ずっと隣でいるものだと思っていた。
  ずっと隣を歩いていきたいと思っていた。

  ずっと、この人の目指す『先』を隣で見ていたいと、思っていた。

  それは叶わない願いなのは一番よくわかっている。
  戦友でなくなる自分が、この人にとって必要のないものになるのは目に見えてわかっていたから。
  必要でないのなら、いつまでも側にいることはできない。

  手を、離さないといけないのだ。
  繋がれた指先を、抱きしめてくれた腕を、無くさないといけないのだ。
  
  それでも、大丈夫だと思った。

  自分には、ぬくもりが残っている。この人のあたたかで、ひどくやさしいものを体と心が覚えている。
  このぬくもりさえ覚えていれば大丈夫。
  たとえ、その『ぬくもり』に傷つけられることになるのだろうけど、それでもよかった。

  側にいれなくなっても、願うのは貴方の『しあわせ』。

  たくさんの大切な人たちの幸福を願っている。だけど、『しあわせ』を願うのは、この人だけ。

  どうかどうか、しあわせになって。
  道は最初から分かたれているのだけど、それでも貴方の隣にいられたときの『景色』は全部優しい思い出になっている。
  どうかどうか、しあわせに。
  その優しい思い出もあれば、大丈夫。


  近い将来、この体が音をたてて『壊れて』しまっても、私は後悔などしない。
  そのくらい、この『思い出』は私にとって『大切』なものだと思うから。

  壊れる寸前のこの体と、この力で、あなたくらいは守ってみせる。




  そしてそれが、『戦友』としての最後の贈り物。

  









  三千世界〜「生きていけるの。この思い出たちと一緒に。」〜









 「…………バカなことを言うな。」

  ようやく、息を吐き出すようにして紡がれた言葉はひどく不機嫌なものだった。
  怒りにも似ていて、苛立ちにも似ている。

  そんな複雑な感情を絡ませて紡がれた言葉。

  表情もイライラとしているもので、見ているだけで「ああ、怒っているんだな」と感じられるもの。
  珍しいものでもある。彼は、そう『彼』はこんな表情を滅多なことでは見せたりしないからだ。

  いつでも大人で、冷静で、誰よりも静かに物事を見定めている。
  いつだったか、彼は自分のことを『まだまだ子ども』だと評していたのだけど、それもある意味で正解なのだ。
  でも、冷静さは彼の持つべきものでもあったのだろう。

  (あのトラブルメーカーを天職にしているような叔父がいては、だけど)

  だから、怒らせてしまったことにほんの少しの罪悪感と、驚きと、滅多に見れないものを『最期』に見れたことに思わず頬が緩む。

  その顔を見て、彼の表情はますます歪んでいく。
  
 「……行って、朔良。」

  それでも、もう一度口にした。
  繋いでいた手を、指の一本…親指から、中指……薬指と小指……そして最後に、人差し指だけで体温を感じている。

  この小さな指先から感じるぬくもりを、忘れないように。
  
  心に刻みつけて、もう二度と忘れないために。

 「バカなことを……!! いいから、来るんだ。ここからの脱出方法ならいくらだって……」

  その言葉に、困ったように微笑みを浮かべて首を緩く横に振った。
  そうして、視界に映り込んでいる真っ白な空間に目を細める。

  どこにいっても同じつくり(おそらく迷わせるための造りになっているのだろう。微細な違いを記憶していなかったら迷ってしまっていたところだ)、それでも、もうここも出口に近づいているはずだ。
  あとは、そう、彼の真後ろにある扉をくぐるだけ。

 「誰かが、止めない…と…いけない……の。そうしないと……血が、流れるわ…」
 「お前だって無事ですむわけがないだろう! お前は…女の子で。」
 「そして…朔良の、戦友…よ。」

  言いつのる彼の言葉を遮って、自分の口から言う。
  彼はまだ怒ったような顔をしていた。

 「朔良の…戦友で……きっと、止められるのは……私だけ。その力と、術を…私が持っている…から。」

  そうだ。
  誰かが止めないといけない。そうしなければ『追っ手』は必ず自分たちに追いついて、そしてその先にいる他の『仲間』達にも襲いかかってくることだろう。
  傷ついた者の多いこちら側のほうが、圧倒的に不利。

  だからここに残って、その追っ手を止める者が必要なのだ。

 「…人の、形を…しているけど……人じゃ、ないから…いくらでも、出来る…わ……」

  そして今ここで、その適任者は自分自身だけだろう。
  未だに、傷つけられた腕からは血が流れ出しているし(ハンカチで止血されているけど)、殴られた頬も少しだけズキズキしている。

  それでも軽傷なのだ。戦えないほどではない。

  戦う術を持ち、戦う力を持ち、そして何より戦いの『心』を知っている。
  場慣れだってしているのだ。

  少なくとも、彼よりは……戦える。

 「……駄目だ。」

  ゆっくりとした口調で、そう一言だけ彼は言った。
  顔は伏せられているけど、彼のほうが身長が高いから見上げるような形になってどんな表情をしているのかわかる。

  怒っていいのか、悲しんでいいのか…そんな色々な顔。

  (笑ってほしい)

 「一緒に来るんだ、ルビー。」

  人差し指だけだった手を握り直された。
  途端、掌に広がる熱に心が締め付けられる。

 「出口に出れば、楓さんたちがいる。リョウさんだっているんだ……どうにかなる。」
 「………朔良。」

  そっと、握られていないほうの手を伸ばして、彼の頬に触れた。
  輪郭を確かめるように、頬骨のあたりから下に下がり、アゴのところでもう一度撫でるように上にあがる。

  それから掌で片方の頬を包み込むようにして、手を置いた。

  どうにかなる…確かにそうだろう。
  あの頭のいい(戦いに関しては)兄なら、きっといい策を授けてくれるだろう。
  楓や珠洲といった大人達の魔法なら、この状況をどうにかできるかもしれない。

  でも、出来ない。

 「…兄くん、は…怪我を、している…わ…他の、みんな…も……戦いに、関しては…素人、よ。」

  そうだ。だからこそ『できない』。

  戦いとは『素人』が考えているほど甘っちょろいものではない。
  易々とここから脱出できてしまえるとは、到底思えない。

  きっと血が流れる。
  血が流れたら痛いに決まっている。痛い思いは誰だってしたくない。してほしいとも、思わない。

 「…だから……駄目、なの。」

  頬を包んでいた手を彼の目元に運ぶ。
  瞳の輪郭を確かめるように(それから漆黒の瞳の色を視線で確かめて)撫で、鼻先を通り、それから唇に触れる。

 「私なら、大丈夫……だって、私は…『劔』だから。」

  びくりと、彼の体が震えた。
  彼が目を見開き、それから表情が怒りだけに変わる。

 「お前は人だ。何度言ったら、わかるんだ。」
 「……そう、『朔良』にとって…は、私は…人、よ……でも、『劔』でも、ある…わ…」

  その表情さえも記憶するために、ただひたすらに彼を見つめていた。
  指先は、その形を覚えておくためのものだ。

  大好きだった、彼の顔(顔だけではないのだけど)。

  心にとめて、縫いつけて、忘れてしまわないように。

 「私は劔。でも、私は人……だから、弱くて…儚くて、脆い…人間を、愛しいと思える。
  愛しくて愛しくて…いとおしくて、たまらない。

  だから、傷つけ…させたりなんか、しない。 私が、守るわ………私が、『劔』だから。

  そしてぐいっと、彼の手を思いっきり引っ張った。
  突っ張るような形になった彼の体に抱きつき、背中に手をまわす。

  ……これが最後だと言い聞かせるように、詰めていた息を吐いて、ぬくもりを『記憶』する。

 「さよなら、朔良。」

  そして今度は反対に、彼の体から素早く離れ、ドンッと体を突き飛ばす。
  最後まで握ったままだった手が無理矢理に外れてしまって、冷たい空気を指先に感じた。
  扉は人に反応して開き、彼が床に倒れ込む。

  そのときの表情は、驚きだけだった。
  息を飲んでこちらを見ている。目を見開いて、必死に何が起きたのか理解しようとしていたようだ。

  最後に…これで本当に、最後だと思うから。




  笑って、ほしかった。

  彼の表情のなかでも、笑った顔はとくに好きだったから。




  
  扉の横にあるコントロールパネルに拳を振り下ろすと、鈍い金属音と同時に警報機が鳴り響く。
  赤いランプが支配する視界の先で、彼の表情が歪んだのがわかった。

  自分は……多分、笑っていたんだろう。

  本当に笑っていたんだと思った。これで彼に危害は加わらないから。
  今度こそ、約束を守ることが出来たから。背中を守るという、『戦友』としての約束。

  裏切らずにすんだ。最後に、この約束だけは裏切らずにすんだのだから。

 「あいしてるわ。」

  その声が届いたのかどうかはわからない。
  確かめるよりも先に扉は閉まってしまって、壁一枚隔てた先に彼は消えてしまったからだ。

  最後に彼が起きあがろうとして体を浮かせたのが見えた。
  それよりも早く扉は閉まり、ロックされた音と女性の合成音が部屋に響く。
  扉にそっと両手で触れ、こつん、と額を扉にこすりつけた。

  ……怒っているだろうか。きっと、怒っているだろう。
  
  怒ってほしくなんてない。これは『戦友』としての最後にできることだと、わかってほしい。
  自分にはもう時間がない。
  彼には『未来』がある。ちゃんと道の先に横たわり、これから先もそれに向かって進んでいけることだろう。
  自分にはその『未来』がない。
  だから、いいのだ。

  自虐的な考え方だと、彼はなじるだろう。
  バカなことを考えるなと、ほっぺたくらいはつねられてしまうかもしれない。
  自己犠牲的な考え方はやめろと、言われてしまうのだろう。



  それでも、彼が傷つけられるのだけは、どうしてもイヤだった。
  彼だけではない。扉の先の先、出口で待っている他の誰か…大切な人たちも、傷つけられてはたまらない。

  それだけは、許せない。



  傷つけるだけの『劔』としての己。
  けれど、その切っ先を向けることさえなければ、大切な人たちだけでも傷つけることはないだろう。

  ……これが、『劔』としての最後の…戦い。

 「あいしてるわ……みんな、みんな…」

  かつて世界中のすべてを呪っていた自分がこんなことを言うのも、おかしなものだ。
  自分を傷つけるだけの世界を、憎んで、呪って、憤怒して、ただそれだけだった。

  それでも、自分は救われた。
  
  世界がちゃんと、優しいものであることを…教えてくれた人たち。

 「…それが……私の、世界。」

  体を反転させ、知らず自分で自分の体を抱きしめていた。
  彼のぬくもりを思い出してしまって、胸がしめつけられるような感覚。

  グッとこらえた瞳の端から、ほろりと水滴がこぼれ落ちていく。


 「だから、誰にも傷つけさせたりしないの……全部、私の大切なものだから。」


  泣きながら浮かべた微笑みがどんなものなのか自分自身でもわからない。
  それでも最後に、笑うことができた。







  笑った顔だけ、思い出していこうと思った。
  そうしたら、その『表情』を守るために頑張れるから。







 「あいしてるわ。」

  そしてそれが、『私』の決意。 
  心残りと言えば、最後に彼の笑った顔を見れなかったことと、怒らせてしまったことだ。

  ただそれだけが心残り。
  ただ、それだけ。




  体の痛みが広がる。
  タイムリミットまで、あと少し。











 −廃棄 に、つづく−