「……ここに来ちゃいけないって、言ったはずなんだけどな。」

  気がつくと、あの白い世界のなかに立っていた。
  
 「君はここに来るべきじゃない。そう、『あのとき』に言ったはずだと思うけど?」

  そして目の前に立っているのは、『あの日』出会った顔も知らない『誰』か。
 
 「…わかってるのかい? ここは……ここに留まったら、もう、戻れない。もう、帰れないんだ。
  ずっと、ここに囚われることになる。」

  ここは永劫の白。
  永久の牢。
  永遠の、静寂。

 「…きみは、もう迷わないんじゃなかったの?」

  だって、もう。
  だって、もう、疲れた。

  祈りは届かなくて、願いは儚く消えていく。
  希望は絶望までの先延ばしでしかなく、ただ心だけが切り刻まれていく。
  どれだけ悲鳴を上げても届かない。どれだけ助けを求めても誰もやって来てはくれない。

  そんなの、そんなの……あんまりじゃ、ないか。

 「……紅涙。」

  そんな顔をしないで。
  あなたのせいじゃないから、そんな顔をしないで。

  ただ、私はもう、疲れただけ。

  願いも、祈りも、望みも、すべては
  すべては、求めるにはあまりにも痛くてたまらない。

 「………紅涙。」

  それよりなによりも、辛いのは。痛くて悲しくて、どうしたって涙が止まらないのは、独りでいるということ。
  独りで生きていかなければ、いけないということ。

 「それは、違う。違うんだ。」

  これからさき、たった独りでどうしろというの?
  誰も側にいてくれない。誰も、だれひとりとして、いてくれない。

  そんなこと、耐えられるわけがない。

 「違うんだ……『ルビー』。」

  ずっと言えなかった。ずっと口にはできなかった。できるわけがなかったから、こんなこと。

  私の灯火たち。
  私のともだち、同志。
  私の心に恋を落とした人よ。
  私の、いとしいひとよ。

  あなたたちすべてをなくしてまで、生きる理由が私には見つからないのです。
  




  だからこそ、私は、すべてを扉を閉じてもう終わりにしようと、
  そう、願ったにすぎないのです。
  (あなたたちにこの世界を触れさせないためだなんて、そんなの体の良い言い訳にすぎません)









  覚悟、代償、昏睡、夢、そして。〜現世と常世を行き来する物語〜









  崩れ落ちたその体に、すべての思考を奪い去られたように、誰も何も出来なかった。
  呆然と見て、そして何が起こっているのかを認識しようとし、だけど何が起こっているのかその判断が出来ないでいる。

  少なくともその場に居た三人…舞鼓と、サラスと、そして朔良は、そうだった。

  ただ何も出来ずその光景を目の当たりにして、ただ時間だけが何の関係もなく過ぎ去っていくのを感じていた。
  やがて舞鼓の顔にありありとした恐怖が、浮かぶ。
  体を震わせ、首を横に振りながら、目の前の光景を『否定』するように、絶叫、した。

 「                   」

  その声は、まさに絹を引き裂くような高い悲鳴。
  悲鳴を聞きつけたリョウたち(後方からやって来ていた)が急いで走り寄ってくる。

  サラスもまた、その悲鳴によって皮肉にも己を取り戻し、倒れ込んでいる少女の名を何度も呼んだ。

  しかし、それを聞きながらも朔良は、

 「………ぁ…」

  まだ、何も出来ずに、いた。

  唇は凍り付き、視線はそこから動くことを許さなくなってしまったかのように、ただ一点を見つめている。
  赤。
  そう、鮮烈なまでの赤に、魅入られているかのようだ。

 「……ぅ……ぃ…」

  風で揺れる金髪。閉じられた瞳によって、いっそう幼く見えるその顔。
  小さな体。どこもかしこも細い。
  だが、こんなに、小さかったか?

  こんなにも、小さく、細く、か弱いもののように、見えたのだろうか?

 「     ……姉さん!!」

  そこでようやく、おそらく悲鳴を聞きつけて全力で走り寄ってきたのだろう、優華が朔良のすぐ側で座り込む。
  ちょうどルビーの体も近くにあって、それをよく見ようとしている。

  その声には焦りとか、そういうものばかりが滲んでいた。
  だが頭のどこかは冷静なのだろう。すぐに顔を上げて、楓とリョウ(おそらく今この場で、もっとと『適切』な人物だからだ)の名を叫ぶ。

 「……朔良さん!」

  そうして唐突に、名前を呼ばれて朔良がハッと我に返る。
  ひどくゆっくりと優華のほうへ振り返る。
  (ああ、右目を怪我しているのか包帯で右の顔をぐるぐる巻きにしている。そんな、どうでも良いこと)

 「朔良さん…姉さんは、いつから……こんな、ことにっ!」

  まるで責められているようだ、と、そんなどうでもいい想像を朔良はしてしまっていた。
  本来ならこの状況を正しく把握しようとしての『質問』なのだろう。
  怪我の状況(怪我なのかはまだわからないだろうが)を正しく、そして正確に手に入れようと。

  それでもまだたかだか十代の少女が『冷静』になるには、あまりにも状況は悪すぎた。

  それは、この場にいる誰もが同じこと。

 「……わから、ない………」

  ぽつりと、ようやく『意味』を持った言葉を口にしながら、それでも朔良は自分の返答に苛立たしささえ感じていた。

  わからない、だと。
  わけがわからない。だが、どうしてこんなことになったのだ。どうして、
  どうして、この少女は、こんなになるまで、言わなかったのかと。

 「…怪我は……『治した』…はず、なんだ…どこにも、外傷は…なくて………突然、血を、」

  本当に?
  本当に、何も兆候はなかったのか?

  『何も』?

  そこで朔良は思い出す。
  鮮明の悪い映像器が鈍い音をたてて蘇りように、映像を再生していく。
  思い出すのは、そう、『彼女』の腕が切り落とされる、数瞬前。

  突然立ち止まった体。呆然と何かを受け入れる彼女。
  それまでの嵐のような剣戟が、まるで嘘のように止まり、そして。

  そして、腕が、落とされた。
  そのとき彼女の『なか』でいったい何が起きていたのだ。

 「…………そんな。」

  ならば、ルビーはひょっとしたら、『そのとき』からもう、壊れだしていたのではないのか。
  壊れた歯車。
  動きを止めた、その姿。だからこそ落とされてしまった片腕。
  …それを、動かしたのは誰だ?
  彼女が、再びその体を動かしたのは、誰のせいだ?

  いったい、誰の…!!

  ぽん、と肩を叩かれ朔良は唐突に『内』から『外』に引きずり戻された。
  見ると優華とは正反対の位置に楓がいる。
  つまり朔良のすぐ隣。肩を叩いたのは、楓なのだろう。

 「…楓、さん……」
 「君のせいじゃない。」

  唐突に切り換えされた。
  名前を呼ばれて返事をするように、すんなりと、楓はそんなことを口にする。
  その表情は常ならば滅多に見られない、真剣なもので。

 「…おれ、が…」
 「君のせいじゃない。」
 「おれが、いたから…」
 「それは違う。」

  たぐり寄せるように視線を落とす。
  赤に染められたまま、少女はそこに横たわっている。
  この子を、ルビーを、『こんな』にしたのは、いったい誰だ?

 「誰のせいでもないんだ。朔良。」

  そんな、戯れ言。

 「『これ』は、誰のせいでもないし、みんなの…そして、このこ自身のせいなんだよ。」

  その言葉は、まるですべてを知っていたかのような口ぶり。
  (ああ、そうだ。楓は、前にも、そんなことを言っていた。)
  
 「…楓さんは、知って…いたん、ですか…?」

  問われ、楓が何かに『祈るように』目を瞑り…それから、ゆっくりと頷いた。
  
 「知ってた。ずいぶんと前に…このこから『こうなる』ことを、聞いてたんだ。」

  それならば、
  あなたなら、止められたのではないかと、朔良の思考が追いつくよりも早く。




  タァン、と高い音が、した。




  その銃声が聞こえ、近くにあった草(地面)が抉られるのを見て、全員の意識がそちらに向けられる。

 「………ふせろぉ!!!」

  続けざま、最後尾(他の者を守るために)から来ていたリョウが叫び、そのまま『ひとっ飛び』で朔良たちの前に躍り出た。
  腰に下げていた自動拳銃(オートマチック)と回転式拳銃を手に取るや否や、その銃口が同時に火を噴く。

  撃鉄を上げる瞬間さえわからない。
  だがそれでもほぼ同時に発射された銃弾は、確かに、『敵』の気を逸らしたようだった。

 「走れ! ここは『壁』がないから標的にされてまう!!」

  言いながらそれでも微かに動く『影』を捉えて正確に射撃を続ける。
  その言葉を聞いて真っ先に動いたのは珠洲だった。
  未だ呆然としているサラスの腕を引っ張り上げ、舞鼓の頭を軽く叩き(悪いとは思ったのだろうが、手っ取り早く)、ネスの背中を平手で打ち据えて歩みを進める。

  その音に優華も動き出す。
  楓も同じであった。立ち上がろうと動きだし……そして、朔良のほうを見る。

 「朔良、立ちなさい。」
 
  それでも朔良は動けない。
  楓のほうへと視線を固定させたまま(だからこそ立ち上がった楓を見上げて)、座り込んだままだ。

 「……ここじゃ、何もできない。このこがどうなっているのか詳しく調べることも、治療だって、出来ないんだ。」

  このままでは、もしこのまま此処に留まり続けたら。

 「本当に、後悔することになるよ?」

  彼女は、確実に損なわれることになる。
  そうとは言わず、けれど言葉の端にその真意を乗せて楓は静かに告げた。

  朔良は、

  …………

  止まっていた、彼は、
  
  ……………

  静かに、ただ静かに、今はただ弱々しく呼吸を続けているルビーの姿を、見つめた。
  そして場違いにも、『蒼穹』の空の光景を思い浮かべていた。

  『ぜんぶさくらにあげる。』

  思い出すのは、笑顔。

  
  聞きたいことは山ほどある。
  言いたいことも、聞き出したいこともたくさん、たくさん。
  そして言えなかったことも、


  朔良の瞳に唐突に力が戻る。
  未だ倒れていた少女の体をゆっくりと抱き上げ、そのまま立ち上がる。

  それを見ていた楓の顔が、静かに笑みの形を作る。
  横でそれを見ていた優華が呆然とその様子をうかがう。
  抱き上げた、彼女の体は驚くほど軽く、そして小さかった。

  こんな体で、と、唐突に朔良は思う。

 「……どこに。」

  抱き上げた体をギュ、と抱きしめ、声を出す。
  顔をゆっくりと上げれば、そこにはもう迷いはない。あるのは、決意だけ。

  城壁たる彼の、崩れることのない絶対的な『それ』だけが、存在している。

 「どこに、行けばいいんですか? 俺は、何をしたらいいですか?」

  何が最善かと、問う。それは自分が今何をしなければいけないのか『確認』するためのもの。
  むやみに動かず、騒がず、ただ最善の…己の、決意のために動き出す。

  楓は満足そうに頷くと、そっと優華のほうへと振りむく。
  視線に気づいた優華が一瞬、とまどうように瞳を揺らすが、それも止まる。
  彼女の手は、近くに来ていたネスによって繋がれている。振り返らなくても側にいる、ということ。それが彼女を何よりも『冷静』にさせた。

 「……魔法結界は、おそらく半径約3q……つまり少なくとも直径6qで研究所を中心に覆い尽くしているはずです。」

  今まで手に入れた情報を元に、何をすればよいのか判断する。
  昔からそうだったからだ。
  先陣を切るのはルビーの役目。
  守るのはリョウの役目。
  そしてそれを動かすのは、『頭』となる優華の役目。
  それを忠実に守る。リョウは今、『守る』ためだけに最善を尽くしているのだから。

 「それより外に出ればどうにでも……あちらも結界でかなりの魔法制限を受けているはずだから、大きな魔法は使えないはずです。
  でも万が一を持って、珠洲先生。」

  なぁに、と珠洲が返事をする。
  視線はリョウのほうに固定されたままだが、それでも意識だけは『作戦』を打ち立てる優華のほうに集中しているようだ。

 「本当に数発でかまわないんです。魔法を溜めておいてください。そのために…穴を見つけてください。結界は、巨大な分だけ必ず穴が生じます。
  そこを狙って、出来るだけ。使用魔法は私が叫びますから、それを。」
 「簡単に言ってくれるのね……でも、わかった。」
 「お願いします。」

  珠洲に向かって頭を下げ、優華は唇に指をあてて考える。
  数瞬、思考を張り巡らせ、思いついたままを唇に乗せた。

  時間がない。

 「楓ちゃんは結界の外に出たら大きいのを一つ、使ってもらいますから、それまで出来るだけ動かないでください。」
 「りょーかい。」

  それから、それから、
  ああ、もっと材料が欲しい。今、この最悪の状況(まさに四面楚歌。孤軍奮闘。百万の敵を相手にする気分)を打破するだけの、絶対的な勝利の材料が。

  そして、『ルビー』を助けることのできる、それが。
  ここから全員を無事に脱出させることのできる、何かが。

 「あとは、ただ走るだけです。走って、走って、走って、全力を持って、逃げます!
  ……朔良くん。かなり辛いと思うけど…姉さんを、お願いします。この場で一番体格のあるのは兄さんだけど…」
 「わかってる。先生は戦いに集中しなくちゃいけない…それに、俺も。」

  振り向く優華に向かって朔良は笑んでみせた。
  
 「…この役目は、誰にも譲りたくない。」

  それを聞いた優華がかすかに微笑む。
  頼みます、とだけ言って前方を見据えた。

 「目的地は…」

  指さすその先は、うっそうと茂る森のなかだ。
  森のなかに人目を触れられぬよう立てられた『それ』のために作られたような。

  だが、今はその地形こそが好都合。
  草を踏みつけ、優華は立つ。
  ゴールは、このさき。

 「あの森の先にあります。さぁ……!!」

  リョウがまず走り出した。行く手を遮る敵をいち早く打破するために。
  続けて楓とサラスが走り出す。
  そして優華とネスティが走り出した。
  舞鼓と朔良がその後ろに続く。
  最後尾に、今まさに『牽制』の役目を請け負った珠洲が、続いた。






  走る。ただひたすらに、走る。
  





  ……捨て置いてくれたらいいのに。
  ぼんやりと『その様子』を眺めながら、ルビーはそんなことを思っていた。

  必死に走る面々。このまま逃げ切ってくれなければ困るのだけど、だけど、そのために足手まといにしかならない自分など、そこに捨てておいてくれたらいいのにと考える。
  朔良、もういいよ。と、空白の言葉を紡ぐ。

  抱き上げたその手を離して、そうして逃げてくれたらいい。

  私の抜け殻なんて捨てていって、振り返らずに進んでくれたら。

 「……それが出来ないから、あんなに必死なんだよ。」

  やはり唐突に声をかけられる。
  だがルビーは振り返りもせず、ただ『それ』を見つめていた。

  リョウの持つ銃が轟音を立てて空気を切り裂く。
  珠洲が結界の包囲網をかいくぐり、作り出した『魔法』が確実に追っ手を食い止めていた。
  優華が何事か叫んでいる。指をさし、向かう先を必死に伝えている。
  みんな、走り続けている。上がる息でさえ辛いだろうと思うほど。

 「逃げるのは勿論だけど、みんな帰りたいんだ。そして、戻りたいんだよ。」





  やがて走り続ける朔良のすぐ側を走っていた舞鼓の手に『魔法』の力が生み出される。
  微細で、小さな、小さな、弱々しい力。
  けれどそれはあたたかい、癒しの力を秘めていた。

  それを『眠り続けている』ルビーのほうへと、すっと差し出した。

  その瞬間、『ルビー』の体がやわらかなあたたかさに包まれる。
  とても弱々しい。すぐに消えてしまう蝋燭の灯火のような、あたたかさ。

 「…私も、言いたいことがありますから!」

  走りながら舞鼓が口を開く。その表情は怒っているのに、なのにどこか悲しそうに歪んでいた。

 「どうして私を頼ってくれなかったのか…助けてと口にしながら何故、自分のことになると放っておくのか…!!」

  朔良もまた、そんな舞鼓の姿を横目で見た。
  走る足は止まることはない。銃声は絶え間なく聞こえるし、かいくぐる木々の音だって、耳にうるさい。

 「言いたいことが山ほど、あります!! だから、ルビー!!」

  叫ぶ。
  それは朔良に対してではなく、目を閉じている彼女に向けての、怒りの言葉。

 「こんなところで勝手に終わろうだなどと、私は許しませんわ!!」





  ああ、なんて。
  なんていとしいんだろう、とルビーはその真っ直ぐさに目眩を覚えた。

舞鼓、あなたのその不器用なまでの清廉さ、潔いまでの真っ直ぐさに私は憧れていました。

胸にともる暖かさに、かすかにルビーの瞳から涙が溢れる。
でも、でも舞鼓。
舞鼓、あなたのその不器用さは、私の心を苦しめる。





  走り続けて、走って、走って、走って。
  痛みを伴うようになって横腹を押さえるようにしながらも、全員が走り続けていた。

  やがて、大きく舌打ちをしてリョウが回転式拳銃を放り投げた。
  弾切れだった。もう武器は自動拳銃しか残っていないが、それも弾薬がいつまで持つかしれない。
  相手が火薬の使うものではなく、ショックガンを使ってきているのがまだ幸いしている。

  しかしショックガンはその名の通り、あたれば確実に相手を昏倒させることのできる強さを持っている。

  敵の落とした武器を拾いに行けたらいいものの、そんな暇はない。
  そんな余裕などないのだ。

 「……優華ぁ!! 出口はまだかぁ!!」

  後ろを振り返らずに叫ぶ。
  その言葉でおそらく『限界』を察知したのだろう、優華もまた大きく表情を歪ませた。

 「あと……もう少しだけ!! 兄さん、それまで持たせて!!」
 「…むちゃくちゃ、言うなやなぁ!!」

  ちくしょう! と吐き捨てながらもリョウは正確に、木の陰(約100メートル先)にいた『敵』の脳天を銃弾でぶち抜いた。
  『敵』の数が思っていた以上に多い。
  相手は『作り出された』者とはいえ、人間じみていないだけ狙いは正確だし、ただ一点をだけを集中する。

  …こちらを、攻撃するという絶対的な命令だけを遂行しているのだ。

  続けて優華が後方に首だけを巡らせる。
  
 「珠洲先生! 後方75メートル先の地面を軟化させてください!!」
 「わかった……わ!!」

  『指摘』され珠洲が溜めていた魔法を一気に解き放つ。
  そして後方から追いかけていた複数の相手が足下を取られて、身動きが難しくなるのを見届けてさらに走る。

  まだ、走れる。
  まだ、まだ。

  でも限界は刻一刻と迫っている。
  あまりにもこちらに武器がない。制約も多すぎるし、策だってほとんどない。

 「こんなっ……四方八方、容赦無い状況なんて…!!」

  こりごりよっ、と毒づきながらも優華はほとんど絶望的な状況に頭を抱えそうになっていた。

  どうする?
  どうする?
  どうしたらいい?

  自問自答しながらも、出口の見えない答えに悔しくてたまらない思いがする。
  本当にたまらない。
  悔しくて、悔しくて、仕方ない。

  もっと力があったら、と思う。もっと力があれば、そう、もっと強い力が……

  知らず、巻き直した右目の包帯に手が伸びる。
  これを外せば。もう一度、制限を持って魔法を使えたら。そうしたら、この状況が

 「だめだ。」

  そこで隣を走っていたネスティの声が、優華の手を止める。
  驚いて振り向くと、少年は、真摯のほど強い意志を込めて、優華を見つめていた。

 「ぜったい、だめだからな。」

  『それ』を使えば状況は変わるかもしれない。
  けれど優華が無事でいられる保証がどこにもない。
  制限つきの魔法。人の精神を崩壊させるために、己の心をも砕く、両刃の魔法。

  だからだめなのだと、ネスティは言っている。

 「だいじょぶだ! 絶対、絶対、大丈夫だから!! 逃げられるから!!」

  それはあまりにも陳腐な言葉でしかない。
  けれど、それは……優華に、知らず力を与えるもの。

  本当に、何の根拠もなく、真っ直ぐに、純粋に、この少年は『勝利』を信じている。

  大丈夫だと、言い切ってしまう。

  本当にそうなったらいいと思ってしまう自分に、優華は心の中で静かに息を吐いた。
  そうならいい、と笑ってしまうくらいに思う。現実はそんなことを考えられるほどたやすくはないはずなのに、信じてしまいそうになる。

  何かを守るためには、
  何かを捨てなくてはいけない。
  けれど、
  何かを捨てなくても、全部抱きしめて、この手にかかえていけたらと、思う。
  なにひとつとりこぼしのないように、全部。

  それは、なんて強欲。
  そしてなんて、傲慢。

  だけど、なんて純粋な願いなんだろう。

 「……ネス…」

  ああ、だから。
  だからあなたは私の光なのだ、と優華は伸ばした手を下げ、走り続ける。

  振り向かず、振り返らず、ただ真っ直ぐに。
  






 『……そのまま、止まって。』






  そのとき、唐突に優華の脳裏にそんな『言葉』が横切る。
  本来なら罠かと思うだろう。空耳だと、思うかもしれない。だが、優華は、思わず足を止めてしまっていた。

  知らず息が上がる。心臓がドクドクとうるさい音を立てて跳ね上がっている。
  息をするのが苦しくてたまらない。
  けれど、優華が立ち止まったことによって全員が、送れてちりぢりに立ち止まった。

  名前を呼ばれる。切羽詰まって、不思議そうに、あるいは焦りを滲ませて。
  それでも優華は、先ほど聞こえた声を無視することができない。

  ……これは、魔法の力。

  そしてこの魔法の波動は、一度どこかで感じたことのあるもののはず。

 「……だれ?」

  知らず、疑問符が口をついて出た。
  答えは返ってこないはずだった。返ってこないだろう、と思っていた。

  けれど、

 『そうねぇ、一言で言うなら。』

  答えは、返った。





  空気を切り裂いて『影』が森の中から飛び出してきた。
  勢いをつけて体を回転させて、そのまま身軽な動作で地面に降り立つ。

  ばさりと漆黒の衣(スーツだ)をひらめかせて、ゆっくりと姿勢を正す。

  優華からは見えない。誰からも、後ろ姿しか見ることができない。
  それでも、その『人物』は確実にその場に存在していた。存在し、そしてゆっくりと動き出す。

 「一言でいうなら、『助っ人そのいち』ってところかしらね?」

  人差し指を唇にあて、振り向きながらウィンクをひとつ。
  場違いなほどに明るいその声。動作。雰囲気。
  
  漆黒のスーツを身にまとっているのは、二十代半ばと思われる女性だった。
  肌は浅黒いが、どちらかというとアジア系の蠱惑的な雰囲気を醸し出している。
  均整の取れた体つき。背は珠洲と同じくらいなのだろうが、ヒールの高いブーツをはいていることもあってか朔良くらいはあるかもしれない。

  そしてその女性を、優華は知っていた。
  優華だけではない。後方へと振り返ったリョウも、その人物を知っていた。

  驚きに双方が目を見開く。
  事態の飲み込めていない面々が状況についていけず困惑するなか、またしても、影がひとつ現れる。

  ざん、と地面を踏みしめ、現れたのはやはり漆黒のスーツを着込んだ男。
  雰囲気は女性とは正反対に硬質的で、表情もまったくないと言ってもいい。

  背は高く、リョウよりも上背はあった。年齢はそれでも女性と同じくらい。
  東洋系ではなく、どちらかというとヨーロッパ系の血筋を持っているのだろう。肌は白く、髪は黒い。
  筋肉質な体ではあったが無駄な部分が一切ない。

  何よりも異質なのは、その手に持っているものだった。

  ジャキン、とそれを構え、引き金を、何の躊躇もなく引いた。
  パラララララと銃弾が撒き散らされる音が森中に響く。男性が手に持っているのは、自動式拳銃ではなく、自動式回転連射銃だった。
  それを片手で操り、『敵』を完膚無きまでに殲滅していく。

  十数秒続いた銃声は唐突に止み、大量の空の弾を吐き出す音を響かせながら、男性はおもむろに口を開く。

 「……助っ人そのに、だ。」

  そして驚きに呆然としていた優華とリョウが、ようやく、我を取り戻し、しかし深い動揺を持って、叫んだ。

 「サラさん!?」
 「タロス!!」

  突如現れた二人組……漆黒の(どこかの映画に出てきそうな)スーツをみにまとった男女の名を、二人は口にする。
  訝しげに珠洲がリョウのほうへと近づいた。

 「知り合いなの?」
  
  疑問は実に簡潔なものであった。
  だがそれは当事者ではない者にとって一番の疑問であっただろう。

  聞かれたリョウは最初は動揺していたようだったが、やがて顔にありありとした笑みを浮かばせていく。

  絶望が遠のき、希望が、目の前に現れたような。

 「ああ。それもとっときの、な。」

  その表現は、確かに的を得ていた。
  『とっとき』と言われた女性……サラが微かに表情を緩ませながら、素早い動作でもって指先を動かす。
  まさに目にもとまらぬような速さで持って動かすと、その指先に何十…いや、数えることすらできぬ無数の『糸』が巻き付いていることがわかる。

  光に反射しながら糸は踊り、やがて森のなかから新たな『影』が現れる。

  だがそれは、人間ではなかった。
  生きて、いないのだ。

 「さぁ、踊り狂いなさい……私の<傀儡人形(マリオネット)>たち!!」

  サラが手を交差させる。
  その瞬間、目にもとまらぬ速さで次々と『人形』たちが飛び出してきた。

  それは限りなく人を模した姿形をしている。一言で喩えるなら、忍のような、姿。
  長すぎる腕と巨大な刃、そして顔の反面を覆い尽くす翁の面さえなければ、誰もが人形と気づかぬような、そんなもの。

  サラが腕を動かし、指先を動かすだけでそれらは『敵』に向かって殺到していく。
  息もつかせぬような素早い動作で相手に躍りかかり、切り伏せていった。

  まさに、生きていない者同士の壮絶で凄絶な、死闘。

  同じく『とっとき』と言われた男性……タロスが無造作にリョウに向かって銃を、自動式拳銃を放り投げる。
  リョウが片手でそれを受け取ったのを視線を流すだけで認めて、自身もまた新しい弾薬を自動式回転連射銃に詰めた。

  その動作にかかった時間は、数秒にも満たない。

 「それは卿のものだ。卿が最も得意とするオートマチック……我が主人からの贈り物だ。存分に使え。」

  実に簡潔に、そして必要なことだけ伝えてしまうとタロスもまたサラとは反対方向の敵を撃滅させていった。
  パラララ、と軽い銃撃音を響かせながら、それでも一寸の慈悲もなく獲物をハチの巣にしていく。

  その姿はまさに、

 「……反則的な強さね…」

  突然の『助っ人』とやらに珠洲は素直にそう感想を述べた。
  それを聞いたリョウが苦笑いを浮かべる。

 「あいつらは『グリフ』のとっときや。そんじょそこらの奴らなんか、足下どころか十メートル先にも及ばへんで。」
 「……て、ことは。来てるの? 彼。」

  当然の疑問は、リョウは答えることができなかった。

  彼がその質問に答えるよりも早く、珠洲の疑問に答えた人物がいたからだ。

 「いいや、『魔王』は来ないよ。」

  かつ、と靴音を響かせて最後の助っ人が、現れたのだ。
  黒曜石のように冷たく煌めく髪。伸び放題ではあるが、それでも無造作と言えばそのまま通ってしまうような均整の取れた顔。
  微笑むその顔には、完璧すぎる微笑が浮かんでいた。

  そう、まるで彫像のような、完成されすぎた微笑み。

 「彼には別件で動いてもらってるんだ。ここは僕と、彼ら二人だけで十分……まあ、君には大きな貸しがひとつ出来たみたいだけど。」

  嫌味なまでの口調だった。だが微笑みだけは絶やすことなく浮かべ続けている。
  それが尚更、異質なもののようで。

 「……タナトス、お前まで!!」

  驚いて声を上げるリョウに向かって、タナトスはやれやれと首を横に振る。
  その質問がまるでバカバカしい保育園児レベルのもののように、仕方なさそうに口を開いて答えた。

 「言っただろ? 僕たちは互いに何かあったらどうにかするって……君が言い出しっぺなんだよ?
  まさか三十路になってもう脳がとろけたのかい?」

  解剖して調べてあげてもいいよ、と爽やかに言われてその場にいた誰もが呆然とする。
  慣れているはずの優華は明後日のほうを向いて大きく溜息をつく。
  リョウは怒りに身を震わせていた。

  だが、それでもはぁー、と長い溜息をついて、顔を上げる。

  そこには、真剣な、真摯な、表情があった。

 「悪い、助かった。」

  本当に、掛け値なしに本気でそう言うものだから、タナトスは一瞬、驚いたように目を見開き、それからゆっくりと笑う。

 「まったく、君ときたら…だからこそ、僕は来たんだけどね。」

  クスクスと笑いながらもタナトスはそう言って視線をリョウから外し、一歩、足を進ませる。
  その先にいたのは、

 「やぁ。あの結婚式以来だからお久しぶりかな、叶 朔良くん?」

  ルビーを抱きかかえた、朔良だった。
  突然話しかけられ(しかも気さくに)、一瞬、返答に詰まる朔良に気づかないふりをしてタナトスは楽しげに笑う。

 「もっとも、その前から君のことはよく聞かされたよ……ルビーにね。」
 「…こいつから、ですか?」
  
  いったい、いつ、と問いかけそうになるが、どうしてそう問おうとしたのか、朔良にはわからなかった。
  そんなこと、聞いて、今どうなるというのだ?

  どうなる、のか。

 「そ、検査のために来てたから…最後は確か、三ヶ月くらい前だったかな。」

  数瞬だけ考え、思い出すような動作をしてみせながら、それでもすんなりと朔良の疑問にタナトスは答える。

 




 「そのときは、あと三年ぐらいは保つかと思ったんだけど。まさか、こんなに早く『壊れ』ちゃうなんてね。」





  風が、啼く。

  当たり前のようにそんなことを、タナトスは言った。
  その言葉で朔良の思考が凍り付く。側にいた面々も、そうだ。

  だが、それさえも気づかぬような仕草でタナトスは笑っていた。
  
  笑って、いる。
  (その心根は、けっして、笑っていないのだ。)

 「君たちのことはよく話してくれたよ。明日を志し、挑み続け、戦い続ける同志たる舞鼓くん。『もののふ』たる彼女に斬っても構わないと言い切ったともだちのサラスくん。未だ彼女の世界を照らす灯火たる優華くんや、リョウ。その思い人であり、心を通じ合わせたネスティくんや、珠洲さん。風のように気まぐれでありながら、その実留まり続ける楓さん。
  …ああ、それだけじゃないな…彼女に恋を落とした人や、ライバル…本当にたくさんのことを、彼女はよく話して聞かせてくれた。
  ……特に、君のことはよく口にしていたよ。戦友たる、朔良くん?」

  笑って、笑って、笑い続けて。
  まるですべてをその笑顔で拒絶しつづけているような、それ。

  そう、それはまさに、悪魔の笑みにも似た。

 「その話から推測するに……彼女は君に、ひどく焦がれていたようだよ。
  彼女はよく口にしていたから。君に憧れていたこと、戦友になれたことの喜びとか、ちょっとした格好良さとか……救われたとも、言っていた。」

  その動作を、言葉をひとつずつ懐かしむように、思い出すようにして口にする。

 「救われた、と。その手に幸せを掴めばいい、と言われたと。そう、言っていたよ。」

  ねぇ、どうして。





 「どうして君は、そんなひどいことをしたんだい?」





  笑顔のまま、タナトスはそう朔良に聞いた。
  あまりにも自然に、そしてさも当然そうに問われて、朔良はますますわけがわからない、と言ったふうに返答に言葉をつまらせる。

  その笑顔は、追いつめるためのもの。

  まるで断末魔にあえぐ人間を見て哄笑する者のように、高らかに笑い続ける様。
  笑って蝶の羽をもぎ取るような。

 「これ見てわかるだろう。さっきの僕の言葉を聞いてわかっただろう。
  彼女はもうずいぶんと前から『こうなること』を知っていた。彼女のたとえる剣としての終わりを、宣告されていたんだ。」

  それが、どれほどの暗闇を彼女にもたらしたか。
  どれほどの闇に追い込んだのか。

 「光しか見ていない君たちにはわからなかっただろう。君たちの行く手には、光り輝く未来がある。幾筋にもわかれた道がある。
  そのどれを選んだとしても、君たちは後悔など、できるはずもないだろう。
  だけどね、彼女にはそれがなかった。光はなく、道は閉ざされ、歩めば歩むほど奈落へと続く道しか、なかったんだ。」

  ねえ、どうして。
  どうして、そんなひどいことを、平気で、していたんだい?

 「君たちの…君の信じる力は、彼女に深い絶望しかもたらさない。
  先の見えている者に、希望を、明日を、未来を、光を、そのすべてを望まさせるのがどれほど残酷なことか。

  ……もちろん、わかってやっていたんだろうねぇ?」

  無知は恥ではない。けれど、無知で傷つけるのは、罪だ。
  同志よ、ともだちよ、恋を落とした者よ、道しるべたちよ、そして、彼女の戦友。

  知らずに、その言葉でもって、君たちは彼女を切り刻んでいたんだよ。

  そう言い切り、タナトスは静かに笑む。
  それは完璧なまでの、笑み。完全な、他のすべての感情を一切感じさせない、ただの『微笑』。

 「僕はそれが知りたいんだ。
  ここに来た理由のひとつがそれさ……答えは、出てるだろ?」

  教えてよ、と場違いなほど綺麗な笑みで、タナトスが問いかける。





  胸が、痛い。
  違うの。
  違うんだよ。

  確かに、あなたに『未来』の話をされるたび、そのことを口にするたび、私は心のどこかが血を流していた。
  希望は、なくて。
  先の見えた、それを、突きつけられているような、そんな感じだったから。

  忘れるな、と。

  お前には道なんてもうないのだ、と、断言されているかのような、そんな。

  途方もない願いだった。
  叶うはずもないと思っていた。

  だけど、けど。
  だけど。




  言葉もなく、ただタナトスの言葉を享受していた朔良が、ゆっくりと、けれど明確な意志を持って、ルビーの体を抱く手に力を込める。
  離すことのないように、離れることのないように。
  今度こそ、繋がれた手が、

 「……それなら、俺はもう一度会わなくちゃいけない。」

  離れていった手が、離れることのないように。もう一度、繋がれるために。

  朔良がしっかりと顔を上げる。
  そこには先ほどと一寸も変わらない決意があり、強さがある。
  折れることのない、強さを秘めて、言葉にのせた。

 「なおさら…俺は、もう一度、会わなくちゃいけないんです…こいつに。」

  瞳に光が消えることなくあるように、表情には決意が上り、言葉には重さがある。

  決意は、消えることを知らぬもののよう。

 「俺はまだ、何も伝えていないんです。伝えたいことの、何分の一も、言えてはいないんです。」

  思い出すのは、笑顔。
  抱き上げるその体は小さく、閉じられた瞼に光はなく、浮かぶ表情もない。
  けれど、朔良の脳裏を過ぎるのは、確かに、笑顔の彼女。

  呼ぶ声。
  名を、口にする姿。

  さくら、と。
  
  それだけは、彼女の笑顔だけは、けっして嘘などではなかった。





  あなたに出会えたこと、あなたと語り合ったそれは、確かに私に光をもたらしたのだから。
  絶望だけではなく、羨望だけでもなく、光に向かうものへの嫉妬でもなくって。

  ただ、明日を信じてみようと、思えたから。





  だから、俺は

  だから、私は





 「もう一度、会いたいんです。」

 「……もう、いいんだって、思うの。」

  願いか、決意か、どちらに傾くかは、まだ誰にも知れないのだけど。

  そのとき、確かに、<白い世界>のどこかで『扉』が軋むような音が、した。






  それだけだった。
  今は、まだ。







 〜奪還 に、つづく〜