この仮題は、『戦争』が開始される数日前のものだ。

  『戦争』を予兆させることもなく、
  『戦争』という単語を思い浮かばせることもなく、
  ただ、日々はゆっくりと、安寧に、あるいは怠惰に過ぎ去っていった。  

  そんな日々のなかで見る『夢』など、生きている人間にとってどれほど無意味なものであるかは知れない。
  眠りの狭間。
  意識という、人という脳が作り出した日々の残像。

  だが、『夢』は、それだけで意味を持つものでもある。

  そう、たとえば








  ぷろとたいぷ〜「開始まで、あと、少し。」〜








  朝日が差す浜辺。
  きらきらと光る波。水、空気、流れ。
  男はそこで静かに佇んでいる。ただ笑って、静かに笑って『彼女』を見つめている。
 
  微笑みを浮かべながらであるのに、その微笑みの深い意味を読み取ろうと彼女は目をこらす。
  だが彼は微笑んだまま、身動き一つしない。

  そしてその姿が……彼の、トレードマークの一つでもある銀髪の三つ編みが『なくなっている』ことに気づく。

  彼は銀髪ではなく、元の金髪に戻っていた。
  常なら決して見せることのない色。元の色だ。

  それが今はさらさらと風に揺れている。朝日を受け、光の束にも似た感じがする。
  やがて彼が、何事かを口にする。
  唇を動かし、何かを伝えようとしていた。
  
  だが彼女に届かない。
  彼女の耳に届くのは海鳴りだけ。
  波音と、砂浜の砂を風が運ぶおとと。そして彼女の呼吸音だけだ。

 「……なにを、言っているの?」

  彼女がたまらず口を開く。
  だが彼は答えない。ただ笑って、何かを、

 「わからないのよ。聞こえないの。リョウ?」

  名前を、彼の名前を呼ぶとリョウは笑いながら踵を返す。
  その姿がどこか寂しげで、そしてどこか不安を与えるようなものだった。

  彼女がリョウの名前を呼びながら一歩足を踏み出そうとする。

  だが。

 「………っ!!」

  足が動かなかった。
  見ると両足が砂に埋まっている。

  いや、砂に捕まっている、と言っても良いかも知れない。
  砂に足を取られ、動けずに彼女はリョウの名前を呼ぶ。

  何度も、何度も。

  けれど、リョウは振り返らない。
  
  やがて、そのリョウの背後に黒い影らしき『何かが』現れる。
  それは、人の姿を模していた。だが、人ではなかった。

  ゾッとするほど黒く、深く、そして底の見えない色を身にまとい、『それ』は手にしていた鎌を振り上げる。
  
  そう、鎌だ。
  大きく月のような曲線を描いた、大鎌。
  まるでチープな『死神』が持つような、魂を刈り取るための仕事道具。

 「リョウ! あんた、あたくしの声が聞こえないの!? 後ろになんかいるのよ!! ねぇ、リョウ!」

  動かない足。
  それでも彼女はなんとかリョウに危険を伝えようとするが、彼は、振り返らない。
  
  遠ざかっていく彼の背中に珠洲が叫ぶ。

  でもそれは、届かない。
  そして『それ』は手にした鎌を一気に振り下ろした。

 「            !!!!!!」


  彼女の叫び声が海鳴りと重なる。
  海水がひたひたと寄せる波打ち際。そこに、赤い色が、混ざる。
  混ざって、流れて、海へと消えていく。

  海鳴りは、まだ、止まない。








  少年は彼女と一緒にテーブルを挟んで座っていた。
  月明かりの下。今自分が暮らしている部屋の側の庭にテーブルを引っ張り出してきて、月夜のティータイムを楽しんでいるのだ。

  二人は互いに何かを話しながら笑いあっている。
  たとえば互いの近況をおもしろ可笑しく言ったり、懐かしい学院のこと、級友たちのこと、家のこと。
  他にもたくさんのことを話し、顔を見合わせて笑い合っていた。

  幸福な時間だった。
  
  彼女はいつものように黒髪で、ショートカットとも言えない肩まで伸びた髪を時折指先でいじりながら、微笑んでいる。
  カラーコンタクトが入っていると言っていた双対の紫の瞳も優しい色をたたえている。

  紅茶を口に含み、お茶請けのクッキーを時折囓りながら、やはりおしゃべりだけは止むことがなかった。

  久しぶりの会合で、少年が興奮しているせいかもしれない。
  饒舌に(けれど、どこか要領の悪い言い回しで)語るその内容に、やはり彼女は優しく微笑んだままだ。

  やがて、ふと何かに気がついた彼女が、少年とは違うほうに振り向き、手にしていたカップをコースターの上に置いた。
  かたん、と鳴るその音に気づいた少年が喋るのをやめて、彼女の名前を呼ぶ。

  それが聞こえているのだろう、彼女が振り向いて、笑った。

  だが、その笑みに、少年はいい知れない不安を覚えた。
  先ほどとは違う意味合いの微笑み。
  優しい色をしているのは同じだ。

  だが、違う。

  何か仕方なさそうに、どこか悲しそうに、笑っている。
  気がつくと、彼女のまわりに白い何かがうっすらと取り巻いていっているのがわかった。

 「……ユカさん?」

  少年が訝しげに名前を呼ぶが、彼女はやはり笑みを消そうとしない。
  答えもなく、ただ、白いそれに囚われていく。

 「ユカさっ!!?」

  立ち上がろうとするのだが、体が動かない。
  少年が驚いて自分の体を見るのだが、変わった様子はどこにもないのに、手も足も一向に動こうとしなかった。

  そのうち彼女の体を包み込む『白い』霧のようなそれが色を濃くしていった。

  彼女の体も白に隠されて、見えなくなっていく。
 
 「だめだ! ユカさん、ユカさん……ユカさん!!」

  何度も名前を呼ぶ。
  だが彼女が答えることはなく、その姿は白いそれに隠され、消えていって。

  最後に、彼女はゆっくりと目を閉じた。
  その瞬間、一粒だけ涙が流れて、頬を伝っていくのが少年の目に映る。

  彼女の体が、白に完全に隠され、閉ざされ。
  そのあと、一瞬でそれが晴れた。
  まるでそこに何もなかったかのように、白いそれはかき消えてしまっていた。

  そして彼女の姿もない。

  ただ、彼女が飲んでいた紅茶の入ったカップだけが、残されている。

 「……いっちゃ、やだ!!」

  それが何を現しているのか少年にはよく理解できなかった。
  だけど今、ここにいた彼女は、もう帰ってこないような気がして、叫ぶ。
  その声は月明かりに消えていったのだけど、答えるものは誰もいない。

  ただ、月だけが、変わらず光を放っていた。






  
  ありがとう、側にいてくれて。

 「………ルビー?」

  頭のなかに聞こえてきた声に、彼は訝しげにあたりを見回した。
  だがそこには誰もいない。
  彼はあの日の夕暮れのなかに立っていて、彼はあの日の青空の下で立っていた。

  夕暮れと、青空。
  ある意味対照的な風景だったが、他に言いようがなかった。
  夕暮れでもあった。
  青空でもあった。
  
  その二つのどちらでもあった。

  ありがとう、私をみとめてくれて。

  また聞こえてきた声に、ゆっくりと『青空』を見上げる。
  そこに彼女が、居た。

  漆黒の翼を広げて、彼のほうを優しく見つめている。他には何の色もなく、ただ優しい色を称えて、彼を見つめていた。

 「…どうした。こっちに来い。」

  彼がそう言いながら手を伸ばした。
  彼女に向けて手を伸ばし、降りてくるように促す。

  だが、彼女は緩く首を横に振った。

  その答えに彼が今度こそ眉を寄せると、彼女は困ったように口を開く。

  ありがとう、私を見つけてくれて。

 「……どうしたんだ。どうして、こっちに来ない。」

  名前を呼んだ。
  何度も呼んだ。何度も、自分のところに来るように、言った。

  だけど、彼女は来ない。

  ありがとう、いとしいひと。

 「…ルビー…」

  それにいい知れない不安を感じて、彼が彼女を見る。
  
  そして彼女が微笑みながら、ゆっくりと目を閉じていく。
  その姿が、何かに似ていた。

  ……まるで、刑を執行される殉教者のような、それ。

  イメージしたそれに溜まらず彼が叫ぶ。
  叫ぶようにして彼女の名を呼んだ。

  その、瞬間。

  ありがとう、私に未来を与えてくれて。

  彼女の翼が『何か』にもぎ取られた。
  バキバキと翼の骨が折れる音と、肉を引き千切られる不快な音が彼の耳に届く。
  そう、何かに……銀色の、光。

  いいや、他にもたくさんの、何かに。
  片翼をもぎ取られ、ししどに鮮血を捲きながら、彼女がゆっくりと『堕ちて』いく。
  手を伸ばし、その体を抱き留めようと彼が手を伸ばし、駆ける。

  堕ちてくる彼女を受け止め、そしてゆっくりとその場に膝をつく。

  翼は、『魔法』の、はずだ。
  彼女の体現した魔法の姿。血など、流れるはずはない。
  
  だが、朔良は自分の掌に鮮血がこびりついていることを知っていた。
  背にまわした手に、ぽたぽたと溢れ出して止まらない血の雫が落ちていく。

  夕日の朱に染められて、それは一層、血の輝きを放っている。

  彼女がゆっくりと目を開ける。
  そしてその瞳が、彼の姿を捉えたとき、彼女は嬉しそうに儚く微笑んだ。

  唇を、動かす。

  ありがとう、私を         。

  その声は聞こえなかった。
  言葉を言う前に、彼女の体は崩れ落ちてしまったからだ。








  夢だった。
  そう、ただの夢。

  泡沫に見る、目覚めれば消えてしまう、ただの夢。








 「…………そろそろ、潮時かもしれませんね。」

  『彼女』はそう言って手にしていた便箋をジッと眺めていた。
  封筒には、『親愛なる 柊優華さまへ』書かれている。

  だが、彼女の表情は暗い。

 「…あーあ……」

  虚空を眺めるようにして視線を流し、顔を上げる。

  その顔は笑っているのに、泣きそうに歪められてもいて。

 「……幸せに、したかったのになぁ…」

  そしてその言葉は、あきらめにも似ていて。






  すべては、一通の手紙が彼女の元に運ばれてきてから、始まった。

  『戦争』が、幕を開ける。






 〜終結(終決)へのプロローグ に、つづく〜