自分が綺麗なものじゃないことくらい、わかっていた。
  あの白い部屋から助け出されたあとも、私はずっと、見えない狂気に縛られているようだったから。

  私は聖人でもなければ、聖女でもない、ただの一人の女の子で。
  ただただ奪われていったあの時の恐怖を忘れて生きていくことができなかった。
  痛みは残る。
  苦しみだって胸を押しつぶすよう。
  悲しみは引き千切るようなものをもたらし。
  涙は絶え間なく流れ出していく。

  そんな状態であるのに、どうして暗い心を引きずらずにいられる?

  暗い心は私の何かを追いつめていく。
  そうして思うのだ。私をこんなにした奴らのことを、壊してしまいたい、と。
  苦しめたい、傷つけてやりたい、奪い取ってやりたい、何でも、何でも、すべてを。
  
  そんな狂気が、ずっと私の胸の奥でくすぶり続けていた。

  暗い、暗いところに追い落とされてもなお、私は汚れ続けていくようで。
  それでも構わなかった。そうしなければ、誰かを憎んでいなければ、私は崩れ落ちてしまいそうだったからだ。

  それでも、
  
  それでも、あの子が私の前に現れたとき。

  私は、きれいなものになりたいと、そう思ってしまっていた。
  この子を守りたい。汚したくない、とそう思った。

  ああ、でも。あの子に触れる私の手こそ汚れているのだと気づいたのは、あの子に恋をしてからだった。

  守りたいと思うのに、心の底から願うのに。
  私は一歩も動けなくなってしまった。







  緑の制約〜「勝手に決めんな! 俺はまだ諦めてなんかないっ!!」〜







  そこに足を一歩踏み入れたとき、ネスの視界に入ってきたのは、圧倒的なまでの『白』だった。
  壁も白ければ天井も床だって白い。
  他の色のすべてを許さない、真っ白。

  頭が痛くなるような、純白。

  そこに『彼女』はいた。体を横たえ、髪が顔にかかっているせいか表情をうかがい知ることは出来ない。
  けれどぴくりとも動かない。
  身動きひとつなく、息をしているのかどうかも疑わしかった。

 「……ゆか、さ…」

  そこに足を踏み入れたネスがゆっくりと彼女の名前を口にする。
  声に出して呼んでいるはずなのに、彼女は起きあがろうともしない。

  いつもなら、笑って振り返る。
  いつもなら、「なぁに? ネスたん。」と優しく問いかけられる。
  いつもなら、自分の呼び声を無視するなんてことはない。

  いつもなら、ば。

 「ゆかさん!!」

  ほとんど叫ぶようにしてネスが優華を呼ぶ。
  そしてようやく固まっていた体を動かそうと、足を動かそうとしたとき。

  かつん、と靴音が響いた。
  それはネスのものでもなければ、いまだ横たわる優華のものでもない。

 「無駄だよ。彼女はもう目覚めはしない。」

  見ると部屋の隅にあったもう一つのドアが音もなく開け放たれていた。
  そこに、白衣を着込んだ初老の男が立っている。

  昔、怪我をしたのか顔面の至る所に切り傷の痕が生々しく残っていた。

  その人物が誰なのかネスが認識するよりも早く、全身が粟立つような感覚を、少年は受けていた。
  これは良くないものだ、と本能が察知する。

  『これ』は、自分たちにとってはとても良くないものだと、断じる。

 「彼女の精神は私の手中にある……そして私は彼女の目覚めを許さない。だから彼女は目覚めない。」

  簡単なことだろう、と言い、男は部屋の真ん中へと歩く。
  ネスの敵意のこもった視線を平然と受け止めながら、かつかつ、と靴音を軽く鳴らす。

 「……お前、だれだ! ゆかさんに何した!!」

  そして男を完全に『敵』だと……優華の意識を掌握していると言っているのだ。敵以外の何ものでもない……決定したネスが叫ぶようにして問う。

  男はゆるゆると首を横に振る。
  まるで、聞き分けの良くない子どもを相手にしているような仕草。

 「私の名前は加藤(カトー)とでも呼んでくれればいい。そして彼女は私の古い知り合いでね……実験材料なんだよ。」
 「実験、材料…?」

  最後の男の言葉に、ネスがさらに訝しげに聞き返す。
  
  君は疑問だけしか口にしない、と薄く笑い(馬鹿にしているのだ)、加藤が優華のほうへと手をさす。

 「そう。『魔法使い』を量産するというね…今は魔法を使うようになるには魔法学校に行くのが一般的だが…
  一人前になるには、実践に投入されるようになるには少なくとも十年近い時間と、多額の学費が必要となる。」

  だから、と加藤は続ける。

 「だから私は考えた。短期間で、しかも効率よく『魔法使い』を作り出すにはどうしたらいいか……答えは、彼女が持っていた。」
 「……ゆかさんが?」
 「そう。彼女はね、精神的な打撃を受けることによって魔法能力を飛躍的に向上させたんだ。
  …日本で言うところの火事場の馬鹿力というヤツかな。だが、それは私にとって、私の研究を完成させるのには必要なものだった。」

  少しずつ、加藤の顔に恍惚とした何かが浮かび上がる。
  そしてそれは、ネスをひどく不快な気分にさせていった。

  こいつは、悪いヤツだと、思う。
  
 「人の限界を超える。そのために『人工的に精神的ショックを与えて』、人の本来持つ防衛本能を刺激する。
  人の脳というのは面倒な作りをしていてね、命の危険にさらされなければ、本来の力の30%しか生み出すことができないんだ。
  だから、私は彼女をサンプルに選んだ。すばらしいことだろう? 人のさらなる発展に、貢献できるのだから。」

  ……すばらしい?
  人の発展に貢献できる?

  サンプルに、『選んだ』?

  ネスが人知れず固く拳を握る。爪先が掌に食い込み、にじみ出るような痛みを発しているが、関係ない。
  ひどく、苛立たしげに、加藤の顔を睨み付けた。

  しかしそれさえも気づかず、男は自分の理論に酔いしれる。

 「一度経験しているから、もう一度それを再生させるのはたやすい。数年前は失敗したが、今回はそうではない。
  今度こそ、彼女を使って私は、私を認めさせる。」
 
  ギリ、とネスが唇を強く噛んだ。
  途端、鉄の味が口内に広がるが、そんなことはどうでもいいことだった。

  精神的な打撃ということは、それだけ優華が辛いことを受けてきたということ。
  彼女に、ひどいことをするということ。
  ただ、それだけだった。

 「…うるさいっ! それってゆかさんが痛い思いをするんじゃんか! すばらしくもなんともない、そんなの、ひどいだけじゃないか!!」

  ネスがそう断じても、男はまるで心外だと言わんばかりの表情を浮かべるだけだ。

  どうしてわからないのだ、と。
  わかるはずもないのに。

 「ひどい? どこかだい? これからの人の発展に……」
 「うっさい、馬鹿!」

  加藤の演説はもう聞き飽きた、うんざりだと、そんな気持ちを込めてネスが言う。
  きっぱりと言い切り、そしてもう一歩、部屋のなかに足を踏み入れる。

 「人に嫌なことはしない! 人の嫌がることはしちゃいけないって、兄ちゃんたち言ってたぞ!
  子どもに言うのに、お前は大人のくせにそんなことも知らないのか、ばーか!!」

  それは子どもの言い分。
  そう、他愛もない、子どもの言葉だ。

  だからこそ真実がある。真っ直ぐな力がある。
  ネス自身を突き動かすだけの、途方もない力を持つ。

 「ゆかさんを返せ。」

  もう、一歩。
  徐々に近づいてくるネスを見下し、加藤は溜息をつく。どうしてわからないのだ、と言いたげに。

 「ゆかさんを、返せ。」

  だがそれさえもネスは動じない。
  誰よりも強い意志を持って、足を踏み出していく。

 「ゆかさんに、ひどいことするな! ひどいことしたら、俺が許さないからな!!」


  


  そうして思い出す。ここに来る前、仲間達と別れる前のルビーの言葉を。

 「…ユカは、強いわ。」
  
  ゆっくりと顔をあげる少女。
  届かない言葉だ。願いを込めた、ただの戯れ言だ。それでも、少女は確信を持って呟く。

 「少なくとも、私より、兄君より、ずっとずっと、強い。」

  そんなことないよ、姉さん。
  そう言ってあの子が笑っているような気がした。 照れくさそうな、どこか困ったような笑み。 そんな表情を、ありありと思い出せてしまうような。

 「あの子はきっと、大切な人に裏切られて、刃を向けられても…笑っていられる子だから。」

  深く傷ついたようなそぶりも見せず、きっといつものように笑っているのだろう。
  腕を広げて、綺麗に綺麗に、微笑んで。
  『どうぞ。』 と、言うのだろう。言い切るのだろう。

  それが相手にどれほどのダメージを与えるのかも、知りながら。

 「それでも、笑うの。笑って、そして……受け止めるの。」

  だから。
 
 「だから、私も、兄君も、ユカの側にいるんだよ。」

  何の力も持たない少女。 魔法が使えるということ以外、他は何一つ突出したところのない、普通の。 力もなく、技もなく、ただ人より少し頭の回転数が違うだけ。 人を殺せない。
  少なくとも、殺す術と殺す力を持つ者たちとは違う。 だけど、とても強い。
  (その心が、時に誰かを深く傷つけていることも知りながら)

 「だから、ユカが…負けるはず、無いわ。」

  気持ちいいくらいに、きっぱりと言い切って。 その晴れやかな表情に、今はまだいない優華が『苦笑』するような気がして。

  『かいかぶりすぎだよ、姉さん。』

  と、いう姿を想像してしまって。



  ひどく胸が切なくなった。

  絶対的な信頼で持ってルビーは言い切っていた。そして、それに答える優華の姿もネスには易々と想像できた。

  だからこその切なさ。
  自分と、そして優華の間には、そんな絶対的な何かは存在しているのだろうか。

  あの夜。
  あの月の綺麗な夜。

  彼女は、何もつけずに、自分の側からいなくなってしまったから。
  何もつけず、ただ微笑んで。
  そんなの、ひどい。

  何も言わずにいなくなってしまうなんて、さよならも、引き留めることも、またあしたも、出来ずに、突然いなくなってしまうなんて。

  そんなの、ひどい。

 「……うるさい子どもだな。だが見たところ君も魔法使いらしい…彼女と一緒に、使わせてもらうとしようか。」

  加藤がゆっくりとネスのほうへと手を伸ばす。
  ネスでさえもその毒牙にかけようとして、手を。

  ネスはそれを避けようとしない。けれど明確な敵意を持って目の前を男を睨み続ける。

  そして加藤の手がネスに触れようとしたときだった。




 「きったない手で私のネスたんに触るんじゃねーよ。」




  とてつもない悪舌。
  だが明確な意志を持って、紡がれる言葉。

  そのありえない声を聞いた加藤が手を止め、驚愕を持って振り返る。ネスもまた、加藤から視線を外した。

  その先に、いた。

 「ば、かな…」

  ありえない、と存外に言う加藤に向かって、『彼女』は艶やかに微笑んで見せた。
  そして、ぱさりと、巻かれていた包帯をほどく。

  はらはらと解かれる包帯。その下で閉じられた瞼が、ゆっくりと持ち上がる。
  包帯の下に隠された『白い目』が、真っ直ぐに加藤を捉えた。

 「さぁ、お仕置きの時間よ……っ!!」

  キィン! と、甲高い金属音にも似た音をたてて、彼女の魔法が発動する。

  瞬間、悲鳴を上げ、頭を抱えて加藤が床に倒れ込む。
  意味のわからない言葉を吐き、のたうちまわりながら、しきりに体をこすっていた。

  そして『白い部屋』から逃げ出していく(無様にも這いずって)その姿を、優華はただ眺める。  

  その様を見つめながら、だが魔法は発動させたまま、優華は笑う。

 「……魔法名『メデューサ』。特別製よ、存分に味わうといいわ。」

  そう吐き捨て、優華がゆっくりと視線を上げる。
  目の前にいるネスを静かに見つめ、しばし言葉もなくただ立ちすくむ。





  やがて自分の『目』があらわになっていることに気づき、優華は仕方なさそうに首を傾げて笑ってみせる。

  悲しそうな、顔。

 「…はぁい、ネスたん。約四日…ぶり、ぐらいかな…?」

  だがネスは答えない。
  いつの間にかうつむいてしまって、その顔を伺い知ることができない。

  …きっと、怖がられているのだろう、と優華はそう思って、溜息をつく。
  
  こんな、気味の悪い。こんな、見ただけで気持ち悪くなるような、もの。
  きっと、綺麗なこの子には不釣り合いな証なのだろう、と優華はそう思って、仕方ない、と。

  仕方がない。
  綺麗で優しくて、『こんなもの』を知らないこの子には、きっと理解できるものじゃないから。
  その前に自分から離れていったのだ。
  だから、この子が自分から離れていったとしても、それは仕方のないこと。

  諦めよう。
  そうして、受け入れよう。

  『制約』は未だ受けているから、きっと、この目はすべての光を失うのだろうけど。

  それも構わない。
  それはきっと、罰だから。



  仕方、ないじゃないか。



  瞬間。
  ぽか、と優華の胸が『振動』した。

 「……え…?」

  その振動が何かわからず、優華が困惑する。
  見ると、優華とネスの間にあった隙間が埋められ、直ぐ側であの柔らかな金髪が揺れている。

  ネスが拳を振り上げ、ぽか、ともう一度、優華を叩いた。

 「え? え? え?」

  わけがわからず優華が思わず声をあげる。
  だがネスは何も言わない。
  ただ拳を振り上げ、ぽかぽか、とまるで力の入ってないそれで、優華の胸を叩き続ける。

 「ね、ネスた…ん…?」

  困惑しきったまま名前を呼ぶと、ネスがキッと優華を睨みつけようと顔を上げる。

  その目が、涙に揺れている。
  あの、青い瞳。

 「ゆかさんのばか!!」

  そう、一言でいわれ、優華のなかにあった何かが、音をたてて崩れていく。
  振動を続ける胸。
  叩かれる手は弱いのに、それなのに。

  どうしてこんなにも、痛いのだろう。

 「ゆかさんのばか! ばか! ばかばかばかばかばかばかばかばかばかばか!!
  おれをおいてくな! 勝手にいなくなるな!」

  涙に滲んでいたネスの頬に、雫が伝う。
  幾筋も、幾筋も、留まることなく、流れ落ち続ける。

  その涙が、とても美しいもののような気がして、優華は途方に暮れた。

 「さよならも、またね、も、言えないの…俺、もうヤだ! それに俺、俺……」

  叩き続けていた手が止まる。
  ぎゅ、と優華の服を掴み、頭をそこへ引き寄せる。
  あたたかな体温が、ゆっくりと伝わるように。

 「俺、ゆかさんが、いなくなるの、絶対にやだ!!」

  そのあたたかさが、すべてを包み込んでいくように。  



  あなたはそうやって、
  子どもの傲慢さで、子どもの残酷さで、子どもの強欲さで、
  私を絡め取っていく。

  闇に呑み込まれるはずだった私を絡め取り、光のほうへと引きずり込んでいく。

  それはなんて、身勝手な。
  けれどなんて、
  なんて、こんなに、こんなにも嬉しくさせてくれるのだろう。


  迷いはある。
  叫びだしたいほどの恐怖も、泣き崩れるほどの絶望も、この胸にくすぶっている。

  殺意も、あのとき感じた目の眩むような醜い欲望も、まだ残っている。

  綺麗なものなんてこの世に何一つとしてないのだと、
  しあわせは、誰にも平等には与えられないのだと、
  願いは届かないのだと、知っている。

  一歩も動けなくなるほどの、深い後悔だってある。
  
  だけど。
  だけど、光は、確かにあって。

  私にとって、それはこの子だった。
  

  ……彼だった。
  私にとっての光は、彼自身。

  いくら絶望に呑み込まれようと、恐怖が襲いかかってこようとも。

  きれいな世界が、私を苦しめようとも。

  だけど、そのすべてを覆い尽くしてしまうほどの、やさしい何かを彼は連れてきてくれるから。

 「……ネス。」

  名前を呼ぶことを、まだ許してくれますか?
  この手で抱きしめることを、まだ受け入れてくれますか?

 「ネス、ティ…」

  私は綺麗じゃありません。
  この手は汚れているし、気持ちの悪い顔をしています。

  いつか、あなたを汚してしまいそうで、ずっと怖くてたまらなかった。

 「……かえり、たい…」

  それでも許されるなら、許してくれるのなら。

  彼を腕に抱きしめ(いつの間にか大きくなったのか、腕にすっぽりとは入らなくなったのだけど)、祈るように目を閉じる。
  懇願を、口にする。

 「一緒に、いたい…ネス、あなたと一緒に…ずっと……」

  叶うなら。

  穢れすら色あせるほどの、何かを、私にください。

 


 
 「……かえろ。」

  ふいに、抱き返された小さな両腕。
  驚くほど優しい何かに撃ち抜かれ、涙が溢れ出す。

 「かえろ、ゆかさん。」

  綺麗じゃなくってもいい。いくらだって汚れたってかまわない。
  そんなものはみんな水に流してしまえばいい。

  流して、きれいになって。
  それから会いに行けばいい。
  
 「いっしょに、かえろ。」

  兄さん、と優華は心の中で彼の人を思う。

  すでに一緒にいてしあわせになる人を見つけながら、それでも『約束』を違えることのなかった、彼。
  もういいよ、と思う。
  もういいよ。もう、私は大丈夫だから。

  あなたにあの人がいるように、私は。

  私にも、手を握れば笑い返してくれる人がいるから。

 「……………うん。」

  私は歩き出す。
  闇は遠く、けれど私の心のなかに確かに存在しているけど、光も私の側にあるから。

  だから私は行こう。







  何度立ち止まっても、涙を流しても、必ずあなたのいるところへ、私は還るから。
  たどりついて、みせる。



  私はもう寂しくない。
  だってあなたが扉の外で、私が帰るのを待っていてくれるから。








 〜分かたれた道、再会の約束 に、つづく〜