちょっと難しいの話になるけど。
魔法と科学、その二つを組み合わせて、『これ』を作っていたんだ。人の心……潜在意識みたいなものかな、そのなかに『他人』が入り込むことの出来る技術。脳神経を魔法によって『引っ張り出して』きて、ダイバーとリンクさせるんだ。」
詳しいことを説明してもいいけど、長くなるし難しいよ?
と、タナトスが言うとすでに冒頭の説明だけで頭を抱えそうになっていたリョウが、いやいい、と答えた。
「いらん、んなもん。」
「ううん。やっぱり君って本能で生きてるよねぇ……まあ、ひらたく言えば人の心のなかに入っていくことのできる機械、と言ったところかな。
魔法も応用してるから、機械と一概には言えないんだけどね。」
そこで部屋のなかに、かつん、と足音が響く。
三人のうちの誰でもないものだ。
冷気で気配が隠れていたのか、それともそこら中に置かれている機械の箱の影に隠れていたのかまったくわからなかったが、一度響いた靴音が続けざまに響いて近づいてくる。
見ると、頭に重々しいヘッドギアを装着した人物がやって来る。
両腕にもまたケーブルで繋がれた名称のわからない機械をつけており、ヘッドギアに至っては顔の半分を覆い尽くしている。
「……優華はんか?」
だがその間からのぞく黒い髪でなんとなく気づいたのかリョウがその相手の名前を口にする。
「ぴんぽーん。さすが兄さん、よくわかったわね。」
声も出してないし、顔だって隠れてるのに。
からかう調子でそう言った優華だったが、そのまま、タナトスが『いる』と思われるほうへと首を巡らす。
「魔法と科学を応用してる? 応用どころか、こんなめちゃくちゃで、破天荒で、わけのわからない理論と技術で埋め尽くされたものなんて、私は今まで二度くらいしか出会ったことありませんよ!!」
そして毒を吐いた。
するとタナトスが声を上げて笑ってみせる。
「さすが、そこまで気づいたんだ……でもめちゃくちゃとは失礼な。
色々とねじ曲げる必要があったんだよ。人の心っていうのは、まだまだ解明されてないところが多いし。」
「やっぱりめちゃくちゃなんじゃないですか。」
ぼそっと容赦ないツッコミを入れながら、優華は大きな溜息をつく。
同じく二人の会話を聞いていたリョウが、疲れた様子で溜息をついていた。
まったく同じタイミングでされた溜息(かなり呆れが入っている)を吐かれても、タナトスは軽く笑い飛ばすだけだ。
表情に変わりはないが、それでも黙ったままの朔良のほうへと振り向く。
その顔は、笑っているのに真摯な目をしていた。
「起こしてきてくれないかな?」
簡潔に、そして主語なくそう言い放つ。
それを聞いた優華の顔(下半分だけだが)が大きく歪み、リョウもまた驚いたように急いでタナトスのほうを見る。
「……え…」
朔良は突然言い渡されたことに唖然とした様子であった。
間の抜けた声を出してしまうと、タナトスは大業な様子で肩をすくめる。
「僕の『治療代』はね、お金じゃないんだ。別にそんなの腐るほど持ってるし、必要なものじゃない。おまけに面白くない。
一つのことを与えるけど、僕もひとつのものを貰う。今回は、君から貰うことにしたんだ。」
「ちょ………タナトスさんっ!」
「お前、悪趣味やで! 勝手にんなこと決めんな!!」
タナトスの言葉に優華とリョウが揃って止めようとする。
だがタナトスはそんなもの聞こえないふりを決め込んで、目の前の朔良を見つめ続けている。
「僕は彼女を治す。だけど、そのために君が彼女を起こしてくれたらいい。
……それが、今回の代価だ。」
感情のこもらない漆黒の瞳が、彼の姿を映し込んでいる。
「…もう一度、出会っておいで。」
それは君の望みでもあるんだろう? と暗に言う。
突き放すように、試すように。
けれどそれはまるで、優しく見送るようなものだと、朔良はなんとなく感じた。
「私が行きます! こんなめちゃくちゃな理論のなかに朔たんを入れるだなんて…!!」
「君にはナビゲーターをしてもらわなくちゃいけない。ダイバーとナビゲーター、二つを兼用できるほど人の心は器用じゃないんだ。」
「なら、僕が…!」
「君じゃ、駄目だよ。その理由は……君が一番よく知っているはずだ。」
それでもなんとか反論しようと、優華とリョウが必死に何かを言う。
二人とも、朔良の身に何かあったらと案じているのだろう。
優しい人たち。
道しるべと彼女が呼ぶのも頷けるような。
もう一度、
何があっても、何が起ころうとも、
もう一度出会うことができるのなら。
「………はい。」
たった二言の返答。
短い言葉のなかに隠された確かなそれが揺るぐことがないことを感じ取り、タナトスが静かに笑む。
それはやはり、優しい何かを含んでいるようだと、場違いにも感じられるような。
「リンク状況を。」
『イエス、ナビゲーター。
モニター、すべてオールグリーン。すべての装置、魔法、正常に作動しています。』
『1番から6番までの回線、準備完了。』
『被験者の脳波、安定しています。』
それから1時間ほどたった。
機械という機械に埋め尽くされた部屋の中央で、優華が指先を動かし、細かく指示をさす。
タナトスから簡単な指示(元々、リョウと朔良が来る数時間前にこの部屋に連れてこられ、機械と『繋げられた』のだ。そこから作業内容などを頭に叩き込んでいる)を受けたあとは、彼女が自分の思うように準備を整えている。
「…バックアップの準備は?」
『はい。バックアップはあわせて三人。補助に二人がまわっています。』
『エネルギー充填完了まで、残り180秒。』
『錬成、はじめてもよろしいですか?』
「好きに。こちらも、そちらの錬成が完了次第、突入準備に入ります。」
『了解。』
にわかに機械達が鳴動を始める。
モニターに走る文字羅列が急速になり、次々と魔法の錬成準備に入るアラームを鳴らす。
「………朔たん。先に言っておきますよ。」
そこでようやく一段落ついたのか優華はおそらく目の前にいるだろう、彼に向かって口を開く。
視界をヘッドギアによって塞がれ(おそらくそこに情報装置があるのだろう)て、部屋のなかの様子は見えていない。
「捕まらないでください。何が起きても心を乱さず、何があっても自分を見失わないでください。」
「……専門的な話じゃないんだな。」
そして彼女の予想通り、優華の目の前…人二人分が入るほどのスペースを開けて朔良は立っていた。
「準備はすべて私が……それが、ナビゲーターの役目ですから。
だから朔たんは、潜ったら出来るだけ速やかに姉さんを捜し出してくださいね……長引けば長引くほど、危ないですから。」
もし他人の心に『捕まれば』、もう後戻りができない。
引きずり込まれれば戻ってはこれないだろう。
他人の心というのは、心というのはそれほどに深く、真っ暗だから。
「…具体的に、どうしたらいいんだ。」
「まず、部屋を見つけてください。」
「部屋?」
「人の精神世界を具現化した場合、形は様々ですけど…部屋が、あるんです。心みたいな。だから、それを判断して見つけてください。
私も出来るだけお手伝いしますけど。」
そこで優華は言葉を切った。
唇の端を歪め、苦々しそうに呟く。
「はっきり言って、ナビするだけで、手一杯ですから。」
複雑な構造。難解な理論。
それを理解し、掌握し、手なずけるだけでも今の優華には手一杯な状況だった。
こんなもの、本当に趣味でしか作れない。
これを簡単に動かせるものがいるとしたら、その人に尊敬と変態の烙印を押しつけてやろうと、優華は心に決めた。
それを聞いた朔良が表情を緩める。
「頼りにしてる。ルビーが一番頼りにしてるのは君だから、俺もそうさせてもらうよ。」
「うわぁ、プレッシャーかけないでくださいよ。」
本当に一杯一杯なんですからね、と恨みがましく優華が呟く。
『ナビゲーター。』
そこで唐突にスピーカーから声が聞こえてくる。
すると優華の表情が一変し、顔をあげてスピーカー……いいや、監視カメラがあるほうを見上げる。
「完了ですか?」
『はい。すべての作業、完了しました。』
「早いですね、さすがタナトスさんのチーム。」
『お褒めの言葉、感謝します。ですが、まだ被験者の帰還に成功していません。』
「はい。すべては帰還成功後に。」
そうして優華がスッと朔良のほうへと顔を下げた。
「……いいんですね?」
最悪の状況だって起こりうることなのだ。
本当に、覚悟はあるのかと、優華は再三、朔良に問う。
そして朔良もまた、同じように、答えた。
「ああ。必ず、連れ戻す。」
優華が笑う。
それは仕方なさそうなものにも見えたし、瞳が見えないからどんな意味合いかは正確に知ることは難しいのだけど。
それでも、彼女は笑って見せていた。
何も言わず、優華がすっと片腕を持ち上げる。
朔良が同じように手を持ち上げ、優華の手に触れた。
それを感じ取った優華が、叫ぶ。
「……突入準備、スタート!!」
それを合図に、機械の鳴動が激しくなる。
目まぐるしく動いていたモニターの羅列は錬成陣やルーン文字、果ては東洋の呪式まで取り込み、動き出している。
『全回線、全回路開きます。』
『仮想空間構築開始。』
『バックアップの詠唱、リンク、共にスタートします。』
『エネルギー安定……………すべて正常。』
莫大な情報が動き、それを『手なずけよう』としていた優華の顔に苦悶が浮かぶ。
はっきり言って猛獣を相手にしているほうが遙かにマシとさえ思える。
生きていないもの、感情の伴わないもの、ただ『そこに存在する』だけというものを相手にするのは、正直、心も体も疲弊するような感じだった。
それでも自身でも魔法を組み立てる。
それが『始まり』であるから。
願いを、叶えるために。
もう一度出会いたいと、思うから。
『………………突入開始、いつでもいけます!!』
「我、汝に願う……汝は死の交差点に立つもの。すべての魂の理を知り、罪を知り、道を指し示す者!」
詠唱は口から紡ぎ出され、魔力は力を持ち、意味を持つ。
『ラプラス、発動!』
「『ゲーデ』! 汝の指し示す先を、我に示せ!!」
そこで朔良は意識を失った。
うたが、きこえる
〜Dominion に、つづく〜